翌日、スーパーの更衣室で着替えをしていると、岡村さんが入ってきた。手を出すなと言われた梓と付き合い始め、この前フラれたのも知っている僕は中々に気まずい。挨拶をして早々に立ち去ろうと考えたが、ドアに手をかける前に彼に呼び止められた。

「滝本、多岐川ちゃんのこと好きなんだろ?」

 何故今そんなことを聞いてくるのかわからなかったが、僕は迷いなく頷く。

「好きです」

 わずかな間の後、岡村さんは「この前告白したら、フラれたんだ。お前のことが好きなんだってよ」と、寂しげなため息を吐いた後に言った。

 岡村さんにわざわざそんなことを言っていたのかと、僕はなんだか恥ずかしくなる。梓は隠すということが苦手なのだろう。

「好きならさ、告っちまえよ。いつまでも引きずってねーでさ」
「あの……」

 これは言おうか迷ったが、岡村さんに相談した手前、報告しておくべきだろう。それに隠していても、いずれバレてしまうから。

「この前、告白しました」

 そう言うと、岡村さんはこちらへ近付いてきて、僕の首に腕を回してヘッドロックしてくる。びっくりして逃げようにも、彼の力は強かった。

「幸せになれよ! この野郎!」

 岡村さんの表情は見えなかったが、声の震えから、泣いていたのだということは理解できた。きっと彼は、本気で梓のことが好きだったのだろう。

 だから幸せにならなきゃと思った。幸せにしなきゃいけないと、強くそう思った。



 事前に電話で、無事に課題を提出できたと梓から聞いていた。そして今日は合評会の当日だった。合評会では、提出した絵を教師たちが評価する。昨日の夜は、不安で眠れないと梓が言ったため、彼女が疲れて寝落ちするまで電話で励ましていた。

 せっかく頑張って描いたのだから、いい評価をもらってほしい。

 アルバイトは休みだったため、僕はずっと部屋の中で彼女の連絡を待っていた。終わったら真っ先に僕の部屋へ行くと聞いているから、部屋の中で待ち続けて、午後の四時を少し回った頃、ようやく部屋のインターホンが鳴った。

 僕は慌てて立ち上がり玄関へ行き、すぐにドアを開く。果たしてそこにいたのは、久しぶりに見た僕の彼女。梓は目に見えて、落ち込んだ表情を浮かべていた。

「入りなよ。お茶、入れるから」

 それだけ言うと、梓はコクリと頷いて、部屋の中へと入ってくれる。麦茶を入れて居間へ戻ると、彼女は膝を抱えて座っていた。

 麦茶を机の上に置くと、梓はぽつりと話し始める。

「また、教授からの評判が悪かったんです……」
「そうなんだ」
「頑張ったのに。やっぱり私、向いてないのかな……」

 そんなことは、ないと思う。梓の絵を初めて見たとき、お世辞じゃなく素直に上手だと思ったから。

 けれどきっとそんな言葉は、ただの気休めにしかならない。僕に絵画の知識はないし、美大の教授の方が明らかに審美眼がある。ある程度の好みはあるだろうけれど、基本的には教授が出した結論が、梓の描いた絵の評価だ。

 本当なら、梓へ発破をかけるべきなのだろう。彼女が絵を描く道で生きて行くのを応援するならば、努力が足りなかったんじゃないかとキツイ言葉を浴びせる方が正解だ。

 きっと美大の教授だって、大なり小なりそのような言葉を梓へ投げかけただろう。中途半端な甘えや優しさは、彼女のためになるとは限らないのだから。

 けれど僕は梓に嫌われてしまうのが怖くて、非道にはなれなかった。ならば僕は、今の僕ができることをするしかない。

 目に涙をためる梓の手を取り、用意していたそれを手のひらにのせてあげる。

「……これ、なんですか?」
「開けてみて」

 梓は首をかしげつつも、包装紙を丁寧に開いていく。そして中から出てきた箱を開けて、目を丸めた。

「これ、時計……」
「付き合い始めたから、その記念にプレゼントを用意してたんだ。もしよかったら、受け取ってほしい」

 当初の予定では、どこかにデートへ行って盛り上がった時に渡そうと考えていた。けれど、今は梓のことを励まさなければいけない。ムードもへったくれもないが、それでも彼女は喜んでくれると思った。

 しかし彼女はプレゼントした時計を一度丁寧に机の上に置き、カバンの中からプレゼント用に包んである四角いものを取り出す。梓はそれを、僕に渡してくれた。

「開けていいの?」

 その言葉に彼女が頷いたのを見て、僕も丁寧に包装紙を開いていく。果たしてそこから出てきたものは、僕が梓のために買った時計の色違いだった。文字盤は黒色で、腕に巻くためのバンドは白色。

「この時計、奏ちゃんと一緒に選んだんです。いきなり時計屋に連れてかれて、すぐにこれにしましょうって言って……」

 僕はようやく、水無月がしようとしてくれていたことを知った。そしてそれを知って、思わず目頭が熱くなる。彼女は本当に、優しい人だ。

「水無月に、あとでお礼言わなきゃね」
「……はい!」

 泣き出してしまった梓の手をもう一度取って、元々つけていた腕時計を外していいかと問いかける。すぐに頷いたため、僕は巻かれていたそれを優しく外して、お揃いの時計を付け直してあげた。そのピンク色の時計は、本当に彼女に似合っている。

 それから梓も僕の手を取り、同じく外していいかと訊ねた。頷くと、これまで長い間使っていた時計を外して、新しい時計を巻いてくれる。

 彼女とお揃いの腕時計。それを見るだけで胸が満たされる。好きな人からのプレゼントは、こんなにも嬉しいものなのだということを初めて知った。

「ちょっと、外に行こうか。街の方でぶらぶら歩こう」

 数分前の梓なら落ち込んでいてそれどころじゃなかったが、今はプレゼントした時計を身に付けて歩けるのが嬉しいのか、迷いなく頷いてくれた。