明日の授業で使用する画材を用意している時、美術準備室のドアが控えめにノックされた。そのノックに返事をすると、そろそろとスライドドアが開かれる。
そこに立っていたのは、薄茶色のダッフルコートを着て赤色のマフラーを巻いた、見知らぬ女の子だった。緊張しているのかオドオドとしていて、中々視線を合わせてくれない。そんな彼女に、私はにこりと微笑んであげた。
「もしかして、四月からうちに入学する新入生?」
私の質問に、女の子は控えめに頷く。それから小さな口が、ゆっくりと開いた。
「えっと……春から、美術部に入ろうと思ってるんです……」
「美術部に? それは嬉しいわ!」
入学前に挨拶に来てくれた子は、彼女が初めてだ。私は散らかっている画材を避けながら彼女の元へ行き、小さな手を握る。手袋をしていないその手は冷たかった。
「歓迎するわ。あなた、お名前は?」
「桜井由紀です……」
「由紀ちゃんっていうのね!」
私は嬉しくなって、彼女の手を上下に振る。子供っぽかっただろうかと、少しだけ恥ずかしくなった。
「あ、あの……」
「どうしたの?」
由紀ちゃんは視線を伏せて、声を震わせながら呟く。
「私、美術科じゃないんです……入試、落ちちゃって……」
彼女が今にも泣き出してしまいそうだったから、私は握っていた冷たい手を優しく包み込んであげた。
「美術科じゃないからって、美術部に入れないわけじゃないよ。歓迎してあげる」
そう伝えてあげると、彼女は泣き出してしまった。私は思わず慌ててしまい、頭を撫でてあげる。
「ここじゃ寒いから、部屋に入ろっか。ストーブも焚いてるし、あったかいよ」
由紀ちゃんは最初こそ遠慮したが、私が強引にその手を引くと、後はなすがままだった。椅子を用意してあげて座らせてあげると、彼女は真っ先に手のひらをストーブに近付ける。きっと、とても寒かったんだろう。
私も明日の授業の準備をやめて、由紀ちゃんの隣で暖を取った。
「美術科に落ちちゃったのに、どうしてうちに入ろうと思ったの?」
そう訊ねると、彼女はほんのり顔を赤くして答えた。
「制服が、可愛いなと思ったんです……」
「たしかに、可愛いよね」
「変、ですか?」
「変じゃないと思うよ。そういう理由で入学してくる人、たくさんいるらしいから」
由紀ちゃんは安堵の息を漏らして、初めて笑顔を浮かべてくれた。けれど彼女は、また頬を赤らめる。
「あの、もう一つ変なこと言っていいですか……?」
「うん、いいよ」
「私、漫画家になりたいんです」
「えっ、漫画家?!」
私は思わず驚きの声を上げてしまう。失礼だったかもしれないと、少しだけ反省した。
「やっぱり、変ですよね……」
「ううん、全然変じゃないと思う! 先生、由紀ちゃんが漫画家になれるの応援する!」
由紀ちゃんはまた顔を赤くして、今度は俯いてしまった。とても、恥ずかしがり屋の女の子なんだろう。
「ということは先生、由紀ちゃんが漫画家になるためのお手伝いができるんだ。デビューしたら、すぐにサインもらわなきゃ」
「で、デビューだなんてそんな……まだ全然考えられないです……」
「目標はでっかく持たなきゃだよ」
私がにこりと微笑んであげると、由紀ちゃんもくすりと微笑んでくれた。
「どんな漫画を描いてるのかな?」
「えっと、少女漫画です……」
「いいねいいね、青春だね」
「でも私、恋愛とかしたことなくて……」
「こんな恋愛がしたいっていう理想を描いちゃいなよ。小説も漫画もフィクションなんだから」
「理想、ですか。先生は、彼氏さんとかいるんですか?」
純粋な目でそう訊ねられて、私は思わず顔が熱くなった。これは下手なことを喋ると、漫画のネタにされてしまうやつだ。
「せ、先生かぁ……それがさ、いないんだよね」
「えっ、いないんですか?」
「うん。いないよ」
「先生、すごく美人なのに……」
そんな言葉をぽつりと彼女は漏らし、私はまた顔が焼けたように熱くなる。それをごまかすために、由紀ちゃんの頭を撫でてあげた。
「告白とか、されないんですか?」
「うーん。ここだけの話だけど、何回かされたことはあるかな」
「いい人がいなかったんですか?」
「ううん。みんな、いい人だったよ」
じゃあどうして? というように、由紀ちゃんは首をかしげる。私はなんだか気恥ずかしくなって、頬を人差し指でかいた。
「今でも忘れられない、男の人がいるの」
「男の人?」
私がうなずくと、興味があるのか椅子をこちらへ寄せてくる。
「その人とは、どんな関係だったんですか?」
「聞きたい?」
「差し支えなければ」
くすりと微笑んでから、私は人差し指を口元に添えて「由紀ちゃんと私の、二人だけの秘密だよ」と言った。彼女がこくりとうなずいたのを見て、私は話し始める。
彼、滝本悠と、私の、終わってしまった物語を。
そこに立っていたのは、薄茶色のダッフルコートを着て赤色のマフラーを巻いた、見知らぬ女の子だった。緊張しているのかオドオドとしていて、中々視線を合わせてくれない。そんな彼女に、私はにこりと微笑んであげた。
「もしかして、四月からうちに入学する新入生?」
私の質問に、女の子は控えめに頷く。それから小さな口が、ゆっくりと開いた。
「えっと……春から、美術部に入ろうと思ってるんです……」
「美術部に? それは嬉しいわ!」
入学前に挨拶に来てくれた子は、彼女が初めてだ。私は散らかっている画材を避けながら彼女の元へ行き、小さな手を握る。手袋をしていないその手は冷たかった。
「歓迎するわ。あなた、お名前は?」
「桜井由紀です……」
「由紀ちゃんっていうのね!」
私は嬉しくなって、彼女の手を上下に振る。子供っぽかっただろうかと、少しだけ恥ずかしくなった。
「あ、あの……」
「どうしたの?」
由紀ちゃんは視線を伏せて、声を震わせながら呟く。
「私、美術科じゃないんです……入試、落ちちゃって……」
彼女が今にも泣き出してしまいそうだったから、私は握っていた冷たい手を優しく包み込んであげた。
「美術科じゃないからって、美術部に入れないわけじゃないよ。歓迎してあげる」
そう伝えてあげると、彼女は泣き出してしまった。私は思わず慌ててしまい、頭を撫でてあげる。
「ここじゃ寒いから、部屋に入ろっか。ストーブも焚いてるし、あったかいよ」
由紀ちゃんは最初こそ遠慮したが、私が強引にその手を引くと、後はなすがままだった。椅子を用意してあげて座らせてあげると、彼女は真っ先に手のひらをストーブに近付ける。きっと、とても寒かったんだろう。
私も明日の授業の準備をやめて、由紀ちゃんの隣で暖を取った。
「美術科に落ちちゃったのに、どうしてうちに入ろうと思ったの?」
そう訊ねると、彼女はほんのり顔を赤くして答えた。
「制服が、可愛いなと思ったんです……」
「たしかに、可愛いよね」
「変、ですか?」
「変じゃないと思うよ。そういう理由で入学してくる人、たくさんいるらしいから」
由紀ちゃんは安堵の息を漏らして、初めて笑顔を浮かべてくれた。けれど彼女は、また頬を赤らめる。
「あの、もう一つ変なこと言っていいですか……?」
「うん、いいよ」
「私、漫画家になりたいんです」
「えっ、漫画家?!」
私は思わず驚きの声を上げてしまう。失礼だったかもしれないと、少しだけ反省した。
「やっぱり、変ですよね……」
「ううん、全然変じゃないと思う! 先生、由紀ちゃんが漫画家になれるの応援する!」
由紀ちゃんはまた顔を赤くして、今度は俯いてしまった。とても、恥ずかしがり屋の女の子なんだろう。
「ということは先生、由紀ちゃんが漫画家になるためのお手伝いができるんだ。デビューしたら、すぐにサインもらわなきゃ」
「で、デビューだなんてそんな……まだ全然考えられないです……」
「目標はでっかく持たなきゃだよ」
私がにこりと微笑んであげると、由紀ちゃんもくすりと微笑んでくれた。
「どんな漫画を描いてるのかな?」
「えっと、少女漫画です……」
「いいねいいね、青春だね」
「でも私、恋愛とかしたことなくて……」
「こんな恋愛がしたいっていう理想を描いちゃいなよ。小説も漫画もフィクションなんだから」
「理想、ですか。先生は、彼氏さんとかいるんですか?」
純粋な目でそう訊ねられて、私は思わず顔が熱くなった。これは下手なことを喋ると、漫画のネタにされてしまうやつだ。
「せ、先生かぁ……それがさ、いないんだよね」
「えっ、いないんですか?」
「うん。いないよ」
「先生、すごく美人なのに……」
そんな言葉をぽつりと彼女は漏らし、私はまた顔が焼けたように熱くなる。それをごまかすために、由紀ちゃんの頭を撫でてあげた。
「告白とか、されないんですか?」
「うーん。ここだけの話だけど、何回かされたことはあるかな」
「いい人がいなかったんですか?」
「ううん。みんな、いい人だったよ」
じゃあどうして? というように、由紀ちゃんは首をかしげる。私はなんだか気恥ずかしくなって、頬を人差し指でかいた。
「今でも忘れられない、男の人がいるの」
「男の人?」
私がうなずくと、興味があるのか椅子をこちらへ寄せてくる。
「その人とは、どんな関係だったんですか?」
「聞きたい?」
「差し支えなければ」
くすりと微笑んでから、私は人差し指を口元に添えて「由紀ちゃんと私の、二人だけの秘密だよ」と言った。彼女がこくりとうなずいたのを見て、私は話し始める。
彼、滝本悠と、私の、終わってしまった物語を。