白い壁が歩道の真ん中をひた走っていた。その姿を、車の運転席からチラと見つめる。僕がその壁を追い抜くと、ちょうど目の前の信号機が青から黄色に変わり、ブレーキペダルを踏んだ。程なくして、黄色い点滅が赤に変わる。

 僕のすぐ横を、白い壁が走って行く。その光景にしばしの間目を奪われる。しかしそれはよく見ると、白い布に覆われた大きなキャンバスだった。視線を地面の方へ向けてみると、キャンバスの下から綺麗な白い足が生えている。

 その白い足はつまずきそうになりながらも、必死に地面を蹴り続けていた。キャンバスは木で出来ているから、落としたり転んでしまえば無傷では済まない。だけどそんなことに気を使っている暇も余裕もないのか、キャンバスの主は一心不乱に走り続けていた。

 やがて赤信号が青信号に変わり、周りの車がゆったりと進み始める。僕もアクセルペダルを踏んで、波に乗る。

 もう一度だけ、チラと大きなキャンバスを見たけれど、すぐに視線を外した。僕にも僕の用事がある。きっとこんなところで人助けをしていたら、大学の一コマ目に遅れてしまう。小心者の僕は、なるべく講義をサボるということをしたくはなかった。

 だけど、もう一度キャンバスの横を通り過ぎてからしばらくして、僕はどうしてか、ほぼ無意識的に道を引き返していた。こんなことをしていれば、講義に遅刻をするというのに。そうだというのに、僕は再び大きなキャンバスを認めると、そのやや前方でプレーキペダルを踏んで助手席側の窓を開けた。こちら側の視界が塞がっているキャンバスの主に聞こえるよう、息を吸ってから大きな声を出す。

「急いでるんですか?」

 ピタリと、その足の動きは止まった。それから僕のことを確認するように、キャンバスは方向を転換していく。ゆっくり、ゆっくりと向こう側の景色が見えてくる。

 果たしてそのキャンバスを持って走っていたのは、髪の長い同年代ぐらいの女性だった。顔は涙でくしゃくしゃになっていて、キャンバスを持っているから拭くことも出来ないのか、鼻からは透明な汁が垂れている。

 僕はそんな彼女の表情に驚いて、思わず再び車を発進させようとしてしまう。だけど良心がその行動に自制を効かせてくれて、変わりにハザードランプを点滅させた。

 彼女は声をヒクつかせながら、必死に状況を説明してくれる。

「え、えっと……合評会が、あ、あって……九時までに作品を提出しなきゃいけないんですけどっ……!」

 僕は腕時計で時間を確認する。現在の時刻は八時四十分。彼女がそんなに焦っているということは、時間ギリギリか、もしくは間に合わないのだろう。今も僕と話している時間すら惜しいのか、白色のスニーカーを地面にトントン叩いて小さく地団駄を踏んでいる。

 僕の講義の開催時間は、九時ジャスト。こんなところで油を売っていたら、間に合うものも間に合わなくなる。

 だけど、焦りすぎて化粧も忘れた彼女のことを不憫に思って、同情にも似た気持ちを抱きながら僕は車の外へと出た。

「目的地まで乗せてあげますので、その大きな荷物を後ろに乗せるの手伝ってください」

 数秒間、僕の言っていることが理解出来なかったのか、泣き顔のまま固まる彼女。しかしやがて納得がいったのか、驚きの声と共に表情にも光が射した。

「ほ、本当ですか?!」

 僕は頷くだけ頷いて、後部座席のドアを開ける。それからキャンバスを持つのを手伝い、なんとか車内に押し込む。僕の乗っている車が普通車ではなく軽自動車の類だったら、おそらくこのキャンバスは収まり切らなかっただろう。彼女とキャンバスを目的地まで運べることがわかり、僕はひとまず安堵した。

「助手席に乗ってください。すぐに発進させるので」

 僕の言葉に、彼女は頷く。そして泣き顔のまま数秒見つめられ、恥ずかしくなって視線をそらした。それから聞こえてきたのは、「ありがとうございます」という感謝の言葉。

 一度は通り過ぎた身だから、素直にその言葉を受け取ることは出来ないなと思った。

 彼女を助手席に乗せて、ナビをしてもらいながら車を走らせる。そういえば、この車に女性を乗せたのは初めてだなと、そんなことをぼんやりと考えていた。

「そこに箱ティッシュあるので、遠慮しないで使ってください」

「あ、すみません……次の信号左です」

 ナビをしながら、隣の彼女は大きく鼻をかむ。ズズッという音が、車内に大きく響き渡る。恥ずかしかったのか気を使ったのか、二回目からは比較的小さな音を立てていた。

「あの、申し訳ございません。見ず知らずの方を、足にしちゃって……」

「別にいいですよ。急いでたんですよね?」

「はい……」

 だんだんと彼女の声はしぼんでいく。僕はなんだか申し訳ない気持ちになって、運転に集中しながら話を振ってみることにした。

「今向かってるところって、やっぱり美大なんですか?」

「はい……」

「確か、ここら辺にある美大って国立ですよね。そんなところに通ってるなんて、すごいです」

 自分の通っていた高校に美術科があったから、美大へ入ることの困難さはぼんやりと知っている。

「合評会っていうのは、定期テストみたいなものなんですか?」

「はい。期限までに作品を提出して、学生や教授に批評してもらうんです。その提出期限が、今日の九時でして……」

 僕は車内のアナログ時計を確認する。時刻は八時四十五分で、真っ直ぐ僕の通っている大学へ向かったとしても、もう講義には間に合わない。

「合評会には間に合いそうですか?」

「あなたのおかげで、ギリギリ間に合いそうです。本当に、ありがとうございますっ!」

 ギリギリということは、やっぱりあのまま走っていても間に合わなかったのだろう。

「僕は絵を描いてないですけど、なんとなく大変なんだなって分かります。テストみたいに明確な答えがなくて、完成は自分のさじ加減で決まりますから。ギリギリまで粘ってたってことは、たぶんいい評価を貰えますよ」

 そんな風に彼女のことを励ましてみる。しかし彼女は落ち込んだままで、安心したような表情を浮かべない。よっぽど合評会というものに緊張しているのか、表情が張り詰めていた。締め切り当日まで作品作りを頑張っていたのだから、彼女の努力は報われてほしい。

 そういうことを考えながら車を走らせていると、やがて目の前に大きな白色の校舎が見えてきた。時計を確認するとまだ時間に余裕があり、僕はまた、ホッと安堵の息を漏らす。彼女も僕と同じように、安心したように胸を撫で下ろしていた。

 校門の前に車を停めて、後部座席に載せていたキャンバスを取り出す。彼女は背面の木枠を器用に持って、それを受け取る。先ほどまで走っていたとはいえ、大きなキャンバスを持っていくのは危なっかしく思えた。

「昇降口までですけど、持つの手伝いますよ」

 彼女からの返答が来る前に、キャンバスを両手で掴む。二人で持った方が、落としてしまう心配はない。

「あの、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないです……それに、用事があるんじゃないですか?」

「別に構いませんよ。乗りかかった船ですから」

 そんな押し問答をしている余裕もないはずだから、僕は足を動かし始める。彼女もつられて、足を動かす。

 ふと、彼女は歩きながら僕に質問をしてきた。

「お名前、なんていうんですか?」

「滝本(たきもと)悠(ゆう)です。あなたは?」

「多岐川(たきがわ)梓(あずさ)です」

 多岐川さんの頬が、少しだけ緩んだのがわかった。僕も、同じ『たき』というフレーズに親近感を覚えて、少しだけ緩む。

「滝本さんは、大学生ですか?」

「大学生です」

「ちなみに、どちらへ?」

 僕はここから北の、山の方に建てられている大学の名前を答えた。そうすると多岐川さんは一度立ち止まり、目を見開く。

「すごい! 国立じゃないですか!」

「いや、美大の国立に受かる方が難しいと思いますよ」

 僕はそう言って苦笑する。おそらく美大と僕の通っている大学じゃ、倍率は比べ物にならないだろう。

「何回生ですか?」

 と、再び歩き始めた多岐川さんは質問する。

「二回生です」

「あっ、私も二回生なんです」

「多岐川さんもなんだ」

 思わず敬語が取れてしまったけれど、彼女は特に気にしたそぶりを見せなかった。

 しばらく歩くと昇降口の前へ到着して、僕はキャンバスから手を離す。多岐川さんは、また器用に裏枠を持った。

 学生たちが、立ち止まっている僕らを次々と追い越していく。講義が始まるから急いでいるのだろう。多岐川さんも急がなければいけないが、どうしても僕は一度だけ彼女を引き止めたかった。

「ごめん、時間がないのは分かってるんだけどさ。一目でいいから、多岐川さんの描いた絵を見せてくれないかな。興味があるんだ」

 美術の知識なんて全くないけれど、ここで知り合ったのも何かの縁だ。夢を追いかけている彼女がどんな絵を描いているのか、純粋な興味を持った。

 多岐川さんは迷惑そうなそぶりを見せることなく、笑顔で「構いませんよ」と頷いてくれる。真っ白い布を丁寧に脱がし、その中にある絵画を見せてくれた。

 そして現れた桜の木に、僕はしばしの間言葉を失う。油画、というのだろう。太い大きな木にいくつも枝が伸びていて、ピンク色の桜が満開に色づいている。まるで、そこに本当に桜の木が存在しているように、僕は錯覚した。もう五月だから、桜なんて咲いていないというのに。

 同い年の女性が、こんなにも素晴らしい絵を描くことが出来るのかと、間近で見た僕は感動を覚える。知らず知らずのうちに「すごい……」と、素直な感想が口から漏れていた。

 多岐川さんは恥ずかしそうに頬を指先でかいて、再びキャンバスに布をかける。

「そんなにですよ。これでも、合評会では教授陣に厳しい言葉をもらいますから。それに、私は……」

「梓さん!」

 何かを言いかけた多岐川さんの言葉は、昇降口の方から聞こえて来た別の女性の声により阻害される。僕はその声にびくりとして、慌てて多岐川さんから一歩離れる。

 あぁ、そうか……そうだった……。

 そう考えている間にも、多岐川さんの名前を呼んだ女性はこちらへ近付いてくる。僕は逃げるように、彼女へ別れの言葉を口にした。

「それじゃあ、友達も来たみたいだし。僕も講義があるから、これで」

「あっ……」

 なにか言いかけたみたいだったが、それを聞いていたら多岐川さんの友人と鉢合わせてしまう。だから僕は、半ば無視をするように踵を返して車に乗り込んだ。

 最後にチラと、昇降口の方を見る。しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。

 時刻は八時五十八分。作品の提出締め切りに間に合ってほしいなと、もう会うことのないであろう彼女のことを思う。

 車を走らせて、開始時間に間に合わない一コマ目の講義へと向かう。信号に捕まって、無慈悲にもアナログの時計が九時を示す。

 大学生になって、初めての遅刻。だけど後悔はなかった。多岐川さんを送り届けるという目的は、達成することが出来たから。

 未だ車内に残る彼女の残り香。それが鼻を通り抜けていくたびに、胸が大きく鼓動する。その鼓動を感じながら、僕は大学への山道を登り続けた。