「はぁ~。やっちゃったよ……」
日が沈んだ町を、菜乃華はため息まじりに力なく歩いていた。
向かう先は、九ノ重神社ではなく神田堂だ。鳥居をくぐったところで鍵を忘れてきたことに気付き、こうして取って返してきたのである。
「ほんと、何でこうもドジなのかな……」
赤信号で立ち止まった菜乃華は、その場でがっくりと項垂れた。
家の鍵を忘れてくるなんて、本当にどうかしている。何だか無性に恥ずかしくて、頭を抱えて叫び出したい気分になった。……もちろん、実際にやったりはしないが。
「菜乃華!」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、菜乃華はゆるゆると顔を上げる。
下を向いていて気が付かなかったが、いつの間にか横断歩道の向こう側に、瑞葉が立っていた。瑞葉の神主姿は、夜のとばりの中でもよく目立つ。
そして、目が良い菜乃華には、この距離からでもはっきりわかった。瑞葉の手の中で街灯を反射してきらりと光るのは、神田堂に忘れてきた家の鍵だ。どうやら瑞葉は、わざわざ鍵を持ってきてくれたらしい。
途端に菜乃華の表情が晴れやかになる。信号もちょうど青になり、菜乃華は瑞葉の方へと駆け出した。瑞葉に会えるだけでも心が弾むのに、その上彼は菜乃華の落とし物を届けに来てくれた。これを喜ばずして、いつ喜べと言うのか。
浮かれ気味な顔つきで、スキップ混じりに横断歩道を渡る。喜色満面な菜乃華を、瑞葉もやれやれといった苦笑で待ち受けていた。
だが、その時だ。
「――ッ! 危ない!」
突然、顔を強張らせた瑞葉が、大声で叫んだ。いきなりのことに戸惑って、菜乃華は道路の真ん中で足を止める。
瞬間、立ち止まった菜乃華をまばゆい光が照らし出した。車のライトだ。見れば、一台のトラックが菜乃華に向かって進んできていた。運転手が居眠りでもしているのか、赤信号にもかかわらず、トラックは一向に止まる気配がない。スピードを落とすことなく、菜乃華の方へ突っこんでくる。
危険を感じ取り、頭がすぐさま体へ逃げるように指令を出した。しかし、菜乃華の体は恐怖にすくんでしまい、思うように動いてくれない。まるで金縛りにでもあっているような感覚だ。
その間にも、トラックは菜乃華の方へ近付いてくる。もはや目と鼻の先と言える距離だ。
駄目だ。もう逃げられない。
トラックにはねられる自分の姿を想像し、菜乃華は固く目をつぶる。
直後、予想よりも軽い衝撃が、菜乃華を襲った。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ、道路上でしりもちをつく。アスファルトに腰を打ちつけて、体に痛みが走った。
けれど、何か変だ。トラックにはねられたはずなのに、打ちつけた腰以外、どこも痛くない。
それに、先程の衝撃もおかしい。車にぶつかったというよりは、まるで誰かに突き飛ばされたような……。疑問で頭をいっぱいにしつつ、固く閉じていた目を開いた。
「え……。うそ……」
どうやらトラックは、何事もなかったように走り去ってしまったようだ。だが、今はそんなことなどどうでもいい。怒りを覚える余裕さえない。なぜなら菜乃華は、自分が目を閉じている間に何が起こったのかを知ってしまったから。
「これ、瑞葉の……」
菜乃華の目の前に転がっていたのは、一冊の古ぼけた和本だった。
間違いない。その本は、以前見せてもらった瑞葉の本体だ。だが、本体はここにあるのに、瑞葉の姿はどこにも見当たらなかった。
青ざめた顔で、瑞葉の本体である和本を拾い上げる。手に取った和本は傷だらけで、見るも無残な姿になっていた。
なぜ瑞葉の本体がこんなことになったのか。そんなの考えるまでもない。瑞葉は、菜乃華の身代わりとなって、トラックにはねられたのだ。
瑞葉が全力で動けば、自身がはねられる前に菜乃華ごとトラックの動線から抜けることもできただろう。
しかし、瑞葉はそれをしなかった。すべては菜乃華のためだ。瑞葉が全力でぶつかれば、菜乃華の体が耐えられない。それでは、トラックにはねられるのと結果は大して変わらない。だから、瑞葉は別の策を選んだ。自分が助からないことを覚悟の上で力を抑え、菜乃華を助ける、という策を……。
「あ……、ああ……」
喉が震え、開いた口から声にならない叫びが漏れ出す。同時に、見開かれた目から大粒の涙が零れ落ち、道路を濡らしていった。
思い出されるのは、今日、瑞葉から聞かせてもらった昔語りだ。破損が大きくなれば怪我は重くなり、許容範囲を超えれば付喪神としての姿を保てなくなる。すなわち、姿が保てなくなったということは、付喪神の命が風前の灯火になっていることの現れである。
つまり、瑞葉は今、死にかけてしまっている。他でもない、菜乃華を助けるために犠牲になってしまった。
驚き、悲しみ、怒り。様々な感情が、菜乃華の中を突き抜けていく。
つい今し方まで、そこにいたのに。手を伸ばせば届きそうな場所で、待っていてくれたのに。仕方ないという顔で、優しく苦笑していたのに……。
瑞葉の和本を抱き締めた菜乃華は、すべての感情を綯い交ぜにし、夜空に向かって慟哭した。
日が沈んだ町を、菜乃華はため息まじりに力なく歩いていた。
向かう先は、九ノ重神社ではなく神田堂だ。鳥居をくぐったところで鍵を忘れてきたことに気付き、こうして取って返してきたのである。
「ほんと、何でこうもドジなのかな……」
赤信号で立ち止まった菜乃華は、その場でがっくりと項垂れた。
家の鍵を忘れてくるなんて、本当にどうかしている。何だか無性に恥ずかしくて、頭を抱えて叫び出したい気分になった。……もちろん、実際にやったりはしないが。
「菜乃華!」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、菜乃華はゆるゆると顔を上げる。
下を向いていて気が付かなかったが、いつの間にか横断歩道の向こう側に、瑞葉が立っていた。瑞葉の神主姿は、夜のとばりの中でもよく目立つ。
そして、目が良い菜乃華には、この距離からでもはっきりわかった。瑞葉の手の中で街灯を反射してきらりと光るのは、神田堂に忘れてきた家の鍵だ。どうやら瑞葉は、わざわざ鍵を持ってきてくれたらしい。
途端に菜乃華の表情が晴れやかになる。信号もちょうど青になり、菜乃華は瑞葉の方へと駆け出した。瑞葉に会えるだけでも心が弾むのに、その上彼は菜乃華の落とし物を届けに来てくれた。これを喜ばずして、いつ喜べと言うのか。
浮かれ気味な顔つきで、スキップ混じりに横断歩道を渡る。喜色満面な菜乃華を、瑞葉もやれやれといった苦笑で待ち受けていた。
だが、その時だ。
「――ッ! 危ない!」
突然、顔を強張らせた瑞葉が、大声で叫んだ。いきなりのことに戸惑って、菜乃華は道路の真ん中で足を止める。
瞬間、立ち止まった菜乃華をまばゆい光が照らし出した。車のライトだ。見れば、一台のトラックが菜乃華に向かって進んできていた。運転手が居眠りでもしているのか、赤信号にもかかわらず、トラックは一向に止まる気配がない。スピードを落とすことなく、菜乃華の方へ突っこんでくる。
危険を感じ取り、頭がすぐさま体へ逃げるように指令を出した。しかし、菜乃華の体は恐怖にすくんでしまい、思うように動いてくれない。まるで金縛りにでもあっているような感覚だ。
その間にも、トラックは菜乃華の方へ近付いてくる。もはや目と鼻の先と言える距離だ。
駄目だ。もう逃げられない。
トラックにはねられる自分の姿を想像し、菜乃華は固く目をつぶる。
直後、予想よりも軽い衝撃が、菜乃華を襲った。
「きゃっ!」
悲鳴を上げ、道路上でしりもちをつく。アスファルトに腰を打ちつけて、体に痛みが走った。
けれど、何か変だ。トラックにはねられたはずなのに、打ちつけた腰以外、どこも痛くない。
それに、先程の衝撃もおかしい。車にぶつかったというよりは、まるで誰かに突き飛ばされたような……。疑問で頭をいっぱいにしつつ、固く閉じていた目を開いた。
「え……。うそ……」
どうやらトラックは、何事もなかったように走り去ってしまったようだ。だが、今はそんなことなどどうでもいい。怒りを覚える余裕さえない。なぜなら菜乃華は、自分が目を閉じている間に何が起こったのかを知ってしまったから。
「これ、瑞葉の……」
菜乃華の目の前に転がっていたのは、一冊の古ぼけた和本だった。
間違いない。その本は、以前見せてもらった瑞葉の本体だ。だが、本体はここにあるのに、瑞葉の姿はどこにも見当たらなかった。
青ざめた顔で、瑞葉の本体である和本を拾い上げる。手に取った和本は傷だらけで、見るも無残な姿になっていた。
なぜ瑞葉の本体がこんなことになったのか。そんなの考えるまでもない。瑞葉は、菜乃華の身代わりとなって、トラックにはねられたのだ。
瑞葉が全力で動けば、自身がはねられる前に菜乃華ごとトラックの動線から抜けることもできただろう。
しかし、瑞葉はそれをしなかった。すべては菜乃華のためだ。瑞葉が全力でぶつかれば、菜乃華の体が耐えられない。それでは、トラックにはねられるのと結果は大して変わらない。だから、瑞葉は別の策を選んだ。自分が助からないことを覚悟の上で力を抑え、菜乃華を助ける、という策を……。
「あ……、ああ……」
喉が震え、開いた口から声にならない叫びが漏れ出す。同時に、見開かれた目から大粒の涙が零れ落ち、道路を濡らしていった。
思い出されるのは、今日、瑞葉から聞かせてもらった昔語りだ。破損が大きくなれば怪我は重くなり、許容範囲を超えれば付喪神としての姿を保てなくなる。すなわち、姿が保てなくなったということは、付喪神の命が風前の灯火になっていることの現れである。
つまり、瑞葉は今、死にかけてしまっている。他でもない、菜乃華を助けるために犠牲になってしまった。
驚き、悲しみ、怒り。様々な感情が、菜乃華の中を突き抜けていく。
つい今し方まで、そこにいたのに。手を伸ばせば届きそうな場所で、待っていてくれたのに。仕方ないという顔で、優しく苦笑していたのに……。
瑞葉の和本を抱き締めた菜乃華は、すべての感情を綯い交ぜにし、夜空に向かって慟哭した。