屋内でのライブは一言で表すと、すごかったの一言に尽きる。辺り一面人で埋め尽くされていて、アーティストがステージに立った瞬間、溢れんばかりの喝采が巻き起こった。
そして力強く鳴り響く楽器の音。鼓膜が破れてしまうのではないかというほどの大きな音に、僕はただただ圧倒されるばかりだった。周りの人たちはタオルを振り回していたり、手を斜め前に突き出してリズムを取っていたりで、各々が精一杯音楽を楽しんでいた。
例に漏れず多岐川さんも、普段の柔らかな雰囲気とは打って変わって、手を突き上げたり叫んだりしていた。酔いが多岐川さんをそうさせているのかとも思ったが、きっと彼女も音楽が大好きだから、こんなにも楽しめることができているのだ。そうして僕はまた、多岐川さんの魅力を知る。
初めはなんとなく恥ずかしくて上手くのれなかったけれど、気付けば僕も多岐川さんと一緒にライブを楽しんでいた。ほとんどが知らない曲だったけれど、リズムに乗って体を動かすのがとても楽しい。ふとした拍子に多岐川さんの目が合って、一緒に笑い合えることが嬉しかった。
ライブが終わればすぐに多岐川さんに手を引かれ、別の会場へと連れて行かれる。普段からあまり運動をしていないから、正直体の限界が近かったけれど、彼女の笑顔を見ているとそんな限界も吹き飛んだ。
気付いた時には日が沈んでいて、大トリのライブも終わっていた。本当に楽しくて、楽しくて、こんな休みの日がいつまでも続けばいいのにと、また子どものようにふと思う。
僕らはそれから、もう帰ろうかという提案をせずに、ずっと芝生の上に座っていた。ライブが終わって、日雇いのアルバイトの人たちが後片付けを始めても、帰ろうとはしなかった。
「楽しかったですね」
囁くように多岐川さんが言う。僕も「本当に楽しかった」と言って、彼女に同意した。
「最近ちょっと荒んでたので、ちょうどいい息抜きになりました」
「なにかあったの?」
「また合評会に向けて、作品を提出しなきゃいけないんです」
僕は彼女と出会った当時のことを思い出す。泣きそうな顔を浮かべながら、必死に美大へ走っていたあの姿。思えばあの時引き返したりしなければ、おそらく多岐川さんと出会うことはなかった。僕らは通っている学校も趣味も住んでいた場所も、目指している方向性も何もかもが違うから。こんな言葉をあまり使いたくはないけれど、敢えて言うとするならば、奇跡のような巡り合わせだ。
「今回は、しっかり間に合いそう?」
「はい。以前からの反省があったので、いつもより早くから制作に取り掛かったんです」
それなら、また期限ギリギリということにはならないだろう。アルバイトにもあまり出ていないし、おそらくその時間を制作に使っているのだと思う。
「前は桜だったけど、今回は何を書いてるの?」
「アサガオです。たくさんアサガオが咲いているのを見つけて、一目惚れしたんです。写真も撮ったんですよ」
多岐川さんはスマホを取り出して、紫やピンクのアサガオが咲いている写真を見せてくれる。それはとても綺麗で、一目惚れしたというのも頷けた。
「絵が完成するの、応援してるよ。多岐川さんなら、きっと素敵なものが描けると思う」
「そんな、応援なんて申し訳ないです」
「夢を見つけるのを応援するって、言ったでしょ。僕には、こんなことしかできないから」
きっと多岐川さんなら、いつか素敵な夢を見つけられると思う。そのためなら僕は、どんな些細なことでも応援してあげたい。好きになったんだから当然だ。
「というより、最近荒んでたんだね」
「締め切り前は本当に忙しいので……こんな風に息抜きをしたくなるんです」
その息抜きの相手に、僕を選んでくれたことが嬉しかった。休みの日を一緒に過ごすことを、選んでくれたことが。
「前にもギター弾いてたし、多岐川さんは音楽が本当に好きなんだね」
「好き、なんですかね。両親がよく音楽を聴く人だったので、幼い頃から音楽に触れる機会が多かったんです」
「お父さんやお母さんも、ギターを弾いてたりしたの?」
「いえ。二人とも、聴くことが専門なんです。そもそも私がギターを始めたのは、大学の部活動紹介の演奏を見てかっこいいって思ったからですよ」
「へぇ、そうなんだ」
それから多岐川さんは恥ずかしそうに俯いたあと、意を決したようにもう一度こちらを見つめてきた。
「今年の学園祭、私の組んでるバンドでライブするんです。それで、お時間があればなんですけど……」
その言葉を彼女が言い終わる前に、僕は答えた。
「行くよ。絶対見に行く」
「ほんとですか?!」
「この前の弾き語り、すごく楽しかったから。また演奏してるところが見たいって、思ってたんだ」
あの頃から胸に抱いていた本心を伝えてあげると、多岐川さんは本当に嬉しそうに口元を緩めてはにかむ。子どもっぽいその仕草が、とても彼女らしいなと思った。
そして辺りを見渡してみれば、僕らと同じように座っていた人たちも、だんだんと立ち上がって数を減らして行く。ずっと居座るのは邪魔になるかもと思い、「そろそろ帰ろうか」と言って立ち上がる。彼女は頷いて、芝生の上から立ち上がろうとした。
けれどそれは上手くいかずに、膝が折れてがくんと倒れこみそうになる。僕は慌てて、多岐川さんのことを抱きとめた。
「大丈夫?」
「あ、すみません……なんか、疲れが一気に来ちゃったみたいで……」
「仕方ないよ。あれだけ動き回ってたんだから」
それにお酒も飲んだから、いつもよりテンションが上がって、あまり疲れを意識しなかったのかもしれない。
「家までおぶるよ」
「えっ?!」
「前に酔っ払った時、家までおぶったことがあるから気にしないで」
「あの、あの時のことはあんまり覚えてなくて……」
申し訳なさそうな声で、僕に寄りかかる多岐川さんは呟く。正直息を吸うたびに彼女の甘い匂いが鼻腔を通り抜けていくけれど、冷静なフリを続けた。
「そうは言っても、明日は大学があるでしょ? 早く帰らなきゃだし、やっぱりおぶるよ」
半ば強引に話を進めると、多岐川さんは顔を真っ赤にしながらも、仕方なく頷いてくれた。きっと僕がこんなに積極的になれたのは、彼女のことが好きだからなのだろう。
恐る恐るといった風に、多岐川さんが僕の肩から腕を回す。この前も思ったけれど、女の子というのはびっくりするほど軽い。
「それじゃあ、帰ろっか」
「……はい」
それから僕は、彼女をおぶりながら歩き始める。もう深夜のため、大通りを走る車の数は少なく、まるで二人だけの世界に迷い込んでしまったように錯覚してしまう。
耳に届くのは夏の虫の鳴き声と、多岐川さんのわずかな息遣い。緊張しているのか、彼女は歩き始めてから一つも声を発しなかった。
このまま静かに歩くのも、それはそれでいいなと思ったため、僕は多岐川さんが何かを話すまで黙り続けている。沈黙が破られたのは、車が一台も通らない信号を、律儀にも青に変わるまで待っていた時。彼女は僕だけに聞こえるような小さな声で、囁いた。
「もう、片思いの答えは出ましたか?」
信号機が青に変わっても、僕は歩き出さなかった。
「多岐川さんのおかげで、答えが出たよ」
信号機が再び青から赤に変わるのを、僕らは見届ける。
「それなら、よかったです」
多岐川さんは、安心したように息を吐いた。きっと彼女が相談に乗ってくれなければ、僕は今でも悩み続けていただろう。彼女に向ける思いの正体も、わかっていなかったかもしれない。
「ちょっと、公園に寄ってもいい?」
「はい」
僕は信号が次の青に変わるのを待って、公園への道のりを歩き出した。
公園の中央には大きな木が植えられており、暗い夜空に向かっていくつもの枝葉が伸びていた。僕らは、すべり台の近くにある木製の椅子に腰掛ける。深夜の公園に子どもの姿があるはずはなく、僕ら二人だけの貸切状態だった。
話が終わってしまえば、あとはアパートへ帰るだけになる。だから少しでも多岐川さんとの時間を引き延ばしたくて、公園までやってきた。けれど遅くなりすぎると彼女に迷惑がかかるため、すぐに話を始める。
「僕の大好きだった人は、すごく友達思いな奴だったんだよ。嬉しい時は一緒に笑って、悲しい時は一緒に泣くような、そんな女の子」
前にも一度、多岐川さんに水無月とのことを話した。その時の多岐川さんは僕のために泣いてくれて、とても嬉しかったのを今でも覚えている。
「いつか、さようならを好きになれる。多岐川さんはそんなことを教えてくれたけど、正直なところ、僕には無理だなって思ってた。ずっと好きだったから、今更前向きに捉えることなんてできないって」
だから忘れる努力をしようと思った。けれど忘れられるはずがなくて、あの日、水無月から電話がかかってきた時に、僕はようやく改めて気付いた。僕は水無月の、友達思いなところが、好きだったんだって。他人の幸せは、自分の幸せ。そんな生き方を貫いている水無月のことが、好きだった。
「僕が彼女のことを忘れたりしたら、彼女のことを好きだった気持ちを否定することになる。そんなことは、嫌だったんだ。だって今でも変わらず、僕は彼女のそういうところが、好きだから」
思いが届かないから、好きだった人のことを忘れようとするなんて、間違っている。たとえ未練がましいと言われても、それだけは曲げることが出来なかった。
だって。
「僕のことをフッた時まで、彼女は友達のことを大切にしてた。そんな彼女のことを好きになったんだから、仕方ないなって思えたんだ」
水無月の決めたことだから、さようならという言葉を好きになれた。この恋から、身を引くことができた。その気持ちに、後悔なんてない。
水無月自身が、最後に僕の背中を押してくれたから。彼女の大切な人の中に、僕が入っているのだということを知れたから。僕はそれだけで、よかった。
僕の話をただ黙って聞いてくれていた多岐川さんは、それから嬉しそうにポツリと呟いた。
「よかったです。滝本さんの気持ちに、整理がついて」
「ありがとう。多岐川さんのおかげだよ」
「私はただ、歌ってただけですから」
そんな冗談を言って、多岐川さんは微笑む。彼女の笑顔に、僕はいつも救われていた気がする。一番辛かった時、僕の気持ちを察してくれて、元気が出るように焼き鳥屋へ連れて行ってくれた。僕の話を聞いてくれて、泣いてくれた。僕のために、泣いてくれた。僕はそれが、たまらなく嬉しかった。
「この前、バイトが終わった後、岡村さんに呼ばれてたけど、何話してたの?」
突然そんな質問をすると、多岐川さんは「えっ?!」と驚いた声を上げる。僕はそんな彼女の慌てように、くすりと微笑んだ。
「こ、告白されました……断っちゃいましたけど……」
「そうなんだ」
岡村さんには悪いが、僕は心の底から安堵していた。万が一の可能性を、少しだけ考えてしまっていたから。
「どうして、断ったの?」
「……好きな人がいるんです。だから、断りました」
荒井さんと水無月に、多岐川さんは僕のことを好きだと教えてもらった。けれどここにきて、実は僕じゃなくて別の人のことを好きなんじゃないかと、勘ぐってしまう。だって僕は自分に自信がなくて、特に惚れられるようなことをした覚えがなかったから。
だから、フラれてしまうかもしれないと思った。水無月に告白した時のことを思い出す。思いは伝えない方がいいんじゃないかと、卑屈な心が囁き始める。だけど、月並みな理由だけれど、言わずに後悔をするぐらいなら、言って後悔をしようと思った。そうすることで、また前に進める気がするから。
「僕も、実は好きな人がいるんだよ」
その言葉を聞いた多岐川さんは、今度は「えっ……」という悲しさを含んだ声を漏らす。
「その人はさ、素敵な人なんだ。いつも笑顔で、困ってる時に助けてくれて、悲しんでいる時に、自分のことのように泣いてくれる、優しい人でさ」
「……素敵な人、なんですね」
「うん。絵も上手くて、ギターも弾けて、お酒を飲んだらすぐに酔っ払っちゃうんだけど、そんな時まで僕のことを考えてくれている、素敵な人なんだ」
ふと隣を見ると、多岐川さんが泣いていて、手の甲で落ちてくる涙をぬぐっていた。泣かせてしまったことにわずかな罪悪感を覚えたけれど、こんなにも鈍感な女の子なのだということに僕は驚く。男の人と接した経験が乏しいから、なのかもしれない。
「幸せに、なってくださいっ……! きっと滝本さんなら、今度こそ幸せになれますから……」
鼻をすすって、落ちてくる涙をぬぐって、嗚咽を漏らす。こんなにも悲しんでいるのに、多岐川さんは僕の幸せだけを願ってくれた。あらためて、彼女は優しい人なんだということに、僕は気付かされる。
僕は涙をぬぐい続ける彼女の手を、優しく握った。夏フェスの時はずっと握っていたというのに、心臓の鼓動が痛いほど耳まで響いてくる。
涙で濡れた多岐川さんの手のひらを、優しく包み込んで、僕は言った。
「多岐川さんのことが、好きなんです」
「…………え?」
思わず照れ臭くなって火が出そうなほどに顔が熱くなったけれど、目だけは最後までそらしはしなかった。ただ多岐川さんのことを見つめ続けていると、先に彼女の方から目をそらしてしまう。僕の心に、チクリと痛みが走った。
「……多岐川さんは、僕のことをどう思ってるの?」
もうどれだけの時間が経ったかわからないぐらい、僕は彼女の言葉を待ち続けている。もしかすると数分にも満たないほどわずかな時間だったのかもしれないが、それから多岐川さんはポツリと小さく呟いた。
「……好き、です」
今度は確かな声で、でも涙で声を震わせながら、多岐川さんは答えてくれた。
「滝本さんのことが、好きです」
僕はその言葉で満たされて、彼女と同じように涙を流してしまう。けれどそれは悲しい涙じゃなくて、嬉しい涙。そんな恥ずかしい姿を見せた僕の顔へ、多岐川さんは自分の顔を近づけてくる。
びっくりして後ずさってしまいそうになったが、身を引いてしまう前に、彼女の唇が僕の唇に重なった。手を握りながら、僕は多岐川さんとキスをした。
そしていつの間にか彼女の唇は離れていて、僕の瞳に顔を真っ赤にさせた多岐川さんの顔が映り込む。思わず、口付けされた唇に指を当てる。未だそこには、彼女の柔らかな感触が残っていた。
「た、多岐川さんって、結構大胆なんだね」
それとも感極まって、自分でもよくわからずにキスをしてしまったのか。彼女の真っ赤になった顔を見ると、おそらく後者なのだろう。突然でびっくりしたけれど、多岐川さんが望んでやってくれたことだから、嬉しかった。
「す、すみません……」
「どうして謝るの?」
「今の、ファーストキスじゃないんです……」
心臓が大きく鼓動した。多岐川さんのファーストキスは、僕じゃない。一瞬その事実が悲しいと思ったけれど、別に構わない。こういうのは、心の問題なんだから。
「も、もしかして、子どもの頃にお父さんとキスしたとか、そんなやつ?」
冗談めかして聞いたけれど、本当のところはちょっとだけ悔しかった。こういう感情を持つのは、男だから仕方がないのだろう。
しかし多岐川さんは、首を振った。
「えっ?! じゃ、じゃあ幼稚園の頃に、ふざけて同級生とした……とか?」
また、多岐川さんは首を振る。じゃあいつ、彼女はファーストキスをしたというのか。本当は隠していただけで、以前彼氏がいたんじゃないかと勘ぐる。けれど、それでもいい。今は、僕のことを見てくれているんだから。
しかし多岐川さんが教えてくれたのは、僕が予想していたことよりも、遥かに斜め上の事実だった。
「こ、この前滝本さんが家に泊まっていった時、思わずやっちゃいました……」
「……え?」
そんな事実、僕は知らない。ということは、おそらく僕が隣で眠っていた時に、多岐川さんがキスをしてきたのだろう。まだ、付き合ってすらなかったというのに。
僕は思わず、多岐川さんのことを強く抱きしめていた。こんなにも僕のことを思ってくれていたのが、嬉しかったから。
「ありがとう、多岐川さん」
愛おしい彼女に感謝の言葉を伝える。君に出会えて、本当によかった。
多岐川さんも僕の背中に腕を回してくれて、お互いに抱きしめ合う。休みの日がずっと続けばいいのにと、僕はまたそんなことをふと思った。
※※※※
いつか実家を出て一人暮らしをしたいと、中学生の頃からずっと胸に抱いていた。けれど中学を出たばかりの子どもが、県外へ出て一人暮らしをすることなんて出来るはずがないと、そのときの僕はちゃんと理解できていた。
だから親の望むままに勉強をして、偏差値の高い地元の高校へ進学をすることを決めた。
まだ小学生の頃の僕には、たくさんの夢があった。友達の家で見せてもらった漫画を読んで、いつか漫画を書く人になりたいと思った。友達の家でやらせてもらったゲームに熱中して、ゲームを作る人になりたいと思った。子どもの頃の僕は、そんな大きな夢が出来たと、母へ自慢をするように伝えていた。
けれど母はそういう時は決まって、その夢を目指すのは難しいんだよと僕に教えた。漫画家も、ゲームを作る人も、目指すのは難しい。無邪気だった僕は、子どもの描いた拙い絵を母に見せて、「こんなに上手く描けるんだよ」と、自慢した。母は「そんなことより、宿題は終わったの?」と言うだけで、描いた絵に興味を示してはくれなかった。
子どもの頃から、あまり運動が得意ではなかった。それでも友人に誘われたから、中学の頃はバドミントン部へ入部した。想像していた以上に練習が大変で、顧問の先生も厳しい人だったけれど、辛い練習にも必死に耐えた。時間が経つにつれて、一緒に入部した友達との差は開き続けたけれど、それでも休まずに練習に打ち込んだ。大会へ出られなくても、学年が上がり、新しく出来た後輩に実力で抜かされても、部活を辞めたりはしなかった。
その努力を顧問の先生は認めてくれたのか、中学二年秋の大会の団体戦と個人戦に出させてもらえることになった。団体戦では、二軍の一番下で出場ということだったが、大会に出られるならそれでもよかった。だけど一番辛かったのは、両親が大会を見に来てくれないことだった。部活の大会に見に来てくれる友達の親を見ながら僕は、ただうらやましいと思っていた。
僕には兄と妹がいる。事あるごとに兄との比較をされて、妹とも比較をされてきた。かけられる期待は兄の方が大きく、一番下の妹は比較的甘やかされていた。僕はたまたま体の作りが運動向きではなく、兄よりも運動ができなかった。それを自覚していたからこそ、努力で掴み取ったチャンスを見に来てほしかった。けれど誰も、見に来てはくれなかった。
間に挟まれた不出来な僕は、比較的放任されながらも、勉強だけはやりなさいと事あるごとに言われ続けた。
中学生活を半ばほど過ぎた頃、僕は兄妹からの比較を避けるために、ゆくゆくは一人暮らしをしたいとぼんやり思い始めていた。
部活の引退試合の時も、両親は観戦に来てくれなった。惨敗だった試合の結果を顧問の先生に報告した時、先生は僕の肩に手を置いて「お疲れ」と言ってくれて、僕は涙を流した。僕はただ、その一言だけでよかった。
高校へ入学してから、水無月奏に恋をした。特に褒められたことがなく、喜ばれた経験の乏しかった僕が、誰かのために喜んだり悲しんだりする水無月を好きになるのは、至極当然のことだった。
初めて女の子に告白をした。だけど振られてしまい、どこか遠い地へ行きたいという思いが強くなった。
だから僕は勉強をして、他県の国立を志望校に選び合格した。合格通知を見せた時に両親は喜んでくれたけれど、僕の心にはもう、何も響かなくなっていた。
ある時僕は、幼少期に親から褒められる経験をしなかった子どもは、自己否定を続ける人間になるとどこかで聞いた。僕はその事実にどうしてか、痛く共感した。
荒井さんと水無月に、多岐川さんは僕に好意を寄せてくれていると教えてもらっても、結局最後の最後まで、その言葉を信じることができなかった。僕がそういう、卑屈な人間で、自分に自信を持てないからだ。
※※※※
大学の期末試験が終わり、夏休みに突入した。すぐに多岐川さんに会いたかったが、今は合評会に向けて描いている作品の最後の追い込みに入っているらしい。アルバイトも休み続けていて、せっかく付き合い始めたというのにすれ違う日々が続き、なんとなく悲しかった。
だけど時間が空いた時には、電話で話をしている。彼女と話をしている瞬間が、今では一番楽しい。絵の進捗を聞いて、最近会ったことをお互いに話し合う。そんな些細なことでも僕は楽しかったし、多岐川さんも笑みをこぼしながら聞いてくれた。
そして今は、駅前ショッピングモールの五階にあるカフェに来ている。コーヒーは苦くて飲むことができないため、僕は抹茶味のフラペチーノを頼んだが、隣に座っている彼女の前にはブラックコーヒーが置かれている。お昼ということもあり、ついでにサンドイッチも二人分買った。
「すみません。私の分まで奢らせてしまって」
水無月はコーヒーカップに口を付けて飲み始める。本当にブラックコーヒーを飲めるのだろうかと思ったが、彼女は特に顔をしかめることなく黒い液体をすすっていた。
どうして僕が水無月とこんなところにいるのか。その経緯は昨日の夜まで遡る。突然水無月が僕に電話をかけてきたかと思えば、開口一番に『最近、梓さんとはどんな感じですか』と訊ねてきた。正直に、最近は電話しかしていないことを伝えると、水無月は大きなため息を吐いて『プレゼントとか、あげましたか?』とまた僕に訊ねてくる。
僕はハッとして、まだ多岐川さんに何もプレゼントをあげていないことに気付いた。付き合い始めたのだから、記念に何かを贈ってもよかったのに。多岐川さんが初めての彼女だったから、そんな当然のことさえ思い浮かんでいなかった。
『ずっと会わなかったら、梓さんの恋心も冷めちゃいますよ』
『えっ、そんなこと……』
『そんなこと、あります。梓さんすごく美人なので、取られちゃっても知りませんよ』
呆れたようにそう言われて、僕は途端に焦りだす。せっかく付き合い始めたのに、多岐川さんと別れることになるなんて、そんなのは嫌だった。
『というわけで、ひとまずプレゼントを買いましょう。明日私暇なので、お昼に駅前にあるやかんのオブジェのとこまで来てください』
『えっ、やかんって……』
『それじゃあ寝ますので、失礼します』
水無月は一方的に会話を打ち切ると、すぐに通話を切ってしまった。駅前にあるやかんと言われても何のことか分からなかった僕は、すぐにネットで駅前のやかんを調べた。どうやらショッピングモールの前に、倒れたやかんのオブジェがあり、そこが定番の待ち合わせ場所になっているようだ。
多岐川さんと付き合い始めて、まだデートすらしていないというのに、水無月と二人で出かけてもいいのかと僕は迷った。けれど何度電話をかけ直しても水無月は出てくれなかったため、僕は心の中で多岐川さんに謝罪をしてから、今日この場所へと向かった。
僕はフラペチーノをストローで飲みながら、水無月の表情をうかがう。昨日の電話では呆れたような声を出していたが、今日は普段通りの水無月で、特に怒っているということもなかった。
「ところで、水無月は絵描かなくていいの? 多岐川さん、今日も頑張って描いてるらしいんだけど」
「私、もう一週間ほど前に描き終わってるので」
「あぁ、そうなんだ」
そういえば昔から、水無月は要領のいい子だった。後輩から伝え聞いた話だけど、宿題が出ればその日のうちに終わらせて、テスト勉強も一ヶ月前から始めていたらしい。
水無月と会話を続けることができなくて、僕は頻繁にストローへ口を付ける。水無月相手にこんなようじゃ、多岐川さんとあらたまってデートした時に、何も話せなくなるかもしれないと自嘲する。僕は何か、気の利いた話題を探した。
「そ、そういえば、美大大変?」
何とかして絞り出したその質問に対して、水無月は怪訝な表情を浮かべる。僕は何か、まずいことを言ったのだろうか。
「それ、前にも聞かれました」
「そ、そうだっけ?」
「はい。高校生活の延長みたいですって答えましたもん」
思い返してみれば、たしかにそんな質問を投げかけたかもしれない。おそらく、緊張していると見抜かれただろう。僕はまた、ストローに口をつけた。
「先輩、私に気を使わなくてもいいですよ。高校生の時みたいに、普通に接してください」
「そう言われてもさ……」
もう水無月に対する悩み事は解消されたけれど、あの頃からずいぶんと時間が経っている。高校生と大学生じゃ、全然違う。ずっと後輩という目線で彼女のことを見てきたけれど、今では学校も違うし、一人の女性として見てしまっている。普通に接するというのは、かなり難しそうだ。
「そんなんじゃ、梓さんに愛想尽かされますよ」
「だよね……」
「こういうのは、男性の方からリードしなきゃダメなんです」
「うん……」
「手始めに、梓さんのことを名前で呼んでみてください」
「えっ?!」
カフェの中だというのに、僕は驚きで声を上げてしまう。いきなり多岐川さんのことを名前で呼ぶなんて、そんなのは無理だ。そもそも女性を名前で呼んだことがないのだから。
「恋人同士は名前で呼び合うものですよ。いつまでも多岐川さんなんて、許されると思ってるんですか?」
許されるも何も、多岐川さんを名前で呼ぶことを考えてすらいなかった。恋愛経験が皆無だから、そういう細かなところが僕にはわからない。いったい、いつになれば彼女のことを名前で呼んでもよくなるのか。
「いや、やっぱり恥ずかしいよ。異性の人を名前で呼ぶなんて……」
「恥ずかしくなんてないです。私は先輩のこと、名前で呼べますよ」
そう言うと、水無月は一度間を置いた後に、まっすぐ僕を見て「悠さん」と呟いた。僕は初めて家族じゃない異性に名前で呼ばれて、不覚にも胸がときめく。
そんな僕を見て、水無月はけらけらと笑った。
「もう高校も卒業しましたし、これからは悠さんって呼びましょうか。少しだけ、先輩っていう呼び方が気になってたんです」
「別に今までのままでもいいよ……」
「それじゃあ悠さんも、梓さんのことを名前で呼んでみてください」
思いっきり僕の言葉をスルーされてしまい、軽く落ち込んだ。おそらくこのまま逃げ続けたとしても、水無月は許してはくれない。だから僕は覚悟を決めて深呼吸をした後に、小さく呟いた。
「あ、梓……」
これが今の僕の精一杯。蚊の鳴くような声だったけれど、水無月は満足げに頷いてくれた。
「今度梓さんと会った時、ちゃんと名前で呼んであげてくださいね」
「……変じゃないかな?」
「恋人同士なんですから、変じゃないです」
ハッキリと断言した水無月は、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。あらためて思うけれど、あんなに苦いものを砂糖やミルクを入れずに飲めるなんて、水無月の舌は大人だ。僕は何かに敗北した気分で残りのフラペチーノを飲む。
「水無月はさ、どうして美術の教師になりたいの?」
「どうしたんですか、突然」
「いや、気になったから」
僕の記憶での水無月は美術教師なんて目指していなかったし、そもそも美大に進学しようと考えていることすらも知らなかった。隠していたのか、それとも僕が知らなかっただけなのか。
「別に深い理由はないですよ。ただ、元々教師になりたいとぼんやり考えていたので、それなら私の得意な美術の教師になろうって思っただけです」
「そうなんだ。やっぱり、大変なの? 実習とか」
「まだ行ったことがないのでわかりませんね。でも一年と二年で、介護体験と特別支援学校の実習に行かなきゃいけないので、これから大変なのかもしれません」
「そっか」
大手の企業に就職するために大学を選んだ僕にとっては、とても眩しい話だった。おそらく就活の準備を始めるのは三年の夏からだし、一年と二年のうちは公務員試験の対策をしつつ、学期末のテスト向けに勉強するだけ。多岐川さ……梓は自分の夢を見つけるために努力をしているし、僕は本当に、このままでいいのだろうか。
そんなことを考えていると、水無月は立ち上がって「それじゃあ行きましょうか」と言った。僕はそれに頷いて立ち上がり、カフェを出る。
「着いてきてください」と言った水無月は、迷うことなくエスカレーターを二階ぶん下っていく。事前にリサーチしていたのか、三階にはネックレスやイヤリング、ブレスレットなどが置かれている店舗が多く、むしろたくさんあって迷いそうだった。
僕はまず、時計の売られている店舗に入る。男性用のものから女性用のものまで取り揃えられていて、贈り物を選ぶのには困らない。
「時計にするんですか?」
「いつも腕に身に付けてるものだし、見る機会も多いから……変かな?」
「変じゃないと思いますよ。それじゃあ時計にしましょうか」
「えっ」
水無月は、あっさりとプレゼントするものを決めてしまう。そんなに単純でいいのだろうか。
「一番初めに迷いなく入って行って、それだけしっかりとした理由があるなら、迷う必要はないかと思います。あと重要なのは、どんなデザインの時計を買うかですね」
水無月はそう言うと、女性モノの時計が展示されているコーナーへ向かう。それから一つ一つを吟味しながら、一緒にプレゼントするものを考えてくれた。
「梓さん、ピンク色が好きなんですよ」
「そうなんだ」
「はい。なのでそっちのコーナーのものがいいかもしれませんね」
そうして水無月が指差した場所には、ピンクを基調とした腕時計が展示されている。その中の一つに僕は、真っ先に目が惹かれた。
「これなんかいいんじゃない?」
腕に巻くためのバンドは白色の革になっているが、それが文字盤の薄ピンク色を引き立てている。文字もちゃんと数字で書かれているため、パッと見たときにすぐ時間がわかる。
適当に選んだんじゃなくて、本当にこれがいいなと僕は思った。金額はちょっとお高めだけど、アルバイト代があるから買えないほどではない。
「それじゃあ、これにしましょうか。あの、すみません!」
僕がそう決めると、水無月はすぐに店員さんを呼んでくれた。思い切りの良さが、彼女のいいところなのかもしれない。きっと水無月がいなければ、僕は今頃時計屋にすら辿り着いていなかった。
それからやってきた店員さんに、プレゼント用に包装してほしいと伝えて代金を支払う。数分後には、綺麗に包装された彼女へのプレゼントが僕の手元にあった。喜んでくれればいいなと、僕は期待に胸を膨らませる。
帰りのバスの中で水無月に「今日は本当にありがとう。助かったよ」と伝えると、笑顔を見せながら「悠さんには、高校生の頃たくさんお世話になりましたから。これはほんのお礼です」と言われた。
彼女はお世話になったと言うけれど、僕は迷惑をかけた記憶しかない。告白をしたせいで、気まずい雰囲気を作ってしまったのだから。
けれど彼女はあの時のことを特に気にしていないようで、だから僕もこれ以上触れたりするのはやめた。せっかくあの頃のように話すことができているのだから、今更掘り返す必要なんてない。
懐かしい後輩との休みの日は、そのようにして終わりを告げた。
翌日、スーパーの更衣室で着替えをしていると、岡村さんが入ってきた。手を出すなと言われた梓と付き合い始め、この前フラれたのも知っている僕は中々に気まずい。挨拶をして早々に立ち去ろうと考えたが、ドアに手をかける前に彼に呼び止められた。
「滝本、多岐川ちゃんのこと好きなんだろ?」
何故今そんなことを聞いてくるのかわからなかったが、僕は迷いなく頷く。
「好きです」
わずかな間の後、岡村さんは「この前告白したら、フラれたんだ。お前のことが好きなんだってよ」と、寂しげなため息を吐いた後に言った。
岡村さんにわざわざそんなことを言っていたのかと、僕はなんだか恥ずかしくなる。梓は隠すということが苦手なのだろう。
「好きならさ、告っちまえよ。いつまでも引きずってねーでさ」
「あの……」
これは言おうか迷ったが、岡村さんに相談した手前、報告しておくべきだろう。それに隠していても、いずれバレてしまうから。
「この前、告白しました」
そう言うと、岡村さんはこちらへ近付いてきて、僕の首に腕を回してヘッドロックしてくる。びっくりして逃げようにも、彼の力は強かった。
「幸せになれよ! この野郎!」
岡村さんの表情は見えなかったが、声の震えから、泣いていたのだということは理解できた。きっと彼は、本気で梓のことが好きだったのだろう。
だから幸せにならなきゃと思った。幸せにしなきゃいけないと、強くそう思った。
事前に電話で、無事に課題を提出できたと梓から聞いていた。そして今日は合評会の当日だった。合評会では、提出した絵を教師たちが評価する。昨日の夜は、不安で眠れないと梓が言ったため、彼女が疲れて寝落ちするまで電話で励ましていた。
せっかく頑張って描いたのだから、いい評価をもらってほしい。
アルバイトは休みだったため、僕はずっと部屋の中で彼女の連絡を待っていた。終わったら真っ先に僕の部屋へ行くと聞いているから、部屋の中で待ち続けて、午後の四時を少し回った頃、ようやく部屋のインターホンが鳴った。
僕は慌てて立ち上がり玄関へ行き、すぐにドアを開く。果たしてそこにいたのは、久しぶりに見た僕の彼女。梓は目に見えて、落ち込んだ表情を浮かべていた。
「入りなよ。お茶、入れるから」
それだけ言うと、梓はコクリと頷いて、部屋の中へと入ってくれる。麦茶を入れて居間へ戻ると、彼女は膝を抱えて座っていた。
麦茶を机の上に置くと、梓はぽつりと話し始める。
「また、教授からの評判が悪かったんです……」
「そうなんだ」
「頑張ったのに。やっぱり私、向いてないのかな……」
そんなことは、ないと思う。梓の絵を初めて見たとき、お世辞じゃなく素直に上手だと思ったから。
けれどきっとそんな言葉は、ただの気休めにしかならない。僕に絵画の知識はないし、美大の教授の方が明らかに審美眼がある。ある程度の好みはあるだろうけれど、基本的には教授が出した結論が、梓の描いた絵の評価だ。
本当なら、梓へ発破をかけるべきなのだろう。彼女が絵を描く道で生きて行くのを応援するならば、努力が足りなかったんじゃないかとキツイ言葉を浴びせる方が正解だ。
きっと美大の教授だって、大なり小なりそのような言葉を梓へ投げかけただろう。中途半端な甘えや優しさは、彼女のためになるとは限らないのだから。
けれど僕は梓に嫌われてしまうのが怖くて、非道にはなれなかった。ならば僕は、今の僕ができることをするしかない。
目に涙をためる梓の手を取り、用意していたそれを手のひらにのせてあげる。
「……これ、なんですか?」
「開けてみて」
梓は首をかしげつつも、包装紙を丁寧に開いていく。そして中から出てきた箱を開けて、目を丸めた。
「これ、時計……」
「付き合い始めたから、その記念にプレゼントを用意してたんだ。もしよかったら、受け取ってほしい」
当初の予定では、どこかにデートへ行って盛り上がった時に渡そうと考えていた。けれど、今は梓のことを励まさなければいけない。ムードもへったくれもないが、それでも彼女は喜んでくれると思った。
しかし彼女はプレゼントした時計を一度丁寧に机の上に置き、カバンの中からプレゼント用に包んである四角いものを取り出す。梓はそれを、僕に渡してくれた。
「開けていいの?」
その言葉に彼女が頷いたのを見て、僕も丁寧に包装紙を開いていく。果たしてそこから出てきたものは、僕が梓のために買った時計の色違いだった。文字盤は黒色で、腕に巻くためのバンドは白色。
「この時計、奏ちゃんと一緒に選んだんです。いきなり時計屋に連れてかれて、すぐにこれにしましょうって言って……」
僕はようやく、水無月がしようとしてくれていたことを知った。そしてそれを知って、思わず目頭が熱くなる。彼女は本当に、優しい人だ。
「水無月に、あとでお礼言わなきゃね」
「……はい!」
泣き出してしまった梓の手をもう一度取って、元々つけていた腕時計を外していいかと問いかける。すぐに頷いたため、僕は巻かれていたそれを優しく外して、お揃いの時計を付け直してあげた。そのピンク色の時計は、本当に彼女に似合っている。
それから梓も僕の手を取り、同じく外していいかと訊ねた。頷くと、これまで長い間使っていた時計を外して、新しい時計を巻いてくれる。
彼女とお揃いの腕時計。それを見るだけで胸が満たされる。好きな人からのプレゼントは、こんなにも嬉しいものなのだということを初めて知った。
「ちょっと、外に行こうか。街の方でぶらぶら歩こう」
数分前の梓なら落ち込んでいてそれどころじゃなかったが、今はプレゼントした時計を身に付けて歩けるのが嬉しいのか、迷いなく頷いてくれた。
街へ向かってすぐに、何か甘いものを食べようと僕は提案した。梓はメロンパンを売っている店を指差す。僕らはそこでメロンパンを買い、道に設置してあるベンチに座り食べ始めた。
世界で二番目に美味しいメロンパンと銘打って販売されているそれは、熱々のメロンパンにアイスが挟まれている。口に入れると二つの甘さが広がって、思わず頬が緩んでしまう。それは梓も同じだったのか、一口食べるとすぐに「美味しい!」と言って、いつもの笑顔が戻っていた。
しばらく黙々と食べ続けていると、梓は言った。
「私、一人っ子なんです」
「そうなんだ」
「甘やかされて育った自覚、結構あります」
一人っ子だと、親からの愛情は自分一人に全て注がれる。だから甘やかされて育つと、聞いたことがある。
「幼い頃から、買いたいものは買い与えられて、少しでも結果を残せば褒められて……きっかけは、小学校の時の夏休みの宿題で提出した、ひまわりの絵でした」
昔を懐かしむように、彼女は自分の幼い頃の話をしてくれる。僕はただ静かに、その話を聞いてあげた。
「もしかして、金賞取っちゃった?」
「いえ、銅賞でした。でも両親はすごく喜んでくれたんです。銅賞だったけど、すごいすごいって褒められて。その時私は、絵を描くことの楽しさを知りました」
きっとその時に両親が手放しに褒めていなければ、今の梓は存在しなかったのだろう。
「それからたくさん絵を描いて、画家になるとか漫画家になるとか、笑っちゃうような夢を両親に語ってました。梓ならきっとなれるよって言われて嬉しかったのを、今でも覚えてます」
「嬉しいよね、子どもの頃にそういうことを言われるのは」
「はい。何も考えなくてよかったから、私も好き勝手言えてました。共学は不安だからっていう理由で中学高校は女子校に入って、そこでも絵の結果を残しました。けれど大きくなるにつれて、絵は描きたいけど、自分は本当は何をしたいのか、わからなくなってました」
美大へ行けば、本当にやりたいことが見つかるかも。彼女は以前、そう話していた。
「だから、美大へ行こうと思ったんです。もちろん両親も応援してくれました。でも……」
けれど、梓は美大の受験に落ちてしまった。悲痛な表情を浮かべる彼女は、それでも話を続ける。
「一回目からもう、一般の大学を受けた方がいいんじゃないかって、説得されました……初めてだったんです。両親が、あんな顔を見せたのは……けれど私には絵しかないってわかってたから、今さらそれ以外の道を行くことを、考えられませんでした。二回目は今まで以上に必死に絵に打ち込んで……それでも、ダメだったんです」
美大へ合格するためには、人によっては何度も浪人して努力しなければならない。何度も何度も落とされ、次第に自信がなくなって、諦めてしまうこともあるのだろう。
けれど……。
「でもさ、三回目の受験で美大に受かったんだから。二年間の努力は、ちゃんと報われたよ。今がダメでも、コツコツ努力していけば、きっといつかは結果に結びつくって」
「そう、ですかね……」
「自信持ちなよ」
僕は迷いなく頷いて、そう励ました。梓に発破をかけることはできないから、自分にできるのは応援することだけ。挫折しそうでも、支えてあげることができれば、彼女は何度でも立ち上がることができるはずだ。
梓は僕のあげた時計に視線を落とし、それから張り詰めていた表情を緩ませる。どうやら支えることができたようだ。
「美大に受かった時、お母さんが泣いて喜んでくれました。今でもその時のことは、すぐに思い出すことができます。甘えさせてもらった分だけ、私は精一杯頑張らなきゃいけないんです」
「頑張ろう。一緒に」
一緒に、頑張る。梓の夢を応援したいと、強くそう思う。
そして僕は、ポツリと口から言葉が漏れた。
「梓は、僕に似てるね」
「えっ?」
疑問に満ちた表情から一転、みるみるうちに梓の顔が赤く染まっていく。何かおかしなことを言ったのかと思ったが、すぐにその理由がわかった。
僕は自然と、梓の名前を口にしていた。
「ご、ごめん。梓の方が年上なのに、呼び捨てにしちゃって……」
「い、いえ! 梓がいいです! その……嬉しかったので……」
恥じらいを見せながら俯く梓を見ていると、僕まで顔が熱くなってくる。普段は落ち着いていて大人なのに、こういう素になるときは子どもっぽくて可愛い。それから梓は、上目遣いで僕に訊ねてきた。
「あの、悠くんって呼ばれるのは、嫌ですか……?」
僕は首を振る。名前で呼ばれて、嫌なはずがない。梓は遠慮がちに、僕へ質問をしてきた。
「悠くんは、どんな風に育ってきたんですか?」
「えっ、僕?」
僕の話をしても面白くないだろうが、梓の話を散々聞かせてもらったのだから、僕も話さないとフェアじゃない。
「兄と妹がいるんだよ」
「真ん中なんですね」
「うん。それでさ、兄は親の期待がすごくかかってて、妹はすごい甘やかされてるんだ。真ん中の僕はそれなりに放任されてたけど、勉強だけはしっかりしなさいって事あるごとに言われてた。褒められたことも、あんまりないんだよ」
そこまで話して、僕はきっと梓のことが羨ましいのだろうなと思った。親に愛情を注がれて、些細なことで褒められて。
「それはなんだか、悲しいですね」
「まあ、もう慣れちゃったんだけどね」
もう両親に期待されようとは思わない。期待するだけ無駄なのだから。僕の心はどうしようもないほどに、冷え切ってしまっている。
「でも、悠くんはしっかりしていると思います。そこは褒められるべきですよ」
「どうして?」
「だって国立の大学に合格して、今は一人暮らしをしてるんですから」
「それはそうだけど、親の脛はかじりまくりだよ。授業料を払ってもらってるし」
「それじゃあ、生活費は自分で負担してるんですよね? 授業料も自分で払ってる大学生は、そんなにいないと思います」
たしかに、彼女の言う通りだ。言われてみれば、授業料を自分で収めている大学生は少ない。
「……けど、生活費は奨学金から切り崩したりしてるから」
「奨学金は、そのために使われるものです。それに奨学金を貰えたのも、高校時代に悠くんが頑張ったからじゃないんですか?」
僕が何か反論をしようとしても、すぐに梓に言い返されてしまう。僕はどうして、自分のことを卑下して考えてしまっているのだろう。
「悠くんは、しっかりしてます。お父さんやお母さんが認めてくれなくても、私がしっかり認めますから」
真正面からそんなことを言われ、僕は思わず照れ臭くなり頬をかく。梓を励ますため外へ出たのに、逆にこちらが励まされてしまった。
僕は梓の言葉に、素直に「……ありがとう」とお礼を言った。
それから僕らは、溶けそうになっているアイスをスプーンですくいながら、最後までメロンパンを残さずに食べた。そして目的もなく歩いていると、いつの間にか駅前に着いていて、ショッピングモールの中をまたぶらぶらと歩く。五階にある本屋で、有名な恋愛小説の映画化決定のポップを見つけ、今度一緒に見に行こうと約束した。
初めてのデートみたいなものだから、もう少し値段の高いお店にしてもいいと思ったが、夜ご飯をどこで食べようかとなった時に、ファミレスにしましょうと真っ先に梓は言った。僕は特に断る理由もなかったため、それに頷き彼女に連れられてファミレスの中へと入る。
混み合う店内へ入ると、僕らを見つけた店員さんが真っ先にこちらへとやってくる。そして、彼女がいることに驚いた。
僕らに笑みを浮かべたのは、ファミレスの制服を着た水無月だった。そういえば、駅前のファミレスで働いていると言っていたのを、今更ながらに思い出す。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか?」
「あ、うん……」
「ではこちらの席へどうぞ」
梓はニコニコしながら水無月の後を着いていく。おそらく、最初からわかっていてここを選んだのだろう。
二人掛けの席へ案内してくれた水無月は、僕と梓の腕に巻かれている時計を見て、「あらためて、おめでとうございます」と祝福してくれた。
鼻の奥がツンとしたのと、気恥ずかしさで僕は「あ、ありがと……」と、うまくお礼を言葉にできない。
「本当に、お似合いのカップルだと思いますよ。末永く、お幸せになってくださいね」
「うん。ありがと、奏ちゃん。それと、私たちのプレゼントを選んでくれて」
「それは先輩たちが、中学生みたいな恋愛をしてるからですよ。私が動かなきゃ、いつまで経っても進展しないなって不安に思ったんです」
お節介な後輩だが、そこが水無月のいいところだ。僕らはそれから食べ物を注文して、たわいのない会話に花を咲かせた。そろそろ帰ろうかというときに、水無月は僕らのためにケーキを持ってきてくれて、梓は思わず泣いてしまっていた。
今日という日の出来事を、僕はこれから一生忘れることはないだろう。
美大での合評会は一年間のうち、五月中ば、夏休み前、夏休み明け、一月末の四回行われる。そのため夏休み前の合評会が終わっても、梓はすぐに夏休み明けに提出する絵の作成に取り掛からなければならない。
僕らは、アルバイトのシフトが被っていない休みの日を使って、少し遠出をしていた。運転席に座り運転をしている僕と、助手席に座る梓の腕には、もちろんお揃いの腕時計が巻かれている。
畑道を走り続けていると、やがて一面黄色に覆われたひまわり畑が見えてきた。梓は助手席の窓を全開に開けて、身を乗り出すようにその光景を眺めている。
「すっごい綺麗ですよ!」
「こんなにひまわり咲いてるの、初めて見たよ」
「私も初めて見ました!」
子どもみたいにはしゃぐ彼女の姿を見て、僕は思わず笑みをこぼす。風に吹かれて、ハーフアップにまとめられている髪がサラサラとなびいていた。
「危ないから、あんまり身を乗り出さないでね」
「はーい」
そんな梓の首からは、一眼レフのカメラが下げられている。美大の入学祝いでご両親がプレゼントしてくれたらしく、これでいっぱい写真を撮って絵を描いてほしいと言われたそうだ。今日はそのカメラを使って、夏休み明けの合評会で描く、ひまわりの写真を撮りに来ている。彼女は早くもひまわりにカメラを向けて、シャッターを切っていた。それからこちらを向いて、またシャッターを押す。
「僕は撮らなくていいんじゃない?」
「遊びに来た記念ですから。部屋に飾っておきます」
僕は苦笑するが、同時に恥ずかしくもあった。今撮った写真は、どんな表情を浮かべていたのだろう。気の抜けた表情をしている僕の写真が梓の部屋に飾られるかもしれないと考えると、とても恥ずかしい。
「すごいかっこよく撮れてるので、安心してください」
「どうあがいても、僕をかっこよく撮るなんて無理でしょ」
「えー、かっこいいですよ。悠くんは自信持ってください」
自信を持ってと言われても、今まで誰かにかっこいいと言われたことがない。きっと梓は浮かれているから、かっこいいと思っているのだろう。でも彼女にそう言われて、悪い気はしなかった。
それから駐車場に車を止めて外へ出ると、花の香りが鼻腔を通り抜けた。蝉の鳴き声と花の香りと、照りつける太陽の光。こんな田舎へやってくると、五感で夏を感じられる。
梓は、ドリンクやソフトクリームを販売している売店を見つけると、僕の手を掴んで真っ先にそちらへ向かった。
「写真、撮らなくていいの?」
「まずは甘いものからです! なんとなく、お腹空いたので!」
梓がそう言うならばと、僕は従う。二人分のソフトクリームを買って、近くのベンチに座りそれを食べる。一口目を食べた瞬間、甘い牛乳の味が口内に広がった。
「美味しい!」
彼女は嬉しそうに、ソフトクリームを食べた感想を口にする。笑顔の彼女を見ていると、夏の暑さなんてどうでもよくなってしまう。
僕はふと思いつき、スマホを取り出してソフトクリームを食べる彼女に向けた。意図を察してくれたのか、梓はすぐに中指と人差し指を使ってピースをしてくれる。そんな彼女の笑顔が、写真となってスマホの中へと保存された。
それから僕の隣へとやってきて、自分のスマホのカメラを起動させ、こちらへ寄りかかってくる。彼女の甘い匂いがすぐそばで漂い、思わずどきりとした。
「ほら、笑ってください」
梓はそういって、ツーショット写真を撮る。
上手く、笑えたのだろうか。自信がなかったけれど、撮り終えた写真を彼女は確認して、満足そうな笑みを浮かべた。
「上手く撮れてた?」
「はい、とっても」
梓がそう言うならと、僕は安心する。
それから彼女はスプーンで自分のソフトクリームをすくって、僕の口元へ近付けてきた。びっくりして後ずさりしそうになるが、それより先にスプーンが口の中へ突っ込まれて、甘い味が口の中に広がる。
不意にされたその行為に、僕は気恥ずかしさを覚える。対して彼女は年上の余裕というものがあるのか、戸惑っていた僕を見てけらけらと笑った。
「今の、恋人っぽかったですね!」
「心臓に悪いから、事前にやるって言ってよ……」
「事前に言っちゃったら、悠くんは驚かないじゃないですか」
僕はムッとして、仕返しとばかりに梓と同じことをする。しかし僕みたいに驚いたりはせず、嬉しそうにスプーンを加えてアイスを食べた。
「食べさせてもらった方が、美味しく感じますね」
にこりと笑う梓を見て、確かに食べさせてもらった方が、美味しく感じるなと思った。
ソフトクリームを食べ終わった後、ようやく僕らはひまわり畑へ向かった。近付いてみると、そのひまわりの大きさに圧倒される。僕の首元の高さまでひまわりの茎が伸びていて、梓の背丈と同じぐらい成長しているものもあった。
このひまわりを彼女が描くのかと思うと、今から期待が膨らんでしまう。
「すごい、綺麗ですね!」
「こんなに間近でひまわりを見たのは初めてだよ」
花の香りが辺り一面に広がっていて、それに誘われた蜂がひまわりの周辺を飛び回っている。写真を撮ることに必死になっている梓が刺されたりしないように、注意しなければいけない。
梓はしばらくひまわりから近付いたり遠ざかったりして、何枚も写真を撮っていた。しかしどうやら納得いかないらしく、カメラを持ちながら首をかしげている。
「もっとひまわりがたくさん映るように撮れないかな……」
そんなことを、梓はぽつりと呟く。僕はすぐにあたりを見渡して、すぐに見つけた。どうやらこのひまわり畑は迷路になっているらしく、真ん中に木材で出来た展望台が設置されている。あそこに行ければ、望み通りの写真が撮れそうだ。僕は、その迷路の入り口を指差した。
「あそこに入って、展望台まで行こうよ。そうしたら、多分見られると思う」
その提案をすると、梓はすぐに乗り気になって「今すぐ行きましょう!」と言い、僕の手を繋いで歩き出した。
すぐに展望台へ行ける近道のルートもあったが、せっかくだから楽しもうということになり、通常のルートを歩く。たまにクイズのようなものがあり、左右には大きな黄色いひまわりがいくつも生えていて、隣には楽しそうに歩く梓の姿。とても長い迷路で三十分ほど迷い続けたけれど、飽きるということはなかった。
展望台へたどり着き、その上から二人でひまわり畑を見下ろす。黄色いひまわりの花が咲き乱れていて、梓は瞳を輝かせていた。
「いい写真撮れそう?」
「はい!」
彼女はしばらく写真を撮ることに夢中になっていて、僕はそんな姿をスマホのカメラにまた収める。
ある程度写真が撮り終わった梓は、撮った写真を満足げに見返していた。梓の夢を応援する手伝いができて、僕は本当に嬉しい。
けれど写真を確認している梓の顔が、少し赤くなっていることに気付いた。額からも汗が噴き出している。
「体調、大丈夫?」
「えっ?」
「顔、赤くなってるから。今日すごい暑いし」
僕はハンカチと、事前に買っておいたスポーツドリンクを梓に渡す。帽子か何かを持ってくるべきだったなと、今になって後悔した。
スポーツドリンクを半分ほど飲んだ梓は、ハンカチで汗を拭う。彼女の額に手を当てると、手のひらに熱を感じた。
「ちょっと、いつもより体が熱いかもしれません」
「ごめん、今まで気付けなくて」
「悠くんは、大丈夫ですか?」
「僕は、大丈夫」
「それなら、安心しました」
安心したように梓は笑う。今は僕のことよりも、自分の体調を心配してほしいと思った。僕は彼女の手を引いて、展望台を降りる。それから出口へたどり着くのに、それほど時間はかからなかった。開けた空間が見えて来たかと思えば、いつのまにか僕らは迷路から抜け出ていた。
梓は握っている僕の手を一緒に大きく上げて、「とうちゃーく!」と喜びの声を上げる。周りに子ども連れの家族やカップルがいて、僕はなんだか恥ずかしかった。
駐車場へ戻り車に乗り込むと、車内は熱気で満たされていた。すぐにエンジンをかけて、エアコンで温度を下げる。
「今日は、とっても楽しかったですね。悠くんはどうでしたか?」
「僕も、楽しかったよ」
梓と恋人になってから、こんな風に目的を作って休みの日に出かけたのは初めてのことだった。お互いに気恥ずかしくて何も言わなかったが、こういうのをデートと言うのだろう。
「今日のお夕飯は、私に任せてください。こんなに遠い場所まで車を出してもらったので」
「そんなこと全然気にしなくていいよ。僕の方こそ、すごく楽しかったから」
「そういうわけにはいきません。というわけで、帰りはスーパーに寄ってください」
「作ってくれるの?」
「はい。といっても、たいしたものは作れませんけど」
梓はそう言うが、以前彼女の部屋にお邪魔した時に食べさせてもらった朝食は、簡単なものだったけれどすごく美味しかった。普段から料理をしていないと、あんなに上手には作れない。
梓がそこまで言うならと、僕は素直に頷いておいた。帰りにスーパーへ寄って食材を買い、梓の部屋で料理をする。体調の面が心配だったから、無理をお願いして一緒にキッチンへ立ち、二人で料理を作った。
机の上に並べられたものは、白米とシーザーサラダ、豚肉の生姜焼きにお味噌汁。どの料理もとても美味しくて、すぐにお皿の上のものはなくなってしまった。きっと将来はいいお嫁さんになるのだろうとふと思い、その隣にいるのは僕がいいなと、恥ずかしいことを空想した。
けれどそんなに上手く交際が続かないことを、僕は知っている。中学高校と、何度か周りにカップルができて、すごくお似合いだなと思っていても、いつのまにか別れてしまっていることがしばしばあった。付き合っていれば、お互いの悪い部分がわかってしまう。それが別れてしまう原因に繋がる。
いつか僕らにも、そんな時が来るのかもしれない。そういうことを考えると、怖いほどに身がすくんでしまう。自分に自信のない僕は、いつか梓に愛想を尽かされるんじゃないかと不安になる。だからなるべく、そういうことは考えないように努めた。
夕飯が終わり皿を洗ってから、僕は「それじゃあ、今日はもう帰るね」と言って立ち上がる。すると梓は途端に慌てた表情を見せ、僕の手を掴んできた。
「もう少し、ここにいませんか……?」
ここで彼女の言葉を聞き入れたら、おそらくこの前と同じく泊まることになるのだろう。それはまだ、ダメだ。
言い聞かせるように、僕は梓の手を握る。
「このままここにいたら、この前みたいに泊まることになると思うんだ」
「……別に、泊まっていってもいいですよ?」
「一回泊まったら、たぶん明日も明後日もここにいたいって思うようになる。そういうのはまだ、早すぎると思うんだ。それに……」
続く言葉を、僕は生々しくて口にすることができなかった。恋人ができたことはないし、経験もないけれど、付き合っている人と一晩一緒にいたとしたら、間違いを起こしてしまうかもしれない。それはまだ、付き合い始めて浅い僕らには早すぎる。梓に、後悔だけはさせたくない。
「とりあえず、今日はもう帰るよ。体調のことは心配だから、明日の朝早くに、ここへ戻ってくる。それじゃ、ダメかな?」
しばらくの逡巡の後、渋々といった風に頷いてくれた。僕はまだ、梓のことを汚したくないと思っているのだろう。彼女はきっと、僕が危惧していることを半分も理解していないほど、純粋な人だから。
「それじゃあ、明日は七時にここに来てください。その時間に私も起きるので」
「うん、わかった」
「それと、これ……」
梓はポケットから、おずおずと銀色に輝く小さな鍵を取り出す。そして僕の手に握らせた。
「合鍵、もらっていいの?」
「起きれなくて寝てたら、悠くんを外で待たせちゃうので……」
もし梓が寝ている時に部屋へ入ったら、寝顔を見られることになるけれどいいのだろうか。そんなことをふと考えたけれど、僕は素直に受け取った。
それから玄関のところまで、梓はついてきてくれる。彼女を安心させるために、僕は微笑んであげた。
「今度、絵を描いてるところ見せてよ。実はずっと見たかったんだ」
「あ、はい。わかりました!」
「それと、僕の方が年下だし、付き合ってるんだからそろそろ敬語はやめてみない?」
ずっと気になっていたから提案してみると、梓は口元をモゴモゴさせて「わ、わかった……」と小さく呟いた。二つも年上の人を可愛いと思うのは、失礼なことなのだろう。そう思ったけれど、今の梓は正直めちゃくちゃ可愛かった。
「それじゃあ、今日はこれで」
「うん。おやすみ、悠くん」
「おやすみ」
名残惜しいと感じつつも、梓との休みの日は終わった。翌日になり、朝起きてすぐに彼女の部屋へと向かったが、電話をしても出てはくれない。昨日貰った合鍵を早くも使うことになり、僕は鍵を開けて梓の部屋へ入る。
熱中症なのか、それとも夏風邪を引いたのか、梓は昨日より顔を赤くして、布団の上で苦しそうにしていた。僕は次の日も、辛そうにしている彼女の看病のために、ずっとそばにいた。
夏休みの間はアルバイトをしつつも、海へ行ったりプールに行ったり、浴衣を着て花火大会へ行ったりなどをして満喫した。ほぼ毎日梓と顔を合わせていて、夏休みが半ばほど過ぎた頃に、僕は夏休み明けの課題のことが心配になった。
しかし、どうやらようやく課題制作を進めるらしく、共同アトリエまで見に来てほしいと梓に誘われた。一緒に作業をしている人もいるだろうから、迷惑にならないかと不安に思ったが、別にみんな気にしないとのことだった。というより、一緒に部屋を借りている人たちから、早く彼氏を紹介してと言われているそうだ。
僕はそれなりに緊張しつつも、梓に案内をされて共同アトリエへとやってきた。外観はお世辞にも綺麗とは言えず、築年数がそれなりに経っている木造アパートだった。二階の部屋へと案内され、ドアを開けて中に入る。玄関にはすでに女性物の靴が三足置かれていて、それを見るだけで僕は萎縮してしまう。
梓がスリッパを出してくれて、僕は中へと足を踏み入れた。どうやら中にはいくつか部屋があり、彼女は奥の方にある部屋へと入っていく。部屋の中は六畳ほどの大きさで、二人の女性がキャンバスに向き合い筆を滑らせていた。周りには作業途中のキャンバスが立てかけられていたり、絵の具が床に無造作に置かれていたりと散らかっている。一応床を汚さないようにという配慮なのか、畳の上にブルーシートが敷かれていた。
僕らのことに気付いたのか、二人は筆を置いてこちらを見た。
「ほら、この人が悠くん。滝本悠くんだよ」
「あの、いつも梓がお世話になってます……」
頭を下げると、彼女たちは値踏みをするようにこちらを凝視してくる。それから、おっとりした雰囲気を漂わせているメガネをかけた子が、遅れて驚いた表情を浮かべた。
「えっ?! 本当に梓ちゃんに彼氏さんがいたの?!」
「待って、由美ちゃんには何回も説明したよね?!」
「ずっと漫画の話してるのかと思ってた……」
そんな会話をしている彼女たちを見て、もう一人のサバサバとした感じの女性がけらけらと笑った。
「あたしも信じてなかったけど、本当に梓に彼氏ができたんだね。おめでとう」
「美咲も信じてなかったの?!」
「だって、梓って男としゃべる時すごい萎縮するし。付き合うなんて夢のまた夢だと思ってた」
「ひどい!」
そんな三人のやりとりに、僕は思わず笑みがこぼれる。バイト先以外でも、梓に親しい友人が何人もいるのだということが知れて、僕はなんだか嬉しかった。
「梓ちゃんのこと、よろしくお願いします。すごく、大変だと思いますけど」
「大変って何?!」
「そりゃあ、あれでしょ。わがままなところとか」
「うんうん。滝本さん、すごく振り回されると思うけど頑張ってね」
「わかりました」
正直、梓がわがままなのはもう知っている。僕は、そんなところも含めて彼女のことが好きになったから、たぶんこれからも大丈夫だ。
「ゆっくりしていきなよ。梓と話してても私たちは気にしないし」
「ありがとうございます」
とはいえ、うるさくするわけにはいかないから、特別何も話すことがなければ黙っているつもりだ。だから梓が絵を描く準備をしている時、僕は二人が絵を描いているのを隅っこで見学していた。
どうやら二人とも人物画を描いているらしく、もう下書きを終わらせて、色を塗り始めている。詳しいことはわからないが、もう七割ほど進んでいるんじゃないだろうか。
対する梓は、今から真っ白いキャンバスに下書きを描いていく。明らかに、周りの友人よりも遅れている。これはきっと、夏休みの前半を二人で遊んでいたからなのだろう。応援すると言ったのに遊んでしまってばかりで、梓のことを何も考えられていなかった。
もしかすると、また締め切りギリギリになってしまうのかもしれない。そうなる前に、僕は梓に強い言葉をかけることができるのだろうか。遊ぶことよりも、今は絵に集中しなきゃと言えるのだろうか。
その時の僕は、彼女に嫌われたくないと思って、何もいえなくなるのかもしれない。
そんなことを考えていると、由美と呼ばれていた女の子に肩をちょんとたたかれる。顔を上げると、梓に聞こえないように声をひそめながら、僕に話しかけてきた。
「梓ちゃん、描き始めるのは遅いけど、いつも頑張ってちゃんと仕上げてますよ」
「そうなんですか……」
「でもメンタルはちょっと弱いので、そういう時は彼氏として支えてあげてください」
あらためて、梓はいろんな人に愛されているのだということがわかった。どこへ行っても、彼女のことを悪く言う人はいない。
僕は由美さんの言葉に頷いた。
再び梓の方を見ると、この前ひまわり畑で撮影した写真と、スケッチブックをカバンから取り出していた。スケッチブックには、ひまわり畑の下書きが描かれている。おそらく自分の部屋であらかじめ描いてきたのだろう。
それから木炭を指で持ちながら、キャンバスに下書きを始めた。どうやら、展望台から撮影した風景を書くことに決めたらしい。
僕は梓の後ろで、静かに絵を描いているのを眺めていた。
日が沈み始めた夕暮れの空は、オレンジ色に染まっている。住宅街の真ん中で、梓は気持ちよさそうに大きく伸びをした。
「すごい集中してたね」
「一回集中したら、疲れるまで集中力が切れないの」
それは羨ましいなと思った。僕は勉強をしている時、いろいろなことが頭の中をぐるぐる回って集中できないことがしばしばある。
帰り道のコンビニでソーダ味の棒アイスを買って、それを食べながらまた帰路を歩く。合鍵をもらってからも、今日は家に泊まって行かないかと誘われることが多かったが、断り続けていると、諦めてくれたのか最近は何も言われなくなった。
「明日、この前書店で宣伝してた映画を見にいかない? 調べてみたら公開日だったの」
「大丈夫だけど。絵はいいの?」
「今日頑張ったから大丈夫!」
本当に大丈夫なのだろうかと思ったが、そこまで言い切れるのなら大丈夫なのかもしれない。
「それじゃあ明日は映画を見に行こうか」
そう言うと、梓は両手でガッツポーズをして嬉しさを表現した 僕はやっぱり、甘いのだろう。そんなことを、ふと思った。