そもそも同じ大学の二回生だったとしても、同い年であるとは限らない。そんな当たり前の事実を、僕はかけらほども疑ってはいなかった。

 水無月と再会した時、彼女は何故か僕に対して首をかしげていた。振り返ってみれば、年上であるはずの多岐川さんに敬語を使っていなかったから、疑問に思っていたのだろう。

 焼き鳥屋でも、僕は勝手に多岐川さんのことを未成年だと思い込んでいた。意味深にくすくすと笑っていたのは、僕が同い年であると勘違いしていることを知ったからだ。勝手にそう思い込んで、余計な心配をしたことが今更ながらに恥ずかしくなってきた。

 アルバイト先だけでなく、普段から敬語を使っておくべきだった。本来なら僕が敬語を使って、多岐川さんは使わなくてもいいはずなのに。もしかすると、ずっと失礼な人だと思われていたのかもしれない。

 電話ですぐに謝ることもできた。けれど今は合評会に向けての作品制作に忙しいだろうから、多岐川さんの手を止めてしまうことがはばかられる。いや、怖いのだろう。彼女が本当はどう感じていたのか、それを知ってしまうのが怖い。

 だから僕は、フェスに出かける日の朝になっても、多岐川さんに電話をかけることができなかった。



 フェスの会場まで距離があるが、車で行くよりも公共交通機関を使った方がいいと思い、早朝に多岐川さんのアパート前に集合することを決めていた。三十分ほど早く到着すると、もうすでに彼女は外に出て僕のことを待ってくれていた。

 今日は長い髪がハーフアップにまとめられていて、涼しげな白色のTシャツにジーンズを着てスニーカーを履いている。フェスというものに行ったことがなかったが、おそらく彼女の服装から見て、動き回ることになるのだろう。

「おはよ……ございます、多岐川さん」

 話している途中で、多岐川さんが年上であることを思い出し、思わず変な敬語になってしまった。彼女は僕のことに気付き、ピクリと肩を震わせてこちらを見る。

「あ、おはようございます。滝本くん……」

 今日の彼女は、どこか元気がなさそうだった。というより、緊張しているのだろう。頬がほんのりと赤く染まっていて、長い髪の毛を指先でくるくると弄っている。視線は合わせてくれなかった。

 多岐川さんは、僕に好意を寄せてくれている。未だに信じられないけれど、荒井さんと水無月が二人揃って言っていたから本当なのだろう。そういうことを考えてしまうと、なんだか不思議な気持ちになってくる。

「あの、多岐川さ……」
「きょ、今日は天気がいいですね!」

 声を裏返しながら、彼女は僕の言葉を遮る。今まで勘違いをして、失礼なことをしていたのを謝ろうと思ったのに。

「う、うん。天気、いい……ですね」
「ぜ、絶好の夏フェス日和ですねっ!」

 空回りしてしまっている多岐川さんのことが、僕は心配になる、今日はずっと、このままなのだろうか。せっかくの彼女とすごす休みの日だというのに……このままずっと気まずいというのは、嫌だった。

 こういうのは、どちらかが歩み寄らなければ、自然な形に戻ることは決してない。むしろだんだんとお互いによそよそしくなって、修復できないほどに関係が乱れてしまう。そういうことを、僕は高校時代に痛いほど学んだ。

 だから僕は一度深呼吸をして、多岐川さんとの距離を詰める。びっくりしたのか半歩後ずさったけれど、彼女はそこにとどまってくれた。

「あの、聞いてください。多岐川さん」
「は、はい……」

 相変わらず視線は合わせてくれないが、先ほどよりも大人しくなってくれた。そして違和感に気付いたのか、視線を合わせないまま首をかしげる。

「なんで、敬語なんですか……?」

 多岐川さんの瞳は不安の色に揺れていた。それも当然だ。彼女は僕が敬語を使うことを極端に嫌がる。アルバイト中も、何度も敬語を外してくださいと主張してきたんだから。

「水無月から聞いたんです。多岐川さんは、僕より二つ年上だって」

 その真実を聞いた多岐川さんの瞳は、驚きで見開かれる。今まで話さなかったということは、おそらく知られたくなかったことなのだろう。いつかはバレることなのに。

「すみません。今までずっと、勘違いしてて。多岐川さんのこと、同い年かと思ってました」
「ごめん、なさい……」
「謝らないでください。勘違いしていたのは、僕の方なんですから」

 僕は彼女に歩み寄った上で、決めなければいけない。僕自身が、これからどうしたいのか。多岐川さんが喜んでくれて、自分がいつも通りでいられる方法を。彼女が許してくれるならば、きっと僕だけは普段の僕でいられるから。

「それで、折り入って相談なんですけど。敬語、使わなくてもいいですか? 失礼だとはわかってるんですけど、今まで通りの方が違和感がないので」

 僕の言葉で、多岐川さんはわずかに嬉しそうな表情を浮かべてくれた。年上の方に失礼だけど、彼女が嫌だというならば、僕も無理に使ったりはしない。

「あの、そうしていただけた方が嬉しいです……」
「そっか。それならよかった」

 僕も安心して、思わず笑顔になる。失礼な人だと思われたかもしれないと考えていたため、それが杞憂に終わって安心する。そもそも多岐川さんは、そういうことを考えるような人じゃないのに。

「というより、なんで今まで黙ってたの? お酒飲んでた時、すっごく心配したんだよ」
「えっと、恥ずかしくて……二回も浪人、しちゃったので……」
「別に、美大なら普通だと思うよ。それに、そこまでして夢を探しに行くのは、本当にすごいことだと思う。両親にも普通の大学に行くように説得されたんじゃない?」
「はい……一回目の時から、もうやんわりと説得されたので」
「それじゃあ、尚のことすごいよ。自分のやりたいことを貫いて、両親を説得して目標を達成するなんて。僕にはできないことだから」

 本当に、多岐川さんはすごい。ずっと失礼なことをしていたのは申し訳なかったけれど、水無月から彼女のことを聞いて、もっと多岐川さんのことが好きになった。

 僕は柄にもなく、いつもよりテンションが上がっている。恥ずかしいけれど、それでもいいと思った。多岐川さんに本心が伝わるのならば。それに今日は、待ちに待った休みの日なんだから。

「応援するよ。多岐川さんが夢を見つけるのを」
「あ、はい……」

 そう伝えてあげると、多岐川さんはようやくこちらを向いてくれる。それから僕の目を見て、薄くだけど微笑んでくれた。

 高校生の頃も、僕はこうすればよかったのかもしれない。水無月のことが気まずくても、避けたりせずに、こんな風に開き直ってしまえば、何かが変わっていたのかもしれない。けれど過ぎ去ってしまった過去をいくら振り返っても、あの頃に戻ることはできない。

 だから僕は、後悔のない選択をしていきたいと、強く思った。

「行こうか」

 そう言って、僕は歩き出す。遅れて多岐川さんも歩き出し、僕の半歩ほど後ろに並んでくれた。

 台風が過ぎ去り梅雨が明けて、夏の訪れを肌に感じる。見上げた空はどこまでも晴れ渡っていて、青く澄んでいた。そんな空の下で僕らは二人、いつのまにかいつものように笑いながら、話をしていた。