世界は思っていたよりもずっと狭い。しかし幼い子どもには、そんな事実は分からなかった。少し歩けば見たこともない景色が広がっていて、車で遠出をすればそこはもう別世界だ。

 だけどそんな別世界が、実はすぐ近くにあるものだと知るのは、子どもたちが中学生に上がった頃。特別だと思っていた場所は、突然にありふれた場所へと変化する。世界は狭いのだということをようやく思い知るのだ。

 王子さまの大切にしていたバラが、実はありふれたものであることを自覚するように。

 幼い頃の紫乃は、当然のように世界は広いものだと認識していた。隣町に引っ越しをするだけで、もう朝陽と会うことが出来ないのだと思い込んでいた。

 だから引っ越しをするという話を、最後まで彼女は心の内にとどめておいたのだ。その事実を朝陽に隠したのは、本当に些細な理由。

 少し前の朝陽なら、笑ってしまっていただろう。

 それが理由だった。

 ただ隣町に引っ越すだけだったのに、何も言わずに朝陽の元を去り、そのまま十年もの年月を経てしまった。その事実を知られてしまえばきっと笑われると思ったから、彼女は一つだけ可愛い嘘をついた。

 だけど朝陽は笑えなかった。そんな姿を見て紫乃は安堵の表情を見せていたが、朝陽の心が晴れることはない。

 可能性は確信へと変わり、もう目をそらすことはできない。東雲紫乃は交通事故に遭い、もうこの世には存在しないのだ。

 だとすれば、どうして彼女が今ここにいるのか。幽霊だという線を朝陽は考えたが、すぐにありえないと可能性を切り捨てた。彼女には触れることができて、温もりもある。

 彼女は、生きている人間だ。

 正体を聞くべきなのか、朝陽は未だ迷う。問いただしてしまえば、おそらく全てが終わってしまう。実のところ朝陽はまだ、紫乃が死んでいるとは思いたくなかった。

 偶然に偶然が重なり、今の状況が出来上がっているのだと思いたかった。

「朝陽くん」

 三度のノックの後に、朝陽の名前を呼ぶ紫乃の声。一度家へと戻って来た後、彼女はリビングにいた朝美に連行されて、洗面所の方へと連れて行かれていた。

 朝陽が入っていいよと返事をすると、そのドアは恐る恐るといった様にゆっくり開く。そこには恥ずかしそうに俯いている紫乃と、自信満々の笑みを浮かべた朝美がいた。

「ほらほら朝陽、どうよこれ!」
「え、どうって何が?」
「ちゃんと紫乃ちゃんのこと見なって。あんたそこまで鈍感じゃないでしょ?」

 紫乃のことを見ろと言われても、彼女は恥ずかしそうに俯いている。そのため朝陽は少しだけ身体を傾けて、彼女の表情をうかがった。

「あ、化粧……」

 薄っすらとではあるが、紫乃の顔には化粧が施されていた。薄桃色の口紅が自己主張をせずに控えめに塗られていて、頬にはチークが付けられている。

 その普段とは違う彼女の姿に、動揺せずにはいられなかった。時々感じていた大人っぽさが強調されて、確かな大人の雰囲気をまとっている。

「あの、私、あんまりお化粧したことなくて……」
「いや、すごく似合ってるよ」

 耳が赤くなっているのは、化粧のせいではないのだろう。恥ずかしげに身をよじる彼女を見ていると、自分の心臓の音が不自然に早くなるのが分かる。

 それは、初めて出会った時からそうだった。朝陽は彼女を見た瞬間に恋に落ちたのだということを、不意に思い出す。

 あの自分から生まれた気持ちは、決して嘘なんかではない。

「それじゃあ、あとはお若いお二人さんでごゆっくりー」

 そう言いながら紫乃を部屋の中へ入れた朝美は、逃げるようにすぐドアを閉めた。

 なにがごゆっくりだ。そういうことを姉は期待しているのかもしれないが、朝陽にはしっかりと分別が付いている。

「えっとお姉さんが、お祭りに出かけるならお化粧をした方がもっと綺麗になるって……」
「ごめん、うちの姉が強引で……姉のことが嫌だったら、嫌って言ってもいいんだよ」

 彼女は首を左右に振った。朝美には心を許しているらしい。

 朝陽はとりあえず椅子に座ることを進めたが、紫乃は再び首を左右に振って俯いてしまった。どうしたのかと思い黙っていると、やがてポケットの中からスマホを取り出す。

「あの、朝陽くん。私……」

 スマホをキツく握りしめているのか、指先が小さく震えている。泣きそうな顔になりながら、唇は真一文字に引き結ばれていた。

 結局その唇から言葉が漏れることはなく、彼女は持っていたスマホの画面をおもむろに朝陽の方へと差し出した。

『今日のお祭り、朝陽くんと楽しんできてね!』

 メールの内容はそれだけ。

 これを自分に見せてきた理由が朝陽には分からなかったが、辛い表情をしている彼女のことを安心させたくて、スマホを持つ手を優しく握った。

 そうしてあげると、指先の震えはだんだんと収まっていき、彼女の引き結んでいた唇もほどかれていく。

 隠し事をしている彼女と、それを知っているのに問いただすことをしない自分。苦しんでいる目の前の女の子のことを見ると、朝陽の心は痛くしめつけられる。きっとお互いに、このままじゃいけないと考えているのだろう。

 彼女を安心させるためには、こちらから歩み寄って真実を聞き、許してあげる道以外存在しない。それは紫乃がもうこの世界に存在しないということを確かめる行為になるが、自分が傷付くことで彼女が安心出来るのならば、迷う必要なんてなかった。

 そもそもが自分の鈍感さと、不甲斐なさが招いた結果なのだから。

 朝陽は一度××の手を離した。そうすると、××は途端に不安げな表情を見せる。
どうして今までわからなかったのだろう。

 一度でもそうだと思いこめば、彼女が幼い頃に出会った紫乃ではないことなど、すぐに理解できたというのに。

 いや、おそらくずっと、目をそらし続けてきたのだ。認めてしまうのが怖かった。紫乃がここにいないということは、そういうことを意味している。

 だから、自分が思い出したはずの記憶を疑った。

 でも、思い出したことを忘れることも、疑うことも、もう出来ない。それは目の前で傷ついている彼女から、目をそらすことになるのだから。

 朝陽は安心させるように、今度は××の頭を優しく撫でてあげる。すると彼女は頬を赤く染めて、目に大粒の涙を溜めた。化粧が取れたりしないように、その溢れてきそうな涙をハンカチで丁寧に拭ってあげる。

 化粧などしなくても、××は綺麗な顔をしている。だから朝美も薄化粧で済ませたのだろう。濁りのない真っ白い肌。

『可愛いでしょ。私によく似た、自慢の娘なの』

 紫乃の母の言葉を思い出す。あの時、本当によく似ていると朝陽自身も思った。しかしそれは、顔の作りだけではない。

 朝陽は××の瞳をジッと見つめる。そうすると、白い肌が薄っすらと桃色に染まった。

 そして、××の目元に視線を移す。

 化粧で隠しているというわけではないのだろう。風呂上がりの××にも、それはなかったのだから。ということは、元々××にはそれが存在しないということだ。


―― ××には、本来あるはずの泣きぼくろがなかった。


 ほくろは親子でも遺伝することはない。だからそれは本当に偶然のことだったのだろう。紫乃の母親は、娘に自分と同じ場所に泣きぼくろがあることを喜んでいた。

 初めて××と出会った時に、気付いてあげるべきだった。気付いてあげられれば、こんなにも彼女が傷付くことはなかったのだから。

 彼女は一体誰なのだろう。そう朝陽は思ったが、紫乃の名前を偽っていることに怒りは湧いてこなかった。自分たちに向けてくれる笑顔が、やはり偽りの表情には見えなかったからだ。おそらく何か深い事情があるのだろう。

 未だ彼女のことを見つめていると、××も真っ直ぐに自分の目を見つめていることに、朝陽は遅れて気付く。急に恥ずかしさの感情が芽生えたが、もうお互いに気持ちは出来上がってしまっていた。

 押さえることのできない感情が、朝陽の内側から漏れ出す。気付いた時には彼女の首の後ろに手を回していて、その綺麗な身体を抱きしめていた。

「ごめん。しばらくこうしてていいかな?」
「あ……」

 朝陽の問いに××は逡巡を見せたが、結局は腕の中で控えめに頷いた。きっと彼女には、胸の鼓動が聞かれてしまっているのだろう。

 彼女のわずかな息遣いが、朝陽の耳へと届く。先ほどまで乱れていたその呼吸は、もう穏やかなものに変わっていた。

 ××のことを抱きしめる腕を解放すると、彼女は瞳を潤ませたまま、ただジッと朝陽のことを見つめていた。しかしすぐに彼女は我に返り、とんでもないことをしてしまったというように、顔面が蒼白になる。

「あの、ごめんなさい……」
「謝らないで。君は悪くないから。僕が、こうしたいと思ったんだ」

 突き放すことも出来たが、朝陽は抱きしめることを選んだ。それは曖昧な気持ちなどではなく、確かな決意を持っていた。

 自分は紫乃ではなく、目の前の彼女のことを抱きしめたのだと。

 また涙が溢れ出してきた彼女の背中に腕を回し、身体を引き寄せる。好きになった人のためならば、どれだけでも積極的になれるのだということを、朝陽は知った。

「ごめん。まだダメだって言ったのに、こんなことしちゃって」
「……?」

 なぜか彼女は小首をかしげたが、すぐに顔が先ほどのように赤くなり視線が泳ぐ。その姿にまた、朝陽は笑みをこぼした。

「大丈夫。今日だけは、余計なことを考えずにお祭りを楽しもう」

 腕の中で××は小さく頷いた。