仕事を受けた菜乃華と瑞葉は、椅子に座ってこちらを見つめるモリスの前で、迅速に仕事に取り掛かった。
今回の依頼は、外れてしまった背の修理だ。本の修理としては、かなりポピュラーなものと言えるだろう。
まずは、改めてモリスの本を検分する。どうやらモリスの本は、本の中身と表紙を支持体の糸で接合した『綴じ付け製本』ではなく、本の中身に表紙を糊付けした『くるみ製本』のようだ。
モリスの本は、表紙が見返しごと本の中身から外れた状態になってしまっていた。
「幸いなことに本の中身、見返しともに目立った損傷はないな。これならば、綺麗に直すことが可能だろう」
「背が外れた原因は、中身と見返しをくっつけていた糊の劣化かな」
「おそらくそうだろうな。ただ、均等に劣化して外れてくれたおかげで、紙自体の損傷はほぼない。正に不幸中の幸いだ」
菜乃華の診断に、瑞葉も同意を示す。
瑞葉からのお墨付きを得られたところで、菜乃華は一度モリスの方へ振り返った。
「モリスさん、この本の背って、ホローバック形式で間違いないですよね」
「ああ、その通りだ」
菜乃華の確認に、モリスが頷く。ホローバックの特徴は、表紙の背と中身の間に空洞を持つ点にある。これにより本が開きやすく背を痛めにくいという利点を得られるが、中身と表紙の接合箇所が限定されるために表紙が外れやすい欠点も併せ持ってしまう。今回は、正にその典型例だ。
「これならば、クータを使用した基本的な修復方法で事足りるだろう。菜乃華、修復の流れは覚えているな」
「もちろん。任せといて」
瑞葉に返事をして、早速仕事道具が収められた箪笥を漁る。取り出したのは、まっさらな中性紙だ。これが、クータの材料である。クータは、中身の背と背表紙の間に入れる、紙でできた筒状の補強材だ。
長い時を経たことでの劣化もあったのだろう。モリスの本に元々つけられていたクータは、表紙が外れた際に同じく補強材である寒冷紗(かんれいしゃ)と共に損傷してしまっていた。
「本が壊れた時に一番被害を受けたのは、この古いクータと寒冷紗だね」
「そうだな。寒冷紗についても、新しいものを使って一緒に直しておくとしよう」
「OK!」
瑞葉に言われ、菜乃華が早速新しい寒冷紗も用意する。
材料の準備ができたら、新しいクータを作るためのサイズの測定から開始だ。本の中身の背部分に合わせて、必要な紙の大きさを算出していく。
モリスの本の背は弧を描く丸背だから、プラスチックの定規では正確に測り辛い。こういう時は、いらない紙を細切りにした短冊の出番だ。
「背の丸みに沿って短冊を宛がって、幅を測って印をつける、と……。うん、これでよし!」
印をつけた短冊を手に、菜乃華が満足げに笑う。これで、正確な背の幅が測れた。
そうしたら、背の高さと合わせてクータの材料である中性紙に印をつけていき、カッターで裁断する。切り取った紙をきれいに三つ折りにし、紙の端を糊付けして筒状にすれば、クータの完成だ。
「瑞葉、こんな感じでどうかな」
いつもの調子で、瑞葉に確認を頼む。
菜乃華から作り立てのクータを受け取った瑞葉は、歪みや皺がないか確かめ、最後に本の背に宛がった。
クータは大き過ぎても小さ過ぎても本の開きを悪くしてしまうから、瑞葉もここは慎重だ。万に一つのミスも犯さないよう、十分に検証を重ねていく。
「よし、大丈夫だ」
菜乃華が固唾を飲んで見守る中で、瑞葉がふっと表情を緩めた。
どうやら合格点を出してもらえたようだ。いつの間にか息を吐くのを忘れていたことに気付き、菜乃華は大きく一息ついた。
「正確な測量だ。練習の成果がよく出ている。この調子で続きも頼むぞ」
瑞葉から返されたクータを、菜乃華が宝物のように受け取る。褒められたうれしさと気恥しさから、顔がにやけるのを止められない。頬が熱を持ち、真っ赤になっているのがわかる。
「菜乃華さん、あんなにうれしそうに……」
「お前さん、いい加減さっさと諦めた方がいいと思うぞ。勝ち目ねぇって」
「いいえ、まだです。僕はまだ、諦めない!」
「そ、そうかい。まあ、ほどほどに頑張れや、うん」
居間の方から、何やら聞こえてきた気がする。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。クータの作成は、あくまでモリスの本を直すための下準備の一つに過ぎないのだ。本当の修復は、この先である。
クータの準備が終わったら、次は糊の準備を行う。今回はクシャミの本のページを直した時と違い、本の構造を支える力が必要になる。よって、糊もそれ相応に強力でなくてはならない。
菜乃華が手に取ったのは、いつもの澱粉糊と水、そして瑞葉厳選の接着剤だ。
『本来なら、化学的に安定していて水溶性の澱粉糊だけで修復を行うのが望ましい』
これは、瑞葉が修復の基本として教えてくれた原則の一つだ。
だが、残念ながら澱粉糊は接着力がそれほど強力ではなく、洋装本の背の修理には適さない。そこで、澱粉糊に接着剤を混ぜて接着力を上げるのだ。
瑞葉が厳選したこの接着剤は中性だから、紙を酸化させ劣化させる恐れもない。長い時を生きていく付喪神の本にも、比較的安心して使える。
小皿の上に澱粉糊を載せ、そこに接着剤を加えて筆で混ぜる。
「配合の割合は、澱粉糊3に対して接着剤1程度だ。接着剤が多くなり過ぎないように気を付けるのだぞ」
瑞葉からアドバイスを受けながら、せっせと糊を混ぜていく。
程よく混ざったら、水を加えて濃度の調整だ。今回は、水を少なくして濃い目の調整とした。
「瑞葉、お願い」
混合糊が完成したら、小皿を瑞葉に渡す。菜乃華から小皿を受け取った瑞葉は、素早く混合糊の状態を確認し、「問題ない」と菜乃華に返した。流れるような共同作業だ。瑞葉と息の合った連携ができていることに、菜乃華は密かな喜びを感じる。
同時に背後から、悲嘆に暮れるような湿っぽい気配がした。誰の気配かは、振り返るまでもなくわかる。だが、ここでその気配に対して何かフォローを入れるのも、それはそれで変だ。今は仕事中だしね、と菜乃華はすすり泣く声に苦笑しながら作業を続ける。
混合糊ができたら、準備はすべて完了。ようやく修復開始だ。
今回の依頼は、外れてしまった背の修理だ。本の修理としては、かなりポピュラーなものと言えるだろう。
まずは、改めてモリスの本を検分する。どうやらモリスの本は、本の中身と表紙を支持体の糸で接合した『綴じ付け製本』ではなく、本の中身に表紙を糊付けした『くるみ製本』のようだ。
モリスの本は、表紙が見返しごと本の中身から外れた状態になってしまっていた。
「幸いなことに本の中身、見返しともに目立った損傷はないな。これならば、綺麗に直すことが可能だろう」
「背が外れた原因は、中身と見返しをくっつけていた糊の劣化かな」
「おそらくそうだろうな。ただ、均等に劣化して外れてくれたおかげで、紙自体の損傷はほぼない。正に不幸中の幸いだ」
菜乃華の診断に、瑞葉も同意を示す。
瑞葉からのお墨付きを得られたところで、菜乃華は一度モリスの方へ振り返った。
「モリスさん、この本の背って、ホローバック形式で間違いないですよね」
「ああ、その通りだ」
菜乃華の確認に、モリスが頷く。ホローバックの特徴は、表紙の背と中身の間に空洞を持つ点にある。これにより本が開きやすく背を痛めにくいという利点を得られるが、中身と表紙の接合箇所が限定されるために表紙が外れやすい欠点も併せ持ってしまう。今回は、正にその典型例だ。
「これならば、クータを使用した基本的な修復方法で事足りるだろう。菜乃華、修復の流れは覚えているな」
「もちろん。任せといて」
瑞葉に返事をして、早速仕事道具が収められた箪笥を漁る。取り出したのは、まっさらな中性紙だ。これが、クータの材料である。クータは、中身の背と背表紙の間に入れる、紙でできた筒状の補強材だ。
長い時を経たことでの劣化もあったのだろう。モリスの本に元々つけられていたクータは、表紙が外れた際に同じく補強材である寒冷紗(かんれいしゃ)と共に損傷してしまっていた。
「本が壊れた時に一番被害を受けたのは、この古いクータと寒冷紗だね」
「そうだな。寒冷紗についても、新しいものを使って一緒に直しておくとしよう」
「OK!」
瑞葉に言われ、菜乃華が早速新しい寒冷紗も用意する。
材料の準備ができたら、新しいクータを作るためのサイズの測定から開始だ。本の中身の背部分に合わせて、必要な紙の大きさを算出していく。
モリスの本の背は弧を描く丸背だから、プラスチックの定規では正確に測り辛い。こういう時は、いらない紙を細切りにした短冊の出番だ。
「背の丸みに沿って短冊を宛がって、幅を測って印をつける、と……。うん、これでよし!」
印をつけた短冊を手に、菜乃華が満足げに笑う。これで、正確な背の幅が測れた。
そうしたら、背の高さと合わせてクータの材料である中性紙に印をつけていき、カッターで裁断する。切り取った紙をきれいに三つ折りにし、紙の端を糊付けして筒状にすれば、クータの完成だ。
「瑞葉、こんな感じでどうかな」
いつもの調子で、瑞葉に確認を頼む。
菜乃華から作り立てのクータを受け取った瑞葉は、歪みや皺がないか確かめ、最後に本の背に宛がった。
クータは大き過ぎても小さ過ぎても本の開きを悪くしてしまうから、瑞葉もここは慎重だ。万に一つのミスも犯さないよう、十分に検証を重ねていく。
「よし、大丈夫だ」
菜乃華が固唾を飲んで見守る中で、瑞葉がふっと表情を緩めた。
どうやら合格点を出してもらえたようだ。いつの間にか息を吐くのを忘れていたことに気付き、菜乃華は大きく一息ついた。
「正確な測量だ。練習の成果がよく出ている。この調子で続きも頼むぞ」
瑞葉から返されたクータを、菜乃華が宝物のように受け取る。褒められたうれしさと気恥しさから、顔がにやけるのを止められない。頬が熱を持ち、真っ赤になっているのがわかる。
「菜乃華さん、あんなにうれしそうに……」
「お前さん、いい加減さっさと諦めた方がいいと思うぞ。勝ち目ねぇって」
「いいえ、まだです。僕はまだ、諦めない!」
「そ、そうかい。まあ、ほどほどに頑張れや、うん」
居間の方から、何やら聞こえてきた気がする。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。クータの作成は、あくまでモリスの本を直すための下準備の一つに過ぎないのだ。本当の修復は、この先である。
クータの準備が終わったら、次は糊の準備を行う。今回はクシャミの本のページを直した時と違い、本の構造を支える力が必要になる。よって、糊もそれ相応に強力でなくてはならない。
菜乃華が手に取ったのは、いつもの澱粉糊と水、そして瑞葉厳選の接着剤だ。
『本来なら、化学的に安定していて水溶性の澱粉糊だけで修復を行うのが望ましい』
これは、瑞葉が修復の基本として教えてくれた原則の一つだ。
だが、残念ながら澱粉糊は接着力がそれほど強力ではなく、洋装本の背の修理には適さない。そこで、澱粉糊に接着剤を混ぜて接着力を上げるのだ。
瑞葉が厳選したこの接着剤は中性だから、紙を酸化させ劣化させる恐れもない。長い時を生きていく付喪神の本にも、比較的安心して使える。
小皿の上に澱粉糊を載せ、そこに接着剤を加えて筆で混ぜる。
「配合の割合は、澱粉糊3に対して接着剤1程度だ。接着剤が多くなり過ぎないように気を付けるのだぞ」
瑞葉からアドバイスを受けながら、せっせと糊を混ぜていく。
程よく混ざったら、水を加えて濃度の調整だ。今回は、水を少なくして濃い目の調整とした。
「瑞葉、お願い」
混合糊が完成したら、小皿を瑞葉に渡す。菜乃華から小皿を受け取った瑞葉は、素早く混合糊の状態を確認し、「問題ない」と菜乃華に返した。流れるような共同作業だ。瑞葉と息の合った連携ができていることに、菜乃華は密かな喜びを感じる。
同時に背後から、悲嘆に暮れるような湿っぽい気配がした。誰の気配かは、振り返るまでもなくわかる。だが、ここでその気配に対して何かフォローを入れるのも、それはそれで変だ。今は仕事中だしね、と菜乃華はすすり泣く声に苦笑しながら作業を続ける。
混合糊ができたら、準備はすべて完了。ようやく修復開始だ。