今日のアトリエは、由美さんと美咲さんが不在で、別の部屋にも絵を描いている人はいなかった。ちょうどいいなと思いつつ、緊張で高ぶる鼓動を落ち着かせながら、僕は梓の後ろで作業を見ている。

 もう色塗りまで進んでいるが、まだまだ完成には程遠い。塗られていないひまわりがいくつもあるし、たしかにこのままのペースでは間に合わないかもしれない。

 そうだというのに、梓はこちらを振り返り、また雑談を振ってきた。

「この前の作者の他の小説も読んでみたの。それでね」
「梓」

 僕は強めの語気で会話を打ち切る。落ち着こうとすればするほど、梓に対する情が湧いてしまいそうだったから、僕はすぐにまくしたてた。

「水無月から聞いたんだ。このままじゃ、期限に間に合わないって」

 途端に梓の表情から笑顔が消える。僕はそれを見て胸がひどく痛んだが、今更後ずさるわけにはいかない。

「描こう。今から本気になれば、間に合うから。それで全部終わったら、気がすむまで遊ぼうよ」
「……や」

 梓が発したのは、あまりにか細い声だったため、うまく聞こえなかった僕は首をかしげる。

「なに?」
「……もういや」

 それだけ言うと、筆をバケツの中へ無造作に突っ込んだ。梓の言葉をうまく飲み込めなかった僕は、しばらく呆然とした後、彼女が立ち上がって部屋を出て行こうとした時に我にかえる。

 僕は梓の手を掴み、引き止める。

「待ってよ。今から頑張って書かなきゃ、間に合わないんだよ」
「……もういい」

 要領を得ない彼女の言葉に不安を覚えたため、なるべく優しい声を彼女に投げかけた。

「もしかして、体調悪い?」
「……別に」
「じゃあ、どうして?」

 再びそう訊ねると、梓の頬を一筋の涙が伝った。僕はそんなにも、酷い言葉を言ったのだろうか。そう思い自分の発言を見直したが、特に彼女を泣かせる言葉をかけた覚えはなかった。

「うまく、書けないの……全然、今まで通りにっ……!」

 梓は悲痛な声で、僕にその理由を教えてくれた。今まで通りに、書けない。それはきっと、スランプというものなのだろう。彼女の瞳からは、涙が溢れて止まらなかった。

「またダメ出しされると思うと、怖いの……自分が向いてないんだって、わかっちゃうから……」
「それでも、書かなきゃダメだよ。提出できなかったら、そっちの方が評価が下がるんだから」
「……やだ」

 彼女は溢れてくる涙を手の甲で拭い、僕にすがるような視線を向けてくる。

「今日は、もう本当に無理なの……もしかしたら、明日には描けるようになってるかもしれないから。だから……」

 今日描けないからと言って、明日描ける保証なんてどこにもない。ただイタズラに時間を浪費して、締め切りの期日が近付いてくるだけだ。それなら無理やりにでも、描ける時に描いた方がいい。

「今日一日、ずっとそばにいるから。だから、少しだけでも進めようよ」
「でも……」
「本当に絵の道に進みたいと思ってるなら、こんなところで迷ってる暇はないよ。仕事にしていくなら、そんなのは言い訳にならないんだから」

 厳しい言葉だが、応援すると誓ったからには梓のことを支えてあげなきゃいけない。そのために僕が嫌われるようなことになっても、仕方がない。そう自分に言い聞かせた。

 梓は僕から視線をそらして、ぽつりと呟いた。

「悠くん、怖い……」

 そのたった一言が、僕の胸に痛く突き刺さった。今すぐに前言を撤回して、今日はもう休もうと言って抱きしめてあげたい。でも、それじゃあきっと、梓は前には進めない。

 それからすぐに、彼女はハッとした表情になり、蒼白な表情へと変わった。そしてすがるように、僕の服を掴んでくる。

「ごめん、ごめんなさい……! 怖いとか、言っちゃって……!」

 もう梓のメンタルがボロボロなのは、痛いほどに理解できていた。甘やかされて育ったと自分で言っていたから、おそらく本当に行き詰まって苦労をした経験は、美大の受験の時ぐらいなのかもしれない。

 だったら尚のこと、目の前にある壁は乗り越えなければいけない。どんな状況でも絵を描けなければ、それを仕事にすることなんてできないのだから。

 僕は梓の肩に手を置いて、諭すように言った。

「ずっと、そばにいるから。だから、頑張ろう。ゆっくりでもいいから、進めようか」

 梓は目に涙をためて、コクリと頷いた。それから弱々しい足取りでキャンバスの前へと戻り、再び筆を取る。

 筆を持つ手が震えていたため、僕は優しくその手を取り、「大丈夫だよ」と言ってあげた。その言葉で安心したのか、震えは少しだけ治った気がする。