三人で講義を受けた後、すぐに校舎を出て車に乗り込み美大へと向かった。二人は後部座席に乗ってもらい、安全運転を心がけながら山道を下っていく。

 辺りに娯楽施設が見え始めるところまで降りてきたとき、多岐川さんは期待を膨らませた声を後ろから投げてきた。

「お礼の内容、決まりましたか?」

 僕は苦笑して「いや、まだだよ」と答える。この期に及んで逃げ出せるとは思っていないから、先程から真面目に考えていた。しかし特にやってもらいたいこともないため、中々彼女が望むような答えは思いつかない。

「何か、美味しいものをご馳走してもらうのはどうでしょう?」
「あ、それいいね奏ちゃん」
「いや、女性の方に奢らせるのはさすがに……」

 お店で多岐川さんが財布を出している姿を想像して、ないなと思った。店員や他の客にヒモかと思われそうだ。

 お金を節約しているとはいえ、それだけはやらせたくない。そこまで考えて、僕は今、お金関係で切迫していることを思い出した。

「バイト先のコンビニが最近潰れてさ」
「飲食店になったところですか?」
「そうそう。それで、今働く場所探してるんだよ。なんか、いいとこない?」

 そう質問してルームミラーへ視線を向けると、多岐川さんはこれでもかというぐらい目をキラキラとさせて、突然後ろから僕の肩を掴んできた。びっくりした後に目の前の信号が点滅していることに気付き、慌てて急ブレーキを踏んだ。

「ご、ごめん危ない運転で……でも危ないから、普通に座ってて……」
「バイト先、紹介してあげます!」

 興奮気味に、彼女はその提案をしてくる。半分駄目元で言ったから、僕は内心驚いていた。

「えっ、ほんと?」
「ほんとです! 今ちょうど私のバイト先で募集してるので! それに、時給もそれなりにいいですよ! ちなみに、スーパーのレジ業務です!」

 スーパーのレジ業務なら、コンビニでレジを経験していたから、即戦力になれそうだ。紹介してくれた多岐川さんに、迷惑をかけることもないだろう。迷う必要は、何もなかった。

「じゃあ、お願いしていい? すぐに履歴書用意するし、面接とかっていつ頃出来るかな」
「少し待っててください。今、店長に電話します」

 そう言うと、彼女はカバンの中からスマホを取り出して、自分のアルバイト先へ電話をかけ始めた。トントン拍子に話が進み若干の不安を覚えるが、金銭面で切迫していたから多岐川さんの好意に甘えるしかない。

 程なくして通話は終わり、いつでも履歴書を持ってきていいことと、持ってきたその日に軽い面接を行うことを教えてもらった。

 あの場限りの出会いかと思っていたのに、もしかすると多岐川さんとは長い付き合いになるのかもしれない。信号が青に変わったのを見て運転を再開しながら、僕はお礼を言った。

「ほんと、ありがと。助かるよ」
「いえいえ。滝本さんのおかげで、私も助かりましたから」

 ルームミラー越しに彼女の笑みを見て、僕はすぐに運転に集中した。しばらく車を走らせると、昨日も向かった美大の校舎が見えてくる。校門の前に車を停めると、多岐川さんがこちらへ腕を伸ばしてきた。その手には、スマホが握られている。

「連絡先、教えてください」
「あ、うん」

 僕は言われた通り、電話番号とメールアドレスを交換した。久しぶりに、僕のスマホに女性の連絡先が追加された気がする。

「先輩、よかったですね」

 今まで黙っていた水無月がそう言って微笑む。それがバイト先が見つかったことに対してなのか、それとも多岐川さんと連絡先を交換したことについてなのかは分からない。しかしそれが後者なら、水無月は勘違いをしている。僕は別に、出会ったばかりの多岐川さんに、特別な思いは抱いていないのだから。

 それから二人は車を降りて、僕に頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございます。それと、申し訳ございませんでした。突然大学へ押しかけちゃって」
「ううん、気にしないで。おかげ様でバイト先も見つかりそうだし」
「そう? それなら、お邪魔してよかったんですかね」
「私も、関係ないのについてきちゃってすみません」
「水無月は、久しぶりに会えて嬉しかったよ」
「ありがとうございます、先輩」

 水無月がお礼を言った後、二人はもう一度頭を下げて昇降口の方へと走って行った。その背中を見つめながら、僕はいつのまにか、昔の出来事を思い返していた。




 二人と再会したその日の夜、一人暮らしをしているアパートで勉強をしていると、僕のスマホに一件の着信が来た。画面に表示される発信者の名前を見て、僕の心臓は大きく跳ねる。

 落ち着くために深呼吸をしてから、応答のボタンを指でタップした。耳に当てると、彼女の声が僕の頭の中へ響いてくる。

『夜分遅くにすみません。水無月です』

 高校の頃の後輩、水無月だった。お互いに生徒会に所属していたから、当然のごとく連絡先は知っていた。とはいえあの出来事があってから、彼女と連絡を取り合ったことは一度もなかったけれど。卒業した後も、それは変わらなかった。

「……うん、どうしたの?」

 要件を聞くと、しばらくの沈黙があった。その空気に耐えられなくなった僕は口を開きかけるけれど、彼女が再び話し始めるのが一瞬だけ早い。

『今日、また会えて嬉しかったです』

 相手の姿が見えない声だけのやり取りでは、水無月が本心からそう思っているのか、僕には判断が出来なかった。

『あれから、先輩が卒業してから、何度か連絡を取ろうとしたんです。でも最後の最後で、先輩の電話番号を押すことが出来ませんでした』
「……ごめん」

 何の脈絡もなく、僕は彼女に謝る。あれからずっと、彼女に伝えたかった言葉。卒業するまで、一度も伝えることが出来なかった言葉。

 またしばらくの沈黙があった。その時間は永遠のようにも感じられて、僕の胸は張り裂けてしまいそうなほど大きく鼓動している。

『……遥香、今は元気にやってますよ。私たちの地元の、国立大学に通ってます』

 懐かしい女の子の名前。僕が、傷つけてしまった人の名前だった。

「そっか……それなら、よかったよ」
『先輩は、元気でしたか?』
「うん。まあ、それなりに」

 大学でも何人かの友人に恵まれて、今のところ単位は一つも落としていない。バイト先が潰れてどうしようか迷っていたけれど、それも今日解決した。

「多岐川さんとは、仲良いの?」
『同じ油画の専攻で、新歓で一人でいる時に話しかけてくれたんです』
「優しい人なんだね」
『はい、とても』

 多岐川さんのことを褒めたのに、水無月の声には喜びの気持ちがこもっていた。昔から、そうだった。彼女は友達の成功を自分のことのように喜んで、相手の悲しみを自分のことのように悲しむ人だった。

『私、最初は助けられてばかりですね』
「どうして?」
『高校の頃も、生徒会に入った時に一人でいましたから。先輩が、話しかけてくれたんですよ。覚えてますか?』

 そういえばと、懐かしい記憶を思い出す。なるべく思い返さないようにしていたから、すっかり忘れてしまっていた。

「うん、覚えてる。懐かしいな」
『懐かしいです』

 二人で、あの頃に想いを馳せる。県外の大学へ進学するにあたって、高校までの人間関係はほぼリセットされてしまったから、こんな風に昔の出来事を話すのは久しぶりのことだった。

「あの、さ」
『なんですか?』

 なんの気ない質問をするつもりだったけれど、急に緊張を覚えて声が詰まってしまう。僕が先輩で、水無月が後輩だった頃も、何か聞こうとしたときはこんな風に緊張をして、彼女に首をかしげられていた。きっと今の彼女も、電話の向こうで首をかしげているのだろう。

「水無月はさ、元気だった?」
『はい』
「美大目指してたなんて、全然知らなかった。地元の大学に進学するのかと思ってたから」

 水無月は、僕とは違う美術科だった。でも志望校を聞けば、地元の偏差値の高い普通の大学で、美大へ行きたいと聞いたことは一度もなかった。だから昨日美大で会ったときは、本当に驚いた。

『美術科ですから。美大を目指すのは当然ですよ』
「美大の受験、頑張ったんだね」
『はい、とても頑張りました』
「夢とか、あるの?」
『高校生の頃から、美術の先生になりたいと考えてるんです』

 水無月が学生の前で美術を教えている姿を想像して、たしかに似合っているなと思った。それに彼女は僕の高校最後の年の後半に、生徒会長として全生徒をまとめ上げていたから。

 それからも、僕らはとりとめのない話を続ける。手探りで、聞いちゃいけない話題を避けながら。それでも僕は、彼女と話を出来るのが嬉しかった。

 きっと多岐川さんがいれば、もっと普通に話をすることができたのだろう。二人きりになれば、僕がこうなることは分かっていた。それでも水無月は僕に電話をかけてきてくれた。今はその事実だけでよかった。

「明日、大丈夫?」
『何がですか?』
「講義。随分話し込んじゃったから」

 いつのまにか日付をまたいでしまっていた。部屋にかけられている時計を見て、僕はようやく現在の時刻を知る。

『……そうですね。もうそろそろ寝なきゃですよね。先輩も、履歴書書かなきゃいけませんし。こんな遅くまで、すみません』
「僕のことは気にしないで。それに履歴書は、もう書いたから」
『そうですか?』

 再び沈黙が降りて僕は気まずくなり、それじゃあと言って電話を切ろうとする。しかしまた僕が話すより先に、水無月は小さく呟いた。

『先輩は、今でも……』

 しかしその言葉は最後まで声にならず、結局中途半端に途切れてしまった。僕が「どうしたの?」と訊き返すと、慌てたように『な、なんでもないです』と言う。

 何か伝えたいことがあったんだろうけれど、僕は深く聞かないことにした。適度な距離感というものがあるし、これ以上長電話してしまえば、明日の水無月にも支障が出てしまう。

「そう? それじゃあ、切るね」
『はい。夜分遅くに、すみませんでした』

 最後にそう言って、水無月は通話を切った。僕は止まった時間が動き出したかのような感覚にとらわれて、慌てて深く息を吸い込む。それからベッドに勢いよく倒れこんだ。

 久しぶりに、水無月と二人だけで話した。もうそんなこと、一生起きないかと思っていた。でも、また話すことができた。

 そして僕は、深く理解する。まだ、水無月のことが好きなのだと。この胸の高ぶりは、今も昔も抑えることなんて出来なかった。