二日連続も夜に花火をするのは、珠樹の父親がおそらく許してくれない。母親も心配をしてしまうため、そもそも珠樹が断るだろう。

「一応聞いては見るけど、たぶん二人になると思う」

 紫乃はココアの入ったマグカップを大事そうに持って、視線をふちのあたりに落とした。その表情は寂しさに満ちていて、「そっか……」と残念そうに呟く。

 それが珠樹と一緒に遊べないことによる寂しさか、それとも別の何かなのか。今の朝陽には分からなかった。

 そのまま紫乃は、朝陽にしなだれかかる。一瞬どきりとしたが、結局はそれを受け入れた。

「僕、昔の出来事をだいぶ思い出したんだよ」

 日中は珠樹がいたため出来なかった話を、朝陽は切り出す。

「紫乃の部屋に初めて入った時、布団に丸まって全然出てきてくれなかったよね。それで僕が……」
「ねえ」

 縋るように弱々しく、紫乃は話を遮る。

「……その話は、明日の花火の時にしようよ。今は、別の話がいいな」

 そのお願いに、朝陽は素直に従った。

「紫乃の……」そう言いかけて、言葉を飲み込む。一度息を吐いた後、もう一度話を始めた。

「じゃあ、君と、妹さんの話を聞かせてよ。乃々さんの話を」
「乃々の話?」
「うん。ちょっと興味がある」

 乃々という名前が出た途端、紫乃の表情は途端に明るいものとなる。きっと自慢の妹なのだろう。彼女は人差し指を唇に当てて、考え込む仕草を取る。それがなんだか艶めかしく、朝陽の心をわずかに乱れさせた。

「同級生の子、五人ぐらいに告白されたことあるんだって」
「え、五人も?!」
「驚いちゃうよね。誰かに告白されたら毎回報告してきたし、私はもうだいぶ慣れちゃったんだけど」

 そう言って紫乃は苦笑する。

 たしかに写真で見た容姿はとても綺麗だったが、それほどまでとは朝陽も考えていなかった。

「でもまあ、全部断ってるらしいんだけどね」
「意中の相手がいるのかな」
「たぶん、恋愛に興味がないんだと思うよ。男の子と話してるのを見たことあるけど、女友達と同じ風に話してたし」

 もし、紫乃も恋愛ごとに興味のない人間だったらどうしようと、朝陽は軽く不安に陥る。しかし続く彼女の言葉で、その心配はふっと心の中から消え去った。

「私と似てる姿を想像してるかもだけど、全然似てないよ。朝陽くんと朝美さんぐらい違うかな」
「ああ、そうなんだ」

 朝陽と朝美は、本当に姉弟なのかと疑うほど性格が似通っていない。ある程度奔放に行きている姉と、比較的真面目な弟。母は朝美が自分に似て、朝陽は父に似たと話していることがあった。

「なんというか、珠樹さんに似てるかも」
「え、珠樹に?」
「うん。結構賑やかな子だから」

 朝陽は乃々のことを、彼女と似たような大人しい性格をしていると想像していたため、抱いていたイメージは崩れ去る。また、一度会ってみたいという思いが強くなった。

「朝陽くんとは、すぐに仲良くなれると思うな。珠樹さんとも」
「それなら一度会ってみたいかも」

 そのお願いに紫乃は一瞬顔を伏せたが、すぐに笑顔を貼り付けた。

「機会があったら、紹介してあげるね」

 それから冗談交じりに付け加える。

「私の妹、口説いたりしないでよ?」
「ナンパしたことはないから、安心して」

 そもそも朝陽は隣にいる彼女のことが好きなのだ。だから興味を持ったとしても、写真と今までに聞いた話だけで恋愛的な感情は抱いていない。

 話が途切れ、一度ココアに息を吹きかけると、白い蒸気がマグカップの上を漂った。それをぼんやり見つめていると、霧散するように透明となって消えていく。

「僕は……」

 そう言いかけて、一度言葉を飲み込む。それを伝えてもいいのか、ためらってしまったのだ。しかしすぐに考えて、やっぱり伝えるべきだなと思い直す。

 彼女を安心させる言葉として、これ以上のものは思いつかなかった。

「僕は君が何かを隠してても、嫌いになったりはしないから。それだけは心に留めておいて」
「……どうして?」

 朝陽に問いかけるその声は震えている。だから彼女が安心できるようにと、出来る限り微笑んで、優しい声音で答えた。

「たとえば何かを隠してたとしても、珠樹と遊んでた時の笑顔は嘘だとは思えなかったから、かな」

 紫乃は寄りかかっていたから、その表情を朝陽にはうかがいしれない。すぐ隣で、すんと鼻をすする音が響く。それからわずかの間が空いた後に、「ありがとう……」という言葉を彼女は呟いた。

 それきり二人は、何も言葉を交わさなかった。気まずいということはなく、むしろその時間は朝陽にとっては心地よいもので、ただ幸福な時間だけを感じる。

 ジッとしていれば紫乃の心臓の鼓動が聞こえてきそうだが、耳に届いたのは安らかな寝息の音だった。

 彼女が可愛い寝息を立てながら、朝陽に寄りかかり眠っている。きっと、心を許してくれているのだろう。まだ少しだけ残っているココアをこぼさないように、マグカップをゆっくり彼女の指から離す。わずかに眉は動いたが、起きる気配はなかった。

 そして不意に、近くでブルブルと何かが振動する音が響く。二人のどちらかのスマホが振動しているのだろう。

 そっと朝陽が彼女の方をうかがうと、ソファーの上にスマホが置かれていた。それはメールを受信したことにより、画面が点灯している。

 朝陽に他人のスマホを覗く趣味はないが、今だけは何故か注意が向けられた。彼女を起こしたりしないように、スマホの画面を注視する。

 時間が経ったことにより画面はプツリと消えてしまったが、それでも相手先の名前を見るだけの時間はあった。

 綾坂彩。

 今のメールの相手は綾坂彩という人物だと、朝陽は勝手に思い込んでいた。だから実際に表示されていた彼の名前に、軽い動揺を覚える。

『晴野春樹』

 彼は幼い頃、朝陽の友人だった男だ。

 小学二年の頃からなんとなく疎遠になってしまい、それ以降の目立った交流はない。しかし朝陽にとってはかけがえのない友人であり幼馴染であったため、もう二度と会うことはないだろうが、彼だけには転校先の場所を教えた。

 だからそもそも朝陽の転校先を知るには、春樹と会うしか方法がない。なんとなく流してしまっていたが、紫乃がここへ来たということは、つまり確実に春樹と接触したということになる。

 しかしそれでは辻褄が合わない。何故ならば、紫乃は「ほとんど彩ちゃんに手伝ってもらった」と言っていたからだ。それは朝陽もハッキリと覚えている。

 だとしたら、なぜ紫乃が春樹のメールアドレスを持っているのだろうか。

 綾坂彩が、東雲紫乃にメールアドレスを教えたから?

 考えられる線といえば、今思い浮かんだその一つと、もう一つは紫乃も一緒に朝陽を探していたということ。

 本人に聞ければ一番良いのだが、勝手にスマホを見たと思われれば、彼女に嫌われてしまうかもしれない。事実、勝手にスマホの画面を覗いたのだから、なるべく朝陽は自分から聞きたくはなかった。

 そうやって逡巡していると、紫乃の身体がピクリと震える。そしてゆっくりと綺麗な瞳が開かれて、朝陽の顔をとらえた。

「あれ、朝陽くん……?」
「起こしちゃった?」
「……ここはどこ?」

 紫乃は辺りを見渡す。寝ぼけているのだろう。

「リビングだよ。気付いたら寝ちゃってたんだ」
「寝ちゃってた……」

 寝ぼけ眼を朝陽へ向けて、それから時計へと視線を投げる。時刻は三時を示していた。

「紫乃、寝ちゃったんだ……」

 彼女はもう一度呟いて、視線を机の上に置かれたマグカップへ落とした。眠る前よりも、気分が沈んでいるように見える。

「ごめんね、迷惑かけちゃって……」
「ううん。ちょっとだけだったから気にしないで。それより、そろそろ部屋に戻ろっか」

 早く眠らないと、明日の行動に支障が出てしまう。夏休みだからといって、昼まで寝ているというわけにもいかないだろう。

 立ち上がると、紫乃はすぐに朝陽の服の袖を掴んだ。その手はわずかに震えている。

「あの……」

 彼女の言わんとしていることを理解した朝陽は、安心させるように微笑みを見せた。

「いつも通り手握ってくから、大丈夫だよ」
「あの、そうじゃなくて……」
「え、そうじゃない?」

 だとしたら、どうしたというのだろう。朝陽は紫乃の次の言葉を待った。

「えっと、今日は一緒に寝たらダメかな……?」

 瞬間、朝陽の心臓が大きく鼓動する。恥ずかしさで薄紅色に染まった頬と、こちらへ向けるすがるような視線。どこまでも扇情的なそれは、朝陽の心をひどく乱れさせた。

 そして一緒に寝るという提案。一つ屋根の下で暮らしているだけでも意識せざるを得ないのに、その距離がもっと近くなる。

 逡巡していると、紫乃は朝陽の腕を掴み、離さないといったように自分の身体へと引き寄せた。そこでようやく、震えていたのは手だけではないということに気付く。

 彼女は、怯えるように全身を震わせていた。

「……わかったよ」

 結局そう呟いた朝陽は、紫乃の頭を撫でてあげる。そうすることによって、少しは震えが収まったような気がした。

 一緒の部屋で寝ることに、他意なんてものはない。ただ彼女が怯えているから、朝陽はその言葉に従った。

 ただ、それだけ。

 だから一緒の部屋で寝るということになっても、朝陽は何もしなかった。二人分の息遣いが聞こえるはずのその部屋は、いつもよりもずっと静かだった。

 隣で眠る紫乃の寝息が安らかなものであったから、これでよかったのだと、朝陽は自分に言い聞かせることにした。