多岐川梓
『先輩は、きっといつまで経っても、梓さんのことを忘れたりしませんよ。私を忘れてくれなかったように、いつまでも苦しみ続けるんです』
あの時奏ちゃんに言われた言葉が、今も頭の中から離れてはくれなかった。
悠くんは、ただ私といるだけで幸せだと思ってくれていた。私はそんな彼の思いの重さが怖くなって、逃げ出した。彼女の、言う通りなのかもしれない。幸せを願っていたつもりでも、その実私は何も悠くんのことを考えられてはいなかった。
傷付けて、傷付いて、本当に私はどうしようもない。私以外に誰もいない薄暗いアトリエで、ただ呆然と真っ白い大きなキャンバスを見つめていた。再びこの真っ白な世界に、色を付けることができるのか、私には自信がなかった。
夢を応援してくれた大切な人は、もう私のそばにいない。
私は、どうしようもないほど臆病者だった。初めて男の人に恋をして、恋というものを初めて知った私は、この気持ちをどうすればいいのかがわからなかった。告白をして振られるのも辛いし、かといって誰かに彼を取られてしまうのも嫌だった。
私は卑怯な人間なのだろう。周りの女性に彼を取られてしまうのが嫌だったから、渚ちゃんと奏ちゃんに悠くんのことが気になっていると相談した。そう主張しておけば、もし二人が悠くんに好意を抱いていたとしても、譲ってくれるかもしれないと踏んだから。
全て計算通りでそうしていたわけじゃないけれど、今振り返ってみれば、私はそんな打算的な行動を無意識的に取っていた節があった。
その結果、私は梓ちゃんから悠くんを奪ってしまい、梓ちゃんを酷く傷付けてしまった。最近まで、私はそのことにすら気付いていなかった。
普段優しい人があれだけ怒ると、さすがにくるものがある。私は最低な人間なのだということを痛感した。
奏ちゃんは、私が想いの重さが怖くなって逃げだしたのだと言っていた。もちろんそれは、的を得ている。ずっと先の未来のことを考えてくれている悠くんのことが嬉しかったと同時に、そこまで真剣に彼との未来を考えられていなかった私の内面とのギャップを感じてしまったから。
けれど私が彼を遠ざけた本当の理由は、もっと別のところにあった。それを私は、今更ながらに理解した。
悠くんにも大きな夢があると知った時、私は激しく動揺した。私が夢を見つけるのを見守っていれば、彼は自分の夢を追いかけることができなくなる。それは彼の幸せを奪ってしまうことと同義だった。彼は私に、夢を追いかける力をくれた。絵を描くのを楽しいと、再び思わせてくれた。だから彼にも、自分の夢を追いかけてほしかった。
そこまで考えた私は、怯えてしまった。もし私が彼を応援したとして、彼の人生を選択したとして、夢が叶わなかったとすれば、その先にあった全ての未来を潰してしまうことになる。それが私は怖かった。
だから私は、彼との別れを決断した。そんな、どこまでも自分勝手な理由で。
彼に告げた最後の言葉を、私は思い出していた。
『幸せになってね』
私と一緒にいることが、彼にとって一番に幸せなことだったのに。私が、彼の幸せを切り捨てたというのに、私は彼の幸せを願ってしまった。もし叶うのならば時間を巻き戻して、全てをやり直したい。
だけどそれはもう、叶わない。
それならば、いつかまた彼と再会した時に、恥ずかしくない人間でいなければいけないと思った。今度こそ、幸福を素直に受け入れられるように。
そして私は何よりも、誰かの夢を応援できる人になりたいと思った。そんな風に他人を思いやることが、私が変わるための初めの一歩なのだ。
幸いにも、美大へ入学した時から、選択肢の幅は常に広げるようにしていた。そのため一年の頃から、大変だけれど教職の授業にも真面目に取り組んでいる。
絵に関わることができて、誰かの夢を応援することができる仕事。
私は将来、美術の先生になりたいと思った。
きっとこれから先、様々な困難が私の前に立ち塞がるだろう。だけど、めげるわけにはいかない。
彼は最後の瞬間まで、私のことだけを考えてくれていたのだから。
私の進むべき道は、ようやく決まった。
その時、私の大好きな彼が、左腕を引いてくれたような気がした。
『先輩は、きっといつまで経っても、梓さんのことを忘れたりしませんよ。私を忘れてくれなかったように、いつまでも苦しみ続けるんです』
あの時奏ちゃんに言われた言葉が、今も頭の中から離れてはくれなかった。
悠くんは、ただ私といるだけで幸せだと思ってくれていた。私はそんな彼の思いの重さが怖くなって、逃げ出した。彼女の、言う通りなのかもしれない。幸せを願っていたつもりでも、その実私は何も悠くんのことを考えられてはいなかった。
傷付けて、傷付いて、本当に私はどうしようもない。私以外に誰もいない薄暗いアトリエで、ただ呆然と真っ白い大きなキャンバスを見つめていた。再びこの真っ白な世界に、色を付けることができるのか、私には自信がなかった。
夢を応援してくれた大切な人は、もう私のそばにいない。
私は、どうしようもないほど臆病者だった。初めて男の人に恋をして、恋というものを初めて知った私は、この気持ちをどうすればいいのかがわからなかった。告白をして振られるのも辛いし、かといって誰かに彼を取られてしまうのも嫌だった。
私は卑怯な人間なのだろう。周りの女性に彼を取られてしまうのが嫌だったから、渚ちゃんと奏ちゃんに悠くんのことが気になっていると相談した。そう主張しておけば、もし二人が悠くんに好意を抱いていたとしても、譲ってくれるかもしれないと踏んだから。
全て計算通りでそうしていたわけじゃないけれど、今振り返ってみれば、私はそんな打算的な行動を無意識的に取っていた節があった。
その結果、私は梓ちゃんから悠くんを奪ってしまい、梓ちゃんを酷く傷付けてしまった。最近まで、私はそのことにすら気付いていなかった。
普段優しい人があれだけ怒ると、さすがにくるものがある。私は最低な人間なのだということを痛感した。
奏ちゃんは、私が想いの重さが怖くなって逃げだしたのだと言っていた。もちろんそれは、的を得ている。ずっと先の未来のことを考えてくれている悠くんのことが嬉しかったと同時に、そこまで真剣に彼との未来を考えられていなかった私の内面とのギャップを感じてしまったから。
けれど私が彼を遠ざけた本当の理由は、もっと別のところにあった。それを私は、今更ながらに理解した。
悠くんにも大きな夢があると知った時、私は激しく動揺した。私が夢を見つけるのを見守っていれば、彼は自分の夢を追いかけることができなくなる。それは彼の幸せを奪ってしまうことと同義だった。彼は私に、夢を追いかける力をくれた。絵を描くのを楽しいと、再び思わせてくれた。だから彼にも、自分の夢を追いかけてほしかった。
そこまで考えた私は、怯えてしまった。もし私が彼を応援したとして、彼の人生を選択したとして、夢が叶わなかったとすれば、その先にあった全ての未来を潰してしまうことになる。それが私は怖かった。
だから私は、彼との別れを決断した。そんな、どこまでも自分勝手な理由で。
彼に告げた最後の言葉を、私は思い出していた。
『幸せになってね』
私と一緒にいることが、彼にとって一番に幸せなことだったのに。私が、彼の幸せを切り捨てたというのに、私は彼の幸せを願ってしまった。もし叶うのならば時間を巻き戻して、全てをやり直したい。
だけどそれはもう、叶わない。
それならば、いつかまた彼と再会した時に、恥ずかしくない人間でいなければいけないと思った。今度こそ、幸福を素直に受け入れられるように。
そして私は何よりも、誰かの夢を応援できる人になりたいと思った。そんな風に他人を思いやることが、私が変わるための初めの一歩なのだ。
幸いにも、美大へ入学した時から、選択肢の幅は常に広げるようにしていた。そのため一年の頃から、大変だけれど教職の授業にも真面目に取り組んでいる。
絵に関わることができて、誰かの夢を応援することができる仕事。
私は将来、美術の先生になりたいと思った。
きっとこれから先、様々な困難が私の前に立ち塞がるだろう。だけど、めげるわけにはいかない。
彼は最後の瞬間まで、私のことだけを考えてくれていたのだから。
私の進むべき道は、ようやく決まった。
その時、私の大好きな彼が、左腕を引いてくれたような気がした。