梓とは、校門付近で待ち合わせということになっている。僕がそこに着いて五分ぐらい経った頃に、小走りで彼女がこちらに近付いてきた。全体的にパステルカラーでまとめていて、とても似合っていると思ったが、急いで着替えてきたのか、羽織りものが乱れている。

「ごめん、遅れちゃった」
「そんなに急がなくてもよかったのに」
言いながら、僕は彼女の服を整えてあげた。
「悠くんを待たせるのはよくないと思って……」
「別に気にしないよ。時間はたくさんあるんだし」

 まだ時刻はお昼時で、夜の九時頃まで学園祭は終わらないらしいから、時間がなくて回れないということはないだろう。

「それより、演奏すごかったよ。思わず飛び跳ねちゃってた」
「うん。ずっと見てた。悠くん、すごいノリノリだったね」

 ステージの上からずっと見られていたのかと、僕は少し恥ずかしくなった。よくよく思い返してみれば、初めから梓はこちらばかり見ていた気がする。

「納得のいく演奏はできた?」
「まあまあかなぁ。途中、二回くらいドラムの音から外れちゃったし」
「そうなんだ、全然気付かなかった」
「悠くんのこと見てたら微笑ましくなっちゃって。何回か集中力が途切れちゃったの」

 くすりと梓は微笑むが、僕はやっぱり恥ずかしかった。けれど恋人が出演するライブなんだから、いつもより興奮してしまうのは仕方がないと思う。

 梓はそれから、自分の腕を僕の腕に絡めてくる。手を繋いでいる時よりも密着して、心拍数も少し上がった。

「悠くん、オムライス食べに行こうよ」
「待って、これ恥ずかしすぎない……?」
「いいの。二人で遊ぶの久しぶりだし」

 梓はとても美人だから、僕らの横を通り過ぎる人たちは、ほとんどの人がこちらを見てくる。これは、かなり恥ずかしい。けれど彼女がそうしたいなら、僕はちょっとぐらいの羞恥を耐えようと思った。久しぶりの、お出かけなのだから。

 オムライスを販売している店舗へ向かい、店員さんに注文してお金を払うと、程なくしてプラスチックの容器に入ったオムライスを手渡してくれる。さすがにそれを持ちながら腕を組むことはできないため、梓は絡めるのをやめてきたが、肩が密着しそうな距離から離れることはしなかった。今日はとことん、僕のそばにいるつもりらしい。

 どこか食べられる場所はないか探していると、不意に聞き慣れた女の子の声が後ろから聞こえてきた。

「先輩、こんにちは」

 振り返ると、そこには水無月がいた。そして隣に別の女の子がいることに気付き、僕の心臓は急に早鐘を打ち始めた。

「滝本先輩、お久しぶりです」

 にこりと、牧野遥香は愛想のいい笑みを浮かべる。牧野はあの頃と、少し雰囲気が変わっていた。髪はほんのり茶色に染められていて、かけていたはずのメガネはなくなっている。おそらく、コンタクトレンズに変えたのだろう。内気そうな雰囲気は、綺麗さっぱり消え去っていた。

 僕は驚きつつも、なんとか声を出した。

「ひ、久しぶり牧野。なんか、雰囲気変わったね」
「はい。大学に入ってから、ちょっとイメチェンしようかと思いまして」

 こんなにも短期間で、人は変わってしまう。もうあの頃の牧野じゃないということが、なんとなく寂しかった。

 牧野は僕の隣にいる梓に気付くと、軽く会釈をした。梓はそんな牧野に、微笑みを返す。

「こんにちは。多岐川梓です。悠くんと、お付き合えさせていただいてます」
「あ、こ、こんにちは……」
「奏ちゃんとも、仲良くさせていただいてます」

 牧野は僕と梓とを交互に見ると、隣にいる水無月に小声で話しかけ始めた。けれど、その声はこちらへ聞こえてしまっている。

「ちょっとちょっと、滝本先輩にあんな美人な先輩ができたなんて聞いてない」
「うん。まだ言ってなかったから」
「そういうこと、もっと先に言って!」

 半年ほど前に水無月から、牧野はまだ僕のことが好きだと聞かされていた。その僕が梓と付き合っていることを知ったら、軽く落ち込むかと思ったけれど、違った。牧野は落ち込むというよりも、ただ驚いているだけだった。

 水無月は僕の方を見ると、安心したような笑みを浮かべた。

「交際は順調みたいですね。よかったです」
「うん。奏ちゃんのおかげでね」

 そう言うと、梓は腕につけていた自分の時計に、優しく触れる。僕の方にも、お揃いの時計が巻かれている。それは水無月が選んでくれたもので、牧野はそれに気が付いたのか納得したように頷いていた。

「お二人とも、すごいお似合いですね」
「ありがとうございます」
「いつから付き合い始めたんですか?」
「夏休み前です。悠くんの方から、告白してくれたの」

 僕は照れ臭くなり、思わず頬をかく。牧野はそんな僕に対して、からかうような視線を向けた。

「先輩、案外やりますね。こんな美人な先輩をゲットするなんて」
「ねえ遥香、そろそろ行こ。先輩たちデートしてるから、邪魔するのよくないし」

 返答に困っていると、タイミングよく水無月が話を打ち切ってくれた。水無月に感謝の視線を向けると、どういたしましてと微笑んだ。

 それから二人は会釈をして、僕らの前から離れていく。それを見送っていると、急に張り詰めていた力が抜けていった。

「悠くん、案外女の子の知り合い多いんだね」
「知り合いっていうか、後輩だよ」
「ふーん」

 先ほどの大人びた対応から打って変わり、梓は子どもみたいに唇を尖らせた。もしかすると、嫉妬しているのだろうか。そんなことを考えていると、彼女は自分からその理由を話してくれた。

「奏ちゃんはいいけど、悠くんが女の子と話してるの見ると、ちょっと不安になる」
「なんで?」
「なんか、流されやすそうだから……」

 僕はそんなにも信用がないのだろうか。梓以外の女の子に浮気をするなんて、ありえない。彼女を安心させるために、僕はまだ伝えていない高校時代のことを話すことにした。

「高校生の頃に、あの子に告白されたんだよ」
「え?!」
「でも、断った。前にも話したけど、その時に好きな人がいたから。だから僕は、流されるような人じゃないよ」

 それを聞いて少しは安心してくれたのか、ほっと胸を撫で下ろしている。そんな可愛い彼女を見て、僕は微笑ましくなった。

「でも梓がそう言うなら、気をつけるよ。流されたりしないように」
「……ありがと」

 突然しおらしくなった梓は、昇降口前にあるベンチが空いているのを見つけると、駆け足でそちらへと向かった。彼女も彼女で、照れているのが丸わかりで面白い。

 それからオムライスを食べようとしたが、梓は思い出したように立ち上がると、「ちょっと待ってて」と言い残して屋台の方へと走って行った。程なくして戻ってきたと思えば、その手には缶酎ハイが二つ握られている。

「モモとメロン、どっちがいい?」
「メロンかな。ここの学園祭ってお酒売ってるんだね」
「うん。珍しいでしょ?」

 言いながら、梓はモモの缶酎ハイを開けて、僕の缶に近付けてくる。ぶつかった時にカツンという音が鳴り、梓は「乾杯!」と元気に言った。

「一杯だけだよ?」
「わかってるって。悠くんに迷惑はかけられないから」

 お酒を飲む時に一応釘を刺しているが、梓は二杯目は毎回飲まない。焼き鳥屋でのことが、よほど恥ずかしかったのだろう。

 梓は貴重な一缶を大事そうに飲み干して、いつものように顔を赤くさせた。僕の方に距離を詰めてきたかと思えば、お互いの肩を密着させながらオムライスを食べ始める。

「梓って、本当にお酒が好きだよね」

 僕もオムライスを食べながらそう言うと、彼女は口元を緩めて幸せそうな表情を見せた。

「少しアルコール入ってた方が、悠くんに素直になれるから」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「私は気にするの。もっと、甘えたいっていうか」

 突然飛び出した彼女の本音に驚いたけれど、嬉しかった。そんなことを考えてくれていたなんて、知らなかったから。
けれど急に、梓は表情に影を落とす。僕は黙って、彼女が話してくれるのを待った。

「初めにお酒を飲み始めたのは、絵が上手くいかなかったからなの。いろんなこと、忘れたくて。アルコールが入ってれば、嫌なこと全部忘れられるから」

 そんな風にお酒を使っていると、そのままずるずると呑まれていった。梓は辛い表情を浮かべながら、それでも話してくれた。

「悠くんの前でたくさんお酒を飲んじゃったのも、悠くんには好きな人がいるんだって知っちゃったから。お酒を飲んで、忘れたかったの」
「そうだったんだ」
「そういうの、やめなきゃって思ってたんだけど……」

 依存性の高いものは、一度ハマってしまうとなかなか抜け出せなくなる。梓の隣にずっといたから、彼女の苦しみを少しは理解してあげられた。絵を描いている時、自分が向いていないんじゃないかという後ろ向きな気持ちにとらわれてしまえば、途端に筆を動かせなくなる。

 これまで、本当に大変だったのだろう。一人で知らない土地へ来て、夢を見つけるために頑張って。

 僕は悲しい顔をする梓の手を開き、飲みかけのお酒を渡した。

「まだ半分以上残ってるから、嫌じゃなかったら飲んでもいいよ」

 うかがうように、梓は僕のことを見てくる。構わないよと頷いてあげると、彼女は口をつけてお酒を飲み始めた。

 そんな梓に、僕は「美味しい?」と訊ねる。彼女は顔を赤くしながら、コクリと頷いた。

「辛い時に飲むお酒より、楽しい時に飲むお酒の方が美味しいでしょ? これから辛い時は、僕が支えてあげる。楽しい時に、お酒が飲めるように」

 そんな歯の浮くようなセリフを吐いた僕は、きっとアルコールで酔ってしまっている。それでもこの時ばかりは、素直な言葉を伝えることができてよかったと思えた。

 梓は一筋の涙を流し、笑顔で頷いてくれた。彼女なら、弱い自分に打ち勝つことができる。だってあの辛い夏休みを乗り越えたのだから。

 それから僕らは、また学園祭を回り始める。麻婆豆腐を作っている店舗を見に行くと、中華鍋から勢いよく火柱が上がっていて、梓は「すごい!」と言いながら目を丸めていた。その姿は本物の料理人のようで、実際に食べてみると、これまで食べたどの麻婆豆腐よりも美味しかった。しかし梓には少々舌が合わなかったようで、食べながら「辛い……」と呟いて、苦悶の表情を浮かべていた。

 夜には体育館でブライダルファッションショーがあり、ドレスや和服を着た男女がステージの上を歩いていた。梓はドレスを着る女性の姿に目を輝かせ「私もあんな服、着てみたいなぁ」と呟いていた。もし叶うのならば、そのドレスを着た彼女の隣にいるのが、僕であったらいいのにと、そんなことを心の中で考える。

 そして同時に、あのようなきらびやかな衣装を作ってみたいとも思った。こんな衣装を作ってみたいと夢想して、今までにデザイン画を描いてみたりもしたけれど、やはり高度になればなるほど独学に限界を感じる。ドレスや和服を作るとなると、専門的な知識を学ばなければとてもじゃないけど難しい。僕一人では、到底かなわないことだ。

 そんな風に初日の学園祭は終わり、二日目は一日中梓と飲んだり食べたりを楽しんだ。とても充実した休みの日で、明日からまた大学が始まるとなると、やはり少しは憂鬱になる。

 けれど僕には、やらなければいけないことが残っていた。梓の誕生日まで、あと少し。僕はまた、彼女の着るコート作りを頑張らなければいけない。