外は滝のような雨が降っていた。そういえば近々台風が来るという予報があったけれど、普段から車で学校へ向かっているため、今日がその日ということまでは覚えていなかった。
岡村さんは肩を落としながら傘もささずに帰って行き、荒井さんは折りたたみ傘を広げている。この雨じゃ、折りたたみ傘は何の意味もないだろう。
「待って荒井さん、車あるし送ってくよ。多岐川さんも」
そのお誘いに、荒井さんは顔をしかめる。何で私も誘ったんだよという風に、呆れた視線を向けられた。しかしすぐに多岐川さんが僕の言葉に乗ってくれる。
「は、はい。申し訳ないですけど、お願いしてもいいですか? 渚ちゃんも」
多岐川さんがそう言うならと、荒井さんはまた、ため息を吐いて折りたたみ傘を閉じてくれた。それから二人を後部座席に乗せて、車を走らせる。響くのはエンジン音と、雨が車の屋根を叩く音だけで、誰も何も話そうとしない。
程なくして二人の住んでいるアパートに着き、車を停車させる。荒井さんはすぐに「送ってくれて、ありがと」とお礼を言って、右側のドアから出て行く。
待っててくださいと言われた僕は、多岐川さんの意思が固まるのをジッと待ち続けた。そして車のアナログ時計が五分ほど進んだ頃、ようやくか細い声で、彼女は話し始めてくれた。
「あの、最近変な態度取っちゃって、すみません……」
「僕の方こそ、なんかごめん……」
謝るようなことじゃないと思ったけれど、多岐川さんが謝ったから僕も謝罪する。再び長い沈黙の後、またゆっくりと話し始めてくれた。
「次の休みの日に、音楽フェスがあるんですけど、友達が行けなくなったので、一枚チケットが余ってるんです……」
休みの日と言われて、僕はすぐに次の土日の予定を頭の中で確認していた。しかしどちらも日中に、スーパーのバイトの予定が入っている。
「それで、土曜日は私の予定が入ってるので、日曜日に一緒に行けたらと思ってるんですけど……」
「行くよ」
二つ返事で、僕は了承した。日曜日は、なんとしてでも誰か別の人にシフトを代わってもらおう。迷惑がかかるかもしれないけれど、多岐川さんと一緒に出かけたかった。
後部座席に座っているため、多岐川さんの表情は見えない。だけどホッとしているのであろうことは、車内の空気で感じ取ることができた。張り詰めていたものが、先ほどよりも和らいでいる。
「じゃ、じゃあこれ、当日のチケットなので……! し、失礼しました!」
多岐川さんは半ば押し付けるように、僕にチケットを渡してくれた。それから慌てて車を出ていつものように僕のそばから離れていくけれど、今回は違う。今度会う約束もしたし、雨に当たらない場所に避難してから、こちらを振り返り頭を下げてくれた。僕は彼女に手を振って、部屋に入っていったのを確認してから車を走らせる。
一人暮らしをしているアパートへ着いて、まずは荒井さんにバイトを交代出来ないかメールで相談した。どこまで彼女が協力してくれていたのかわからないが、二つ返事で交代を引き受けてくれる。電話を切る前に「頑張ってね」と、応援の言葉をかけてくれた。
スマホをズボンのポケットにしまい、僕は思う。きっと僕は、多岐川さんのことが好きなのだろう。それを一度認めてしまうと、自分の絡まっていた複雑な気持ちが一気に軽くなった。
そして、タイミングよく震えだす僕のスマホ。再びそれを取り出して画面を見ると、水無月からの着信が来ていた。僕はすぐに、応答のボタンをタップする。
「もしもし」
『もしもし、先輩』
フラれてしまってから、一度も聞いていなかった水無月の声。たった一ヶ月ほどだというのに、ずいぶんと彼女の声が懐かしく聞こえた。
『今、梓さんから電話で聞きました。今度、一緒に遊びにいくみたいですね』
「もうその話聞いたんだ」
『はい。というより、前から梓さんに相談されてたんですよ。滝本さんのことが気になってるって』
まさか荒井さんだけでなく、水無月にまで相談していたなんて。多岐川さんはもしかすると、僕よりもずっとおしゃべりなのかもしれない。
『先輩は、もう梓さんの気持ちに気付いていますか?』
「うん、まあ。多岐川さんの友達に聞いて、初めて知った感じだけど……」
直接荒井さんから、多岐川さんが僕のことを好きだという話を聞かなければ、ずっと半信半疑だった。正直今でも信じられないけれど、多岐川さんのさっきの反応を見ていればさすがに理解できるし、そもそも荒井さんが嘘をつくメリットがない。
『たぶん先輩も、梓さんのことが好きなんですよね』
見透かされていた。僕は驚いて、しばらくの間言葉を失ってしまう。
「どうして、わかったの?」
『初めから、そんな予感がしてたんです。きっと先輩は、梓さんのことが好きになるって』
答えになっていないような気もしたが、水無月がそう言うなら、本当に最初からわかっていたのかもしれない。
『それで先輩のことだから、きっと迷っているはずです。ずっと水無月のことが好きだったのに、そんな簡単に多岐川さんのことを好きになっていいのかなって』
「……すごいな。そんなことまでわかるんだね」
『先輩は、優しい人ですから』
水無月がくすりと微笑んだのが伝わってくる。逆に僕は、そんなにわかりやすい人間なのだろうかと、少しだけ恥ずかしくなった。
それから水無月は間を置いた後、諭すように僕に言った。
『私のことは気にせずに、梓さんを幸せにしてあげてください』
僕の大好きな君は、そんな風に僕のことを後押ししてくれる。
「牧野のことは、応援しないの?」
少し、意地悪な質問だったかもしれないと反省する。
『今は、先輩の気持ちを大切にしたいんです。先輩が梓さんのことを好きなら、私は遥香と一緒に泣いてあげます。そう決めちゃいました』
友達のためなら、一緒に悲しんであげる。そういう水無月の優しいところを、僕は好きになった。いつまでたってもその素敵なところが変わっていないことに、僕はやっぱり安心する。
『だからもう、私のことは……』
続く言葉を、僕は予想できていた。だから、彼女の言葉を遮る。
「忘れないよ」
ハッキリとそう言い切って、僕は続けた。
「僕は、水無月が好きだったことを、絶対に忘れたりなんてしない。今だって、友達思いな水無月のことが好きだから。水無月のことが好きだったことを、否定なんてしたくない」
これから先、僕は絶対に水無月のことを嫌いになんてなれないだろう。フラれてしまったから忘れてしまおうなんて、そんなことは考えたくない。嫌いになんて、なりたくない。
「だから、忘れたりなんてしない」
おそらく僕はこれから先ずっと、この初恋の思い出を引きずって生きて行く。けれど、それでもいいと思えた。多岐川さんが教えてくれたから。
きっといつか、水無月のさようならを好きになれる時が来るはずだから。
「だけど今は、多岐川さんのことが好きなんだ。告白したのに、すぐに別の人を好きになっちゃって、ごめん」
水無月の、すんと鼻をすする音が聞こえてくる。僕は、何かまずいことを言ったかと不安に思った。
『……先輩なら、わかりますよね。私は、私の大切な人が幸せになってほしいんです。だから、謝ったりしないでください』
「ごめん」
くすりと水無月は微笑んだ。つい反射的に謝ってしまった僕は、思わず頬をかく。そして水無月の大切な人の中に僕も含まれていたのだということに気付いて、心の中が嬉しさで満たされた。
『昔から、先輩は謝ってばかりでしたね』
「そ、そうだった?」
『はい。先輩は気が弱いですから。何回も、謝られたのを覚えてます。私は一つも悲しんでませんので、もう謝ったりしないでください。先輩は謝罪禁止です』
また反射的に謝ってしまいそうになり、思わずその言葉を飲み込む。それを水無月が察したのか、またくすりと笑みをこぼした。
『幸せに、なってくださいね』
「まだ、多岐川さんが告白を受けてくれるかわからないけど。あの、勘違いかもしれないし……」
『なんで今更弱気になってるんですか!』
彼女の叱咤に僕はびくりと震える。それからおかしくなったのか、水無月は声を出しながら笑った。僕も思わず口元が緩み、二人でひとしきり笑った後、彼女は『そういえば』と、前置きをして話し始めた。
『先輩に、黙ってた話があるんです』
「黙ってた話?」
『はい』
突然そう言われて内容を予測するも、何も思い浮かびはしなかった。
『梓さんのことです。実は初めて会った時から言おうと思ってたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて。聞きたいですか?』
何故だか水無月は、もったいつけるように聞いてくる。多岐川さんの話は聞きたいに決まっているから、僕は素直に「うん」と返事をした。
そして僕は知ることになる。多岐川さんの秘密を。
『梓さん、美大へ入るのに二浪してるんです。だから二つ年上なので、先輩は敬語を使った方がいいかもしれません』
何も知らなかった僕は、しばしの間言葉を失ってしまった。
岡村さんは肩を落としながら傘もささずに帰って行き、荒井さんは折りたたみ傘を広げている。この雨じゃ、折りたたみ傘は何の意味もないだろう。
「待って荒井さん、車あるし送ってくよ。多岐川さんも」
そのお誘いに、荒井さんは顔をしかめる。何で私も誘ったんだよという風に、呆れた視線を向けられた。しかしすぐに多岐川さんが僕の言葉に乗ってくれる。
「は、はい。申し訳ないですけど、お願いしてもいいですか? 渚ちゃんも」
多岐川さんがそう言うならと、荒井さんはまた、ため息を吐いて折りたたみ傘を閉じてくれた。それから二人を後部座席に乗せて、車を走らせる。響くのはエンジン音と、雨が車の屋根を叩く音だけで、誰も何も話そうとしない。
程なくして二人の住んでいるアパートに着き、車を停車させる。荒井さんはすぐに「送ってくれて、ありがと」とお礼を言って、右側のドアから出て行く。
待っててくださいと言われた僕は、多岐川さんの意思が固まるのをジッと待ち続けた。そして車のアナログ時計が五分ほど進んだ頃、ようやくか細い声で、彼女は話し始めてくれた。
「あの、最近変な態度取っちゃって、すみません……」
「僕の方こそ、なんかごめん……」
謝るようなことじゃないと思ったけれど、多岐川さんが謝ったから僕も謝罪する。再び長い沈黙の後、またゆっくりと話し始めてくれた。
「次の休みの日に、音楽フェスがあるんですけど、友達が行けなくなったので、一枚チケットが余ってるんです……」
休みの日と言われて、僕はすぐに次の土日の予定を頭の中で確認していた。しかしどちらも日中に、スーパーのバイトの予定が入っている。
「それで、土曜日は私の予定が入ってるので、日曜日に一緒に行けたらと思ってるんですけど……」
「行くよ」
二つ返事で、僕は了承した。日曜日は、なんとしてでも誰か別の人にシフトを代わってもらおう。迷惑がかかるかもしれないけれど、多岐川さんと一緒に出かけたかった。
後部座席に座っているため、多岐川さんの表情は見えない。だけどホッとしているのであろうことは、車内の空気で感じ取ることができた。張り詰めていたものが、先ほどよりも和らいでいる。
「じゃ、じゃあこれ、当日のチケットなので……! し、失礼しました!」
多岐川さんは半ば押し付けるように、僕にチケットを渡してくれた。それから慌てて車を出ていつものように僕のそばから離れていくけれど、今回は違う。今度会う約束もしたし、雨に当たらない場所に避難してから、こちらを振り返り頭を下げてくれた。僕は彼女に手を振って、部屋に入っていったのを確認してから車を走らせる。
一人暮らしをしているアパートへ着いて、まずは荒井さんにバイトを交代出来ないかメールで相談した。どこまで彼女が協力してくれていたのかわからないが、二つ返事で交代を引き受けてくれる。電話を切る前に「頑張ってね」と、応援の言葉をかけてくれた。
スマホをズボンのポケットにしまい、僕は思う。きっと僕は、多岐川さんのことが好きなのだろう。それを一度認めてしまうと、自分の絡まっていた複雑な気持ちが一気に軽くなった。
そして、タイミングよく震えだす僕のスマホ。再びそれを取り出して画面を見ると、水無月からの着信が来ていた。僕はすぐに、応答のボタンをタップする。
「もしもし」
『もしもし、先輩』
フラれてしまってから、一度も聞いていなかった水無月の声。たった一ヶ月ほどだというのに、ずいぶんと彼女の声が懐かしく聞こえた。
『今、梓さんから電話で聞きました。今度、一緒に遊びにいくみたいですね』
「もうその話聞いたんだ」
『はい。というより、前から梓さんに相談されてたんですよ。滝本さんのことが気になってるって』
まさか荒井さんだけでなく、水無月にまで相談していたなんて。多岐川さんはもしかすると、僕よりもずっとおしゃべりなのかもしれない。
『先輩は、もう梓さんの気持ちに気付いていますか?』
「うん、まあ。多岐川さんの友達に聞いて、初めて知った感じだけど……」
直接荒井さんから、多岐川さんが僕のことを好きだという話を聞かなければ、ずっと半信半疑だった。正直今でも信じられないけれど、多岐川さんのさっきの反応を見ていればさすがに理解できるし、そもそも荒井さんが嘘をつくメリットがない。
『たぶん先輩も、梓さんのことが好きなんですよね』
見透かされていた。僕は驚いて、しばらくの間言葉を失ってしまう。
「どうして、わかったの?」
『初めから、そんな予感がしてたんです。きっと先輩は、梓さんのことが好きになるって』
答えになっていないような気もしたが、水無月がそう言うなら、本当に最初からわかっていたのかもしれない。
『それで先輩のことだから、きっと迷っているはずです。ずっと水無月のことが好きだったのに、そんな簡単に多岐川さんのことを好きになっていいのかなって』
「……すごいな。そんなことまでわかるんだね」
『先輩は、優しい人ですから』
水無月がくすりと微笑んだのが伝わってくる。逆に僕は、そんなにわかりやすい人間なのだろうかと、少しだけ恥ずかしくなった。
それから水無月は間を置いた後、諭すように僕に言った。
『私のことは気にせずに、梓さんを幸せにしてあげてください』
僕の大好きな君は、そんな風に僕のことを後押ししてくれる。
「牧野のことは、応援しないの?」
少し、意地悪な質問だったかもしれないと反省する。
『今は、先輩の気持ちを大切にしたいんです。先輩が梓さんのことを好きなら、私は遥香と一緒に泣いてあげます。そう決めちゃいました』
友達のためなら、一緒に悲しんであげる。そういう水無月の優しいところを、僕は好きになった。いつまでたってもその素敵なところが変わっていないことに、僕はやっぱり安心する。
『だからもう、私のことは……』
続く言葉を、僕は予想できていた。だから、彼女の言葉を遮る。
「忘れないよ」
ハッキリとそう言い切って、僕は続けた。
「僕は、水無月が好きだったことを、絶対に忘れたりなんてしない。今だって、友達思いな水無月のことが好きだから。水無月のことが好きだったことを、否定なんてしたくない」
これから先、僕は絶対に水無月のことを嫌いになんてなれないだろう。フラれてしまったから忘れてしまおうなんて、そんなことは考えたくない。嫌いになんて、なりたくない。
「だから、忘れたりなんてしない」
おそらく僕はこれから先ずっと、この初恋の思い出を引きずって生きて行く。けれど、それでもいいと思えた。多岐川さんが教えてくれたから。
きっといつか、水無月のさようならを好きになれる時が来るはずだから。
「だけど今は、多岐川さんのことが好きなんだ。告白したのに、すぐに別の人を好きになっちゃって、ごめん」
水無月の、すんと鼻をすする音が聞こえてくる。僕は、何かまずいことを言ったかと不安に思った。
『……先輩なら、わかりますよね。私は、私の大切な人が幸せになってほしいんです。だから、謝ったりしないでください』
「ごめん」
くすりと水無月は微笑んだ。つい反射的に謝ってしまった僕は、思わず頬をかく。そして水無月の大切な人の中に僕も含まれていたのだということに気付いて、心の中が嬉しさで満たされた。
『昔から、先輩は謝ってばかりでしたね』
「そ、そうだった?」
『はい。先輩は気が弱いですから。何回も、謝られたのを覚えてます。私は一つも悲しんでませんので、もう謝ったりしないでください。先輩は謝罪禁止です』
また反射的に謝ってしまいそうになり、思わずその言葉を飲み込む。それを水無月が察したのか、またくすりと笑みをこぼした。
『幸せに、なってくださいね』
「まだ、多岐川さんが告白を受けてくれるかわからないけど。あの、勘違いかもしれないし……」
『なんで今更弱気になってるんですか!』
彼女の叱咤に僕はびくりと震える。それからおかしくなったのか、水無月は声を出しながら笑った。僕も思わず口元が緩み、二人でひとしきり笑った後、彼女は『そういえば』と、前置きをして話し始めた。
『先輩に、黙ってた話があるんです』
「黙ってた話?」
『はい』
突然そう言われて内容を予測するも、何も思い浮かびはしなかった。
『梓さんのことです。実は初めて会った時から言おうと思ってたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて。聞きたいですか?』
何故だか水無月は、もったいつけるように聞いてくる。多岐川さんの話は聞きたいに決まっているから、僕は素直に「うん」と返事をした。
そして僕は知ることになる。多岐川さんの秘密を。
『梓さん、美大へ入るのに二浪してるんです。だから二つ年上なので、先輩は敬語を使った方がいいかもしれません』
何も知らなかった僕は、しばしの間言葉を失ってしまった。