始発の電車に乗るであろう人の波が、次々と駅舎の中へと入っていく。私はその波に乗らずに、いつか先輩と約束した場所の前に立っていた。

 あの頃から、私の時間はずっと止まっていた。先輩を心にもない言葉で振ってしまったのを、ずっと後悔していた。だから私もやり直すんだと、そんな覚悟を抱いてここにきた。

 もう十二月に入る空は、青く澄み渡っている。そういえば先輩に告白された時も、今のような綺麗な天気だった。

 私の胸のドキドキは、いつまで経っても収まってくれない。約束の時間が近づくに連れて、だんだんと鼓動が加速していく。

 先輩は、来てくれるのだろうか。私は、ただ信じて待つしかなかった。そして約束の時間の五分前、気配だけで、彼がここに来てくれたのだということを察した私は、思わず俯かせていた顔を上げる。

 先輩が、私の目の前にいて、驚いたように目を丸めていた。

「水無月、そのマフラー……」

 私は今日のために巻いてきたマフラーに、そっと指先で触れる。暖かい、私を包み込んでくれる温もりを感じた。

 先輩はあの日を懐かしむような目を向けた後に、瞳が大きく揺れた。鼻の先は、赤くなっていた。

「……捨てて、なかったんだね」
「捨てるわけ、ありません……ずっと大事にしまってました」
「使ってくれてるの、見たことなかったから」
「大事にしておきたかったんです。なんだか首に巻いてしまうのが、もったいなくて」
「首に巻かなきゃ、マフラーの意味ないじゃん」
「でも今は、ちゃんと巻いてます」

 そんな私の言葉に、先輩はくすりと笑う。取り返しがつかないと思っていた懐かしい光景は、いつのまにか私たちの元に戻っていた。

 その事実が嬉しかったけれど、今度は私が、過ちを冒さなければいけない。先輩は「それで、伝えたいことって、何?」と訊ねてくる。あまり長引かせると、始発の電車に間に合わなくなってしまうため、私は深く息を吸い込んで、先輩に伝えた。

「先輩のことが、好きなんです」

 ずっと、伝えたくても伝えられなかった、私の本当の気持ち。思いを伝えることがこんなにも緊張するのだということを、私は初めて知った。うまく、先輩の顔を見ることができない。

 先輩も、きっとこんな気持ちを抱きながら、私に告白してくれたのだろう。あの頃からようやく、私の時間は動き出した。

 けれど、私の中で止まっていた時間は、本当に大切なものだけが、止まっていてはくれなかった。私は時が流れることの残酷さを、ようやく思い知ることになった。

「ごめんなさい……」

 たしかに先輩は呟いた。あの頃の私と寸分違わない、同じ言葉を。涙で視界が滲んでしまって、前がうまく見えない。

 それでも私は先輩の温もりがほしくて、足を前に踏み出した。先輩の胸に、私は顔を埋める。そして辛く握りしめた手で、彼の肩を弱々しく叩いた。

「私のこと、好きって言ってくれたじゃないですか……!」
「ごめん、水無月……本当に、ごめん……」

 先輩の謝る言葉が、私の耳の中で反響する。どうして両思いだったのに、こんな思いをしなきゃいけなくなったのか、わけがわからなかった。

 本気で先輩と向き合っていたのは、私だけだったはずなのに。どうして私が一番傷つかなきゃいけないのか、その理由が知りたかった。

 誰か、誰でもいいから教えてほしかった。

「僕は今でも、梓のことが好きなんだ。だから、水無月の思いは、もう受け取れない……」

 先輩は、私のことを受け入れてはくれなかった。私は泣きながら、それでも彼の肩を掴んだ。

「きっと、バチが当たったんだ……私が大切な人を、傷付けちゃったからっ……!先輩が好きだって言ってくれたのにっ!」

 友達が喜んでるときは一緒に喜べて、泣いてるときは自分のことのように悲しめる。そういう友達思いなところが、すごくいいなって思った。だから、好きになった。そんな先輩が好きだった私からは、もうかけ離れてしまっている。梓さんを傷つけてしまったから。どうして、私はこんなにも変わってしまったのだろう。もう、何もかもを投げ捨ててしまいたかった。

 けれど、先輩はそんな醜い私の手を優しく掴み、温めてくれる。その優しさが、今の私にとっては何よりも辛いことだった。

「大切な人を傷付けて、苦しかった?」
 
 私は先輩に、懺悔をするように深く頷く。

「後悔、してるんだよね?」

 私は再び、頷く。こんな思いをするぐらいだったら、言わなければよかったと、本気でそう思っている。

 先輩はそれから、未だ泣き続ける私の頭を優しく撫でてくれた。そしてあの頃と変わらない暖かい声で、先輩は言った。

「僕は、水無月のそういうところが、好きになったんだよ」
「……え?」

 私は思わず顔を上げる。先輩は、どこまでも優しい笑顔を浮かべていた。

「大切な人が傷ついてて、悲しくなったんだよね。後悔してるのは、水無月がとっても優しいからだよ。僕は、そんな水無月だから、好きになったんだ」

 嗚咽が混じり、私はもう上手く言葉を出せなくなっていた。ただ純粋に、嬉しかった。私が、あの頃から何一つ変わっていなかったことを知ることができて。先輩の好きだった私のまま、今を生きていることが、私はたまらなく嬉しかった。

「ずっと、気付いてあげられなくて、ごめん。水無月は、ずっと僕のことを好きでいてくれたんだね」

 そうだ。私はずっと、あなたのことが好きだった。私はそれから、全てを話した。遥香を応援していたこと、梓さんを応援していたこと。ずっと好きだったのに伝えられなかったことを、私は全部話した。

 その告白を聞いた先輩は、少し照れたように。だけど申し訳なさそうに微笑んだ。

「ごめん、気付いてあげられなくて」

 気付いてほしかった。誰よりも先に先輩のことを好きになって、誰よりもずっと先輩のことが好きだった人のことを。

「気持ちを伝えてくれて、本当に嬉しいよ。すごい勇気をもらえた。自分に、少しは自信を持っていいんだって思えたから。でもやっぱり、僕は梓のことが好きだから、水無月の気持ちは受け取れないんだ」

 とても申し訳なさそうに、先輩は言う。その場でフラれてしまったけれど、精一杯考えて決断を出してくれたのだということが伝わってきた。だから、振られてしまったことはもちろん悲しいけれど、仕方ないんだなと思うことができた。

 先輩はもう、梓さんのことが大好きだから。

 私は溢れてくる涙を一生懸命拭って、先輩のことを見据える。先輩は、私のことを変わらず好きでいてくれた。一番大切な人が好きになってくれた部分だから、私は私のいいところを、これからも大切にして生きていこうと、そう思った。

 今はとっても悲しいけれど、大切な先輩が決めたことだから、きっといつかは乗り越えることができる。この別れを、いつかは好きになれる気がした。

 そのために私ができることは、もう初めから決まっていた。結局最後は泣いてしまったけれど、私は精一杯の笑顔を見せて、先輩を送り出した。

「先輩のこと、いつまでも応援してます。どうか、幸せになってください」