慌てて目を開けると、布団の上に多岐川さんの姿はなかった。立ち上がると、肩に毛布がかけられていたことに気付く。耳をすませばドアの向こうから油の弾ける音が聞こえてきて、ベーコンの焼ける匂いが漂ってきていた。
ドアを開けてそちらへ向かうと、多岐川さんがエプロンを着けて朝ごはんを作っていた。髪がほんのり濡れていて、昨日着ていた服とは別のものを着ている。僕が寝ている間に、お風呂に入ったのだろう。そう考えてしまうと、一気に胸の鼓動が速まった。
僕はかぶりを振って、彼女に声をかける。
「もう、平気なの?」
彼女もこちらへ気付いたようで、なぜか最初は顔を赤くしたが、すぐに笑みを浮かべる。
「はい。まだちょっと頭痛いですけど、大丈夫です」
「手伝うよ」
「これもお礼なので、座っていてください」
多岐川さんに全てを任せるのは気が引けたが、昨日から無駄に彼女と距離が近い気がする。近付き過ぎて引かれてしまうのもよくないため、素直に居間に戻った。
やがて朝ごはんを作り終えた多岐川さんは、テーブルの上にご飯とベーコンとスクランブルエッグ、それとお味噌汁を並べてくれた。多岐川さんから割り箸をもらって、僕らは手を合わせて食べ始める。
「ごめんね。お世話になっちゃって」
「気にしないでください。滝本さんがいなかったら、ここまで帰れなかったと思うので」
それから彼女は、頬を赤く染める。
「本当に、昨日はすみません……私、調子に乗ってお酒飲みすぎることがあるんです……」
「今度から、一杯までにするとか自分で決めておきなよ。そばにいたのが僕だったからよかったけど、もし危ない人だったら連れてかれたかもしれないし」
「はい……」
すごい反省しているみたいだから、僕はそれ以上何も言わない。多岐川さんの料理を褒めて、彼女が喜んでくれて、楽しい朝食だった。
洗い物が終わった後、僕は期待で胸を膨らませていると、多岐川さんは部屋の隅に置いてあるギターケースを手に取った。昨日の約束を、覚えていてくれたみたいだ。
「あんまり上手くないですけど、弾いてみますね」
「うん。ギターの経験、長いの?」
「大学から始めたので、まだ一年とちょっとです。ほんと、下手ですよ」
多岐川さんはそう言うが、正直上手い下手は関係ないと思う。僕は彼女がギターを弾いている姿を見たいのだから。
彼女はアコースティックギターを取り出して、すぐに弾き始めるのかと思いきや、ギターの頭に何かの機械を取り付けた。そして弦を一本一本鳴らして、ネジのようなものを慎重に動かしている。おそらくチューニングというものをしているのだろう。
それが終わってから、多岐川さんは気恥ずかしそうに、あらためて僕を見た。
「それじゃあ、始めますね」
「うん」
多岐川さんは左手の指で弦を押さえ、右手に持っているピックを振り下ろした。何度も弦を搔き鳴らし、曲を表現する。素人目に見て、その姿は少しぎこちなくも見えたけれど、彼女の演奏は様になっていた。
透き通るような歌声は、耳にとても心地いい。初めて聞いた曲だったが、スッと歌詞の情景が浮かんでくる。大切な人と別れてしまった女の子。今でも彼のことを忘れられない辛さが、ヒシヒシと心に伝わってくる。
僕も、同じだった。水無月は恋人じゃなかったけれど、大切な女の子であることに変わりはない。そんな女の子にフラれてしまって、今でもあの時の出来事を思い出してしまう。いつかこの辛さを、思い出に昇華することができるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、彼女の演奏は終わった。
しばしの間その余韻に浸っていると、続けざまに多岐川さんはギターを鳴らし始める。サービス、みたいなものなのだろうか。二曲目も、知らない曲だった。
先ほどの曲と似通っている。どちらも、大切な相手がいなくなったことを嘆く失恋ソング。けれど二曲目は、一曲目の時よりも心にズシリと響いて、思わず彼女の歌声に聞き入ってしまった。
僕の大切な君が決めたことだから。たぶんさよならを好きになれるかもしれない。
その歌詞を聞いて、僕はなぜか心が苦しくなる。そんな風に、思えることができるのだろうか。大切な人と別れることを、好きになれるなんてことが。
僕は、最後に水無月に言われた言葉を思い出す。
『さようなら』
あのさようならは、いつまでも頭の中からいなくなってはくれない。
気付いた時には演奏が終わっていて、多岐川さんが自信なさげに僕のことを見つめていた。僕はそんな彼女に、拍手を送る。
「すごい。とっても上手で、思わず聞き入ってた」
「そんな、そんなことないです……」
彼女は謙遜をして、頬をほんのり赤らめながら頭をかく。照れている姿が微笑ましくて、僕は精一杯のありがとうを込めて拍手を続けた。
それから僕は、彼女へ質問する。
「でも、どうして二曲とも失恋ソングにしたの?」
「えっと、滝本さんが少しでも元気になるように、ですかね。こんなことでしか、あなたを励ますことができませんから。少しでも前向きになってほしいなって思って……」
多岐川さんが、そんなことを考えてくれていたなんて知らなかった。僕はただ純粋に嬉しくなって、鼻の奥がツンとする。
「あ、でも、失恋ソングより、明るい曲の方がよかったかもしれません! アンコール! 明るい曲弾きます!」
僕が何かを言う前に、照れ隠しのように再びギターの弦を搔き鳴らし始める。明るいポップな曲で、昨年流行ったドラマの曲だっため僕でも知っていた。
多岐川さんの歌声に合わせて、僕が手拍子を入れる。そうすると彼女は歌いながら喜んでくれて、だんだんとお互いにテンションが上がってくる。僕は楽器なんて弾けないけれど、なんだか二人で演奏しているような気分だった。
ドアを開けてそちらへ向かうと、多岐川さんがエプロンを着けて朝ごはんを作っていた。髪がほんのり濡れていて、昨日着ていた服とは別のものを着ている。僕が寝ている間に、お風呂に入ったのだろう。そう考えてしまうと、一気に胸の鼓動が速まった。
僕はかぶりを振って、彼女に声をかける。
「もう、平気なの?」
彼女もこちらへ気付いたようで、なぜか最初は顔を赤くしたが、すぐに笑みを浮かべる。
「はい。まだちょっと頭痛いですけど、大丈夫です」
「手伝うよ」
「これもお礼なので、座っていてください」
多岐川さんに全てを任せるのは気が引けたが、昨日から無駄に彼女と距離が近い気がする。近付き過ぎて引かれてしまうのもよくないため、素直に居間に戻った。
やがて朝ごはんを作り終えた多岐川さんは、テーブルの上にご飯とベーコンとスクランブルエッグ、それとお味噌汁を並べてくれた。多岐川さんから割り箸をもらって、僕らは手を合わせて食べ始める。
「ごめんね。お世話になっちゃって」
「気にしないでください。滝本さんがいなかったら、ここまで帰れなかったと思うので」
それから彼女は、頬を赤く染める。
「本当に、昨日はすみません……私、調子に乗ってお酒飲みすぎることがあるんです……」
「今度から、一杯までにするとか自分で決めておきなよ。そばにいたのが僕だったからよかったけど、もし危ない人だったら連れてかれたかもしれないし」
「はい……」
すごい反省しているみたいだから、僕はそれ以上何も言わない。多岐川さんの料理を褒めて、彼女が喜んでくれて、楽しい朝食だった。
洗い物が終わった後、僕は期待で胸を膨らませていると、多岐川さんは部屋の隅に置いてあるギターケースを手に取った。昨日の約束を、覚えていてくれたみたいだ。
「あんまり上手くないですけど、弾いてみますね」
「うん。ギターの経験、長いの?」
「大学から始めたので、まだ一年とちょっとです。ほんと、下手ですよ」
多岐川さんはそう言うが、正直上手い下手は関係ないと思う。僕は彼女がギターを弾いている姿を見たいのだから。
彼女はアコースティックギターを取り出して、すぐに弾き始めるのかと思いきや、ギターの頭に何かの機械を取り付けた。そして弦を一本一本鳴らして、ネジのようなものを慎重に動かしている。おそらくチューニングというものをしているのだろう。
それが終わってから、多岐川さんは気恥ずかしそうに、あらためて僕を見た。
「それじゃあ、始めますね」
「うん」
多岐川さんは左手の指で弦を押さえ、右手に持っているピックを振り下ろした。何度も弦を搔き鳴らし、曲を表現する。素人目に見て、その姿は少しぎこちなくも見えたけれど、彼女の演奏は様になっていた。
透き通るような歌声は、耳にとても心地いい。初めて聞いた曲だったが、スッと歌詞の情景が浮かんでくる。大切な人と別れてしまった女の子。今でも彼のことを忘れられない辛さが、ヒシヒシと心に伝わってくる。
僕も、同じだった。水無月は恋人じゃなかったけれど、大切な女の子であることに変わりはない。そんな女の子にフラれてしまって、今でもあの時の出来事を思い出してしまう。いつかこの辛さを、思い出に昇華することができるのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、彼女の演奏は終わった。
しばしの間その余韻に浸っていると、続けざまに多岐川さんはギターを鳴らし始める。サービス、みたいなものなのだろうか。二曲目も、知らない曲だった。
先ほどの曲と似通っている。どちらも、大切な相手がいなくなったことを嘆く失恋ソング。けれど二曲目は、一曲目の時よりも心にズシリと響いて、思わず彼女の歌声に聞き入ってしまった。
僕の大切な君が決めたことだから。たぶんさよならを好きになれるかもしれない。
その歌詞を聞いて、僕はなぜか心が苦しくなる。そんな風に、思えることができるのだろうか。大切な人と別れることを、好きになれるなんてことが。
僕は、最後に水無月に言われた言葉を思い出す。
『さようなら』
あのさようならは、いつまでも頭の中からいなくなってはくれない。
気付いた時には演奏が終わっていて、多岐川さんが自信なさげに僕のことを見つめていた。僕はそんな彼女に、拍手を送る。
「すごい。とっても上手で、思わず聞き入ってた」
「そんな、そんなことないです……」
彼女は謙遜をして、頬をほんのり赤らめながら頭をかく。照れている姿が微笑ましくて、僕は精一杯のありがとうを込めて拍手を続けた。
それから僕は、彼女へ質問する。
「でも、どうして二曲とも失恋ソングにしたの?」
「えっと、滝本さんが少しでも元気になるように、ですかね。こんなことでしか、あなたを励ますことができませんから。少しでも前向きになってほしいなって思って……」
多岐川さんが、そんなことを考えてくれていたなんて知らなかった。僕はただ純粋に嬉しくなって、鼻の奥がツンとする。
「あ、でも、失恋ソングより、明るい曲の方がよかったかもしれません! アンコール! 明るい曲弾きます!」
僕が何かを言う前に、照れ隠しのように再びギターの弦を搔き鳴らし始める。明るいポップな曲で、昨年流行ったドラマの曲だっため僕でも知っていた。
多岐川さんの歌声に合わせて、僕が手拍子を入れる。そうすると彼女は歌いながら喜んでくれて、だんだんとお互いにテンションが上がってくる。僕は楽器なんて弾けないけれど、なんだか二人で演奏しているような気分だった。