梓は着替えを持たずに家出をしてしまったから、日をまたげば荒井さんに迷惑をかけてしまう。だから日が落ち始めた頃に、僕は荒井さんの住んでいるアパートへとやってきた。

 夏休みに何度も訪れたこのアパートは、梓が僕の部屋に住むようになってから、一度も訪れたことはない。かすかな懐かしさを覚えつつ、階段を登り荒井さんの部屋の前に立つ。そこで一度深呼吸をして、インターホンを押した。

 程なくすると荒井さんが出てきて、梓を迎えにきましたと伝える。彼女は何も言わずに、部屋の奥から梓を連れてきてくれた。

 梓は僕に目を合わせてはくれず、いつもよりどことなく落ち込んでいる。荒井さんは空気を読んでくれたのか、僕らを二人にしてくれた。

「とりあえず、ここじゃあれだから、近くの公園に行こうよ」

 梓がコクリと頷いたのを見て、僕らは公園への道を何も話さずに歩いた。昨日までの沈黙は心が休まるものだったというのに、今日は会話がないことがとても辛い。どうしてこんなことになってしまったのか。

 その責任の全ては僕にある。

 公園に辿り着いて、僕は梓の方を振り返った。しっかりと向き合うために。けれど梓は僕のことを見てはくれなかった。

「梓、話したいことがあるんだ」

 一度息を吸って、体内に新鮮な空気を取り込む。循環する血液の流れが、いつもより早い。そんな緊張を感じながら、僕は続けた。

「ずっと、くすぶってた。このままでいいのかなって。服を作りたいっていう未練があったんだ。僕にとって、それが本当にやりたかったことだから。今朝、梓に言われて、そのことにようやく気付いた」

 梓の瞳に、期待の色が宿る。僕の好きな、優しい目。いつも見ていたはずなのに、その瞳はやけに懐かしさを覚えた。

「ごめん、今朝はあんな態度取っちゃって。梓は、僕のことを考えてくれてたのに」

 しっかりと頭を下げて、梓に謝罪する。そして顔を上げた時に、またまっすぐ彼女のことを見据えた。

「僕は服を作って、いろんな人を喜ばせたい。だから一度実家に戻って、両親を説得するよ。許してくれるかはわからないけど、自分の正直な気持ちを伝えてくる。それでさ……」

 自分が持てる精一杯の覚悟を込めた目で、梓を見つめた。

「夢を叶えるまで、待ってて欲しいんだ。僕は本当に梓のことが好きだから、ずっと一緒にいたいと思ってる。重いかもしれないけど、これが本当の気持ちだから」

 今日一日、ずっと悩んでいた。梓のことと、僕の未来。どちらかを捨てて、片方を選ぶことなんてできなかった。

 それは、僕の中でどちらも一番大切なことだから。それならば、道は決まっている。後悔をしないために、覚悟を決めるしかない。その結果、二つともを取りこぼしてしまうかもしれないが、何も行動しないまま後悔をするより何倍もマシだ。

 僕のこの気持ちは、ちゃんと梓に伝わっただろうか。そう思い彼女を見つめていると、瞳が小さく揺れたかと思えば、またすぐに顔を伏せてしまった。

 そして絞り出すように、梓はその言葉を口にする。

「……私たち、たぶん別れた方がいいんだよ」

 僕の目の前が、一瞬暗闇に覆われた気がした。座り込んでしまいそうなほどに心臓の動悸が速まり、それを抑えることができない。

 その中で、僕はもがくように問い返した。

「……どうして?」
「私と一緒にいたら、悠くんは幸せになれないから」

 キッパリと、梓は断言してしまう。そんなことはないと、反論したかった。けれど梓は、尚も言葉を続ける。

「私、あなたに依存してた。辛いことがあっても、悠くんが慰めてくれるから。夏休みの頃は、本気で絵を描くのをやめようかと思ったときもあったの。きっと、悠くんが許してくれてたら、私は絵を描くのをやめてた」
「そんなことないって」
「そんなこと、あるの。私はそういう人だから。自分じゃ決断できないから、誰かに意見を求めちゃうの。結局夏休みを半分も私のために使ってくれて、すごく迷惑もかけちゃったし……」
「迷惑だなんて、思ってなかった。僕は、一緒に居られるだけでよかったんだよ」
「じゃあ、もし私が会いたいって言ったら、悠くんはいつでも会いに来てくれるの?」
「そんなの、当たり前だよ。僕が会いに行って梓が喜んでくれるなら、会いに行くに決まってる」

 そんな当然の言葉を返すと、梓は途端に悲しげな表情を浮かべた。どうしてそんな表情を浮かべるのか、僕にはさっぱりわからなかった。

「悠くんが夢を追いかけるなら、これからは遠距離になるの。きっと私は寂しいってあなたに甘えて、何度も何度も迷惑をかけることになる。あなたは優しすぎるから、その度に困らせることになるの」

 僕は、彼女の言葉に何も言い返すことができなかった。想像してしまったから。きっと僕は、梓が会いたいと言ってしまえば、会いに行ってしまう。彼女のことが、何よりも大切だから。

「それにやっぱり、私は悠くんが思い描いてる未来のことまで、想像することができないの。まだ、大学を卒業した後に何をしたいかも定まっていないから」
「それは、これから一緒に見つけてけばいいよ。約束したじゃん……」
「悠くんはこれから、自分の夢を追いかけるんでしょ?私に構ってる時間なんて、ないよ」
「それじゃあ、大学を卒業するまでここにいるよ。とりあえず大学ぐらいは出ておかないと、就職するときに不利だし、たぶん親にも――」
「そういうところだよ」

 僕の言葉を遮り、梓はまくし立てた。

「私といると、悠くんは無理をする。私のために大学に通うなんて、そんなのおかしいって」

 正論を突きつけられ、僕は押し黙る。少し考えれば、自分がおかしなことを言っていることぐらい理解できた。梓のことになると、僕は前が見えなくなる。

「やっぱり、別れるべきなんだよ」

 再びその言葉を突きつけられて、僕はもう何も言えなくなってしまった。梓が、そう決めてしまったから。決意は固く、僕が何かを言ったところで意思は曲がりそうにない。

 梓は、もう話は終わったとばかりに、僕から踵を返す。その背に向かって、何とか声を絞り出した。

「……どこ行くの?」

 彼女は僕の方へ、振り返ってくれる。

「今日一日、また渚ちゃんのところに泊まる。明日、荷物を取りに行くから」

 それだけ告げて、梓は再び歩き出してしまった。どうにかして、彼女のことを引き止めたい。引き止めて、考え直すように説得したい。けれど肝心なその方法が思いつかなくて、ただ距離だけが離れていく。

 僕はもう、何も考えずに走り出していた。そして、彼女の手を掴む。その時に、気付いた。もう僕のあげた時計を、手首に巻いていないということに。

 僕も覚悟を決めていたように、梓も同じように覚悟を決めていたのだ。その事実を突きつけられて、出しかけた言葉も引っ込んでしまい、もう何も言うことができなくなった。

 梓はこちらに振り返ってくれる。彼女の綺麗な瞳からは、大粒の涙が溢れていた。そして震える声で、言った。

「お願い、悠くん……もう、私を困らせないで……迷惑、かけたくないの……」

 最後に握ったその腕すらも、僕は離してしまう。何も持つことのできなくなった僕の手は、うなだれたように落ちていく。

 もう、終わってしまった。その事実だけが、痛いほど僕には理解することができた。