華怜が着替えをしている間、僕は覗いたりしないように外へ出た。本当は部屋を出るだけでいいとは思うけど、衣擦れの音が聞こえたりしたら理性を崩壊させると思ったのだ。
 僕と華怜はそういう関係性じゃない。
 手すりに腕を乗せて空を見上げていると、隣の部屋のドアがゆっくりと開いた。そちらへ顔を向けると、パジャマ姿で髪の毛が横にはねている先輩と目が合う。
「あぁ、おはよ小鳥遊くん。奇遇だね、奇遇」
「おはようございます。先輩」
 先輩はサンダルを履いて僕の隣へと移動した。僕と同じく、手すりに腕を乗せる。
「昨晩はお楽しみだったみたいだね」
「き、聞こえてたんですか?! というか、やましいことはやってません!」
「ハハッ、面白いね君は。冗談だよ。喋り声とかはかすかに聞こえるけど、何をやってるのかは聞こえなかったから」
「いかがわしいことをやってるみたいな言いかたはやめてください……というか、聞こえてたんですね。すいません」
「いいんだいいんだ、気にしなくて。若いっていうのは良いことだからね」
 そう言った先輩は、僕と二つしか年が離れていない。先輩だって十分若いじゃないか。
「それに、妹さんなんだろ? 君が不誠実なことを働かないって、私は分かってるよ」
 そういえば、妹だと嘘をついたんだった。今更になって、嘘をついたことへの罪悪感が湧き上がってくる。仕方がなかったとはいえ、嘘をつくのは悪いことだ。
 だけど訂正をすれば華怜のことを知られてしまうし、もしかすると一緒にいられなくなってしまう。それは嫌だから、嘘は貫き通すことにした。
 先輩は「そういえばさ、」と言って再び話し始める。
「そういえば、アレは順調?」
 心臓が大きく跳ねた。アレと言っただけで、先輩の指している物事は理解出来る。理解できたから、僕は言葉に詰まった。
 黙っていると、先輩は小さく微笑ム。
「その様子だと行き詰まってるのかな? まあ頑張りなよ。学生時代に努力をするというのは、それだけで将来大きな財産になるんだから」
「ありがとうございます……」
 努力をするというのは、それだけで財産になる。先輩の言葉が痛く胸に突き刺さった。僕はたぶん、もう努力というものをしていない。
 だって、もう……
「公生さん」
 突然肩を掴まれて、洗面所にいた時のように驚く。いつの間にか、背後に華怜が立っていた。
 白のカットソーに、青色のロングスカートを身につけた華怜。その姿は僕が予想していたより遥かに美しくて、釘付けにされた。
 それでも僕は、またこの女の子を不安にさせてしまっていると分かって、いたたまれない気持ちになった。
「どうしたんですか……?」
「ううん、なんでもない。ちょっと先輩と話してて」
 僕に言われて気付いたのか、華怜は隣にいる先輩を見た。先輩は華怜へ微笑みを向けたけど、本人は袖を掴み僕の影へと隠れる。
 案外人見知りなのかもしれない。
「すいません。華怜は昔から人見知りなところがあるんです」また、僕は嘘を塗り重ねた。
「へぇ、そうなんだ。昔から、ね」
 なんとも思っていないように、先輩は納得してくれる。気分を害した風には見えなかったのが幸いだ。
 だけど華怜は僕の後ろから出てこない。
「君の妹はとても可愛いね。その服も、よく似合ってるよ」
「ありがとうございます」
 華怜の代わりに、僕がお礼を言う。華怜は袖を強く握った。
「まるで、湖の水面に白鳥が立っているようだね。うん、すごく似合ってる」
 べた褒めした先輩は、右手を上げてから自分の部屋のドアノブに手をかけた。そして戻るのかと思いきや、何かを思い出したのか踏みとどまった。
「そういえば、近々君の好きな作家のサイン会があるらしいね」
「駅前の本屋ですよね」
 ニコリと微笑んだ先輩は、パタリと部屋のドアを閉めた。それと同時に、掴まれていた袖をぐいっと引っ張られる。
「どうしたの?」
「……どういう関係性ですか?」
 先輩のことを言っているのだろう。
「ただの先輩と後輩だよ」
「それにしては、仲が良さげでした……」
「部屋が隣同士だからね」
「本当に、それだけですか……?」
 それだけ、ではない。これは嘘をついていることになるのだろうか。
 すぐに返事をできなかった時点で、少なくとも何かを話していないと思われただろう。関係性を知りたいというなら、素直に話そう。
「立ち話もあれだから、中に入ろうか」
「はい……」
 ようやく袖を離してくれて、僕から一歩距離を取った。そのままジッと固まって、華怜はたぶん僕の言葉を待っている。
 そういえばしっかりと感想を伝えていなかったと気づき、素直な感想を述べた。
「綺麗だよ」
「それだけですか……?」
「とっても華怜に似合ってる。似合いすぎてて、上手く言葉に出来ないんだ」
 今の気持ちを言葉に乗せると、それはとてもチンケなものになってしまうかもしれない。僕の語彙力じゃ、きっとふさわしい表現を選ぶことが出来ない。
 どんなカメラで撮っても、写真に残せば色褪せてしまう。目で見た方がずっと美しい。
 華怜は満足してくれたのかようやく微笑んで「ありがとうございます」と言った。
 やっぱり僕は、彼女のことが大好きだ。
 深く深く、そう理解した。