大学の期末試験が終わり、夏休みに突入した。すぐに多岐川さんに会いたかったが、今は合評会に向けて描いている作品の最後の追い込みに入っているらしい。アルバイトも休み続けていて、せっかく付き合い始めたというのにすれ違う日々が続き、なんとなく悲しかった。

 だけど時間が空いた時には、電話で話をしている。彼女と話をしている瞬間が、今では一番楽しい。絵の進捗を聞いて、最近会ったことをお互いに話し合う。そんな些細なことでも僕は楽しかったし、多岐川さんも笑みをこぼしながら聞いてくれた。

 そして今は、駅前ショッピングモールの五階にあるカフェに来ている。コーヒーは苦くて飲むことができないため、僕は抹茶味のフラペチーノを頼んだが、隣に座っている彼女の前にはブラックコーヒーが置かれている。お昼ということもあり、ついでにサンドイッチも二人分買った。

「すみません。私の分まで奢らせてしまって」

 水無月はコーヒーカップに口を付けて飲み始める。本当にブラックコーヒーを飲めるのだろうかと思ったが、彼女は特に顔をしかめることなく黒い液体をすすっていた。

 どうして僕が水無月とこんなところにいるのか。その経緯は昨日の夜まで遡る。突然水無月が僕に電話をかけてきたかと思えば、開口一番に『最近、梓さんとはどんな感じですか』と訊ねてきた。正直に、最近は電話しかしていないことを伝えると、水無月は大きなため息を吐いて『プレゼントとか、あげましたか?』とまた僕に訊ねてくる。

 僕はハッとして、まだ多岐川さんに何もプレゼントをあげていないことに気付いた。付き合い始めたのだから、記念に何かを贈ってもよかったのに。多岐川さんが初めての彼女だったから、そんな当然のことさえ思い浮かんでいなかった。

『ずっと会わなかったら、梓さんの恋心も冷めちゃいますよ』
『えっ、そんなこと……』
『そんなこと、あります。梓さんすごく美人なので、取られちゃっても知りませんよ』

 呆れたようにそう言われて、僕は途端に焦りだす。せっかく付き合い始めたのに、多岐川さんと別れることになるなんて、そんなのは嫌だった。

『というわけで、ひとまずプレゼントを買いましょう。明日私暇なので、お昼に駅前にあるやかんのオブジェのとこまで来てください』
『えっ、やかんって……』
『それじゃあ寝ますので、失礼します』

 水無月は一方的に会話を打ち切ると、すぐに通話を切ってしまった。駅前にあるやかんと言われても何のことか分からなかった僕は、すぐにネットで駅前のやかんを調べた。どうやらショッピングモールの前に、倒れたやかんのオブジェがあり、そこが定番の待ち合わせ場所になっているようだ。

 多岐川さんと付き合い始めて、まだデートすらしていないというのに、水無月と二人で出かけてもいいのかと僕は迷った。けれど何度電話をかけ直しても水無月は出てくれなかったため、僕は心の中で多岐川さんに謝罪をしてから、今日この場所へと向かった。

 僕はフラペチーノをストローで飲みながら、水無月の表情をうかがう。昨日の電話では呆れたような声を出していたが、今日は普段通りの水無月で、特に怒っているということもなかった。

「ところで、水無月は絵描かなくていいの? 多岐川さん、今日も頑張って描いてるらしいんだけど」
「私、もう一週間ほど前に描き終わってるので」
「あぁ、そうなんだ」

 そういえば昔から、水無月は要領のいい子だった。後輩から伝え聞いた話だけど、宿題が出ればその日のうちに終わらせて、テスト勉強も一ヶ月前から始めていたらしい。

 水無月と会話を続けることができなくて、僕は頻繁にストローへ口を付ける。水無月相手にこんなようじゃ、多岐川さんとあらたまってデートした時に、何も話せなくなるかもしれないと自嘲する。僕は何か、気の利いた話題を探した。

「そ、そういえば、美大大変?」

 何とかして絞り出したその質問に対して、水無月は怪訝な表情を浮かべる。僕は何か、まずいことを言ったのだろうか。

「それ、前にも聞かれました」
「そ、そうだっけ?」
「はい。高校生活の延長みたいですって答えましたもん」

 思い返してみれば、たしかにそんな質問を投げかけたかもしれない。おそらく、緊張していると見抜かれただろう。僕はまた、ストローに口をつけた。

「先輩、私に気を使わなくてもいいですよ。高校生の時みたいに、普通に接してください」
「そう言われてもさ……」

 もう水無月に対する悩み事は解消されたけれど、あの頃からずいぶんと時間が経っている。高校生と大学生じゃ、全然違う。ずっと後輩という目線で彼女のことを見てきたけれど、今では学校も違うし、一人の女性として見てしまっている。普通に接するというのは、かなり難しそうだ。

「そんなんじゃ、梓さんに愛想尽かされますよ」
「だよね……」
「こういうのは、男性の方からリードしなきゃダメなんです」
「うん……」
「手始めに、梓さんのことを名前で呼んでみてください」
「えっ?!」

 カフェの中だというのに、僕は驚きで声を上げてしまう。いきなり多岐川さんのことを名前で呼ぶなんて、そんなのは無理だ。そもそも女性を名前で呼んだことがないのだから。

「恋人同士は名前で呼び合うものですよ。いつまでも多岐川さんなんて、許されると思ってるんですか?」

 許されるも何も、多岐川さんを名前で呼ぶことを考えてすらいなかった。恋愛経験が皆無だから、そういう細かなところが僕にはわからない。いったい、いつになれば彼女のことを名前で呼んでもよくなるのか。

「いや、やっぱり恥ずかしいよ。異性の人を名前で呼ぶなんて……」
「恥ずかしくなんてないです。私は先輩のこと、名前で呼べますよ」

 そう言うと、水無月は一度間を置いた後に、まっすぐ僕を見て「悠さん」と呟いた。僕は初めて家族じゃない異性に名前で呼ばれて、不覚にも胸がときめく。

 そんな僕を見て、水無月はけらけらと笑った。

「もう高校も卒業しましたし、これからは悠さんって呼びましょうか。少しだけ、先輩っていう呼び方が気になってたんです」
「別に今までのままでもいいよ……」
「それじゃあ悠さんも、梓さんのことを名前で呼んでみてください」

 思いっきり僕の言葉をスルーされてしまい、軽く落ち込んだ。おそらくこのまま逃げ続けたとしても、水無月は許してはくれない。だから僕は覚悟を決めて深呼吸をした後に、小さく呟いた。

「あ、梓……」

 これが今の僕の精一杯。蚊の鳴くような声だったけれど、水無月は満足げに頷いてくれた。

「今度梓さんと会った時、ちゃんと名前で呼んであげてくださいね」
「……変じゃないかな?」
「恋人同士なんですから、変じゃないです」

 ハッキリと断言した水無月は、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。あらためて思うけれど、あんなに苦いものを砂糖やミルクを入れずに飲めるなんて、水無月の舌は大人だ。僕は何かに敗北した気分で残りのフラペチーノを飲む。

「水無月はさ、どうして美術の教師になりたいの?」
「どうしたんですか、突然」
「いや、気になったから」

 僕の記憶での水無月は美術教師なんて目指していなかったし、そもそも美大に進学しようと考えていることすらも知らなかった。隠していたのか、それとも僕が知らなかっただけなのか。

「別に深い理由はないですよ。ただ、元々教師になりたいとぼんやり考えていたので、それなら私の得意な美術の教師になろうって思っただけです」
「そうなんだ。やっぱり、大変なの? 実習とか」
「まだ行ったことがないのでわかりませんね。でも一年と二年で、介護体験と特別支援学校の実習に行かなきゃいけないので、これから大変なのかもしれません」
「そっか」

 大手の企業に就職するために大学を選んだ僕にとっては、とても眩しい話だった。おそらく就活の準備を始めるのは三年の夏からだし、一年と二年のうちは公務員試験の対策をしつつ、学期末のテスト向けに勉強するだけ。多岐川さ……梓は自分の夢を見つけるために努力をしているし、僕は本当に、このままでいいのだろうか。

 そんなことを考えていると、水無月は立ち上がって「それじゃあ行きましょうか」と言った。僕はそれに頷いて立ち上がり、カフェを出る。

「着いてきてください」と言った水無月は、迷うことなくエスカレーターを二階ぶん下っていく。事前にリサーチしていたのか、三階にはネックレスやイヤリング、ブレスレットなどが置かれている店舗が多く、むしろたくさんあって迷いそうだった。

 僕はまず、時計の売られている店舗に入る。男性用のものから女性用のものまで取り揃えられていて、贈り物を選ぶのには困らない。

「時計にするんですか?」
「いつも腕に身に付けてるものだし、見る機会も多いから……変かな?」
「変じゃないと思いますよ。それじゃあ時計にしましょうか」
「えっ」

 水無月は、あっさりとプレゼントするものを決めてしまう。そんなに単純でいいのだろうか。

「一番初めに迷いなく入って行って、それだけしっかりとした理由があるなら、迷う必要はないかと思います。あと重要なのは、どんなデザインの時計を買うかですね」

 水無月はそう言うと、女性モノの時計が展示されているコーナーへ向かう。それから一つ一つを吟味しながら、一緒にプレゼントするものを考えてくれた。

「梓さん、ピンク色が好きなんですよ」
「そうなんだ」
「はい。なのでそっちのコーナーのものがいいかもしれませんね」

 そうして水無月が指差した場所には、ピンクを基調とした腕時計が展示されている。その中の一つに僕は、真っ先に目が惹かれた。

「これなんかいいんじゃない?」

 腕に巻くためのバンドは白色の革になっているが、それが文字盤の薄ピンク色を引き立てている。文字もちゃんと数字で書かれているため、パッと見たときにすぐ時間がわかる。

 適当に選んだんじゃなくて、本当にこれがいいなと僕は思った。金額はちょっとお高めだけど、アルバイト代があるから買えないほどではない。

「それじゃあ、これにしましょうか。あの、すみません!」

 僕がそう決めると、水無月はすぐに店員さんを呼んでくれた。思い切りの良さが、彼女のいいところなのかもしれない。きっと水無月がいなければ、僕は今頃時計屋にすら辿り着いていなかった。

 それからやってきた店員さんに、プレゼント用に包装してほしいと伝えて代金を支払う。数分後には、綺麗に包装された彼女へのプレゼントが僕の手元にあった。喜んでくれればいいなと、僕は期待に胸を膨らませる。

 帰りのバスの中で水無月に「今日は本当にありがとう。助かったよ」と伝えると、笑顔を見せながら「悠さんには、高校生の頃たくさんお世話になりましたから。これはほんのお礼です」と言われた。

 彼女はお世話になったと言うけれど、僕は迷惑をかけた記憶しかない。告白をしたせいで、気まずい雰囲気を作ってしまったのだから。

 けれど彼女はあの時のことを特に気にしていないようで、だから僕もこれ以上触れたりするのはやめた。せっかくあの頃のように話すことができているのだから、今更掘り返す必要なんてない。

 懐かしい後輩との休みの日は、そのようにして終わりを告げた。