外観と同様、神田堂の間取りは、ここのえ商店街にある多くの商店と似ていた。入ってすぐが店舗スペースとなる土間で、奥に住居の一階部分が見える。菜乃華の感覚的には、古き良き日本のお店という感じだ。

 神田堂の中に入った菜乃華の目にまず飛び込んできたのは、土間に置かれた大きな作業台と、二棹の箪笥だった。作業台は学校の美術室にあるような大きい木のテーブルで、マットが敷いてある。おそらく、机を汚さないためのものだろう。箪笥の方は、よく見たら引き出しに『刷毛』や『定規』といったメモ書きが貼られていた。どうやらこれらは、仕事道具を入れる箪笥のようだ。

 つまり神田堂は、これらの道具や作業台を必要とする商売をしているということだ。
 高校で美術部に所属している菜乃華としては、この光景を見ただけでも少しテンションが上がる。同時に、父が言っていた力云々のことはよくわからないが、これなら自分にもできることがあるかもしれないという自信も出てきた。

「奥の居間で座っていてくれ。今、茶を淹れてくるから」

「あ、それならわたしにやらせてください。わたし、お茶を淹れるの、得意なんです」

 またもや敬語になりつつ、菜乃華が表情を輝かせる。
 仕事とはあまり関係ないが、瑞葉に良いところを見せるチャンスだ。菜乃華が淹れるお茶は、近所でもおいしいと評判である。神社の氏子総代さんなんて、「なっちゃんのお茶を飲むのが、神社に来る時の一番の楽しみだ」とまで言ってくれるほどだ。菜乃華にとっては密かな、そして数少ない特技である。

 見たところ、居間のさらに奥に台所があるようだ。瑞葉の脇を抜け、台所へと一直線に向かう。
 菜乃華は足取りも軽く、鼻歌まじりに台所のガラス戸を開け放った。

「うん?」

「…………」

 そこで予想外のものを見つけた菜乃華は、笑顔のまま無言で表情を凍りつかせた。

 台所にいたのは、まんじゅうをくわえた一匹のサルだ。なぜかお坊さんのような袈裟を着ている。さらになぜか急須でお茶を入れている。随分と器用なサルである。

 だが、それだけでは終わらない。サルはまんじゅうを飲み込み、菜乃華に向かって気さくに話しかけてきたのだ。

「よう、人間の子供とは珍しいな! 嬢ちゃん、まんじゅうでも食うかい?」

「…………」

 サルが笑顔でまんじゅうを差し出すも、菜乃華は固まったままだ。頭の中が完全にフリーズしてしまったのか、身じろぎ一つしない。

「おや? おーい。大丈夫かい、嬢ちゃん?」

 サルの坊さんも、さすがに菜乃華の様子がおかしいことに気が付いたようだ。彼女の顔の前で、手を揺らしながら呼びかける。

 そこでようやく我に返ったのだろう。菜乃華が目を見開き、海老のように後ろに向かって飛びはねた。普段の彼女では考えられない、機敏かつ大胆な動きである。
 菜乃華の挙動に、今度はサルの方が目を丸くした。

 そんなサルを震えながら指差した菜乃華は……、

「サ……」

「さ?」

「サルがしゃべったぁああああっ!!」

 店中が震えるほどの声で、大絶叫したのだった。


          * * *


「菜乃華、一応紹介しておこう。こいつは蔡倫。よく店にやってくる、冷やかしみたいなやつだ」

 菜乃華の大絶叫後、ひとまず彼女の混乱が落ち着いたところで、瑞葉がサル改め蔡倫を紹介した。

 といっても、ここに至るまでが一苦労だった。

 何と言っても、しゃべるサルがいきなり目の前に現れたのだ。菜乃華からしてみれば、自分の正気を疑うレベルの出来事である。おかげで夢オチの確認のために自分の頬をつねるところから始まり、最終的に虚ろな目でスマホを取り出して救急車を呼びかけたところで、瑞葉に止められた。

 ただ、そこで今度は別の問題が発生した。なんと瑞葉は菜乃華を止めるため、スマホを持ったその手を握り締めてきたのだ。しかも至近距離からの柔らかな視線と、「すべてきちんと説明するから、今は落ち着いてくれ」という甘く優しい台詞付きときた。

 しゃべるサルに対する混乱は一気に吹き飛んだが、代わりに最上級の美青年との最接近で、菜乃華の頭のヒューズは一気に吹き飛んでしまった。菜乃華は頭から蒸気を噴き、貧血でも起こしたように倒れ、瑞葉と蔡倫に介抱されることとなったのだった。

 菜乃華からしてみれば、出だしから大失態である。
 もっとも、色々あって精神が麻痺してきた所為か、居間の卓袱台を挟んで座る蔡倫のことも「まあ、そういうこともあるさ」的に受け入れられた。人間の適応能力とは、なかなかに逞しく恐ろしいものである。

「おいおい瑞葉~、冷やかしはねえだろう? オイラはお前さんが誰も来ない店番で退屈しないよう、こうして通ってやってんだぜ」

「余計なお世話だ、馬鹿者が」

 じゃれつく蔡倫を、瑞葉は鬱陶しそうに押し退ける。

 そんな二人のやり取りを、菜乃華はくすくすと笑いながら見守った。なぜなら、二人の漫才のような掛け合いは、自然と笑ってしまうくらいしっくりきていたからだ。

 邪険にしているが、瑞葉が蔡倫に接する態度はとても自然体だ。なんだかんだと言い合っても、彼にとって蔡倫は、馬の合う友人なのだろう。作り物めいて見えていた青年の自然な表情が見られて、少しホッとした。先程までは瑞葉の神秘的な雰囲気に少なからず緊張を感じていたが、今の彼には親近感を覚える。

 菜乃華が微笑んでいると、瑞葉とじゃれていた蔡倫が彼女の前に進み出た。

「いやはや、さっきは悪かったな、嬢ちゃん。驚かせちまったみたいで。改めて、オイラは蔡倫だ。よろしくな!」

「あ、わたしは神田菜乃華です。よろしくお願いします。それと、わたしの方こそ、さっきはごめんなさい。その……いきなり大声を出しちゃって」

 蔡倫が差し出した手を握り返し、握手を交わす。話してみれば、蔡倫は陽気でとっつきやすい相手である。今も謝る菜乃華に、「気にするなよ」と気楽に笑い掛けてくれた。

「それにしても『神田』ってことは、嬢ちゃん、サエばあさんの孫だろう? あのばあさんの孫とは思えないくらいのべっぴんさんだな」

「い、いえ、そんなことはないですよ。わたしなんて、言われるほどのものじゃないです」

 困ったように笑いながら、手や首を小さく振る。

 神社を訪れる氏子さんからも似たようなことを言われることがあるが、菜乃華としてはどう反応していいか困ってしまう類のお世辞だ。ここで素直に「ありがとうございます!」と言えるほど、自分の容姿に自信を持ってはいない。

「謙遜しなさんな。それだけべっぴんだと、中学校でもさぞかしモテるだろう」

 苦笑する菜乃華へ、蔡倫はさらに調子良く言葉を重ねた。
 しかしその瞬間、菜乃華が石膏にでもなったかのように固まった。

「中……学……」

「おや、もしかして小学生だったか? そいつはすまねえ。セーラー服を着ているから、てっきり中学生かと。しっかし、最近の小学生は随分と大人びて――」

「……わたし、高校生です。これでも高二なんです。すみません……」

 これは失敬、とばかりに訂正する蔡倫に、菜乃華が心底申し訳なさそうに真実を告げた。同時に、居間に何とも言えない重苦しい空気が流れる。

 表情を見るに、瑞葉も菜乃華を中学生と思っていたようだ。その素直な驚き顔が、なぜかわからないが菜乃華にとってはとてもショックだった。

「あ~、その、なんだ。すまん、嬢ちゃん。オイラ、ちょっと調子に乗り過ぎた」

「いえ、いいんです。慣れてますから……」

 罪悪感に苛まれている様子の蔡倫に対して、菜乃華も諦めた笑顔で応じた。

 そう。菜乃華にとっては、これくらい日常茶飯事だ。高校二年生にもなって身長が一五二センチしかなく、その上に童顔とあって、初見で菜乃華の年齢を言い当てられた人間は、ここ一年で一人もいなかった。だからといって、傷つかないかと言われれば話は別だが。

 せめて少しでも大人っぽく見えるようにと髪を長く伸ばしてみたのだが、それも今のところ効果はないようだ。

「わたしのことはさておき、そろそろ神田堂のこととか含めて、色々と教えてもらいたいんですが」

 このまま微妙な空気の中というのも居心地が悪い。この雰囲気について一日の長がある菜乃華が、話を逸らす。

「とりあえず蔡倫さんは、普通のおサルさんじゃないんですよね。こうやって言葉もしゃべれるし……。一体、何者なんですか?」

 蔡倫に話を向けながら、小首を傾げる。
 すると瑞葉と蔡倫も、これ幸いとばかりに話に乗ってきた。