もしかして、瑞葉が帰って来たのだろうか。少しだけ胸を弾ませながら、背後を振り返る。
 しかし、そこに立っていたのは瑞葉ではなかった。

「失礼、お嬢さん。こちらは、神田堂でよろしいかな?」

「え? ええ。そうです」

 たどたどしく肯定する菜乃華へ、左手で山高帽を取って一礼してきたのは、『紳士』という言葉がぴったり当てはまりそうな初老の男性だった。

 流暢な日本語を話しているが、彫りが深くて目鼻がはっきりした顔立ちをしている。明らかに日本人ではないだろう。灰色がかった髪をきっちりと撫でつけていて、整えられた口ひげがおしゃれである。服装は、落ち着いた顔立ちによく似合う、仕立の良いグレーのスーツだ。足元に置かれたカバンも、一目で良い品だとわかった。
 威圧感などまったくなく、穏やかな雰囲気だが、自然と居住まいを正してしまう。平たくまとめると、そんな風貌の男性だった。

 ただ一つおかしな点を上げるとすれば、帽子を持っているのと反対の腕だ。スーツの袖に通していないその右腕は、首からかけた三角巾で吊るされていた。まるで腕の骨が折れている時みたいに。となれば、これはもう間違いない。

「もしかして、本の修理のご依頼ですか?」

「お恥ずかしい話だが、その通りだ。本の背を壊してしまってね。おかげで、右腕をこの通り骨折してしまった」

 言葉通り恥ずかしそうに苦笑しつつ、男性はカバンから一冊の本を取り出して作業台の上に置いた。背に金箔押しで装飾を施した、半革装丁の洋装本だ。やはりこの男性は、本の付喪神だったようだ。

 仕事の邪魔をしては悪いと思ったのか、柊とクシャミは静かに奥の居間に引っ込む。

「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私はこの本の付喪神で、モリスという。お嬢さん、申し訳ないが、店主殿を呼んでもらえないかな」

「えっと……わたしがここの店主の神田菜乃華です」

「ん? お嬢さんが……ここの店主?」

 控え目に手を上げた菜乃華を、モリスは目を丸くして見つめる。
 もっとも、彼が驚くのも無理はないだろう。こんな小娘が「店主です」なんて名乗ってきたら、普通は驚くに決まっている。

「失礼。神田堂の店主は高齢のご婦人と聞いていたものでね。それに、瑞葉殿も店員として働いていると聞いたのだが……」

「実は二か月ほど前に先代店主の祖母が亡くなりまして……。今は、わたしが祖母の後を継いで店主をさせてもらっています」

「そうだったのか。それは辛いことを思い出させてしまったね。本当に申し訳ない。それと、心からお悔やみ申し上げます」

「どうもありがとうございます。それと瑞葉ですが、ただ今買い出しのために外へ出ております」

「そうか、買い出しに……。どうやら、間の悪い時に来てしまったようだね」

 瑞葉も留守であることがわかると、モリスの眉尻がわずかに下がった。おそらく菜乃華しか店にいないというこの状況に、少なからず落胆しているのだろう。

「ちなみに、お嬢さんも先代店主殿と同様に、本の付喪神の修復は行えるのかな?」

「ええ、一応……」

「なるほど、『一応』か。それは、どうしたものか……」

 おとがいに左手を当てたモリスが、思案するように菜乃華を見た。おそらく自分の本を預けるに足る人物かどうか値踏みしているのだろう。

 付喪神にとって、自身が宿る品物は自身の魂と同義だ。たとえ軽い修復であるとしても、信用できない人物に預けることはできない。そして今目の前にいるのは、店主になってまだ二か月しか経っていない、見た目中学生くらいの小娘だ。状況的に、今すぐに修復の依頼を頼めば、対応は菜乃華一人で行うことになる。モリスが慎重になるのも当然だった。

 居間から顔を出していた柊が、状況を察して出てこようとしたが、菜乃華はそれを手で制した。気持ちは有り難いが、店の問題に柊を巻き込むことはできない。

「よろしければ、瑞葉が帰るまでお待ちになりますか?」

「ふむ……。ちなみに、何時ごろ戻られるかはわかるかな?」

「いえ、それはちょっと……。申し訳ありません」

「いや、いいんだ。ただ、そうなると瑞葉殿を待つのは少し厳しいね。実は夕方から、所用があるんだ。ここは無理をせずに、明日にでも出直す方がよろしいかな」

 菜乃華の申し出に、モリスが言葉を選びながら、辞去の意を示す。

 モリスは気を遣ってくれているが、要するに菜乃華は彼のお眼鏡に適わなかったということだ。それをひしひしと肌で感じ、菜乃華の心は重く沈んでいった。

 こういう状況になると、今までのお客さんがすんなりと本を委ねてくれたのは、隣に瑞葉がいてくれたからだと実感する。彼の存在がそのまま信用となって、新米店主の菜乃華に修復を任せてくれていたのだ。

 しかし、今の菜乃華の隣には頼りになる店員がいない。
 菜乃華も本の背の修理は行えるが、それをモリスに証明できる実績がない。

 一人前になろうと日夜頑張ったところで、所詮はまだまだ頼りない子供なのだ。店主として、客から認めてもらうことすらも適わない。自分一人では何もできないということを改めて思い知り、菜乃華は自身の不甲斐なさに唇を噛んだ。

 その時だ。

「――心配しなさんな、モリス。見た目はちと頼りないが、その嬢ちゃんは立派な神田堂の店主だ。オイラたちが保証する」

 俯いた菜乃華の耳に届いたのは、聞き慣れたひょうきんな声だった。

 顔を上げて、声のした方を向く。いつの間にかまた店の入り口が開かれ、外から夏の残り香のような強い日差しが差し込んでいた。その日差しを背に受けながら、サルの坊さんが愉快そうな笑顔でこっちを見ている。

 いや、蔡倫だけではない。サルの坊さんの隣にはもう一人、残暑厳しい日差しの中にあってなお涼やかな顔をした青年がいた。

「……なあ、瑞葉」

「ああ、そうだな」

 蔡倫に話を振られた瑞葉が、穏やかに笑いながら頷く。

「モリス、確かにうちの店主はまだ経験が浅い。だが、たゆまぬ努力で磨いた実力は確かだ。それは、彼女に技術を仕込んだ私が一番よく知っている」

「瑞葉殿……」

 モリスに向かって掛けられた瑞葉の言葉が、同時に菜乃華の心にも染み入る。彼の言葉一つで、菜乃華を蝕んでいた無力感がいくらか和らいだ気がした。

 単純だとか、調子良過ぎるとか、恋愛脳だとか、そんなことはわかっている。自分だけで信用を勝ち取ることができないという事実も、まったく変わっていない。

 けれど、気持ちは十分に前を向いた。
 瑞葉が自分を認めてくれているだけで、勇気が湧いてくる。一歩を踏み出せる。足りない信用を、自分の手で勝ち取りに行ける。そんな気がするのだ。

「モリスさん」

 瑞葉の推挙を聞き、再び思案顔になったモリスに、正面から声を掛けた。
 確かに、自分はまだまだ無力だ。瑞葉と蔡倫が帰ってこなければ、黙って打ちひしがれていることしかできなかっただろう。

 だが、今は違う。今なら神田堂を背負う店主として、まっすぐお客さんと向き合うことができる。

「瑞葉の言う通り、わたしはまだまだ新米の店主です。だけど、付喪神を助けたいという気持ちは、きちんと祖母から――先代の店主から受け継いだつもりです。だから……どうかわたしに、あなたの本を直させてください!」

 モリスに偽りない気持ちを告げ、深々と頭を下げる。千里の道も一歩から。本当の信用は、仕事を完璧にこなすことで初めて生まれるものだろう。だから、まずは仕事をさせてもらえるように誠意を見せる。自分が必ず直してみせると、態度で示す。

「なるほど……」

 しばらく頭を下げていると、上の方からくすりと笑うような口調の台詞が降ってきた。
 菜乃華が顔を上げれば、そこには愉快そうなモリスの顔があった。

「どうやら私は、まだまだ人を見る目が足りなかったようだ。菜乃華殿、大変な無礼を働いたことを許していただきたい。本当に申し訳ない」

「いえ、そんな! わたしの経験が浅いのは事実ですし、モリスさんが謝ることじゃないです」

 入れ替わるようにモリスから頭を下げられ、菜乃華が慌てた様子で手を振る。
 菜乃華の許しを得ることができ、モリスは「ありがとう」と安心した様子で微笑む。そして、自らの魂である本を手に取り、菜乃華に差し出した。

「その上で、改めてお願いする。どうか、私の本を直していただきたい」

「はい、喜んで!」

 モリスから本を受け取った菜乃華は、力強く頷くのだった。