もう一度謝りそうになったが、朝陽はその言葉をなんとか飲み込んだ。今必要なのは謝罪ではない。謝ったとしても、彼女の心が癒えることなんてないのだから。
「ありがとう、珠樹。僕のことを好きになってくれて」
心の底からそう思った。だからこそ、自分のことを好きになってくれた人の想いを受け取れないことを、とても悲しいと感じた。
「なんで、こんなやつっ、好きになったんだろう……」
朝陽は小さく苦笑する。明確な理由なんていらないけれど、どうして自分のことを好きになってくれたのかが気になった。
「珠樹は……えっと、どうして僕のことを好きになったの?」
「なにそれ。今振ったばっかの女に、そんなこと聞くの……?」
「ごめん、空気読めなくて。嫌なら、別に無理にとは言わないよ」
そうは言ったけれど、一度鼻をすすった珠樹はその理由を話し始めた。
「どんな時でも、朝陽がそばにいてくれいれば安心だと思ったんだ。溺れかけた時、たくさん海水を飲んじゃって、意識がなくなりかけてたときに、朝陽の声が聞こえた。何度も何度も私の名前を呼んでくれて、死にそうだったのに、とっても安心できたんだ……」
「そうだったんだ……」
朝陽はあの時、とにかく珠樹を助けることに必死だった。その思いが彼女にしっかりと届いていて、しかも現在まで心を寄せてくれていたのだ。嬉しくないはずがない。
「……本当は、助けてくれないんじゃないかって思った」
「え?」
「ほら、お互いに喧嘩してたじゃん……なんで喧嘩したのか、今になってはもう忘れちゃったけど。あの時、朝陽もすごく怒ってた。私は朝陽から逃げたくて、危ないよって注意してくれたのに、深いところまで泳いで行った。忘れちゃった……?」
正直なところ、喧嘩をしたという事実は覚えていたが、そこまで細かいことは忘れていた。朝陽は珠樹を助けることに精一杯で、がむしゃらだったから。
ただ純粋に、珠樹には生きていてほしいという感情しか、あの時には芽生えていなかった。
「まあ、忘れててもいいけど……その後は、なんかいつのまにか仲直りしてたし」
珠樹は自分の流した涙を拭った。
「朝陽は、どうして紫乃ちゃんのことが好きなの……?」
「そういえば僕、まだ紫乃が好きって言ってないと思うけど」
「もう紫乃ちゃんしかいないでしょ。ずっと朝陽と一緒にいたんだから、それぐらいわかる」
きっと朝陽が恋心を自覚する前に、すでに珠樹は気付いていたのだろう。気付いていてもなお、変わらず二人に笑顔で接していた。
朝陽はそんな彼女のことが、やっぱり幼馴染として好きだなと思う。
「なんていうか、一目惚れだと思う」
「一目惚れ? 小学校の頃に?」
「ううん。もうだいぶ、昔のことを思い出したから分かるけど、あの時は恋心は抱いてなかったよ。ただ、仲良くなりたかっただけなんだ」
朝陽の一目惚れは、高校生になった紫乃と再会した瞬間。あそこから全てが始まって、行動を共にするうちに彼女へ惹かれていった。
「……でも、やっぱり昔馴染みだからっていうのもあるんじゃない?」
「どうかな。また会えたのは嬉しかったけど、最初は紫乃だって分からなかったし」
「分からなかったのかよ」
「十年も前のことだからね」
「ひっでーやつ……」
朝陽はそう言われて苦笑する。お互いに顔を覚えていなかったとはいえ、あの瞬間まで完全に紫乃のことを忘れていたのだから、珠樹に罵られても仕方がない。
しばらく朝陽の身体に顔をうずめていた珠樹は、ようやく顔を上げた。もう涙は流れていないが、月明かりだけでその瞳が赤くなっているのがわかる。
「あの……」
「もう謝らないで」
ごめんと言いかけたのを制止される。朝陽は口をつぐんだ。
「朝陽は何も悪くないから」
見下ろす珠樹に向かって、決して目をそらさず確かに頷いた。
「あのさ……未練がましいかもしんないけど、一つだけ訊いていい?」
「うん。何かな」
「私、どこがダメだった……? 乱暴な性格してるって分かってるけど、あれから女の子らしくなろうって頑張ってたし……いつか、朝陽も振り向いてくれるかもって、思ってたんだけど。私って、そんなに魅力がなかった……?」
彼女の言葉は、だんだんと弱々しいものへと変わっていく。本当は訊いてしまうのが怖いのだろう。だけどそれを訊いておかなければ、本当の意味で納得なんて出来ない。素直に朝陽や紫乃のことを応援できない。そう考えているのかもしれない。
朝陽は自分の気持ちを間違えないように、丁寧に言葉を選んで彼女の質問に答えた。
「珠樹は、僕にとってもう一人の家族みたいなものだったから。嬉しかったんだよ。右も左も分からない僕に、初めから優しくしてくれて。ずっと一緒にいたら、やっぱりそういうことも考えたりしたけど、ドキドキするというより、なんだか安心した」
それは、朝美という姉がいたから分かったことでもある。朝陽にとっての珠樹は、同い年の兄妹みたいなものなのだ。
「だからさ、魅力がないとかそんなんじゃないんだよ。もちろん吹奏楽をやってる珠樹のことも好きだし、続けてほしいって思ってる。だけど、珠樹自身は昔のままでもいいと思う。むしろ僕は、遠慮をしてない珠樹の方が好きだから」
今の朝陽の気持ちを、珠樹にそのまま伝える。少しだけ恥ずかしいと思ったが、伝えずに心の中に秘めておくよりは何倍もマシだ。
珠樹はすんと小さく、鼻をすすった。
「紫乃ちゃん以外の女の子に、好きとか言うな……」
「でも、珠樹のことは好きだよ?」
「幼馴染としてだろどうせ」
「まあ、そうなんだけど」
軽く睨まれてしまい、朝陽は苦笑する。
それからようやく、珠樹は朝陽の上から離れた。立ち上がると、服に付いた砂がサラサラと音を立てて落ちていく。
珠樹は、暗い色に染まる海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ふうん……でも、家族、ね……」
「もしかして嫌だった?」
「別に、そんなことないけど。ただ、お前は弟だ。ほんとに世話の焼けるやつだな」
「僕が弟なんだ」
「当たり前だろ。私の方が、誕生日が一ヶ月も早い」
そういう細かいところは子どもっぽいなと思ったが、朝陽は何も言わないことにした。
「あーあ、ほんとどうしてこんなやつ好きになったんだろ」
「いや、僕に聞かれても……」
「……私の初恋返せって感じ」
ポロリと漏らしたそれは、彼女の本音だったのだろう。呟いたあと、珠樹は慌てて口を押さえたが、朝陽にはバッチリと聞こえてしまっている。
しかし次に浮かべた彼女の表情は、清々しく晴れやかなものだった。その珠樹の笑顔を見て、朝陽もホッとする。
「初恋。朝陽が初恋で、本当に良かったって思ってるよ」
「あ、うん……それは、ありがと……」
「何赤くなってんだよバーカ」
珠樹はにこりと微笑み、朝陽もくすりと微笑む。二人はもう、いつもの幼馴染だった。
それから珠樹は、突然住宅地の方へ視線を向けた。
「あ、紫乃ちゃんだ」
「え?!」
こんな時間に一人で出歩いていたら、さすがにまずい。ただでさえ彼女は暗いところが苦手なのだから。
朝陽は慌てて振り返る。しかしどこにも、紫乃の姿はなかった。遅れて、それが珠樹の冗談なのだということに気付く。
「もう、驚かせ……」
安心して、振り向いた時だった。
突然朝陽は彼女に手を握られ、引き寄せられる。身体は珠樹の方へと倒れ、頬が柔らかいものにちょこんと当たった。
それは一瞬だった。
一秒にも満たない口付け。一秒未満の出来事だというのに、朝陽の心臓は驚くほど早鐘を打つ。
そんな戸惑う姿を見て、珠樹は面白そうに微笑んだ。
「幸せになりやがれ、ばーか」
「ありがとう、珠樹。僕のことを好きになってくれて」
心の底からそう思った。だからこそ、自分のことを好きになってくれた人の想いを受け取れないことを、とても悲しいと感じた。
「なんで、こんなやつっ、好きになったんだろう……」
朝陽は小さく苦笑する。明確な理由なんていらないけれど、どうして自分のことを好きになってくれたのかが気になった。
「珠樹は……えっと、どうして僕のことを好きになったの?」
「なにそれ。今振ったばっかの女に、そんなこと聞くの……?」
「ごめん、空気読めなくて。嫌なら、別に無理にとは言わないよ」
そうは言ったけれど、一度鼻をすすった珠樹はその理由を話し始めた。
「どんな時でも、朝陽がそばにいてくれいれば安心だと思ったんだ。溺れかけた時、たくさん海水を飲んじゃって、意識がなくなりかけてたときに、朝陽の声が聞こえた。何度も何度も私の名前を呼んでくれて、死にそうだったのに、とっても安心できたんだ……」
「そうだったんだ……」
朝陽はあの時、とにかく珠樹を助けることに必死だった。その思いが彼女にしっかりと届いていて、しかも現在まで心を寄せてくれていたのだ。嬉しくないはずがない。
「……本当は、助けてくれないんじゃないかって思った」
「え?」
「ほら、お互いに喧嘩してたじゃん……なんで喧嘩したのか、今になってはもう忘れちゃったけど。あの時、朝陽もすごく怒ってた。私は朝陽から逃げたくて、危ないよって注意してくれたのに、深いところまで泳いで行った。忘れちゃった……?」
正直なところ、喧嘩をしたという事実は覚えていたが、そこまで細かいことは忘れていた。朝陽は珠樹を助けることに精一杯で、がむしゃらだったから。
ただ純粋に、珠樹には生きていてほしいという感情しか、あの時には芽生えていなかった。
「まあ、忘れててもいいけど……その後は、なんかいつのまにか仲直りしてたし」
珠樹は自分の流した涙を拭った。
「朝陽は、どうして紫乃ちゃんのことが好きなの……?」
「そういえば僕、まだ紫乃が好きって言ってないと思うけど」
「もう紫乃ちゃんしかいないでしょ。ずっと朝陽と一緒にいたんだから、それぐらいわかる」
きっと朝陽が恋心を自覚する前に、すでに珠樹は気付いていたのだろう。気付いていてもなお、変わらず二人に笑顔で接していた。
朝陽はそんな彼女のことが、やっぱり幼馴染として好きだなと思う。
「なんていうか、一目惚れだと思う」
「一目惚れ? 小学校の頃に?」
「ううん。もうだいぶ、昔のことを思い出したから分かるけど、あの時は恋心は抱いてなかったよ。ただ、仲良くなりたかっただけなんだ」
朝陽の一目惚れは、高校生になった紫乃と再会した瞬間。あそこから全てが始まって、行動を共にするうちに彼女へ惹かれていった。
「……でも、やっぱり昔馴染みだからっていうのもあるんじゃない?」
「どうかな。また会えたのは嬉しかったけど、最初は紫乃だって分からなかったし」
「分からなかったのかよ」
「十年も前のことだからね」
「ひっでーやつ……」
朝陽はそう言われて苦笑する。お互いに顔を覚えていなかったとはいえ、あの瞬間まで完全に紫乃のことを忘れていたのだから、珠樹に罵られても仕方がない。
しばらく朝陽の身体に顔をうずめていた珠樹は、ようやく顔を上げた。もう涙は流れていないが、月明かりだけでその瞳が赤くなっているのがわかる。
「あの……」
「もう謝らないで」
ごめんと言いかけたのを制止される。朝陽は口をつぐんだ。
「朝陽は何も悪くないから」
見下ろす珠樹に向かって、決して目をそらさず確かに頷いた。
「あのさ……未練がましいかもしんないけど、一つだけ訊いていい?」
「うん。何かな」
「私、どこがダメだった……? 乱暴な性格してるって分かってるけど、あれから女の子らしくなろうって頑張ってたし……いつか、朝陽も振り向いてくれるかもって、思ってたんだけど。私って、そんなに魅力がなかった……?」
彼女の言葉は、だんだんと弱々しいものへと変わっていく。本当は訊いてしまうのが怖いのだろう。だけどそれを訊いておかなければ、本当の意味で納得なんて出来ない。素直に朝陽や紫乃のことを応援できない。そう考えているのかもしれない。
朝陽は自分の気持ちを間違えないように、丁寧に言葉を選んで彼女の質問に答えた。
「珠樹は、僕にとってもう一人の家族みたいなものだったから。嬉しかったんだよ。右も左も分からない僕に、初めから優しくしてくれて。ずっと一緒にいたら、やっぱりそういうことも考えたりしたけど、ドキドキするというより、なんだか安心した」
それは、朝美という姉がいたから分かったことでもある。朝陽にとっての珠樹は、同い年の兄妹みたいなものなのだ。
「だからさ、魅力がないとかそんなんじゃないんだよ。もちろん吹奏楽をやってる珠樹のことも好きだし、続けてほしいって思ってる。だけど、珠樹自身は昔のままでもいいと思う。むしろ僕は、遠慮をしてない珠樹の方が好きだから」
今の朝陽の気持ちを、珠樹にそのまま伝える。少しだけ恥ずかしいと思ったが、伝えずに心の中に秘めておくよりは何倍もマシだ。
珠樹はすんと小さく、鼻をすすった。
「紫乃ちゃん以外の女の子に、好きとか言うな……」
「でも、珠樹のことは好きだよ?」
「幼馴染としてだろどうせ」
「まあ、そうなんだけど」
軽く睨まれてしまい、朝陽は苦笑する。
それからようやく、珠樹は朝陽の上から離れた。立ち上がると、服に付いた砂がサラサラと音を立てて落ちていく。
珠樹は、暗い色に染まる海を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ふうん……でも、家族、ね……」
「もしかして嫌だった?」
「別に、そんなことないけど。ただ、お前は弟だ。ほんとに世話の焼けるやつだな」
「僕が弟なんだ」
「当たり前だろ。私の方が、誕生日が一ヶ月も早い」
そういう細かいところは子どもっぽいなと思ったが、朝陽は何も言わないことにした。
「あーあ、ほんとどうしてこんなやつ好きになったんだろ」
「いや、僕に聞かれても……」
「……私の初恋返せって感じ」
ポロリと漏らしたそれは、彼女の本音だったのだろう。呟いたあと、珠樹は慌てて口を押さえたが、朝陽にはバッチリと聞こえてしまっている。
しかし次に浮かべた彼女の表情は、清々しく晴れやかなものだった。その珠樹の笑顔を見て、朝陽もホッとする。
「初恋。朝陽が初恋で、本当に良かったって思ってるよ」
「あ、うん……それは、ありがと……」
「何赤くなってんだよバーカ」
珠樹はにこりと微笑み、朝陽もくすりと微笑む。二人はもう、いつもの幼馴染だった。
それから珠樹は、突然住宅地の方へ視線を向けた。
「あ、紫乃ちゃんだ」
「え?!」
こんな時間に一人で出歩いていたら、さすがにまずい。ただでさえ彼女は暗いところが苦手なのだから。
朝陽は慌てて振り返る。しかしどこにも、紫乃の姿はなかった。遅れて、それが珠樹の冗談なのだということに気付く。
「もう、驚かせ……」
安心して、振り向いた時だった。
突然朝陽は彼女に手を握られ、引き寄せられる。身体は珠樹の方へと倒れ、頬が柔らかいものにちょこんと当たった。
それは一瞬だった。
一秒にも満たない口付け。一秒未満の出来事だというのに、朝陽の心臓は驚くほど早鐘を打つ。
そんな戸惑う姿を見て、珠樹は面白そうに微笑んだ。
「幸せになりやがれ、ばーか」