こんなにも美しい世界で、また君に出会えたということ。

 綾坂彩はキャスター付きの大きなスーツケースをゴロゴロと引きずりながら、見たこともない田舎町の景色を歩く。

 あらかじめ東雲紫乃に麻倉朝陽の住んでいる場所を訊ねたが、彼女は彼の家の場所を知ってはいなかった。どうやら彼女は、彼の家にお邪魔したことはないらしい。

 そのため県と市名しか情報がなく、本当にこの田舎町に朝陽が住んでいるのかは定かでない。数泊出来るお金と着替えは持ってきたため、しばらくは探し回ることができるが、そんなに悠長に探し回れるほどの余裕はない。

 彩はなるべく人の多い地域へ向かい、周辺を歩く同世代の人間を呼び止めては声をかけるということを繰り返した。しかしそれは何度も空振りに終わり、お昼が来たため近くの喫茶店にとりあえず腰を落ち着ける。

 店員にアイスコーヒーとサンドイッチを注文して受け取った後、スマホを開いてメールを見る。

 昨日も確認した紫乃からのメールをもう一度開く。そこには彩への感謝の言葉が綴られていて、最後に、『本当に申し訳ないけどお願いします』と添えられていた。

 いつものように現状報告のメールを打ち終わった彩は、スマホを待機モードに落としてポケットにしまう。それからアイスコーヒーを飲みつつサンドイッチを食べて、もう一度麻倉朝陽探しを再開させた。

「それにしても、暑い……」

 一応彩は日除けの麦わら帽子をかぶってきたが、それでも暑いことには変わりがない。額から汗が吹き出してきて、ハンカチでそれを拭った。休みながら探さないと先に自分の限界が来てしまうと思い、彩は公園を見つけてはベンチに座り休憩をする。

 暑さでうなだれているとき、公園の外の道を歩いている制服姿の男を見つけた。正直今は動きたくもないぐらい疲れているが、もしあの人が麻倉朝陽だったらと考えると、自然と重たい腰は持ち上がっていた。

 公園の外を歩く彼へと近付く。

「あのー、ちょっと話を伺ってもいいですか?」
「はい?」

 彼は一瞬首を傾げるが、すぐに姿勢をピンと正す。おそらく彩の容姿に驚いたのだろう。彼女は外を歩けば、多くの目を惹きつけるほどの綺麗な容姿を持っている。

 つまり彼はそんな美少女に話しかけられて緊張しているのだ。

「あ、え、なんですか……?」
「実は、麻倉朝陽くんという方を探していまして」
「え、麻倉朝陽?」

 彼は文字通り目を丸める。

 これは良い結果が得られそうだなと思い、彩の疲れが和らいでいった。しかし何やら事情があるらしく、彼は渋い表情を浮かべる。

「あの、実は朝陽のやつ、小学生の時に引っ越したんですよ……」
 もしかすると長い話になるかもしれないと言われた彩は、彼に連れられてファミレスへと入る。

 奢りますよと言われて最初は遠慮をしたが、結局最後に押し切られてしまった彩は、なるべく財布に負担のかからないものを注文した。

 やがて彼の注文した、たらこスパゲッティと、彩の注文したミートドリアが運ばれてくる。それを食べながら、話を始めた。

「や、いきなりで悪いんだけどさ、朝陽との関係性を教えてもらっていい? 一応友達の個人情報なので」

 ここに来る前に年齢の話になって、お互いが同い年だということが判明したため、今はもう喋り方がくだけたものになっている。ちなみに彼の名前は晴野(はるの)春樹(はるき)という。

「私自身、朝陽くんにあったことはないんだよね。友達のお願いで、遠路はるばるここへ探しに来たの」

 そう言って彩は、自分の身分証明書となるものを春樹に見せた。

 そこには綾坂彩の名前と顔写真、生年月日、学校名が記載されている。学校名には県の名前が入っているため、彩が遠くから来たということは伝わっているだろう。

「遠くからわざわざ来たっていうのは分かったけど、なんで君が来たの? そのお友達さんが探しに来るのが普通じゃない?」
「その子、割と対人コミュニケーションが得意じゃないんだよね。だから私が手伝ってるの」
「へぇ、綾坂さんとそのお友達さんってすごく仲が良いんだね」

「はい」と言って、素直に彩は頷いた。

「そのお友達っていうのは、やっぱり朝陽のお友達?」
「友達だよ。といっても、小学一年の数週間程度しか一緒にいられなかったらしいの。私の友達が引っ越しちゃったから」
「小学一年の頃なら、俺が知る限りそんな友達いなかったと思うんだけど」
「あぁ、それは……」

 彩は朝陽と紫乃の関係性について話した。

 キャッチボールの球が家の庭へ入ってしまったこと。それがきっかけで、二人は友達になったこと。

 思い当たる節があったのか、話をしている最中彼は昔を懐かしむような表情を浮かべていた。

「なるほどね。あの時かぁ」
「あの時?」
「あぁいや、その時朝陽と一緒にキャッチボールをしてたんだよ。そんで朝陽が人の家にボールを飛ばしたから、ビビって俺だけ逃げたんだ」

 懐かしいなぁと呟く春樹の表情はとても穏やかで、きっと昔は仲が良かったのだろうことが容易に想像出来た。

「うん。嘘をついてたり、君が悪い人じゃないってことはよくわかったよ」
「今の話だけでわかったの?」
「だって、あの公園にいたのは俺と朝陽の二人だけだったし」

 そう言うと、春樹はスマホを取り出して文字を打って彩に見せる。そこにはここから割と遠い場所にある、浜織町という名前が書かれていた。

「悪いんだけど、実は引っ越しする町しか聞けてないんだ。小学二年の頃からなんとなく疎遠になっちゃって」
「ううん大丈夫! 町の名前がわかっただけでも、すごい進歩だから!」

 彩がお礼を言って微笑みを見せると、春樹は目をそらして鼻先を人差し指でかいた。それから窺うような視線を向ける。

「あの、さ。綾坂さんって彼氏とかいる?」
「え、いないけど。どうしたの?」

 その返答に春樹はホッとした表情を見せたが、彩にはどうしてそんな表情を見せたのかが分からなかった。

「いやぁ、綾坂さんってほら可愛いから、周りの人が放っておかないんじゃない?」
「え、可愛いって。ありがとうございます? でもそんな、お世辞とか言わなくてもいいよ」
「いやいやほんと可愛いって。ぶっちゃけ綾坂さんみたいな可愛い人初めて見たもん」

 春樹は分かりやすい好意の目を見せるが、そういうことに鈍感な彩は困ったような表情を見せて曖昧に微笑み、もう一度ありがとうございますとお礼を言う。

 病院生活が長く続いていたため、お年寄りの入院患者からは可愛いと何度も言われていた。いつのまにか言われ慣れてしまって、春樹の言葉は全然彩に響いてはいない。

 綾坂彩はいわゆる天然であり、純粋培養の善人なのだ。

「晴野くんの方こそ、男らしくてかっこいいと思うよ」
「え、まじ?! うわあめっちゃ嬉しい!」

 相手が喜んでくれると、自分のことのように嬉しくなる。彩は春樹のことを見て、ニコニコと微笑んでいた。

「ねえねえ、これからまたどっか行かない? 俺また奢るからさ」
「お誘いはとても嬉しいんだけど、結構時間が限られてて……実は家族には黙って飛び出してきたの」
「あ、あぁ、そうなんだ……じゃあさ、メアド交換しない?」
「それなら全然構わないよ」

 二人はご飯を食べ終わると、手早くメールアドレスを交換してファミレスを出た。

「麻倉朝陽さんのことを教えてくれて、それにご飯までご馳走してくれるなんて本当にありがとね」
「いやいや、困ったときはお互い様だから。朝陽のこと見つけられるの祈ってるよ」

 彩はにこりと微笑んで頭を下げた後、もう一度大きなスーツケースをゴロゴロ引いて歩き出した。そしてスマホを取り出して、紫乃に現状報告のメールを打ち込む。

 朝陽の所在が分かったこと。今は浜織という町にいるということ。それと朝陽の友達である、春樹という男の子とメアドを交換したこと。

 電車の中で一度意識を沈めた後に目を覚ますと、紫乃からの返信がメールボックスに入っていた。内容は彩への感謝の言葉であり、やっぱりそれを見て彼女は嬉しくなる。

 自分の胸に手を当てて、祈るように呟いた。

「次は紫乃が頑張ってね。私はあなたのこと、応援してるから」
 インターホンの音で朝陽は目を覚ました。目を開けると薄く開いたカーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、思わずまぶたを狭める。

 やがて眩しさに慣れた頃に起き上がって、眠気を飛ばすために大きく伸びをした。

 母が起きているだろうと踏んで、朝陽は玄関には向かわずにぼーっとしていると、不意に机の上のスマホがブブブと振動する。こんな朝早くに誰だろうと思い起動させてみると、相手は珠樹だった。

 開いてみると、ボックスに二、三通メールが溜まっている。

『ねえちょっと訊きたいことがあるんだけどっ!』
『今から朝陽の家に行くから』
『ねえ今起きてんの?!』

「うわ、まずい……」

 理由はわからないけれど、珠樹が怒っているのだということは容易に想像できた。おそらく、インターホンを鳴らした主も珠樹なのだろう。

 その答え合せをするように、一階から朝陽を呼ぶ母の声が聞こえてきた。手早く私服に着替えて玄関へ向かうと、愛想笑いを浮かべた珠樹が母と談笑している。制服を着ているから、学校へ部活に向かう途中なのだろう。

 朝陽が来たのを確認すると、母はリビングの方へと引っ込んで行った。同時に珠樹から愛想笑いがスッと消えて、眉が内側に寄り、目元は鋭さを持ち始める。

「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」
「えっと、なにかな……」
「昨日、朝美姉から聞いた」

 朝美が何か言ったのだろうか。あの人はいつも適当なことを言うから、朝陽の身体は自然と震え上がる。

「東雲さんが、朝陽の家に泊まったって?」
「あ」

 そういえば珠樹に説明していなかったことを思い出す。朝陽は昨日の経緯を伝えた。

「紫乃が今日までしかホテルの部屋を押さえてなかったんだよ。だから別の場所を探さなきゃいけなくて、それなら僕の家に泊まればって」
「思春期の男の子がいる家に女の子を泊めるなんておかしい」
「でも仕方ないじゃん。それに、紫乃は姉ちゃんの部屋で寝たよ?」
「朝美姉の部屋で寝たからって、朝陽が何も出来ないわけじゃないでしょ」
「なんで僕が手を出すこと前提なの……」

 呆れたようにため息を吐くと、紫乃は肩を怒らせながら詰め寄った。朝陽はびっくりして、半歩ほど身を引く。

「ねぇ、私、中学一年の時以来、朝陽の家に泊まってないんだけど」
「それは珠樹がもう大きくなったから……」
「なんだ、自覚あるんじゃん」

 実は、中学生になって大きくなったから、男の家に外泊を許可しなくなったというわけでもない。もちろんそれも一因ではあるが、最大の要因は珠樹が海で溺れかけてしまったということにある。

 あの出来事以来、珠樹の母は娘に対して少し敏感になってしまった。心配をして怒鳴り散らすというわけではないが、極度に不安を抱くようになったのだ。どこにいるのか、何をしているのかを何度も確認してくる。

 そんな母を不安にさせたくないから、あの出来事以来珠樹は外泊を行なっていない。そういう事情があることは、彼女にも分かっている。

「でも、それとこれとじゃ話が別でしょ? 紫乃を泊めなかったら、最悪野宿になってたかもしれないんだよ?」
「それじゃあ、一度私に相談してくれれば……」
「いやいや、珠樹の家はお父さんが厳しいじゃん……見ず知らずの人を泊めてはくれないでしょ」
「うっ……」

 珠樹は言葉を詰まらせる。朝陽もその選択を一度は考えていたが、すぐに候補から外していた。

 勢いをなくしたようにも見えたが、何かを思い出したのかすぐにまた目元に鋭さが宿る。

「昨日、東雲さんと遊びに行ったんだって?」
「まあ、そうだけど……」
「なんで私も誘わなかったの」
「いや誘ったよ。そしたら部活があるって」
「うっ……」

 すっかり忘れていたのか、苦虫を噛み潰したような表情になった。なんだか珠樹を責めているような気分になってきて、朝陽は申し訳ない気持ちになる。

 自分の説明不足だったなと反省した。

「……朝陽くん、どうしたの?」

 そうこう話しているうちに、紫乃が玄関から出てきた。寝起きなのか眠気まなこをこすっていて、朝陽の目の前にいる珠樹には気づいていない。

「なんか、外から朝陽くんの声が聞こえてきて……それで紫乃、気になって……」
「ごめんちょっと珠樹と話してたんだ」
「……珠樹?」

 眠気まなこのままゆらゆらと近付く。目が合うと珠樹は一度会釈をした。しかし紫乃は会釈をせずに目を丸めて、突然ふらっと身体が揺れる。

 すぐにそれに気付いた朝陽は、慌てて紫乃のことを抱きとめた。

「紫乃、大丈夫?!」
「うわ、あ、ごめん」

 朝陽の腕の中にいる紫乃は、何が起きたか分からないといった風に目を丸めて驚いていた。そして自分が抱きしめられているということに気付き、薄っすらと耳が赤くなる。

 珠樹も紫乃へ近寄った。

「ちょ、ちょっと、東雲さん大丈夫?」
「あ、玉泉さん……おはようございます……」
「おはようございます……じゃなくて! もしかして体調悪いの?」
「体調は悪くないと思いますけど……」

 そう言うと、お礼を言った後に朝陽から離れた。珠樹はすぐに、紫乃のおでこに手のひらを当てて検温する。突然手を当てられた彼女は、くすぐったそうに身をよじって目をつぶっていた。

「熱はないね」
「紫乃、大丈夫?」
「あ、うん。全然平気だよ。ほらすごい元気!」

 紫乃は二人の前で腕をぶんぶんと振り回している。なんだか子どもっぽくて可愛いなと感じたが、朝陽はすぐに我に返った。

「ほんとに、隠してない?」
「体調は大丈夫だって。寝ぼけてたからちょっとふらついただけ」
「朝陽、たぶん体調はどこもおかしくないと思うよ」

 その手で検温した珠樹が言うなら間違いはないのだろう。取り越し苦労ならそれでいいのだが、万が一のことを考えてしまうと不安の気持ちが押し寄せてくる。

「てか、ごめん。感情的になってた……玉泉さんも起こしちゃったし」
「僕は気にしてないよ」
「私も気にしてません」

 二人はそう言うが、珠樹は反省しているのか、いつもより身体を縮こませていた。そんな彼女を見て、紫乃は首をかしげる。

「玉泉さんは、朝陽くんと何のお話をしていたんですか?」
「お話っていうか……私が一方的に話してたっていうか……」

 上手い言葉が見つからないのか、なかなか声に乗らずに口の中でもぐもぐしている。珠樹がこんなに言い淀むのは珍しいため、朝陽は助け舟を出すことにした。

「紫乃が無事に眠れてたか心配してたみたいだよ。一応男の僕が住んでる家だし、それに姉ちゃんとかも……」

 紫乃はハッキリとは言わずに、苦笑いを浮かべる。やはり朝美の横ではぐっすり眠れなかったのだろう。

「朝美姉の寝息すごいからね」
「あ、いえ、でも朝陽くんのおかげで結構ぐっすり眠れたんですよ」

 珠樹はキッと朝陽を睨んだ。

「だから違うってば。眠れるようにココアを作ってあげただけ」
「へえ優しいんだね」

 嫌味を言っているかのような、感情のこもっていない声。また怒らせてしまっているのだということはすぐにわかった。

「というか珠樹部活は? コンクール近いんじゃないの?」
「おいなんだ、私が部活に行ってほしいのか?」

 朝陽はすぐに頷く。心の中には他意など一つもなかった。

「今日は行かない。私休む」
「えっ」
「たまには休息も必要だと思うんだ。毎日吹いてると唇が痛い」

 一昨日に十分休んだじゃないかとツッコミたくなったが、朝陽は何も言わずに黙っておくことにした。珠樹は基本的に一度決めたことは曲げないし、しつこく言えば不機嫌になってしまう。今も十分不機嫌ではあるが。

「というわけで今日は三人で出かけよう。紫乃ちゃんはどこに行きたい?」
「あ、え、私ですか?」

 チラと窺うように紫乃は朝陽を見る。
名前で呼ばれたことにやや戸惑っているようにも見えるが、何か伝えたいことがあるようにも見えた。

 とりあえず、紫乃の判断に任せるよということで、一度首を縦に振った。

「あの、私は、どこでも……朝陽くんと玉泉さんの行きたいところで……」
「紫乃ちゃんそんなにかしこまらなくていいよ。あと私のことは普通に珠樹でいいからね!」

 いつものように、珠樹は恐れることなく相手との心の距離を一気に詰める。朝陽としては二人が仲良くなってほしいし、紫乃にも友達が出来て欲しいため、珠樹の性格に感謝していた。

 しかし紫乃はまだ打ち解けることが出来ないのか、やや戸惑いの残った表情で不器用に微笑んだ。

「じゃあ、珠樹さん」
「よしきた! それじゃあ山行こう! 川行こう! 花火しよう!」
「え、本当に山に行くの?」
「タリメーだろこら! ほら朝陽、十秒で支度しな!」
「いやいや無理だって……せめて二十分ぐらい時間ちょうだいよ」

 そう言いつつも、珠樹が急かすため十分以内に用意を済ませて玄関前に戻ってきた。

 そして珠樹は紫乃の手をガシッと掴み、先導するように歩き出す。その強引さに紫乃は目を丸めていたが、やがて自然な笑みがこぼれ始める。

 二人が打ち解けられそうで、朝陽も安心した。
 当初の予定通り三人は舗装された山道を歩いていたが、当然のごとく上り坂が多いため、紫乃は息を切らし始めていた。珠樹もそれに気が付き歩みを緩めるが、照りつける太陽の日差しが体力をどんどん奪っていく。

 数分前に珠樹がやっぱり引き返そうかと提案をしたが、紫乃は大丈夫だよと言って折れなかった。あまり人に弱みを見せるのが嫌なのだろう。彼女は昔からそういうところがあった。

 おそらく珠樹は山頂付近にある見晴台へ行き、紫乃に浜織の景色を見せてあげたいのだ。そこからは田舎の風景と一面に広がる海の全てが見える。よく二人で遊びに行くことが多いため、朝陽にもその考えは分かっていた。

 しかし体力的な面を考えるとそれは難しい。ひとまず今日はここまでという線引きと、紫乃に自分のせいだという罪悪感を抱かせないようにしなければいけない。もちろん朝陽は彼女に対して悪い気持ちを持っていないし、それはきっと珠樹も同じだ。

 だから一度朝陽が目配せをすると、全てを理解したのか珠樹は頷き、紫乃の手を取って微笑みかけた。

「もうちょっとで着くから、紫乃ちゃんも後一息だぜ!」
「あ、うん……」

 珠樹の笑みが伝染したのか、疲れを見せていた紫乃の表情がわずかに緩む。玉泉珠樹には、昔から周囲を一瞬で笑顔にする不思議な力があった。

 やがて短い橋が見えてくる。水が流れている音が聞こえてきて、熱を持っていた身体が涼んでいくのを感じた。

「うわぁ」

 橋を渡っている最中、紫乃は手すりにつかまって眼下を見下ろした。透明な水が岩の隙間を縫うようにして、下流の方へと流れている。少し向こうには小さな滝があり、上流から落ちてきた水が水面に打ち付けられることによってしぶきを上げていた。

「すごい、なんだか心が落ち着いてくるね」
「でしょー! 私も疲れた時はたまにここに来て、荒んだ心を鎮めてるんだよ!」

 そう言うと、珠樹も紫乃と同じく手すりを掴み、身体を弓なりにそらせた後、吐き出すように大声で叫んだ。

「バッキャローーーー!!!」

 何に対しての、誰に対してのバカヤロウなのか、朝陽には分からなかった。

 紫乃は珠樹の叫びが面白かったらしく、お腹を押さえながらくすりと小さな笑みをこぼす。しかしそれは押さえきることが出来なかったのか、小刻みに身体を震わせながら声を出して笑った。

「紫乃ちゃんもやってみなよ! ストレス発散になるぜ!」
「え、私も?」
「恥ずかしがることなんてなにもないからね! ここあんまり人来ないし、今は私たちだけだから!」

 初めは恥じらいを見せたが、一度胸に手を当てて深呼吸をした後、紫乃は吐き出すように大声で叫んだ。

「ごめんなさいいいい!!!」

 その声は遠くまでよく響き、こだまとしてこちらへと返ってくる。想像していたより大きな声だったのか、珠樹は目をしばたたかせていた。

「うわ紫乃ちゃんすごい大声出せるじゃん! でもなんで謝ったの?」
「あ、えっと、それは、なんとなく、かな……」

 誤魔化すように紫乃は不器用に微笑む。珠樹は特に気にした様子はなかったが、朝陽は見過ごすことが出来なかった。

 珠樹に聞こえないように、紫乃へ耳打ちをする。

「もしかして、何かあった?」

 するとびくりと一瞬身体を震わせたかと思えば、また不器用に微笑んだ。

「あ、あはは……なんでもないよ?」
「……そう?」
「うん。ちょっと、謝りたい気分だったの……」

 彼女の気持ちが分からなかったが、気休めになればと思い肩へ手を置いた。びっくりして朝陽の方を見るその瞳は戸惑いで揺れている。

「たぶん、珠樹は紫乃の思っている以上に良い子だよ。だから気に病む必要なんて何もないからね」

 その言葉に安心した表情を見せたのは一瞬だけ。すぐに安堵の表情は沈んでいき、先ほどよりも陰りがさした。

 紫乃は胸に手を当てて、朝陽の袖を引き止めるように掴む。震えていた唇がゆっくりと開いた。

「あの、私……」

 言いかけた言葉は途中で止まる。二人の間をゆらりゆらりとさまよって、結局明確な言葉として朝陽には伝わらなかった。

「どうしたの?」
「……なんでもない」

 なんでもないわけではないということは、朝陽にも分かっていた。だけどそれ以上は何も言えずに口をつぐんでしまう。

 そうしていると、珠樹は紫乃に後ろから抱きつくようにして飛びかかった。首から腕を回された紫乃は、驚いた声を上げる。

「うわ! え、どうしたの?」
「せっかく遊びにきたんだから、ほら笑顔笑顔」

 ニッと口角を持ち上げて珠樹は微笑む。それにつられて紫乃もくすりと微笑んだが、その表情は突然見る見るうちに崩れていった。

 彼女は、涙を流したのだ。

「え?! 紫乃ちゃん大丈夫?! もしかして痛かった……?」
「ううん、そうじゃなくてっ……」
「大丈夫?紫乃?」

 ふるふると、紫乃は何度も首を左右に振る。その姿を見ていられなくなったのか、珠樹は抱きついたままその頭を撫でてあげた。

 しばらくすると涙は引いてきて、朝陽はホッと安堵の息をついた。

「ごめん、突然泣いちゃって……」

 謝る紫乃の肩を、珠樹は笑顔でポンと叩いた。

「気にすんなって! そういう日もあるから!」

 やはり彼女は強い人だなと、朝陽は改めて感じる。

「紫乃、今日は余計なことは考えないで、三人で楽しもうよ。せっかくこんなに天気がいいんだから」

 頭上を見上げると、雲一つない透き通るような青空が広がっていた。スズメの鳴き声が聞こえてきて、心を落ち着かせてくれる。

 紫乃はもう一度だけためらいの表情を見せたが、やがて一度唇をひき結んだ後、二人へ今日一番の笑顔を見せて頷いた。

 それから珠樹の提案で川岸へ降りると、彼女はおもむろに平たい小石を拾い上げて、水面に向かって横向きに投げつけた。小石は水面を滑るようにして飛んでいき、やがて力を失い水中へ沈んでいく。

 もう一度適当な石を拾い上げると、それを紫乃へ手渡した。

「紫乃ちゃんもやってみなよ。水切り」
「うん」


 紫乃は見よう見まねで小石を水面に投げたが、珠樹のように綺麗に滑りはしなかった。一度もバウンドすることなく、ぽしゃんと水中へ沈んでいく。

「あはは、紫乃ちゃんへたっぴだね」
「だ、だって初めてだし……」

 恥ずかしいのか頬を染める姿を見て、珠樹は声を出して笑う。朝陽も微笑ましさからくすりと微笑んでいた。

「あ、おい朝陽。てめえ笑ってるけど、水切り出来んのか?」
「なんでそんなに高圧的なの」

 手近な石を拾い上げて水面に投げると、珠樹のようにはいかないまでも、5回ほど水面を切るように飛んでいった。

 紫乃はそれを見て、パチパチと手を叩き賞賛する。

「うわ、すごい」
「紫乃ちゃん、あいつは男だから出来て当然だよ。全然すごくない」

 出来ても出来なくても罵られたのだということがわかり、朝陽は引きつった笑みを浮かべる。

 しかし紫乃がくすりと微笑んでくれたから、素直に水に流すことにした。きっと珠樹にもそういう打算があったのだろう。

 それからは紫乃の手を取りながら、珠樹は水切りのやり方を教えてあげた。最終的に跳ねた石の回数は三回だったが、成功した瞬間は小さくガッポーズをして喜びを表現する。

 その時にはもう、紫乃の目に涙は浮かんでいなかった。
 午後は浜織の町をアテもなくぶらりと歩いたが、特にこれといって物珍しいものはなく、水切りの時以上に盛り上がりはしなかった。

 元々観光名所でもない田舎町だから当然である。唯一紫乃が興味を示したことといえば、浜織神社でのお祭りの準備だった。

 浜織神社は町の北にあり、二日後にそこで夏祭りが開催される。その準備を大人たちが行なっていて、先ほど朝陽たちが訪れた時には飾り付けの提灯をぶら下げているところだった。

 普段は味気ない場所ではあるが、飾り付けを行うだけで何故だか心がわくわくしてくる。それは紫乃も同じだったのか、「なんかいいね」と言いながら微笑んでいた。昨日までは閑散としていた神社にも人が増えて、神様も喜んでいるだろう。

 大人たちの間を通り抜けて、拝殿にある麻縄を揺らす。すると根元に取り付けられていた鈴が揺れて、シャリンシャリンという涼しげな音が鳴り響いた。賽銭箱にお金を入れて、通例通り二礼二拍手一礼を済ませる。

 目を開いてすぐに、珠樹は朝陽の顔を横から覗き込んだ。

「何をお祈りしたの?」
「それ言ったら意味ないんじゃないの?」
「いいから」

 紫乃も興味があるのか、何も言わずに横目でうかがっている。あまり気は進まないが、朝陽は話すことにした。

「僕の周りの人が幸せに過ごせますように」
「うわ、ふつー」
「別にいいじゃん」

 取り立てて自分に対してお祈りをしたいことがなかった朝陽は、身近な人物の幸せを願った。珠樹は白けた視線を向けるが、紫乃は感心したように微笑んでいて、同時にやや驚いている風に見える。

「じゃあ紫乃ちゃんは何をお祈りしたの?」
「え、えっと……私も両親と妹と周りの人が幸せに過ごせますように……?」

 一瞬話すのをためらったようにも見えたが、紫乃はお祈りの内容を二人に話した。

 偶然にも内容が重なっていて、朝陽は胸の奥にくすぐったさを覚える。そしてなぜか珠樹に睨まれて、理不尽な想いを感じた。

 妹というのは東雲乃々のことを言っているのだと朝陽にはわかったが、初めて聞いた珠樹は妹に興味を示した。

「へえ、妹ちゃんがいるんだね」
「うん。とっても可愛いよ」
「写メとかある? ちょっと見てみたいなー」

 そうお願いすると、紫乃はスマホを取り出して操作を始める。やがて二人に見せたのは、笑顔を浮かべる女の子が窓際で小さくピースをしている写真。身長は紫乃と珠樹より低いが、なぜか大人の雰囲気が感じられるお淑やかな女の子だと、朝陽は思った。

「乃々さんは、全然紫乃に似てないね」
「私は隔世遺伝だからおばあちゃん似で、乃々はお母さんに似てるの」
「それじゃあ紫乃ちゃんのお母さんもおばあちゃんも、とっても美人なんだね」

 その飾りのない本音をすらりと話せるのが、珠樹の良いところだ。遠回しに美人だと言われた紫乃は、それほど照れた様子は見せずに、むしろ自分の親が褒められたことが嬉しいのか微笑みを見せている。

 しかし、何かに引っかかりを覚えた朝陽は首を斜めにひねるが、紫乃が珠樹に会話を振ったことによって、意識がそちらへ向けられた。

「ところで珠樹さんは何をお祈りしたの?」
「そんなの決まってるじゃん」

 そう言うと、珠樹は紫乃に横から抱きついた。突然の行動に紫乃はびくりと身体を震わせたが、悪い表情は浮かべていない。

「紫乃ちゃんと、もっと仲良くなれますようにって」
「あ、えっと、ありがと……」

 さすがに恥ずかしかったのか、紫乃は頬をほんのり赤色に染めて俯く。しかしそれ以上に嬉しかったのか、口元からは笑みがこぼれていた。

 神社を出るともう日は沈み始めていて、辺りはオレンジの夕焼け色に包まれている。

 次に珠樹が向かったのは、家の近くにあるスーパーだった。何を買うのかと思いながら朝陽は黙っていると、それを見つけた彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて小走りで近付いていく。

「やっぱ夏といえばこれっしょ!」

 手に取ったのは、花火のパーティーセットだった。

「花火をやるなら夜遅くになるけど、珠樹のお母さんが許してくれるの?」
「私の家の庭でやるなら、お母さんも心配しないよ」
「ご近所の迷惑にならないかな?」
「毎年家の前で花火してるし、大丈夫大丈夫」

 そういう会話をしているとき、紫乃は興味深そうに珠樹の持っている花火セットを見つめていた。

「もしかして、紫乃は花火したことない?」
「あ、うん。テレビで見たことはあるんだけど、やったことは一度もないよ」
「テレビで見たやつよりは迫力がないかもだけど、手持ち花火も綺麗だよ」

 楽しげな想像をしたのか一瞬笑みをこぼしたものの、すぐに何かを思い出したかのように紫乃は表情に影を落とす。

 今日の彼女はどこか様子がおかしかった。

 しかしその理由もわからないまま、日は完全に落ちて辺りが薄暗闇に包まれる。昨日、暗闇が怖くなったと言っていた紫乃は、帰り道に自然と朝陽の手を握っていた。

 それを珠樹が見てムッとした表情を見せるが、彼女の怯えた様子を見て察したのか、何も言わずに少しだけ紫乃へ寄り添ってくれる。

 朝陽はただそっと、彼女の手を握り続けた。
 ろうそくに火をつけるために、マッチ棒の先端を箱の側面にこすりつける。すると一瞬火花が散ったかと思えば、先端にオレンジ色の火がともり辺りをぼんやりと照らす。

 朝陽はマッチをろうそくの先端に近付けて、火を灯した。

「うわぁ」

 ろうそくにつけられた火を見て、紫乃は感嘆の息を漏らす。オレンジ色の火によって、大きな瞳がキラキラと輝いている。

 辺りが照らされたこともあり、すぐ隣に朝陽がいることをようやく意識させられたのか、紫乃は珠樹の方へと慌てたようにちょこちょこ移動した。その頬は桃色に染まっていて、少し俯いている。

 どうしてか朝陽の心臓もどくりと大きく脈打って、そわそわとした気持ちにさせられた。例のごとく珠樹は朝陽のことを睨みつける。

「お前ら、初々しいかよ」
「え、なにが……?」

 珠樹は朝陽からそっぽを向いて、ガサガサと乱暴にパーティーセットの封を開ける。

「一日家に泊めれば、そりゃあお互いに意識するよね……」そう小さく呟いた言葉は、紫乃にも朝陽にも聞こえなかった。

 珠樹は封を開けたパーティーセットの中から、適当な花火を取り出して紫乃に持たせる。それから何事もなかったかのように、ニッと口角を持ち上げて微笑んだ。

「このひらひらの部分を千切ってね、ろうそくの火に近付けるんだよ」
「うん、わかった」

 紫乃は言われた通りに花火の先端を千切って、ろうそくの火に近付ける。するとそこから黄色の火花が激しく飛び散り、それに驚いた彼女は「うわっ?!」という短い悲鳴を上げて花火を地面に落とした。

「ちょ、紫乃ちゃん手放したら危ないよ?! ほらちゃんと持ってなきゃ」
「ご、ごめん……」

 珠樹が火花の飛び続ける花火を拾って、紫乃にもう一度持たせる。その激しさに紫乃は釘付けになって、先ほどのように瞳がキラキラと輝いていた。

 しかしやがて火花は勢いを失っていき、最後には燃えカスのみが残る。

「ね、面白いでしょ?」
「すごい、綺麗だった」

 まだ余韻が抜けきらないのか、燃え尽きた花火の先端をまじまじと見つめながら呟く。朝陽は彼女がもっと楽しめるようにと、今度は青色の火花が飛び散る花火を勧めた。

「こっちもすごく綺麗だよ」
「やってみるね」

 手渡した瞬間に一瞬お互いの指が触れ合って、指の先から心臓の方へ伝播するように甘い衝動が伝わった。思わず彼女の方を見ると、もう花火の先端をろうそくの火に近付けていて、パッと青い火花が弾け飛ぶ。

 紫乃は花火に夢中のようで、朝陽はホッと安堵の息をついた。

「ほらほら、花火同時点火だぜ!」
「きゃ! 珠樹さん危ないよ!」
「大丈夫大丈夫! ほれ、ハート型!」

 珠樹は二つの花火をハート型になるように動かす。

 薄暗闇の中に一瞬だけピンク色のハートが現れて、紫乃はパチパチと拍手をした。

 それから紫乃も珠樹と同じように腕を動かし、右が青色で左が赤色のハートが出来上がる。その美しさに楽しげな笑みを浮かべていたが、紫乃はふとした時に我に返ったかのように表情を暗くして、笑顔を引っ込めてしまうことがあった。それは薄暗闇に紛れて、珠樹には伝わっていない。

 本当は楽しめていないのではないかと考えたが、今日一日を振り返ってみても、あの全てが紫乃の演技だったと朝陽には考えられなかった。彼女は時折そういう表情を見せるだけで、常にというわけではない。

 どこか楽しむことをためらっているように見えて、だけどその意味が朝陽には分からなかった。

 楽しい瞬間は瞬く間に過ぎていく。残りは線香花火だけになった時に、珠樹は思い出したかのように時計を見た。

「あ、やっべ。もう家の中入らないと、さすがにお父さんに怒られる」

 名残惜しそうな表情を浮かべる珠樹は、きっと心の底から今日の一日が楽しかったのだろう。

「それじゃあ、今日はもうお開きにしようか」
「ん、そだね」

 手早く花火の後片付けを行う。三人の洋服には火薬の匂いが染み付いていて、それをかぐたびに楽しい思い出が頭の中をよぎるようだった。

 片付けをしている最中、紫乃は燃え尽きた花火をまとめている珠樹の側へ自ら近付き、一緒に燃えカスの処理をしていた。その行動が嬉しかったのか、珠樹はいつにも増して笑顔を浮かべている。

「あの、今日はありがとね珠樹さん」
「いいっていいって! 私も楽しかったし、紫乃ちゃんともたくさん仲良くなれたしな!」

 屈託のない笑みを浮かべる珠樹を見て、やはり紫乃も微笑んでいた。

 残った線香花火は朝陽が持って帰ることに決まり、後片付けは全て終わる。別れ際、気になったことがあった朝陽は紫乃へ質問をした。

「明日は、部活行くよね?」

 一瞬ムッとした表情を見せるが、珠樹はすぐにいつもの表情へと戻る。

「そんなに部活に行って欲しい?」
「うん」

 それだけじゃ足りないと思った朝陽は、すぐに言葉を付け足した。

「学校の演奏会でたまに演奏聴くけどさ、僕結構好きなんだよ。珠樹が演奏してるとこ。頑張ってるなって感じるし。コンクールで演奏する珠樹を見るのも、すごい楽しみなんだ」

 素直な言葉に珠樹は一瞬頬を染めて俯いたが、すぐに気丈な態度で振る舞った。

「嘘つけ。チューバの音なんて、トランペットの音とかにかき消されて違いなんてわかんねーだろ」
「でも、珠樹が頑張ってるっていうのは伝わってくるよ。それに珠樹がいなかったら、演奏も少しだけ迫力がなくなると思う」
「なっ……」

 その言葉が嬉しかったのか、珠樹は再び俯いてしまった。どうしたのかと思い覗き込むと、今度はすぐそばまで近寄って、小さな足で朝陽の靴を踏みつける。

「いてっ!」
「うっせー! バーカバーカ! 朝陽に言われなくても、明日からちゃんと行くっつーの!」

 踏まれた足にわずかな痛みを覚えたが、珠樹の言葉が嬉しくて安心したように微笑む。それから逃げるように彼女は家の中へと戻っていき、やっぱり朝陽は少しだけ寂しさを覚えた。

 しかしそんな寂しさを忘れさせるように、紫乃が身体を縮こませて朝陽の手を握る。指先が触れた時に感じた甘い衝動が再び伝わってきて、ようやく彼はぼんやりと自分の気持ちの変化を理解することができた。

 自分は、東雲紫乃のことが好きなのだ。それはきっと……あの瞬間から。

 その想いに戸惑いは覚えなかった。むしろ自分の心の中にピタリとはまり込んで、どうして今まで気付かなかったのだろうと不思議にさえ思う。

 この気持ちを伝えることに、朝陽はためらいを覚えたりはしなかった。それは一度、突然の別れを経験してしまったから。

 早ければ明日にでも伝えてしまおう。心の中でそう決意して、隣を歩く紫乃を見つめた。

 ちょうど紫乃も朝陽のことを見つめていて、視線が偶然にもぶつかってしまう。最初に彼女の方から視線を外して、慌てて朝陽も視線をそらした。

 何かしゃべらなければと思い、すぐに話題をしぼりだす。

「そ、そういえば、綾坂さんからメールは来てた?」
「え、あ、来てないよ」
「そっか」

 今日は一日珠樹に振り回されていたから、彩にメールを送っているところを見ていないことに朝陽は気付いた。

「今日のこと、綾坂さんに伝えてあげれば?」
「今メールしてもいいかな?」
「大丈夫だよ。そういうことは早く伝えた方が、綾坂さんも喜ぶと思うし」

 そう言われて頷いた紫乃は、空いた方の手でスマホを取り出してメールを打ち始めた。歩幅はゆったりとしたものに変わり、朝陽はそれに合わせるべく歩みを緩める。

 そういえばと、ふと朝陽は思った。紫乃は自分のことを『紫乃』と呼んだり、『私』と呼ぶことがある。

 些細な変化のためそれほど気にはならなかったが、もしかすると紫乃は、自分の一人称を気にしているのかもしれない。朝美も昔は自分のことを名前で呼んでいたことを思い出し、どこか懐かしい気持ちになった。

 それと同時に、大人になろうとしている紫乃が微笑ましくなる。

 そういうことを考えていると、いつの間にか家の前についていて、紫乃のメールも打ち終わったようだった。彼女はスマホをポケットにしまい、それから胸に手を当てて朝陽に聞こえない声量で「ごめんね……」と呟いた。
 夜。そろそろ眠ろうと思いベッドへ向かおうとすると、ちょうど朝陽のスマホが机の上で振動した。それは何度も振動を続けるため、おそらくメールではなく着信だ。こんな時間に誰だろうと思い、発信者の名前を見る。

 そこに表示されていたのは玉泉珠樹という見慣れた名前。何か伝え忘れたことがあったのだろうかと思った朝陽は、すぐに応答のボタンを押した。

「もしもし、どうしたの?」

 返事は中々返ってこない。

 もしかすると珠樹が危ないことに巻き込まれたのではないかと思い、心臓が大きく跳ねた。しかし朝陽を安心させるように、ようやく返事が返ってくる。

『……今からちょっと話したいんだけど』
「今から? 僕は大丈夫だけど、珠樹はいいの? 明日は部活があるんだし」
『私のことは気にしなくていい。とりあえず外に出てきて』
「えっ、外に?」
『今、朝陽の家の前まで来てるから』

 さすがに冗談だと思ったが、もしかすると本当に来ているのかもしれないと考えて、朝陽は部屋のカーテンを開けた。

 そして眼下を見下ろすと、スマホを耳に当てた珠樹が部屋を見上げていて、冗談なんかじゃないということを理解する。

「ちょ、こんな遅い時間に出歩いたら危ないって」
『危ないと思うなら、早く降りてきてよ』
「わかった、今から行くから」

 家族はもうみんな寝ているため、朝陽は足音を立てずに一階まで下りて外へ出た。そこには薄桃色のパーカーを羽織った珠樹がいて、朝陽が出てきたのを確認すると、持っていたスマホをポケットの中へとしまった。

「なんでこんな時間に出歩くの。お母さんが心配するだろ」
「お母さんは心配してないよ。何も言わずに出てきたから」
「それならもっと大変だよ。もし、珠樹がいなくなったって知ったら……」
「たまに外に出歩いてるから大丈夫。お母さんもお父さんも眠りが深いし、バレたことは一度もないから」

 バレなければいいという問題ではない。そもそも母親が心配をするということ以前に、珠樹が深夜に外へ出歩いていることが、朝陽にとっては不安なのだ。

 もし彼女の身に何かがあったら。そういう考えを思い浮かべるだけで、どうしようもなく不安に駆られてしまう。

「帰ろう。僕が送ってくから」

 そう言って珠樹の腕を掴んで歩き出そうとするも、彼女が自発的に歩き出す気配はない。一度立ち止まって振り返ると、珠樹は朝陽に対して安心したような表情を浮かべていた。

「海に行こうよ。ちょっとだけだから。ちょっとだけ話をして、すぐに戻るよ」

 珠樹が自分から海に行こうと提案したことに、朝陽は素直に驚いた。彼女にとっての海はトラウマの象徴であり、出来るだけ近付きたくなかった場所のはずだ。それなのに、今は海に行きたいと言う。

「……大丈夫なの?」
「朝陽がそばにいるなら、大丈夫だと思う。それに浜辺にいれば溺れたりはしないでしょ?」

 たしかに、海へ入らなければ溺れるなんてことはない。相変わらず珠樹がなにを考えているのか分からないが、それで納得するならと朝陽は頷いた。

 もし珠樹の母にバレてしまったら、連れ戻すことのできなかった自分が謝ろう。そう心の中で決意して、朝陽は彼女と一緒に深夜の海へ向かった。
 紫乃と海へ来た時は海風が吹いていたが、今は陸から海へ向かって陸風が吹いている。それが珠樹のポニーテールを揺らし、彼女のうなじがチラリと見えた。

 月明かりに照らされているとはいえ、広い海は漆黒に染められていて、見ているだけで不安な気持ちにさせられる。

 昔、あの海で珠樹が溺れたのだということを朝陽は思い返していた。いつ思い出しても胸がしめつけられて、海面でもがく彼女の姿が脳裏にチラつく。

「今日の花火、すっげー楽しかったね」

 珠樹は振り返り、朝陽へ微笑みを向けた。

「珠樹と一緒に花火をしたのって、何年振りだっけ」
「たしか中学一年の時だったから、四年ぶりぐらいじゃない?」
「そういえばそうだったかも」

 中学二年の時は海での出来事があったこともあり、珠樹の母が過敏になっていたから、なるべく彼女は遊びに行かなかった。中学三年の時は受験で、高校一年の時はなんとなくそういう雰囲気にならなかった。

 高校に上がったことによって、男女であることを意識するようになったということもある。必要以上に仲良くしていると、周りからはそういう目で見られる。今ではあまり気にしなくなっているが、去年の朝陽はわずかな間、そういうことに悩んでいた。

 珠樹は一度大きく伸びをした後、比較的綺麗な流木の上に腰を下ろす。朝陽も隣へ腰を落ち着けた。聞こえてくるのは波の音と彼女の息遣いだけで、まるでこの世界に二人きりになってしまったかのように錯覚する。

「紫乃ちゃんも、すごく喜んでた」
「あれは珠樹のおかげだよ」
「私、紫乃ちゃんと仲良しだからね」
「夕飯の時、珠樹が仲良くしてくれて嬉しかったって言ってたよ」
「手だしてないだろうな?」
「だ、出してないって……」

 そうは言っても、好きだと自覚してから意識はさせられている。お風呂上がりの時はなるべく近寄らないようにして、だいぶ時間を空けてから入るようにという配慮をしたりしていた。

 それから珠樹は、昔を思い出すかのように話し始める。

「朝陽と海に来たのは、三年ぶりだね」
「そう、だね」

 朝陽の声色が露骨に変化したのを察したのか、珠樹はくすりと微笑む。

「やっぱり、気にしてくれてるんだ」
「そりゃあ、あんなことがあったんだし……」
「でも、朝陽は悪くないじゃん」
「いや、僕も悪いよ。珠樹のことを、ちゃんと見てあげてればあんなことには……」
「違う。あれは一人で突っ走っちゃう私の責任だった」

 朝陽の言葉を遮るように、珠樹は言った。

「でも、溺れたことは悪いことだけじゃなかったよ」
「どういうこと?」
「朝陽のことを、よく考えられるようになった」

 どういう意味か理解しかねた朝陽は、首をかしげる。

「あの出来事があってから、朝陽に迷惑をかけないように振舞ってたんだ」
「迷惑かけないように?」
「うん。もう危ないことはやめようって。もう少しおとなしい人になろうって」
「もしかして、だから陸上をやめたの?」
「そうだよ。でも、吹奏楽も同じぐらい大変なんだけどね」

 珠樹はそう言って苦笑する。吹奏楽は肺活量を鍛えないといけないため、毎日グラウンドの外周を一生懸命走っている。その彼女のことを、朝陽はたびたび目にしていた。そしてそのたびに、やっぱり彼女は身体を動かしている方が輝いていると感じていた。

 チューバを吹いている珠樹のことも朝陽は好きだが、今までずっと身体を動かしている光景を見てきたのだから仕方がない。

「僕は、少し寂しかった」

 そう、本音を口にする。

「珠樹は珠樹なんだから、変わる必要なんてこれっぽっちもなかったのに」

 別に責めているわけではない。むしろ彼女を変えさせてしまったのは、自分が不甲斐なかったからだとさえ思った。

「だって、朝陽は紫乃ちゃんみたいな、おしとやかな子が好きなんでしょ?」
「なんで僕の好みが基準になるの。それに、別におしとやかな人が好きってわけじゃない」
「でも、紫乃ちゃんのことは好きだよね」

 核心を突かれてしまい、朝陽は押し黙る。どうして今そんな話題を振ってくるのか、やはり珠樹の考えが分からない。

 答えを返さずに黙っていると、珠樹は自嘲気味に笑う。横顔は、悲しみの色に彩られていた。

「ほら、やっぱり……」
「……何が言いたいの?」
「まだ気付かないの?」
「気付かないって、何が」

 幼馴染だから、珠樹のことはなんでもわかってあげられていると思っていた。だけどそれはただの思い上がりで、自惚れだったのだとようやく朝陽は自覚する。

 そして、気付いていなかったのは自分だけだったということも。

「私は、朝陽のことが好きだから」

 風がやんだような気がした。遠くで聞こえていたはずの波の音も、砂がうごめくサラサラという音も、全てが突然消えてなくなる。ただ分かるのは自分自身の鳴り止まない心臓の音と、すぐ隣にいる、自分のことを好きだと言った彼女の気配だけ。

 しかしその全ては、珠樹が立ち上がったことによって再び認識を始める。時間は止まってなんてくれなかった。

「な、なにを……」

 言ってるの。

 言い終わることのできないまま、朝陽は珠樹に押し倒された。昼間は熱せられたように熱い砂浜が、今は驚くほど冷たい。それが珠樹の心の中を表しているかのように錯覚して、朝陽の胸は痛くしめつけられた。

「たま……」
「返事……」

 早く、返事がほしい。

 驚くほど冷たい声音で珠樹は呟く。感情がこもっていないように聞こえるが、そんなことはない。その声は震えていて、今にも消えてしまいそうな寂しさを持っていた。

 だから嘘偽りなく、本心を口にしなければという気持ちにさせられた。朝陽は目をそらさずに、珠樹に告げる。

「……ごめん」

 温度を持った水滴が朝陽の頬に落ちる。

 珠樹は唇を引き結びながら涙を流していた。それは壊れた蛇口のように溢れ続けて、とどまることを知らない。

「なんだよそれ……」
「ごめん、珠樹……」

 今度のごめんは、今まで気付いてあげられなくてという意味を含んでいた。

「もうなにそれっ……私の方が朝陽とずっと一緒にいたのにっ……っ! ずっと好きだったのにっ……! なんで、今さらっ、昔の友達とかやってきて……!」
「ごめん……」

 ただ、謝ることしかできなかった。

 珠樹は朝陽を見下ろしながら、とまることのない涙を流し続ける。

「ねえ、私が、もっとっ、女の子っぽかったらよかったのっ……? もっとおしとやかで、気が利いてっ、ガサツじゃなくてっ……! あの子がここに来る前に、朝陽に告白してたら、何か少しでも変わってたのっ……!」

 その言葉に返事を返すことはできない。紫乃と再会しなかった未来なんて、朝陽に考えることはできなかった。それにそんなことを考えるのは、二人にとっても失礼なことだから。

「ああもう……! 私、最低だっ……! 大好きなのに、来なければよかったのにって、思ってるっ……! 紫乃ちゃんじゃなかったら、ひっぱたいてたかもしんないっ!」
「それなら、僕が受けるよ。気付いてあげられなかった。ずっと珠樹のことを困らせてた。僕は、珠樹にぶたれるべきだ」

 そんなことはなんの解決にもならないけれど、罰を受けなければいけないと朝陽は思った。自分は知らず知らずのうちに、珠樹の心を傷つけ続けていたのだから。

 知らなかったでは済まされない。気付ける要素は、いくらでもあった。自分自身が気付こうとしなかったのだ。

「朝陽をぶつことなんて、出来ないよっ……」

 そう言った珠樹は、砂浜に押さえつけることさえ疲れたのか、そのまま朝陽の胸に顔をうずめた。

「ああ……もう、ほんと最悪……私、かっこ悪すぎでしょ……」
「女の子なんだから、かっこよくなくてもいいよ」
「こんな時だけ女の子扱いすんな、バカっ……!」

 軽く胸のあたりを叩かれる。
 もう一度謝りそうになったが、朝陽はその言葉をなんとか飲み込んだ。今必要なのは謝罪ではない。謝ったとしても、彼女の心が癒えることなんてないのだから。

「ありがとう、珠樹。僕のことを好きになってくれて」

 心の底からそう思った。だからこそ、自分のことを好きになってくれた人の想いを受け取れないことを、とても悲しいと感じた。

「なんで、こんなやつっ、好きになったんだろう……」

 朝陽は小さく苦笑する。明確な理由なんていらないけれど、どうして自分のことを好きになってくれたのかが気になった。

「珠樹は……えっと、どうして僕のことを好きになったの?」
「なにそれ。今振ったばっかの女に、そんなこと聞くの……?」
「ごめん、空気読めなくて。嫌なら、別に無理にとは言わないよ」

 そうは言ったけれど、一度鼻をすすった珠樹はその理由を話し始めた。

「どんな時でも、朝陽がそばにいてくれいれば安心だと思ったんだ。溺れかけた時、たくさん海水を飲んじゃって、意識がなくなりかけてたときに、朝陽の声が聞こえた。何度も何度も私の名前を呼んでくれて、死にそうだったのに、とっても安心できたんだ……」
「そうだったんだ……」

 朝陽はあの時、とにかく珠樹を助けることに必死だった。その思いが彼女にしっかりと届いていて、しかも現在まで心を寄せてくれていたのだ。嬉しくないはずがない。

「……本当は、助けてくれないんじゃないかって思った」
「え?」
「ほら、お互いに喧嘩してたじゃん……なんで喧嘩したのか、今になってはもう忘れちゃったけど。あの時、朝陽もすごく怒ってた。私は朝陽から逃げたくて、危ないよって注意してくれたのに、深いところまで泳いで行った。忘れちゃった……?」

 正直なところ、喧嘩をしたという事実は覚えていたが、そこまで細かいことは忘れていた。朝陽は珠樹を助けることに精一杯で、がむしゃらだったから。

 ただ純粋に、珠樹には生きていてほしいという感情しか、あの時には芽生えていなかった。

「まあ、忘れててもいいけど……その後は、なんかいつのまにか仲直りしてたし」

 珠樹は自分の流した涙を拭った。

「朝陽は、どうして紫乃ちゃんのことが好きなの……?」
「そういえば僕、まだ紫乃が好きって言ってないと思うけど」
「もう紫乃ちゃんしかいないでしょ。ずっと朝陽と一緒にいたんだから、それぐらいわかる」

 きっと朝陽が恋心を自覚する前に、すでに珠樹は気付いていたのだろう。気付いていてもなお、変わらず二人に笑顔で接していた。

 朝陽はそんな彼女のことが、やっぱり幼馴染として好きだなと思う。

「なんていうか、一目惚れだと思う」
「一目惚れ? 小学校の頃に?」
「ううん。もうだいぶ、昔のことを思い出したから分かるけど、あの時は恋心は抱いてなかったよ。ただ、仲良くなりたかっただけなんだ」

 朝陽の一目惚れは、高校生になった紫乃と再会した瞬間。あそこから全てが始まって、行動を共にするうちに彼女へ惹かれていった。

「……でも、やっぱり昔馴染みだからっていうのもあるんじゃない?」
「どうかな。また会えたのは嬉しかったけど、最初は紫乃だって分からなかったし」
「分からなかったのかよ」
「十年も前のことだからね」
「ひっでーやつ……」

 朝陽はそう言われて苦笑する。お互いに顔を覚えていなかったとはいえ、あの瞬間まで完全に紫乃のことを忘れていたのだから、珠樹に罵られても仕方がない。

 しばらく朝陽の身体に顔をうずめていた珠樹は、ようやく顔を上げた。もう涙は流れていないが、月明かりだけでその瞳が赤くなっているのがわかる。

「あの……」
「もう謝らないで」

 ごめんと言いかけたのを制止される。朝陽は口をつぐんだ。

「朝陽は何も悪くないから」

 見下ろす珠樹に向かって、決して目をそらさず確かに頷いた。

「あのさ……未練がましいかもしんないけど、一つだけ訊いていい?」
「うん。何かな」
「私、どこがダメだった……? 乱暴な性格してるって分かってるけど、あれから女の子らしくなろうって頑張ってたし……いつか、朝陽も振り向いてくれるかもって、思ってたんだけど。私って、そんなに魅力がなかった……?」

 彼女の言葉は、だんだんと弱々しいものへと変わっていく。本当は訊いてしまうのが怖いのだろう。だけどそれを訊いておかなければ、本当の意味で納得なんて出来ない。素直に朝陽や紫乃のことを応援できない。そう考えているのかもしれない。

 朝陽は自分の気持ちを間違えないように、丁寧に言葉を選んで彼女の質問に答えた。

「珠樹は、僕にとってもう一人の家族みたいなものだったから。嬉しかったんだよ。右も左も分からない僕に、初めから優しくしてくれて。ずっと一緒にいたら、やっぱりそういうことも考えたりしたけど、ドキドキするというより、なんだか安心した」

 それは、朝美という姉がいたから分かったことでもある。朝陽にとっての珠樹は、同い年の兄妹みたいなものなのだ。

「だからさ、魅力がないとかそんなんじゃないんだよ。もちろん吹奏楽をやってる珠樹のことも好きだし、続けてほしいって思ってる。だけど、珠樹自身は昔のままでもいいと思う。むしろ僕は、遠慮をしてない珠樹の方が好きだから」

 今の朝陽の気持ちを、珠樹にそのまま伝える。少しだけ恥ずかしいと思ったが、伝えずに心の中に秘めておくよりは何倍もマシだ。

 珠樹はすんと小さく、鼻をすすった。

「紫乃ちゃん以外の女の子に、好きとか言うな……」
「でも、珠樹のことは好きだよ?」
「幼馴染としてだろどうせ」
「まあ、そうなんだけど」

 軽く睨まれてしまい、朝陽は苦笑する。

 それからようやく、珠樹は朝陽の上から離れた。立ち上がると、服に付いた砂がサラサラと音を立てて落ちていく。

 珠樹は、暗い色に染まる海を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「ふうん……でも、家族、ね……」
「もしかして嫌だった?」
「別に、そんなことないけど。ただ、お前は弟だ。ほんとに世話の焼けるやつだな」
「僕が弟なんだ」
「当たり前だろ。私の方が、誕生日が一ヶ月も早い」

 そういう細かいところは子どもっぽいなと思ったが、朝陽は何も言わないことにした。

「あーあ、ほんとどうしてこんなやつ好きになったんだろ」
「いや、僕に聞かれても……」
「……私の初恋返せって感じ」

 ポロリと漏らしたそれは、彼女の本音だったのだろう。呟いたあと、珠樹は慌てて口を押さえたが、朝陽にはバッチリと聞こえてしまっている。

 しかし次に浮かべた彼女の表情は、清々しく晴れやかなものだった。その珠樹の笑顔を見て、朝陽もホッとする。

「初恋。朝陽が初恋で、本当に良かったって思ってるよ」
「あ、うん……それは、ありがと……」
「何赤くなってんだよバーカ」

 珠樹はにこりと微笑み、朝陽もくすりと微笑む。二人はもう、いつもの幼馴染だった。

 それから珠樹は、突然住宅地の方へ視線を向けた。

「あ、紫乃ちゃんだ」
「え?!」

 こんな時間に一人で出歩いていたら、さすがにまずい。ただでさえ彼女は暗いところが苦手なのだから。

 朝陽は慌てて振り返る。しかしどこにも、紫乃の姿はなかった。遅れて、それが珠樹の冗談なのだということに気付く。

「もう、驚かせ……」

 安心して、振り向いた時だった。

 突然朝陽は彼女に手を握られ、引き寄せられる。身体は珠樹の方へと倒れ、頬が柔らかいものにちょこんと当たった。

 それは一瞬だった。

 一秒にも満たない口付け。一秒未満の出来事だというのに、朝陽の心臓は驚くほど早鐘を打つ。

 そんな戸惑う姿を見て、珠樹は面白そうに微笑んだ。

「幸せになりやがれ、ばーか」