「いいか、菜乃華。ここ神田堂は、平たく言えば付喪神を相手にした町医者だ。それも、『本の付喪神』専門のな。故にこの店は、基本的に『本の付喪神』を客としている。本以外の品物の付喪神が来ることもあるが、人の子が訪れることはまずない」
「『本の付喪神』の……町医者」
瑞葉の話を聞きながら、ふと自分がここに来た時のことを思い出した。
人が入らなそうな路地に、迷路のような道順。人を避けているようだという菜乃華の感想は、店の本質をついたものだったのだ。
なぜなら、ここは人ならざる者のためのお店だったのだから。
「だから瑞葉は、ここに来たわたしを見て、怪しんでいたんだね」
「その節は、本当にすまなかった。店の周りには、念のため私の力で人払いの結界も張ってあるのでな。よくよく考えれば君が神田の者であることは明らかだったのに、結界に綻びでもできたのかと、つい焦ってしまったのだ」
人の世を乱さないことは、この世で生きる神にとって最低限の責務だ、と瑞葉は言う。
この世で生きる神は、完全に人の世に溶け込んで暮らすか、人との間に境界線を張って影響を与えないようにしているそうだ。そして瑞葉と神田堂は、後者の道を選んでいるらしい。故にその責務を全うするため、人が誤ってこの店に迷い込まないよう、瑞葉は結界でこの店を守っているのだ。
「許してくれ」と頭を下げる瑞葉に、菜乃華も気にしていないと首を振った。事情を鑑みれば、瑞葉の対応は当然のものだ。許すも何も、そもそも怒る理由さえない。
それに、今の菜乃華にとって重要なのは、付喪神がお客さんであるという事実以上に、町医者という仕事内容の方だ。菜乃華は何かを見極めようとする目つきで、瑞葉に先を促した。
「ねえ、瑞葉。町医者って、具体的にどんなお仕事をしているの?」
「神田堂の店主が請け負う主な依頼は、本の修理だ。付喪神は、宿っている品物が傷つくと自身も怪我をする。その傷ついた本を直して付喪神の怪我を癒すのが、神田堂店主の仕事だ」
「付喪神が宿った本を直す……」
瑞葉の言葉を、噛み締めるように繰り返す。菜乃華の頭の中では、瑞葉から聞いた情報をもとに様々な考えが巡り始めていた。
瑞葉も菜乃華が思索に入ったことを感じ取り、話を一旦区切る。その心遣いに感謝しながら、さらに頭を回転させていった。
本の付喪神の町医者、本の修復屋、それが神田堂の正体だ。
物を修理する仕事なら、菜乃華もテレビで何度も見たことがある。古い時計や壊れてしまった家具なんかを、職人が己の腕と経験を頼りに直していくのだ。その神業のような手捌きは、美術部で普段から創作に励む菜乃華にとっても感じ入る点が多い。だからか、職人という仕事に内心では少し憧れも抱いていた。
その点から言えば、神田堂の仕事は菜乃華にとって願ってもないチャンスだ。本音を言えば、一も二もなく「ぜひやりたい!」と飛びつきたいところである。
「……ごめん、瑞葉。この仕事、わたしには無理かもしれない」
しかし、熟考の末に菜乃華の口から出てきた言葉は、本音とは真逆のものだった。
やってみたいという気持ちは、確かにある。祖母が残してくれた神田堂を守りたいという意志も捨て切れない。それでも、菜乃華は自分の感情に対して素直になることはできなかった。
なぜなら、自分がこの仕事をすることに対して、無視してはいけない現実があるからだ。
「聞かせてくれ、菜乃華。君はなぜ、この仕事をできないと判断した?」
申し訳なさそうに俯いた菜乃華に、瑞葉は優しい声音で問いかける。
対する菜乃華は、どこか悔しそうな様子で口を開いた。
「直す本って、瑞葉や蔡倫さんみたいに生きている神様の本体なんでしょ。もし修復でミスしたら、きっとその神様を苦しめちゃうよね」
「……否定はしない。それに、修復に失敗することがあれば、付喪神の傷をより一層深くしてしまう可能性もゼロではない」
「だったら、やっぱりわたしには無理だよ。本を直したこともないわたしには、付喪神の命を預かる資格なんてない」
断定の言葉が、居間の中に木霊する。
これが普通の本を直す仕事であったなら、何の躊躇いもなく引き受けていただろう。菜乃華はこれまで本を修復した経験などないが、練習してできるようになろうという気概だってある。
けれど、現実はそうじゃない。直すのは、生きている神様の本なのだ。
そんな神様たちの命を、ずぶの素人である自分が預かる? ありえないだろう。いくら『祖母の後を継ぐ』という大義名分があっても、そんなの無責任にもほどがある。
そして、自身の懸念に対する瑞葉の答えを聞いて、菜乃華はさらに確信した。神田堂店主という仕事は、自分のような素人が軽い気持ちで継いでいい仕事ではない。祖母の最後の願いを果たすことができないのは心残りだが、今を生きている付喪神たちを不幸にするよりはマシだ、と……。
「わたしみたいな素人じゃなくて、専門の職人さんに直してもらった方が絶対にいいよ。その方が、付喪神さんたちもきっと幸せになれる。だから、ごめんなさい。店主を継ぎに来たって言ったけど、なかったことにしてください」
真剣な面持ちで、本音を瑞葉に告げる。
一方、瑞葉は「そうか……」とホッとした様子でどこかうれしそうに微笑んだ。
と言っても、菜乃華が店主になるのを断ったことに安堵した、というわけではなさそうだ。その証拠に、瑞葉の蒼い瞳からは菜乃華に対する敬意が見て取れた。
「『本の付喪神』の……町医者」
瑞葉の話を聞きながら、ふと自分がここに来た時のことを思い出した。
人が入らなそうな路地に、迷路のような道順。人を避けているようだという菜乃華の感想は、店の本質をついたものだったのだ。
なぜなら、ここは人ならざる者のためのお店だったのだから。
「だから瑞葉は、ここに来たわたしを見て、怪しんでいたんだね」
「その節は、本当にすまなかった。店の周りには、念のため私の力で人払いの結界も張ってあるのでな。よくよく考えれば君が神田の者であることは明らかだったのに、結界に綻びでもできたのかと、つい焦ってしまったのだ」
人の世を乱さないことは、この世で生きる神にとって最低限の責務だ、と瑞葉は言う。
この世で生きる神は、完全に人の世に溶け込んで暮らすか、人との間に境界線を張って影響を与えないようにしているそうだ。そして瑞葉と神田堂は、後者の道を選んでいるらしい。故にその責務を全うするため、人が誤ってこの店に迷い込まないよう、瑞葉は結界でこの店を守っているのだ。
「許してくれ」と頭を下げる瑞葉に、菜乃華も気にしていないと首を振った。事情を鑑みれば、瑞葉の対応は当然のものだ。許すも何も、そもそも怒る理由さえない。
それに、今の菜乃華にとって重要なのは、付喪神がお客さんであるという事実以上に、町医者という仕事内容の方だ。菜乃華は何かを見極めようとする目つきで、瑞葉に先を促した。
「ねえ、瑞葉。町医者って、具体的にどんなお仕事をしているの?」
「神田堂の店主が請け負う主な依頼は、本の修理だ。付喪神は、宿っている品物が傷つくと自身も怪我をする。その傷ついた本を直して付喪神の怪我を癒すのが、神田堂店主の仕事だ」
「付喪神が宿った本を直す……」
瑞葉の言葉を、噛み締めるように繰り返す。菜乃華の頭の中では、瑞葉から聞いた情報をもとに様々な考えが巡り始めていた。
瑞葉も菜乃華が思索に入ったことを感じ取り、話を一旦区切る。その心遣いに感謝しながら、さらに頭を回転させていった。
本の付喪神の町医者、本の修復屋、それが神田堂の正体だ。
物を修理する仕事なら、菜乃華もテレビで何度も見たことがある。古い時計や壊れてしまった家具なんかを、職人が己の腕と経験を頼りに直していくのだ。その神業のような手捌きは、美術部で普段から創作に励む菜乃華にとっても感じ入る点が多い。だからか、職人という仕事に内心では少し憧れも抱いていた。
その点から言えば、神田堂の仕事は菜乃華にとって願ってもないチャンスだ。本音を言えば、一も二もなく「ぜひやりたい!」と飛びつきたいところである。
「……ごめん、瑞葉。この仕事、わたしには無理かもしれない」
しかし、熟考の末に菜乃華の口から出てきた言葉は、本音とは真逆のものだった。
やってみたいという気持ちは、確かにある。祖母が残してくれた神田堂を守りたいという意志も捨て切れない。それでも、菜乃華は自分の感情に対して素直になることはできなかった。
なぜなら、自分がこの仕事をすることに対して、無視してはいけない現実があるからだ。
「聞かせてくれ、菜乃華。君はなぜ、この仕事をできないと判断した?」
申し訳なさそうに俯いた菜乃華に、瑞葉は優しい声音で問いかける。
対する菜乃華は、どこか悔しそうな様子で口を開いた。
「直す本って、瑞葉や蔡倫さんみたいに生きている神様の本体なんでしょ。もし修復でミスしたら、きっとその神様を苦しめちゃうよね」
「……否定はしない。それに、修復に失敗することがあれば、付喪神の傷をより一層深くしてしまう可能性もゼロではない」
「だったら、やっぱりわたしには無理だよ。本を直したこともないわたしには、付喪神の命を預かる資格なんてない」
断定の言葉が、居間の中に木霊する。
これが普通の本を直す仕事であったなら、何の躊躇いもなく引き受けていただろう。菜乃華はこれまで本を修復した経験などないが、練習してできるようになろうという気概だってある。
けれど、現実はそうじゃない。直すのは、生きている神様の本なのだ。
そんな神様たちの命を、ずぶの素人である自分が預かる? ありえないだろう。いくら『祖母の後を継ぐ』という大義名分があっても、そんなの無責任にもほどがある。
そして、自身の懸念に対する瑞葉の答えを聞いて、菜乃華はさらに確信した。神田堂店主という仕事は、自分のような素人が軽い気持ちで継いでいい仕事ではない。祖母の最後の願いを果たすことができないのは心残りだが、今を生きている付喪神たちを不幸にするよりはマシだ、と……。
「わたしみたいな素人じゃなくて、専門の職人さんに直してもらった方が絶対にいいよ。その方が、付喪神さんたちもきっと幸せになれる。だから、ごめんなさい。店主を継ぎに来たって言ったけど、なかったことにしてください」
真剣な面持ちで、本音を瑞葉に告げる。
一方、瑞葉は「そうか……」とホッとした様子でどこかうれしそうに微笑んだ。
と言っても、菜乃華が店主になるのを断ったことに安堵した、というわけではなさそうだ。その証拠に、瑞葉の蒼い瞳からは菜乃華に対する敬意が見て取れた。