多岐川さんに案内されてたどり着いたアパートの階段を上っている時、彼女は唐突に「あ、もうヤバイかも……」と呟いた。僕が「えっ?」と訊き返すと、「ごめん、吐きそう……私、右端の部屋……」と先ほどより苦しげに返してくる。近所迷惑だと思ったが、慌てて階段を駆け上がり、一番右端の部屋へダッシュする。

 たどり着いた僕はドアノブを回して……当然のごとく鍵がかかっていた。

「多岐川さん、鍵は?!」
「カバンの中……」

 女性のカバンの中を漁るのは気が引けたが、緊急事態だと割り切り「ごめん」と謝って中から鍵を取り出した。それを使い部屋の中へ入り、照明のボタンを押す。暗い室内は明るくなり、左手にトイレがあることを確認した。多岐川さんに靴を脱いでもらってから、トイレの手前まで連れて行き、ようやく彼女を床に下ろす。

 多岐川さんはトイレの中へ入って行き、僕はしばしの間耳を塞いだ。しばらくすると水の流れる音が聞こえてきて、塞いでいた耳を解放する。

 やがて、トイレの中から多岐川さんが出てくる。楽になったか聞こうかと思ったが、出てきた途端に床へ座り込んでしまったから、まだおそらく調子がよくないのだろう。

「水持ってくるから、食器棚開けていい?」

 コクリと頷いたのを見て、キッチンにある棚からガラス製のコップを取り出した。水を汲んで多岐川さんに手渡すと、彼女はそれを一気に飲み干す。

 それから泣きそうな表情を浮かべながら、「もう、お嫁にいけない……」と呟いた。

「気にしないで。耳塞いでたし、それに僕しか知らないから」
「うぅ……」
「とりあえず、居間に行こうよ。ずっとここにいるのも変だし……居間、上がってもいいかな?」

 多岐川さんをアパートへ送り届けたのだから、もう帰っても問題ないのだろうけれど、純粋に彼女のことが心配だった。体調の悪い女の子を放っておくなんてこと、僕には出来ない。

「待って、ちょっと片付けます……」
「僕は気にしないよ」
「ううん、これ以上恥の上塗りしたくないので……」

 そこまで言うならと、僕は彼女に従った。多岐川さんが居間に行って、五分ほど経った頃だろうか。そろそろとドアが開かれて、「入ってもいいですよ」と言われた。

 部屋に入ってみたが、それほど散らかっている様子はなく、かといって今まで散らかっていたようにも見えなかった。
僕の部屋より物が多いのは、きっと女の子だからなのだろう。机の上に可愛らしい子犬のぬいぐるみが置かれていたり、床の上にはピンク色の丸いクッションがある。節々に女の子らしさが垣間見え、先ほどから漂っている甘い匂いに僕は少しクラクラとした。

 上の空でそんなことを考えていると、多岐川さんは丸いクッションを枕にして横になる。まだ顔は青白い。

「ごめん、ごめんね滝本くん……ちゃんと謝りたいけど、頭痛がひどいから後日しっかりお礼するね……」
「いや、本当気にしないで。止めなかった僕も悪いから。布団出す?」

 あれこれ女の子の部屋を触るのはよくないと思ったが、本当にしんどそうにしているから仕方ないのだと、また自分に言い聞かせる。実際多岐川さんは頷いたし、おそらく寝心地が悪いのだろう。

 僕は収納場所から布団と毛布を一式取り出して、床に敷いてあげる。その際布団に染み付いた今までより強い彼女の匂いが辺りに漂ったけれど、努めて冷静を装った。

 多岐川さんは、青色の薄手の上着を脱いで布団の上へと横になる。その上着を受け取って畳もうとしたとき、下から二つ目のボタンが取れかかっていることに気付く。酔っ払っている時に、どこかへ引っ掛けたのだろうか。

「多岐川さん、裁縫道具ある?」
「裁縫道具、ですか?」
「上着のボタン取れかかってるから」

 僕の言葉に納得したのか、多岐川さんは向こうにある棚の一番下を指差す。

 立ち上がって取りに行こうとすると、部屋の隅に大きな黒いギターケースが二つ置かれていることに気付き、思わずそれに近付いていた。

「多岐川さんって、ギター弾けるの?」
「あ、はい。一応、弾けます」
「へぇ、すごいね。なんか、カッコいい」

 よく見ると、二つのギターケースは大きさが違っていた。おそらくアコースティックギターとエレキギターなのだろう。そこで僕は、ふとあることを思いついた。

「体調が治ったら、多岐川さんの演奏してるとこ聞かせてよ。それがお礼ってことで、いいかな?」

 多岐川さんの方を振り返ると、やや恥ずかしそうに僕のことを見つめていた。しかしわずかな沈黙の後、控えめに頷いてくれる。僕はなんだか嬉しくなって、柄にもなく自然と笑顔を浮かべてしまった。

 棚から裁縫道具を見つけると、糸と短めの針を取り出し二本取りにして、玉結びをする。そんな僕の姿を見て、多岐川さんは「おばあちゃんみたい……」と呟いた。僕は苦笑して、一度取れかかっている糸を外してから、あらためてボタンを縫い付ける。そして見えないように裏側に玉止めを作って、残った糸を切った。

 あらためて上着を畳み直して多岐川さんを見ると、なぜか僕を見て目を輝かせていた。

「えっ、どうしたの?」
「すごいなって、思ったんです。私がやると時間かかっちゃうので」
「慣れれば簡単だよ」
「滝本くん、器用なんだと思います」
「そんなこと、ないと思うけど」

 謙遜したが、褒められたため一応お礼を言って、僕は立ち上がった。

「じゃあ、もう帰るよ」
「えっ……」

 唐突に、彼女は不安げな表情を浮かべて僕のことを見上げてくる。首をかしげると、彼女は毛布を持ち、鼻から下までを隠してしまった。

「どうしたの?」
「あの、もう夜も遅いので、泊まっていった方がいいかもしれません……」
「いや、女の子の部屋に泊まるなんてダメでしょ」
「でも、危ないですから……」

 どうして、彼女がそこまで僕を引き止めるのか分からなかった。もう僕は成人しているし、こんな時間に出歩いても何の問題もない。そこまで考えて、もしかすると多岐川さんは、まだ酔いが覚めていないのかもしれないと思った。

「もしかして、まだ酔ってる?」

 よく見れば、顔がまだほんのりと赤い。あれだけ飲めば、酔いが覚めるのに時間がかかるのかもしれない。

「わかりません……ただ、まだ気持ち悪いです……」

 正直、僕が止めなかったのも悪いけれど、あんなにお酒を飲んで潰れたのは、多岐川さんの自己責任だ。けれど自己責任だからといって、体調の悪い彼女を一人にしておくことは一抹の不安を覚える。立ち上がれなくて、布団の上に吐き出してしまったりしたら大変だ。

 僕は一つため息をついて、再び床の上に腰を落ち着けた。

「体調が悪いなら、泊まってくよ」

 僕がそう言ってあげると、多岐川さんはすんと鼻をすすった。

「すみません。無理を言ってしまって……」
「ううん。一人暮らしで風邪引いた時、大変だってこと僕も知ってるから」
「また、お礼しますので……」

 僕は彼女の言葉に苦笑する。偶然にも多岐川さんのことを助けて、お礼にバイト先を紹介してもらって、話を聞いてもらって、彼女のことを介抱して。あらためて振り返ってみると、不思議な関係だなと思った。僕らのこのお礼は、いつになったら途切れるのだろうと考えて、そういう日が来たとしたら、きっと僕は寂しく思うんだろうなと、そんなことをふと感じた。

 それから部屋の電気を消して、彼女のすぐそばに腰を下ろす。

 カーテンの隙間から月明かりが漏れていて、多岐川さんの姿はぼんやりとだけ視認できた。

「すみません……泊まってくださいと言ったのに、お布団がなくて……」
「もともと寝るつもりはなかったからいいよ」
「お布団、少し使いますか……?」

 僕はまた、苦笑する。ありえない提案をしてしまったと、多岐川さんも理解したのだろう。それから布団の話題が上がることはなかった。

「そういえば、部屋の中すごい片付いてるよね。美大生だから、キャンバスとかいっぱい置いてあるのかと思ってた」
「アパートを汚したら、管理人さんに怒られちゃいますので。絵を描くときは、共同アトリエを使ってるんです」
「共同アトリエ?」
「ここから割と近い場所にあるんですけど、アパートの一室を何人かで折半して借りてるんです。管理人さんが美大生の事情をよく知ってるので、アトリエとして使用できるんですよ」
「へぇ、そんな話、初めて聞いたよ。なんか、かっこいい」

 そういうところは、美大の周辺ならではなのかもしれない。

「美大には、どうして入ろうと思ったの?」
「昔から、私には絵しかないなって思ってたんです。夢とかも特になくて、一番やりたいことが絵を描くことだったので。美大に行けば、何かやりたいことが見つかるかもって、そんな安易な考えです」

 多岐川さんは安易な考えだと言ったけれど、自分にはこれしかないというものが明確にあって、かつ自分が本当にやりたいことを見つけようとしているなんて、すごい人なんだなと思った。夢を見つけることだって、一つの目標なのだから。

「滝本さんは、何か夢とかないんですか?」
「えっ、僕?」
「はい」

 そう聞かれて、僕はしばらく返答に迷った。けれど答えはもう、ずいぶんと前から決められていた。

「良い会社に、就職することかな。公務員とかも、一応目指してるんだけど」

 本当に、つまらない夢。多岐川さんと比べてしまうと、笑ってしまうほどつまらない。そうだというのに、彼女は笑顔で「立派な夢ですね」と言ってくれた。
僕はなんだか照れ臭くなって、頬を指でかいた。

「も、もう寝ようか。体調悪化したら、困るだろうし」
「はい。わかりました」
「おやすみ、多岐川さん」
「おやすみなさい、滝本くん」

 その言葉を聞いてしばらくすると、薄暗闇の中から彼女の安らかな寝息が聞こえてきた。それを聞いて安堵していると、だんだんと僕の方まで眠くなってくる。寝ちゃダメだと自分に言い聞かせても、まぶたが上がってはくれなかった。