どんなに頑張っても、なかなか寝付くことのできない夜がある。

 とりわけ今日はいろいろなことがあって、様々な思考が頭の中を巡っている。早く昔のことを思い出さなければいけない。朝陽自身が蓋をした、過去の記憶を。

 しかしそれは霧のようにおぼろげで、なかなか掴み取ることができない。そのたびに、紫乃への申し訳なさがつのった。

 しばらくは眠れないだろうと悟り、朝陽はベッドから身体を起こす。夏の夜は生暖かく、額から汗が出て輪郭をなぞり下っていった。

 眠る前に麦茶を飲んだというのに、もう喉がカラカラに渇いてしまっている。不快感を消すために、朝陽はリビングへ向かうべく部屋を出た。

 すぐ隣から、ちょうど同じくらいのタイミングでドアの開く音が響く。

「あっ、朝陽くん」

 紫乃だった。

 目が合った瞬間、いたずらがバレた子どものようにバツが悪そうに笑う。その手には画面が鈍く光るスマホが握られていた。

「もしかして、眠れなかった?」
「あ、ううん。そうじゃなくて、起こしたら悪いなって思ったの」

 スマホの画面をこちらへ向ける。バックライトの明るさは最小にしてあるのだろうが、暗い部屋で使うと寝ている人を起こしてしまうかもしれない。

「綾坂さんからメール?」
「そんな感じかな。時間があるから、早めに返しておこうかなって。朝陽くんは?」
「僕はちょっと喉が渇いて。リビングに行くけど、一緒に来る?」

 紫乃がコクリと頷いたのを見て、朝陽はリビングへと歩き出す。しかしすぐに、右手が暖かくて柔らかいものに包まれてびくりと全身を震わせた。

 何が触れたのかと思い恐る恐る振り向くと、紫乃が申し訳なさそうな表情を浮かべて右手を掴んでいた。その行為に、胸がどくんと大きく鼓動する。

「え、あ、どうしたの?」

 そう訊くと、紫乃は手を握る力を強めた。心なしか少し身体が震えているように見えて、内に沸いていた不純な感情は吹き飛ぶ。

「ごめん。最近ちょっと、暗闇が怖くなっちゃって……」
「ああ、そういうときもあるよね」
「朝陽くんも?」
「うん。なんかそういう時は不安になるっていうか、誰かと話したくなるっていうか」

 暗い場所にいると、意味もなくこれからのことに不安を感じるようになる。自分が死んだらどうなるのか、このまま暗闇が晴れないんじゃないか。そういうとりとめのないことが次々と浮かんできて、心の奥をざわつかせる。

 もし不安を感じているのならば、助けになりたいと朝陽は思った。紫乃はもう、たくさん苦しんだのだから。

 その手を握り返すと、紫乃はホッと安心したような吐息を漏らした。

「あ、なんか安心してきたかも」
「そう?」
「すごい心臓がバクバク言ってたけど、朝陽くんのおかげで落ち着いてきた」
「それならよかった」

 安心したと告げられると、唐突に今の状況に気恥ずかしさを覚え始めた。仕方ないとはいえ紫乃の手を繋いでいるから、家族に見られるといらぬ勘違いをされるかもしれない。そう思い、朝陽は姉の部屋に耳をすませたが、少し大きな寝息が聞こえるだけだった。

「あんな寝息だったら、やっぱり眠れないよね」

 それは図星だったのか、申し訳なさそうに笑みをこぼす。

「最初はぐっすりだったんだけど、途中で起きちゃって」
「ごめんなさい。うるさい姉で……」
「ううん。私は大好きだよ」
「それ姉ちゃんに言わない方がいいかも。あの人褒められたら調子に乗る人だから」
「朝陽くんがそう言うなら気をつけるね」

 二人で静かにくすりと微笑む。

 リビングへ向かって電気をつけると、明るさで一瞬朝陽の目が眩んだ。慣れてきた頃に手を繋いでいる紫乃を見ると、まだ眩しいのかまぶたを半分だけ開けている。

 しばらくして明るさに慣れたのであろう紫乃は、一度繋いでいる手を見つめてから朝陽の顔を見た。二人の視線はぶつかり、初めに紫乃の方がゆらゆらと瞳が揺れる。それから耳を赤くしたかと思えば、慌てて繋いでいた手を離した。

「ご、ごめんねっ! いつまでも繋いでてっ!」
「ぼ、僕の方こそ! あ、なんか飲み物用意するよ!」

 朝陽も気恥ずかしくなり、逃げるようにリビングを離れてキッチンへ向かった。冷蔵庫の中を確認すると、牛乳と麦茶が保存されている。

「紫乃って、苦手な飲み物とかある?」
「えっと、ないかな」

 その言葉に安心して、マグカップに牛乳を注ぎ、ココアパウダーを適量入れた。それから電子レンジで数秒温めて、リビングでメールの返事を打っている紫乃の元へ戻る。

 朝陽は紫乃の対面へ座った。

「はいこれ。熱いから気をつけて」
「ありがと」

 マグカップを包み込むように持った紫乃は、一度ココアを口にすると幸せそうな表情を浮かべる。

 朝陽もココアを一口飲んだ。

 口の中で甘さが広がり、疲れた身体をゆっくり弛緩させてくれる。これなら今すぐにでも眠れそうだった。

「もうメールは出したの?」
「うん。ココアを作ってくれてる時に」
「紫乃は、綾坂さんとすごく仲がいいんだね」
「今は仲が良いけど、最初は結構大変だったよ」

 紫乃はマグカップのふちを親指でなぞる。昔を思い出しているのか、心ここに在らずという感じだった。

「でも、気が合ったから友達になったんじゃないの?」
「気が合ったのかな。性格とか全然違うし、ただのクラスメイトとかだったらここまで仲良くなれてなかったかも。私は彼女のこと、大好きなんだけどね」
「なんか、複雑なんだね」
「朝陽くんと玉泉さんの関係みたいなものだよ」

 その言葉に朝陽は首をかしげる。先ほどから曖昧にぼかした言い回しをしていることもあって、実はあまり理解出来ていなかった。

 そんな彼を見て、紫乃はくすりと笑う。その表情はほんの少し、初めて再開した時のような大人っぽさを秘めていた。

「彼女はね、私の命の恩人なの」

 それってどういうこと。そう訊こうとしたが、それよりも先に紫乃が「詳しいことは言えないんだけどね」と付け加えて申し訳なさそうに微笑んだ。

 一瞬海で溺れたことがあるのかと考えたが、そもそも海水の色に疑問を浮かべていたから行ったことはないのだろう。

 紫乃はもう一度、ココアを口に含む。立ち上った湯気が鼻先のあたりまで上り、ゆらゆらと消えていった。

「話せる時が来たら、朝陽くんにも説明するよ。できればその後も、仲良くしてくれると嬉しいかな」
「それは当たり前だけど……もしかして何か厄介なことに巻き込まれてたりするの?」
「ないないそれはないよ。ただ今は話せないってだけ」

 紫乃は残りのココアを大事そうに飲み下すと、立ち上がってキッチンの方へマグカップを洗いに行った。よく出来た子だなと思いつつ、朝陽も自分の使ったものを洗う。肩の触れ合うような距離で照れ臭さを覚えたが、心の中は幸福感に満ちていた。

 しかしマグカップを洗っている間、紫乃が落ち込んでいる表情を見せていたことに、最後まで朝陽は気付くことがなかった。

 それから部屋へ戻る時、リビングの電気を消す前に自然と紫乃の手を握る。彼女は驚いた表情を見せるが、朝陽も内心自分の行動に驚いていた。

「朝陽くん、男の子だね」

 そのふにゃりとした笑顔にやられて、すぐに電気を落とした。

 部屋の前に着いて手を離すと、紫乃は「ありがとう」とお礼を言う。しばらく沈黙が続いて、それに耐えられなくなった朝陽は自分の部屋へと逃げ出そうとした。

 しかし薄暗闇の中で紫乃の声が響き、逃げ出そうとした足は引き止められる。彼女の表情をうかがうことは出来なかった。

「一番大切なものって、なんだと思う?」

 その問いに、朝陽は首をかしげる。おそらく紫乃にその行動は見えていなかったのだろうが、彼女は次の言葉を続けた。

「覚えてる?」
「え、覚えてるって?」

 自ら蓋をした記憶を思い返す。その出来事をもう、朝陽は再開した時からぼんやりと思い出していた。

「もしかして、星の王子さま?」

 それは子どもの頃、朝陽が紫乃へ読み聞かせた本だった。そのお話の中でキツネの言った、誰もが一度は聞いたことがあるんじゃないかという有名なセリフ。

 そのセリフを思い出した時、朝陽の頭はズシンと重さを感じ始め、ひどく不快な焦燥感となって心を揺らした。

 小さく呟くように、その言葉を口から漏らす。

「いちばんたいせつなものは、目には見えない……」

 紫乃はその返答に満足したのか、くすりと笑みをこぼした。それから暗闇の中でも視認できる位置まで近付いてきて、「おやすみ」と呟く。

 一瞬何を言われたのか理解することができなかったが、すぐに我に返り朝陽も「おやすみ……」と返した。

 どうして突然その話をしてきたのかは分からない。だけど紫乃のおかげで、朝陽はあの時の出来事を思い出した。

 そうだ。

 紫乃は、あの言葉を聞いた時……