多岐川さんを美大へ送り届けた翌日。お金を節約している僕は、大学の学食で比較的値段の安い蕎麦をすすっていた。昼時のため周りに学生の姿は多いが、僕と同じように一人でスマホを触りながら昼食を取っている人もいるため、一人でいることを気になりはしない。
とはいえ僕は、食べながらスマホを触るという行儀の悪いことをせずに、ただ昨日の出来事を思い返していた。多岐川梓さんのことだ。
慌てていたようで化粧はしていなかったが、それでも彼女は綺麗な人だった。別に、一目見て恋に落ちたというわけではない。多岐川さんの素晴らしい絵を運ぶことが出来できたのを、僕は純粋に嬉しく思っただけだ。再び会ってお礼をしてほしいなんて図々しいことは、決して思わない。
ただ、もしまた会うことがあるならば、もっと多岐川さんの描く絵を見てみたいと思った。
昨日の興奮が冷めやむことはなく、あれから講義に集中出来ていない。こんなモヤモヤした気持ちを抱いたのは高校生の頃以来で、自分で制御するすべを身につけていなかった。
そういうことを考えながら、一人で黙々と昼食を取っていると、ふと背後に気配を感じた。
「あの、先輩少しいいですか?」
懐かしい声。この大学に、僕のことを先輩と呼ぶ女の子なんて一人もいない。だからすぐに彼女の存在が誰なのか理解できて、急に背中に冷や汗が伝った。
「え、先輩って?」
今度は別の女性の声。その声は、多岐川梓さんだった。多岐川さんは今の今まで、僕と彼女の接点を知らなかったようだ。
僕は、恐る恐る後ろを振り返る。そこには、昨日美大まで車で送った多岐川さんと、僕の高校時代の後輩である水無月奏が立っていた。
多岐川さんは昨日とは違い化粧を施しているから、より一層僕の目に綺麗に映る。隣にいる水無月も、多岐川さんと比べてだいぶ身長は低いが、負けず劣らずの容姿を持っている。目鼻立ちがはっきりとしていて、けれど可愛さも持ち合わせている彼女は、昔からいろんな人に好かれていた。
多岐川さんは一度「ごめんなさい。お食事中にお邪魔してしまって……」と、申し訳なさそうに謝る。僕は「気にしないでください」と、無理矢理な愛想笑いを浮かべた。
そんな話をしている間、水無月はずっと僕のことを凝視している。僕はその視線に気付いていたから、意図的に彼女とは目を合わせようとしなかった。
「先輩、お久しぶりです。隣、座っていいですか?」
「あ、うん……」
そう返事をするしかないため、僕は目を合わせずに頷く。失礼だと思ったけれど仕方がない。水無月は隣に座ると言ったのに、僕と一席分間を空けて座った。
多岐川さんは一瞬首を傾げたけれど、すぐに僕と水無月の間に腰を下ろす。
先に口を開いたのは、やっぱり多岐川さんだった。
「あの、突然ここに来たことをもう一度謝りたいんですけど、その前に一つだけ教えてください。奏ちゃんと滝本さんって、もしかしなくても知り合いなんですか?」
「はい、高校の頃の生徒会の先輩です。滝本先輩が会計で、私が書記をやってました」
聞かれた僕じゃなく、水無月が質問に答える。多岐川さんは、パッと笑顔になった。
「え、すごい巡り合わせですね! 助けていただいた方が、奏ちゃんの先輩だったなんて!」
もしかして仕組んだんじゃないかと一瞬考えたけれど、そんなことがあるわけない。昨日の多岐川さんは、締め切りに間に合わせるために本当に必死に走っていた。
「本当に、すごい偶然ですね。実を言うと、また先輩に会いたかったんです」
そう言って水無月はニコリと笑う。本当にそう思っているのだろうかと、僕は彼女のことを疑ってしまった。
「あの、昨日は本当にありがとうございます。見ず知らずの私を大学まで送ってくださって」
「いや、気にしなくていいよ。それより、時間通りに提出できたの?」
「はい。おかげさまで! 教授陣からの評判は辛めでしたが……」
多岐川さんは苦い表情を浮かべながら、ぎこちなく笑う。あんなに素晴らしい絵がまずまずの評価だなんて、芸術の世界は僕が想像しているよりもずっと厳しいのかもしれない。
それからチラと水無月の方を見ると、何故か彼女は僕を見て首を傾げていた。目が合ってしまい、慌ててそらしてしまう。
「ま、間に合ったならよかったよ」
「滝本さんのおかげです。それでですね、何かお礼がしたくて今日はここに来たんですけど……」
あぁ、そういうことかと、僕はようやく彼女がここへやって来た理由を知る。恩を着せるためにやったことじゃないから、何も気にしなくていいのに。
「お礼なんて、別にいいよ。少し遠回りをしたけど、ここに来る通り道に美大があったから。ほんと、気にしなくていいよ」
「そう、ですか?」
うかがうように多岐川さんが僕を見て来る。気にしなくていいよと、頷いた。けれど思わぬ方向から、予想もしていなかった横槍がやってきた。
「私、ここに来るとき、事前に大学の授業時間調べたんですけど」
呆れたように目を細めながら、水無月はこちらを見ていた。僕の口から「あ、」と間抜けな声が漏れる。言わなくてもいい余計なことを、曲がった事が嫌いな後輩は言ってしまった。
「昨日の講義、すごい遅刻したんじゃないですか? 梓さんのこと、美大まで送ったからですよね?」
「えっ!?」
多岐川さんが驚いたように目を丸める。それからすぐに、申し訳なさそうな表情を浮かべてしまった。こういう顔を見たくなかったから、わざわざ嘘をついたというのに。
「あの、すみません……私のせいで……」
「いや、ほんと僕が勝手にやったことだし。お礼とか、いいから」
「そういうわけにはいきません! 締め切りが遅れてたら、最悪単位が落ちてたんですから!」
突然ムキになった彼女に、僕は肩をびくりと震わせる。この人も、水無月と同じように曲がった事が嫌いな人なんだろう。だとしたら、このままだと話は平行線を辿ってしまう。
なんとかしてこの場は帰ってもらおうと思い立ち、腕時計で時間を確認する。幸いなことに、そろそろ三コマ目が始まる時間だった。
「ごめん、もうそろそろ講義始まるから……この話はまた今度ってことで……」
「奏ちゃん、美大に戻るためのバス時間っていつだったっけ」
多岐川さんは唐突にそんなことを、水無月へ訊ねた。彼女たちはわざわざバスに乗ってこんな山の上まで来たのかと、僕は若干呆れてしまう。
水無月はスマホを開き、おそらくバスの時刻表を調べているのだろう。続く言葉を、なんとなく僕は予想出来ていた。
「もう過ぎてます。三コマ目は出れません」
こんな山の中じゃ、そう都合よく何本もバスは出ていない。
「じゃあ三コマ目が終わるまで、私待ちます。終わってから、また話し合いましょう」
「いやいやいや、帰りなよ。三コマ目やってる時に下に降りるバスあるから。それに乗らなかったら四コマ目も出られなくなるよ」
「それなら四コマ目も出ません。とにかく、今日は滝本さんが折れてくれるまで山を降りませんから」
僕は本当に呆れてしまい、言葉も出なくなる。そんな様子を見て、水無月は小さくクスクスと笑っていた。いいのだろうか。このままじゃ、彼女も三コマ目に出られなくなるのに。というより、もうバスに乗れないから三コマ目は欠席するしかないけれど。
僕のせいではないが、なんとなく二人に申し訳ない気持ちになった。一つため息をついて、僕は降参の意を示す。
「……わかったよ。何かお礼は考えるから、せめて四コマ目は出てね。僕は三コマ目以降講義ないから、終わったらすぐに美大に送ってくよ」
「わかりました!」
ようやく多岐川さんが納得してくれて、僕は安堵する。
「講義終わるまで、図書館で暇つぶしててよ。終わったらすぐに迎えに行くから」
「いえ、大丈夫です。私たちも滝本さんと講義を受けますので!」
「あっ、いいですねそれ。他大学の講義、一度受けてみたかったんですよ」
了承もしていないのに二人は乗り気になっていて、僕はまた心の中で頭を抱える。二人は自由すぎて、先程から振り回されっぱなしだった。
もう彼女たちをどうにか出来るとは思えないから、冷めてしまった蕎麦を黙ってすすり始める。彼女たちはたわいもない談笑をしながら、食べ終わるまで待ってくれていた。
振り回されっぱなしだが、嬉しそうにしている二人を見ていると、彼女たちを憎むことは出来なかった。
とはいえ僕は、食べながらスマホを触るという行儀の悪いことをせずに、ただ昨日の出来事を思い返していた。多岐川梓さんのことだ。
慌てていたようで化粧はしていなかったが、それでも彼女は綺麗な人だった。別に、一目見て恋に落ちたというわけではない。多岐川さんの素晴らしい絵を運ぶことが出来できたのを、僕は純粋に嬉しく思っただけだ。再び会ってお礼をしてほしいなんて図々しいことは、決して思わない。
ただ、もしまた会うことがあるならば、もっと多岐川さんの描く絵を見てみたいと思った。
昨日の興奮が冷めやむことはなく、あれから講義に集中出来ていない。こんなモヤモヤした気持ちを抱いたのは高校生の頃以来で、自分で制御するすべを身につけていなかった。
そういうことを考えながら、一人で黙々と昼食を取っていると、ふと背後に気配を感じた。
「あの、先輩少しいいですか?」
懐かしい声。この大学に、僕のことを先輩と呼ぶ女の子なんて一人もいない。だからすぐに彼女の存在が誰なのか理解できて、急に背中に冷や汗が伝った。
「え、先輩って?」
今度は別の女性の声。その声は、多岐川梓さんだった。多岐川さんは今の今まで、僕と彼女の接点を知らなかったようだ。
僕は、恐る恐る後ろを振り返る。そこには、昨日美大まで車で送った多岐川さんと、僕の高校時代の後輩である水無月奏が立っていた。
多岐川さんは昨日とは違い化粧を施しているから、より一層僕の目に綺麗に映る。隣にいる水無月も、多岐川さんと比べてだいぶ身長は低いが、負けず劣らずの容姿を持っている。目鼻立ちがはっきりとしていて、けれど可愛さも持ち合わせている彼女は、昔からいろんな人に好かれていた。
多岐川さんは一度「ごめんなさい。お食事中にお邪魔してしまって……」と、申し訳なさそうに謝る。僕は「気にしないでください」と、無理矢理な愛想笑いを浮かべた。
そんな話をしている間、水無月はずっと僕のことを凝視している。僕はその視線に気付いていたから、意図的に彼女とは目を合わせようとしなかった。
「先輩、お久しぶりです。隣、座っていいですか?」
「あ、うん……」
そう返事をするしかないため、僕は目を合わせずに頷く。失礼だと思ったけれど仕方がない。水無月は隣に座ると言ったのに、僕と一席分間を空けて座った。
多岐川さんは一瞬首を傾げたけれど、すぐに僕と水無月の間に腰を下ろす。
先に口を開いたのは、やっぱり多岐川さんだった。
「あの、突然ここに来たことをもう一度謝りたいんですけど、その前に一つだけ教えてください。奏ちゃんと滝本さんって、もしかしなくても知り合いなんですか?」
「はい、高校の頃の生徒会の先輩です。滝本先輩が会計で、私が書記をやってました」
聞かれた僕じゃなく、水無月が質問に答える。多岐川さんは、パッと笑顔になった。
「え、すごい巡り合わせですね! 助けていただいた方が、奏ちゃんの先輩だったなんて!」
もしかして仕組んだんじゃないかと一瞬考えたけれど、そんなことがあるわけない。昨日の多岐川さんは、締め切りに間に合わせるために本当に必死に走っていた。
「本当に、すごい偶然ですね。実を言うと、また先輩に会いたかったんです」
そう言って水無月はニコリと笑う。本当にそう思っているのだろうかと、僕は彼女のことを疑ってしまった。
「あの、昨日は本当にありがとうございます。見ず知らずの私を大学まで送ってくださって」
「いや、気にしなくていいよ。それより、時間通りに提出できたの?」
「はい。おかげさまで! 教授陣からの評判は辛めでしたが……」
多岐川さんは苦い表情を浮かべながら、ぎこちなく笑う。あんなに素晴らしい絵がまずまずの評価だなんて、芸術の世界は僕が想像しているよりもずっと厳しいのかもしれない。
それからチラと水無月の方を見ると、何故か彼女は僕を見て首を傾げていた。目が合ってしまい、慌ててそらしてしまう。
「ま、間に合ったならよかったよ」
「滝本さんのおかげです。それでですね、何かお礼がしたくて今日はここに来たんですけど……」
あぁ、そういうことかと、僕はようやく彼女がここへやって来た理由を知る。恩を着せるためにやったことじゃないから、何も気にしなくていいのに。
「お礼なんて、別にいいよ。少し遠回りをしたけど、ここに来る通り道に美大があったから。ほんと、気にしなくていいよ」
「そう、ですか?」
うかがうように多岐川さんが僕を見て来る。気にしなくていいよと、頷いた。けれど思わぬ方向から、予想もしていなかった横槍がやってきた。
「私、ここに来るとき、事前に大学の授業時間調べたんですけど」
呆れたように目を細めながら、水無月はこちらを見ていた。僕の口から「あ、」と間抜けな声が漏れる。言わなくてもいい余計なことを、曲がった事が嫌いな後輩は言ってしまった。
「昨日の講義、すごい遅刻したんじゃないですか? 梓さんのこと、美大まで送ったからですよね?」
「えっ!?」
多岐川さんが驚いたように目を丸める。それからすぐに、申し訳なさそうな表情を浮かべてしまった。こういう顔を見たくなかったから、わざわざ嘘をついたというのに。
「あの、すみません……私のせいで……」
「いや、ほんと僕が勝手にやったことだし。お礼とか、いいから」
「そういうわけにはいきません! 締め切りが遅れてたら、最悪単位が落ちてたんですから!」
突然ムキになった彼女に、僕は肩をびくりと震わせる。この人も、水無月と同じように曲がった事が嫌いな人なんだろう。だとしたら、このままだと話は平行線を辿ってしまう。
なんとかしてこの場は帰ってもらおうと思い立ち、腕時計で時間を確認する。幸いなことに、そろそろ三コマ目が始まる時間だった。
「ごめん、もうそろそろ講義始まるから……この話はまた今度ってことで……」
「奏ちゃん、美大に戻るためのバス時間っていつだったっけ」
多岐川さんは唐突にそんなことを、水無月へ訊ねた。彼女たちはわざわざバスに乗ってこんな山の上まで来たのかと、僕は若干呆れてしまう。
水無月はスマホを開き、おそらくバスの時刻表を調べているのだろう。続く言葉を、なんとなく僕は予想出来ていた。
「もう過ぎてます。三コマ目は出れません」
こんな山の中じゃ、そう都合よく何本もバスは出ていない。
「じゃあ三コマ目が終わるまで、私待ちます。終わってから、また話し合いましょう」
「いやいやいや、帰りなよ。三コマ目やってる時に下に降りるバスあるから。それに乗らなかったら四コマ目も出られなくなるよ」
「それなら四コマ目も出ません。とにかく、今日は滝本さんが折れてくれるまで山を降りませんから」
僕は本当に呆れてしまい、言葉も出なくなる。そんな様子を見て、水無月は小さくクスクスと笑っていた。いいのだろうか。このままじゃ、彼女も三コマ目に出られなくなるのに。というより、もうバスに乗れないから三コマ目は欠席するしかないけれど。
僕のせいではないが、なんとなく二人に申し訳ない気持ちになった。一つため息をついて、僕は降参の意を示す。
「……わかったよ。何かお礼は考えるから、せめて四コマ目は出てね。僕は三コマ目以降講義ないから、終わったらすぐに美大に送ってくよ」
「わかりました!」
ようやく多岐川さんが納得してくれて、僕は安堵する。
「講義終わるまで、図書館で暇つぶしててよ。終わったらすぐに迎えに行くから」
「いえ、大丈夫です。私たちも滝本さんと講義を受けますので!」
「あっ、いいですねそれ。他大学の講義、一度受けてみたかったんですよ」
了承もしていないのに二人は乗り気になっていて、僕はまた心の中で頭を抱える。二人は自由すぎて、先程から振り回されっぱなしだった。
もう彼女たちをどうにか出来るとは思えないから、冷めてしまった蕎麦を黙ってすすり始める。彼女たちはたわいもない談笑をしながら、食べ終わるまで待ってくれていた。
振り回されっぱなしだが、嬉しそうにしている二人を見ていると、彼女たちを憎むことは出来なかった。