全ての業務が終了して、スーパーの戸締りを確認した後、今日は解散ということになった。まだ研修中みたいなものだが、コンビニでバイトをした経験を生かせるため、多岐川さんに迷惑をかけるようなことはなさそうだ。

 帰り際、多岐川さんに「一緒に帰りませんか?」と誘われて、特に断る理由もないため二つ返事で了承したが、そもそもお互いに別々の方向に家があることが判明したため、それは叶わなかった。彼女は残念そうに肩を落としながら、荒井さん――渚さんの名字だ――と帰っていった。岡村さんは一番最初に自転車に乗って帰った。

 僕も帰ろうと思い歩き出そうとすると、スーパー前の自販機のところで、スマホをさわっている女の子を見つける。誰かと待ち合わせをしているのだろうかと気になって……それからすぐに彼女が水無月であるということに気付く。水無月は少し落ち込んでいるような表情を浮かべていたが、僕を見つけるとパッと笑顔になって近寄ってきた。

「先輩。お仕事お疲れ様です」
「あ、うん。ありがと。どうしたの、水無月?」

 いつの間にか、胸を打つ鼓動が早くなっていた。僕はそれを必死に押さえつける。

「偶然スーパーの近くまで来たので、寄ってみたんです」
「そうなんだ。もう遅いし、送ってくよ」
「ありがとうございます」

 水無月はニコリと微笑んで、それから僕と一緒に歩き出す。大通りを何も話さずに歩き、車通りの少ない裏道へと入っていく。僕は彼女の家を知らないから、半歩ほど後ろをついて歩いた。

「久しぶりですね、こんな風に一緒に帰るのは」
「うん……」

 僕と、水無月と、牧野。三人で帰ることの多かった通学路。あんな眩しい日々は、もう戻ってこないのかと思っていた。

「美大、大変?」
「結構大変ですよ。毎日課題ばかりで、朝早くに学校行かなきゃいけないですし、高校生活の延長みたいなものです。先輩は、どんな感じですか?」
「課題はもちろんあるけど、高校生活よりは楽かな」

 一コマ目が無い日もあるから、毎日早起きしなければいけなかったあの頃より、随分と時間に余裕が出来ている。しかしその分、夜更かしをして生活リズムを崩し気味だけど。

「初めての出勤は大変でしたか?」
「ううん。コンビニのバイトを経験してたから。それに、多岐川さんがわかりやすく教えてくれたし」
「梓さん、教えるの上手いですよね」
「美大で何か教えてもらったりしたの?」
「はい。梓さんは先輩ですので」

 そんなとりとめのない話を、僕たちは続ける。静寂が訪れるのが怖くて、必死に次の話題を探している自分がいることに気付いた。

「……水無月は、バイトとかしてないの?」
「一応やってますよ。ファミレスの接客です」

 ウエイトレス姿の水無月は、きっとすごく似合っているのだろう。機会があれば見てみたいけれど、見に行けば下心があると思われそうで、なんとなく気が引けてしまう。実際、下心があるのだから仕方がない。

 そんなことを考えていると、水無月は「駅前のファミレスですので、お時間がある時に食べに来てください」と言ってくれた。僕が頷くと、彼女は本当に嬉しそうに微笑んでくれる。

 その笑顔を見るだけで、僕の心はどうしようもないほど大きく揺れてしまう。あの頃の出来事を思い出してしまって、今すぐに水無月のそばから逃げ出してしまいたくなる。このわずかな時間だけで、僕はどうしようもなく彼女のことが好きなのだと、再認識してしまった。

「どうしました?」

 そう言って、水無月は僕の顔をそっと覗き込んでくる。僕は努めて冷静さを保ち「なんでもないよ」と返す。そう、なんでもない。こんな気持ちは、二度と伝えるべきじゃない。

 しかしそう考えていても、内から溢れ出るこの感情は、堪えていなければポツリと口元から漏れ出てしまいそうだった。

 水無月はそれから、うかがうように僕のことを見て「先輩、遥香のこと覚えてますか?」と、訊ねてきた。忘れるわけがない。あの頃の出来事は、忘れようと試みても一度も忘れることなんて出来なかったのだから。

 頷くと、彼女はまた話を続ける。

「昨日、久しぶりに電話がかかってきたんです」
「……そうなんだ」

 僕が牧野とまともに話したのは、あの告白の返事をして以降数えるほどしかない。水無月と同じく連絡先は残っているけれど、かかってくることもなければかけることもしなかった。

 続く彼女の言葉に、僕はひどく動揺してしまい、立ち止まってしまう。

「遥香、今でも先輩のことが好きみたいですよ」

 あんなにもこじれてしまったというのに、僕らはあの時から何一つ変わってなんていなかった。牧野は僕のことを好きでいてくれて、僕は水無月のことがいまだに忘れられなくて。だから今も昔も、牧野の気持ちを受け止めることは出来ない。

 立ち止まって、こちらへ振り返った水無月は、またうかがうようにこちらを見てくる。

「遥香と、一度話してみませんか?」

 そうやって今も、彼女は僕と牧野の仲を取り持とうとする。僕はそれが、たまらなく辛い。

「……ごめん。好きな人がいるから、気持ちは受け取れないんだ」

 その言葉を聞いた水無月は、一瞬悲しげな表情を浮かべてしまった。けれどすぐに笑顔を持ち直して、からかうように訊ねてくる。

「それは、梓さんのことですか?」
「違うよ」

 あまりにもすぐに否定してしまったから、図星だと思われてしまったのだろう。水無月は軽く微笑んで、ニヤリと口角を上げた。

「梓さん、とても綺麗ですもんね。それに天然なところがありますし。真面目な先輩と二人で話してるの見てると、お似合いだなって思いました」
「だから、違うって」

 少し語気が強くなってしまい、水無月の表情から笑みが消える。彼女の笑顔を奪ってしまったことにいたたまれなさを覚えたけれど、僕はこれ以上気持ちを押さえつけておくことができそうになかった。

 ただひたすらに肥大した思いは、三年越しにまた僕の口から漏れ出てしまう。

「……水無月」
「えっ?」
「今も、水無月のことが好きなんだよ」

 溢れ出る思いは、押しとどめておくことなんて出来なかった。僕はまた、あの時と同じように過ちを犯してしまう。何も伝えたりしなければ、先輩後輩という関係で、一緒にいられたかもしれないのに。

 彼女は本当に驚いたといったように、大きく目を丸める。そんな答えは、全く予想していなかったという風に。それから驚いた表情を崩し、一瞬だけ目を伏せた。僕を見て、困ったように微笑む。

「先輩のことを振ったのに、今まで好きだったんですか?」

 僕はハッキリと頷く。告白した時、水無月には『ごめんなさい。先輩をそういう目では見れません』と言われた。それでも僕は、諦めることなんてできなかった。

「好きなんだよ。今でも、昔と全然変わらないぐらい」
「……どうして、そんなに私のことが好きなんですか?」

 改めて言葉にするのは恥ずかしいけれど、ここで言わなければもう一生伝えることは出来ないと思った。だから、一度両手を強く握りしめて、僕は水無月に伝えた。

「友達が喜んでるときは一緒に喜べて、泣いてるときは自分のことのように悲しめる。そういう友達思いなところが、すごくいいなって思った。だから、好きになった……初恋だった」

 その初恋という言葉を伝えた瞬間、彼女の瞳が小さく揺れたような気がした。けれどそれは一瞬のことで、水無月はすぐに反対方向へ体ごとそっぽを向いてしまったから、確認することはできない。

「水無月……?」
「……ごめんなさい、なんでもないです」

 こちらへ振り向いた彼女の瞳はもう、揺らめいたりしていなかった。先ほどと同じように、水無月は困ったように微笑む。

「先輩の気持ちは、とっても嬉しいです。でも、やっぱり受け止めることはできません」

 そんな風にあっさりと決断を下されて、僕の心はキュッとしぼんでしまったかのような不快感を覚える。喉がカラカラに渇き、今すぐに泣き出してしまいたくなった。

「遥香のこと応援するって、高校生の頃に言っちゃったんです。私がもし先輩と付き合ったりしたら、遥香はきっと悲しみます。だから私は、先輩をそういう目で見ることはできません。親友を、裏切ることはできないんです」

 水無月がきっぱりとそう言い切ったため、その意思が決して曲がらないことを、強く理解してしまった。彼女は、向こうのアパートを指差す。

「すみません。私の部屋あそこなので、これで失礼します」

 そう言って彼女は僕から離れていく。呼び止めようとしたが、かける言葉は見つからない。しかし僕が呼び止めるよりも先に、水無月は止まってくれた。

「……だけど滝本先輩のことは、先輩としてとっても好きです。また会えて嬉しかったのも、本当です。これからも、私と話してくれると嬉しいです」

 僕は深く考えたりせず、その言葉に頷いてしまった。これが僕と彼女の一線。決して越えることのできない壁だった。

 僕が頷いたのを認めると、水無月は安心したように微笑んでから、最後に「さようなら」と呟いてアパートの階段を上っていく。一人取り残された僕は、ただ呆然とその場に立ち尽くす。

 いったい、どうすればよかったのだろう。もっと強く思いを伝えれば、水無月は僕のことを考えてくれたのだろうか。今すぐ牧野に電話をして、僕のことを諦めてほしいと説得すれば、水無月は振り向いてくれるのだろうか。

 しかしそれはいずれにしても、僕の好きな水無月を困らせたり、悲しませてしまう行為であることに気付いてしまった。彼女がそうと決めてしまった以上、僕はもう何も言うことができない。