記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕

料理をするとき、側で見ていてもいいという許可を得たため、僕はキッチンに立っている華怜の後ろでジッとしていた。
 実を言うと、無理を押し切って許可を得たのだけれど。
 恥ずかしいから座っていてくださいと言われたが、子どもみたいに駄々をこねてみると仕方ないですねというように折れてくれた。
 そうまでして華怜のそばに居たかったのは、本当に料理ができるのかというのが三割、料理に興味があるというので三割、残りの四割は青い春真っ盛りの高校生みたいな理由だった。
 ジッと華怜の一挙手一投足を眺めていると、難しい顔をしながらこちらに振り向いてくる。
「あの……視線が恥ずかしいです」
「ご、ごめん。気をつけるよ」
 そうは言っても、自分の部屋のキッチンに女の子が立つなんて今までに一度もなかったことだから、興味を抑えるのはちょっと難しい。
 視線を若干そらしつつも、僕はずっと華怜の包丁さばきを見ていた。
 一定のリズムで玉ねぎやほうれん草を切っていく姿を眺めていると、僕はいつの間にか母親の姿を思い浮かべていた。子どもの頃、こんな風にお母さんのことを後ろから眺めていたのだ。
「ちなみに、なにを作ってるの?」
「内緒です」
「えー気になる」
「出来てからのお楽しみですね」
 黙ってその後も眺めていると、ふと華怜の手が止まった。
 ちょうどフライパンの上に玉ねぎとソーセージを乗せて炒めようとしていたときだ。
 不思議なものを見るような目で、コンロ周りをキョロキョロと見渡している。
 どうしたのか訊こうと思ったけれど、その理由はすぐにわかった。
 僕はコンロの側面に付いているツマミを回す。
 瞬間、火がボッと飛び出し、フライパンの底面を勢いよく熱する。火が付いたのを見て、華怜はホッとしていた。
「僕がいてよかったね」
「ありがとうございます……」
「最近はIHとか増えてきたから。ジェネレーションギャップっていうやつかな」
 ここは築年数が経っているから、IHに変わってはいないのだ。華怜の家はきっと、こんな形をしていなかったのだろう。
 それからは具材を軽く炒めた後、卵と牛乳を入れてかき混ぜた。パイシートで型を作り、かき混ぜた具材を流し込んでいく。
 それをオーブンの中へ入れて、華怜は満足げに微笑んだ。
「これで後三十分もすれば完成です!」
「じゃあ、居間で休憩しようよ。トランプとか……」
「さーて、今からお味噌汁の準備しますね」
 決して無視したわけではないのだろう。
 料理を作るのに一生懸命な華怜は、テキパキと残った具材で用意を始めてしまった。
 僕はちょっと寂しくなって、グッと隣へ近寄る。ようやく認識してくれたようで、ビクリと肩を震わせていた。
「えっと、どうしたんですか?」
「何か手伝えることはない?」
「そうですねぇ、じゃあ机の上を拭いておいてください」
「ジャガイモ切るよ。任せて」
 置いてあった包丁を握って、華怜の見様見真似で突き立てる。
 自分でもわかるけれど、すごく不恰好で危なっかしくて恥ずかしかった。
 それでも最初は隣で見守ってくれていて、だけどさすがに見かねたのか僕の手に柔らかい手のひらを重ねてきた。
「左手が開いてます」
「あ、うん……」
「猫の手みたいにしないと、怪我をしますよ」
「猫の手……」
 ガチガチに固まった手をやっとの思いで軽く握り直し、だけど右手の力は不自然に抜け切っていた。
「包丁は前に押すようにしながら、力を入れて切るんです」
「押すようにしながら……」
 言われた通りにやると、ストンとすんなり切ることができた。
 というか、三つか四つも年が離れている子に、どうしてこんなにも心が乱されているんだ。
 僕の方が年上なのだから、余裕というものを見せないと。
 そう考えていると、華怜は重ねていた手をパッと離して、慌てて右へ距離をとった。顔が赤く染まっていて、目の焦点が若干定まっていない。
「ご、ごめんなさい。お手を触ったりして」
 ようやく年相応の恥じらいを見せてくれて、僕は少し安心する。そして華怜のおかげで幾分か冷静になることができた。
 なるべく自然に微笑んで「ありがとね」とお礼を言う。
 華怜は頬っぺたに手を当てて、そのまま顔を左右にブンブン振った。小動物みたいで可愛い。
 今の華怜に包丁を握らせるのはさすがにまずいと思ったから、教えてもらったことを頭に思い浮かべて、ゆっくりと正確にジャガイモを切った。未だに彼女の手のひらの感覚は残っている。
 華怜はしばらくすると大きな深呼吸をして、それからテクテクとぎこちない動作で戻ってきた。僕らの間は近すぎず遠すぎずの微妙な距離。
 恥じらいを見せながら、それからも華怜は優しく丁寧に指導してくれた。
どうやら華怜の作っていた料理はキッシュというものらしい。
 オーブンから取り出した時にはもうふっくらしていて、それはどこかお好み焼きに似ていた。
 大皿に移して、ホールケーキを切る要領で僕が切り分けていく。華怜は味噌汁とご飯をよそってくれて、二人ぶんの食事がテーブルの上へ並べられた。
「いただきます」とお互いに手を合わせ、まず華怜の作ってくれたキッシュに箸を伸ばす。チラと華怜を盗み見ると、固まったまま僕の反応を伺っていた。
 それに苦笑してキッシュを口の中へ入れると、様々な味が勢いよく広がった。まず、ウインナー。そしてほうれん草。
 生地はもちろんふわふわしていて、食感はお好み焼きのよう。チーズがいい感じに味を主張していて、とても美味しかった。
 それを言葉にして伝えなくとも表情で伝わったようで、華怜は口を大きく開けて嬉しさを表現していた。
「これ、びっくりするほど美味しいね。華怜も冷めないうちに食べなよ」
「はいっ!」
 華怜も口の中へキッシュを放り込み、きっと僕と同じような表情を浮かべる。
 なんか、いい雰囲気だなと思った。
「チーズがいいアクセントになってるね」
「私、チーズ好きなんです。だからちょっと多めに入れてみました」
「あぁ、そうなんだ。実は僕も好きなんだよ」
「似てますね、私たち」
 やや顔を右に傾けて、彼女は微笑む。
「りんごも好きなんですけど、梨の方が好きですね」
「僕も、りんごより梨のほうが好きだよ」
「カレーより、シチューですよね」
「クリームシチューより、ビーフシチュー」
 くすりと、華怜はもう一度微笑む。
「焼肉にかけるタレは甘口派ですか? 辛口派ですか?」
「焼肉にタレはかけないよ。昔からレモンをかけて食べてるんだ」
「やっぱり、なんだかそう言うと思いました」
「引っかけようとした?」
「そうですね、もしかしたら合わせてくれてるのかもって思ってしまったんです。でも、」
 そこで一度言葉を区切って、柔らかい笑みを作りながら「安心しました」と言った。
 僕はこの時、いろいろなものをすっ飛ばして、過程を無視して、華怜の両親が見つかる前に思いを告白しようと決意した。
 気を合わせるんじゃなくて、気が合う。こんな人と出会ったのは、多分生まれて初めてのことだ。
「目玉焼きは、半熟だよね」
 返ってくる言葉を予想して、勝手に華怜は微笑んでくれると思った。
 だけどその予想に反して、彼女は「信じられない」といったように瞳を見開いている。どこか怒っているようにも見えた。
「目玉焼きは、固焼きですよね?」
「えっ?」
 また試しているのかと思って、それが分かってしまった僕はクスリと笑う。その手に引っかかりはしない。
「いやいや半熟だよ。トロッとした黄身と白身を合わせて食べたら美味しいじゃん。華怜もそう思うでしょ?」
 華怜の笑顔が急にわかりやすく引きつる。
「いやいや」
「いやいや」
 しばらく静寂の中お互いを見つめ合い、しびれを切らしたのか、華怜は机を両手で叩いた。
「目玉焼きは固焼きですっ!」
「目玉焼きは半熟だから! 固焼きなんてありえない!」
「信じられません! 固焼きの目玉焼きに塩胡椒を振りかけて食べるのが美味しいんじゃないですか! そっちの方がありえません!」
「固焼きの目玉焼きなんて、ゆで卵でも食べてればいいだろ!」
 バカみたいな会話の応酬をしばらく繰り広げた僕らは、味噌汁が冷め始めた頃、華怜が疲れて息切れしたのを見てようやく冷静になった。僕も若干息を切らしている。
 先に謝ったのは彼女の方だった。
「ごめんなさい、失礼なことを言っちゃって……」
「僕も、ごめん……ちょっと色々言いすぎた」
「感じ方は人それぞれですもんね。固めの目玉焼きも、たまに食べるなら美味しいと思います」
 ちょっとその言い方は引っかかったけれど、僕は抑えた。華怜にきっと悪気はない。
 それより、僕が年上だからか少し距離があった気がして不安だったのだ。華怜が自分の主張を押し通してくるのは、どんな物事であれ良い変化だと思う。
 それに、
「半熟の方が好きだけど、僕も塩胡椒をかけて食べるよ。トロトロの身に馴染ませて食べるとすごく美味しいから、今度試してみなよ」
 こういう些細なところは似ていて、やっぱり僕は嬉しかった。
「あっ! じゃあ、明日の朝は目玉焼きにしますね!」なんてことを笑顔で言うものだから、持っていた箸を落としてしまう。
 手持ち無沙汰になってしまったことと、静かになってしまったことが災いして、僕は「テ、テレビ付けようか。なんか面白い番組やってるかもしれないし」と言ってしまった。
 もちろん面白い番組なんてやってるわけない。それでも発言してしまった手前、今更取り消すのは不自然だ。
 それに華怜も乗り気な表情をしているし……と考えて、そういえば彼女は知らないのかと思い立った。記憶喪失なんだから、当然だった。
 僕はテレビを付ける。
 今もなお、ニュースは飛行機事故のことを取り上げていた。飛行機が墜落して、たくさんの死傷者が出て……もう嫌になるほど聞いたから、今更説明する必要もないだろう。
「飛行機、落ちたんですか……?」
「らしいね……」
 あんなに元気だったのに、華怜の表情は蒼白に変わる。こんなの、夜ご飯の時に見るべき内容ではない。
 かといって、今はどのチャンネルも飛行機事故の話題で持ちきりだから電源を落とした。
 同時に静寂も落ちる。
 先にそれを破ったのは華怜だった。
「……何があったか、聞かせてもらえませんか?」
 そう訊いてきた華怜の表情は、やはり穏やかなものではない。未だ少し青ざめていて、どことなく体調が悪そうだ。
 いずれどこかで知ることだから、話しておいても構わないだろう。
 日本の航空機が墜落した。整備ミスが引き金になって起きた出来事で、たくさんの死傷者を出して、その中には高校二年の修学旅行生も含まれていたらしい。
 僕は意図的にニュースを見ていないから詳しいことまでは分からないけれど、おそらく今語った内容に齟齬はないだろう。
 華怜は右手をおでこに当てて、苦しそうに目をつぶった。
「大丈夫?」そう訊くと、「大丈夫です……ちょっと、めまいがしただけで……」と返した。
 やはり、食事の時にこんな話をしてはいけない。
「私が記憶を失う前に、そんなことがあったんですね……」
「もうやめようか、こんな話。良い話じゃないよ」
「そうですね……」
 そう言った後、華怜は冷めた味噌汁を飲み始めた。温め直そうか訊こうと思ったけれど、出しかけた言葉は引っ込み、僕は代わりの言葉を投げかける。
「涙……」
「……えっ?」
 涙が流れていた。綺麗な瞳から、雨が滴り落ちるように頬を濡らしながら。
 華怜はそれに遅れて気がつき、袖で涙を拭おうとして……持っていた味噌汁を机の上にぶちまけてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いいから」
 涙を流している華怜にハンカチを渡す。それで目元を拭っているうちに、こぼれてしまった味噌汁を布巾で拭いた。彼女はまだ涙が止まらないようで、同時に申し訳なさそうに口元を引きむすんでいる。
 幸い、大皿のキッシュには一滴もかからなかった。
「ほんとにごめんなさい……!」
「気にしなくていいよ。ちょうど冷めちゃってたから、温め直そう」
 こぼれてしまったお椀に余っていた味噌汁を追加した後、二人ぶんをレンジに入れて数秒加熱する。それを持って居間に戻ると、もう涙は収まっていた。
 おそらく飛行機事故の話を聞いて、悲しくなったのだろう。災害と同じで、大勢の人が亡くなったのだから仕方がない。
 それからも華怜は謝り続けたが、本当に気にしていないから怒ったりはしなかった。
 だけど味噌汁を飲んでいる時、飛行機事故のことが頭をよぎったのかそれとも別のことなのかは分からないけれど、思い出したように涙を流し続けている。
 間違った触れ方をしたら壊れてしまいそうだと錯覚して、僕は気を使いつつもそっとしておくことにした。
 夜ご飯を食べ終わり、先に華怜がお風呂へ入って、僕はその間部屋の外へ出る。
 もう夏だというのに、夜はまだ肌寒い。
 やがて僕も風呂へ入り、寝る支度を整えた後、薄いタオルケットを羽織って座布団の上へ横になる。
「公生さんが使ってください……」と言ったが、布団の所有権は華怜へ明け渡した。女の子を床の上に寝かせるわけにもいかない。
 そして電気を消してしばらくしても、僕は眠ることができなかった。もちろん、すぐそばに華怜がいるからだ。
 邪魔だとかそういう理由ではなく、気になって仕方がない。意識しなくても彼女の匂いは漂ってきて、僕の思考を乱れさせる。きっと様々な場所に、彼女の匂いが染みついてしまっているのだろう。
 それでも必死に目をつむっていると、身体に暖かいものが被せられる。それは毛布だった。
 背中にピタリと小さい身体が密着してくる。それが震えていると分かった僕は、それほど取り乱したり動揺したりはしなかった。
「大丈夫だから」
 そう言って、華怜を安心させる。
 大丈夫だ。華怜が不安になることなんて、何一つない。
 小さく「ありがとうございます……」とささやき声が聞こえた。しばらくするとかすかな寝息が聞こえてきて、僕も安心して目を閉じる。
 あの時、どうして華怜が泣いていたのか。
 その真意を知るのは、もっとずっと先のことになる。
 そんな予感が、僕の心の中にすでにあった。
五月二十二日 (火)
 しかし夜が明けてスズメが鳴き始め朝になった頃には、昨日の出来事なんて忘れたかのように華怜はけろりとしていた。
 思い出したりしないよう気丈に振る舞っているだけなのかもしれないが、昨夜のようなあからさまなミスは今のところ一つもない。
 朝食は華怜が作ると言ったけど、また無理を言って二人で作ることになった。昨日と違うのは、純粋に華怜のことが心配だからだ。
 一人にさせてしまえば、また昨日のように泣いてしまうかもしれない。
 おせっかいが過ぎるのかもしれないけれど、好きになった女の子に対してなら誰しもはそんな風に考えるだろう。
「こんなもんですかね」
 目玉焼きを焼きながら、華怜がそんなことを言ったから意識が戻される。少し、考えすぎて気が抜けていた。
 フライパンの上には、綺麗な半熟の目玉焼きが出来ていた。
「華怜は固めが好きなんじゃないの?」
 そう訊ねると、不思議そうな目で僕のことを見返してきた。少し、僕のことを心配してくれているようにも見える。
「昨日、半熟の目玉焼きを食べてみるって言いましたよね?」
 あぁ、今日の僕はダメだ。そんな会話を交わしたはずなのに、華怜のことが心配で、だけど一緒にいることで少し浮ついて、記憶が飛び飛びになっている。
 僕が心配させてどうするんだ。
 断りを入れて、もう一度洗面所へ向かう。顔に水をかけて目を覚まさせた。幾分とマシになった僕は、また忘れていたことを思い出す。
 スマホを取り出して、市内のニュースと県内のニュースを調べた。女子高生誘拐、行方不明、そういったものは一つもヒットしない。
 次いで全国ニュースを調べた。
 まずは女子高生誘拐事件。
 調べてみると、驚くことに検索結果がヒットしてしまった。動悸が激しくなり、もう華怜と一緒にはいられなくなるのだと悟る。
 だけどそのニュースを見て、僕は安心した。
 名前は華怜じゃないし、そもそも犯人は昨晩逮捕されたらしい。
 それから安心してしまったということに遅れて気が付き、僕は僕自身に激しい憤りを感じた。両親が見つかるというのは、もちろん華怜にとって喜ばしいことなのに、どうして安心してしまっているんだ。
 華怜のことをどれだけ思っているからって、取り上げていい理由にはならない。一番は、彼女が両親の元へ戻ることなんだから。
……もし華怜が虐待されていたとしたら。
そういう想像をした僕は、とっても醜い人間だ。虐待されていたなら両親のところへ戻らなくてもいい、そんな結論には至るはずがない。
 それなら僕なんかのところより、施設へ預けられた方がよっぽど良い生活が送れる。いや、その前に華怜の両親を想像の中でも悪者にしてしまったことが、僕は許せなかった。
 きっと幸せな家庭だった。僕はそう思わなければいけないのに、自分本位で物事を考えてしまっている。
 もし華怜の記憶喪失の原因が物理的なものじゃなくて、心理的なものだったら。虐待をされていて、両親の元から逃げてきたのだとしたら。
もし……
「公生さん」
「うわぁ?!」
 いつの間にか華怜が僕の後ろへ立っていた。恥ずかしい声を上げてしまい、華怜も驚いて数歩後ずさる。それから先ほどと同じ表情を浮かべた。
「どうしたんですか?」
 また、心配をかけさせてしまった。今日の僕は本当にダメだ。気持ちを切り替えなきゃいけない。
「なんでもないよ。ちょっと、考え事してただけ」
「そうですか?」
「そうなんです」
 顔を両手でパンと叩く。いくらか気持ちが落ち着いた気がした。
 居間へ歩き出そうとすると、突然華怜に袖を掴まれる。どうしたのかと思い振り返ると、タオルを渡された。
「顔、拭いてください。びちょびちょですよ」
「あぁ、ごめん忘れてた。ありがと」
「ふふっ、どういたしまして」
 華怜が微笑み、僕もようやく笑みをこぼせた。顔を拭いて改めて居間へ戻ると、もう朝食の用意が出来ていて、「ありがとうね」とお礼を言う。
 半熟の目玉焼きを食べた華怜は「確かにこっちもいいかもしれませんね」と笑顔で言ったから、僕は嬉しくなった。
 だけどすぐに「でも、明日は固めにしましょうね。固めも美味しいんです」と主張してきたから、僕は苦笑する。
 でも、華怜が美味しいというなら本当に美味しいのだろう。
 朝食を食べ終わると、二人で皿を洗い、二人で片付けて、それから例のモノを渡す機会をうかがった。その機会は案外とすぐにやってくる。
「いつまでもパジャマってわけにはいかないので、着替えないとですね」華怜はそう言って、先に部屋の外へ出た。
 僕は手早くジーパンとTシャツに着替えて、昨日買った衣服をとても分かりやすいように机の上へ置く。
 手紙なんかも添えて置いたらいいかもしれないと思って便箋を取り出し、『プレゼントです。昨日はキッシュ、ありがとうございました』と書いた。
 顔に出ないように気をつけながら部屋を出て、華怜とすれ違う。
 ほんの数秒後、ドタバタと激しい足音が聞こえてきたと思ったら、ちょうどドアノブに手をかけていたところを後ろから勢いよく頭突きされた。
「公生さんっ!」
「うわっ、どうしたの?」
 分かっていたけどそう訊いて、僕は振り向く。華怜は、青いロングスカートと白のカットソーを大事そうに抱えて、瞳に涙をためていた。
「公生さん……」
「どうしたの?」
「本当に、本当に嬉しいですっ……!」
「僕も、昨日はありがとね」
「ありがとうございますっ……!」
 華怜の瞳から一筋涙が落ちて、指先で拭いてあげる。
 こんなに喜んでくれるとは僕も予想していなかったから、どうしようもなく胸の中が華怜の色で満たされた。
良い雰囲気だと、僕はまたそう思う。
 華怜が着替えをしている間、僕は覗いたりしないように外へ出た。本当は部屋を出るだけでいいとは思うけど、衣擦れの音が聞こえたりしたら理性を崩壊させると思ったのだ。
 僕と華怜はそういう関係性じゃない。
 手すりに腕を乗せて空を見上げていると、隣の部屋のドアがゆっくりと開いた。そちらへ顔を向けると、パジャマ姿で髪の毛が横にはねている先輩と目が合う。
「あぁ、おはよ小鳥遊くん。奇遇だね、奇遇」
「おはようございます。先輩」
 先輩はサンダルを履いて僕の隣へと移動した。僕と同じく、手すりに腕を乗せる。
「昨晩はお楽しみだったみたいだね」
「き、聞こえてたんですか?! というか、やましいことはやってません!」
「ハハッ、面白いね君は。冗談だよ。喋り声とかはかすかに聞こえるけど、何をやってるのかは聞こえなかったから」
「いかがわしいことをやってるみたいな言いかたはやめてください……というか、聞こえてたんですね。すいません」
「いいんだいいんだ、気にしなくて。若いっていうのは良いことだからね」
 そう言った先輩は、僕と二つしか年が離れていない。先輩だって十分若いじゃないか。
「それに、妹さんなんだろ? 君が不誠実なことを働かないって、私は分かってるよ」
 そういえば、妹だと嘘をついたんだった。今更になって、嘘をついたことへの罪悪感が湧き上がってくる。仕方がなかったとはいえ、嘘をつくのは悪いことだ。
 だけど訂正をすれば華怜のことを知られてしまうし、もしかすると一緒にいられなくなってしまう。それは嫌だから、嘘は貫き通すことにした。
 先輩は「そういえばさ、」と言って再び話し始める。
「そういえば、アレは順調?」
 心臓が大きく跳ねた。アレと言っただけで、先輩の指している物事は理解出来る。理解できたから、僕は言葉に詰まった。
 黙っていると、先輩は小さく微笑ム。
「その様子だと行き詰まってるのかな? まあ頑張りなよ。学生時代に努力をするというのは、それだけで将来大きな財産になるんだから」
「ありがとうございます……」
 努力をするというのは、それだけで財産になる。先輩の言葉が痛く胸に突き刺さった。僕はたぶん、もう努力というものをしていない。
 だって、もう……
「公生さん」
 突然肩を掴まれて、洗面所にいた時のように驚く。いつの間にか、背後に華怜が立っていた。
 白のカットソーに、青色のロングスカートを身につけた華怜。その姿は僕が予想していたより遥かに美しくて、釘付けにされた。
 それでも僕は、またこの女の子を不安にさせてしまっていると分かって、いたたまれない気持ちになった。
「どうしたんですか……?」
「ううん、なんでもない。ちょっと先輩と話してて」
 僕に言われて気付いたのか、華怜は隣にいる先輩を見た。先輩は華怜へ微笑みを向けたけど、本人は袖を掴み僕の影へと隠れる。
 案外人見知りなのかもしれない。
「すいません。華怜は昔から人見知りなところがあるんです」また、僕は嘘を塗り重ねた。
「へぇ、そうなんだ。昔から、ね」
 なんとも思っていないように、先輩は納得してくれる。気分を害した風には見えなかったのが幸いだ。
 だけど華怜は僕の後ろから出てこない。
「君の妹はとても可愛いね。その服も、よく似合ってるよ」
「ありがとうございます」
 華怜の代わりに、僕がお礼を言う。華怜は袖を強く握った。
「まるで、湖の水面に白鳥が立っているようだね。うん、すごく似合ってる」
 べた褒めした先輩は、右手を上げてから自分の部屋のドアノブに手をかけた。そして戻るのかと思いきや、何かを思い出したのか踏みとどまった。
「そういえば、近々君の好きな作家のサイン会があるらしいね」
「駅前の本屋ですよね」
 ニコリと微笑んだ先輩は、パタリと部屋のドアを閉めた。それと同時に、掴まれていた袖をぐいっと引っ張られる。
「どうしたの?」
「……どういう関係性ですか?」
 先輩のことを言っているのだろう。
「ただの先輩と後輩だよ」
「それにしては、仲が良さげでした……」
「部屋が隣同士だからね」
「本当に、それだけですか……?」
 それだけ、ではない。これは嘘をついていることになるのだろうか。
 すぐに返事をできなかった時点で、少なくとも何かを話していないと思われただろう。関係性を知りたいというなら、素直に話そう。
「立ち話もあれだから、中に入ろうか」
「はい……」
 ようやく袖を離してくれて、僕から一歩距離を取った。そのままジッと固まって、華怜はたぶん僕の言葉を待っている。
 そういえばしっかりと感想を伝えていなかったと気づき、素直な感想を述べた。
「綺麗だよ」
「それだけですか……?」
「とっても華怜に似合ってる。似合いすぎてて、上手く言葉に出来ないんだ」
 今の気持ちを言葉に乗せると、それはとてもチンケなものになってしまうかもしれない。僕の語彙力じゃ、きっとふさわしい表現を選ぶことが出来ない。
 どんなカメラで撮っても、写真に残せば色褪せてしまう。目で見た方がずっと美しい。
 華怜は満足してくれたのかようやく微笑んで「ありがとうございます」と言った。
 やっぱり僕は、彼女のことが大好きだ。
 深く深く、そう理解した。
 先輩との出会いは大学一年の四月まで遡る。
 これは地元からこちらへ引っ越してきて、業者が部屋まで運んでくれたものを荷ほどきしていた時の話だ。
 ほとんど本ばかりだったけれど、棚は買い直しで一から組み立てなきゃいけないし、家具も移動させなきゃいけないしで男の僕でも苦難を強いられていた。
 もう疲れた、ダメだ、明日やろう。そう思っていた時に、当時大学二年の七瀬先輩が僕の部屋を覗きにきたのだ。
 部屋の惨状を見て、まず先輩は綺麗な顔に笑みを浮かべた。
 そして自己紹介も何もしていないのに「手伝ってあげるよ、少年」と言ったのだ。女性に手伝わせるのはさすがにと思ったけれど、先輩は有無を言わせぬスピードで部屋に上がり込んできて、ダンボールの中のものを取り出して整理してくれた。
 変な人だけど優しい人だ。
 僕はそう思って、素直に先輩の好意に甘えることにした。一日じゃ無理だと思っていた荷ほどきは、先輩の活躍により見事その日中に終わった。
 そして僕がお礼のお茶を入れている時、たまたま偶然にも、先輩はとある紙の束を見つけてしまったのだ。
……いや、あれは偶然とは言えない。先輩は棚の奥を興味深げに物色していた。 
 たぶん、エロ本でもないかなと思って漁っていたんだろう。
 僕にとって、それはエロ本よりもまずいものだった。
「へぇーいい趣味してるじゃん。なになに〜」
「やめてください! それは見ないでください!」
 取り上げようと腕を伸ばしても何度もかわされて、僕は息を切らして諦めた。もう数ページは見られているから、全部見られても同じだと思ったのだ。
「その紙の束の正体は?」
「ちょっと待ってて」
 華怜も先輩と同じく興味深げに訊いてくる。実物を見せた方が分かりやすいと思い、ノートパソコンを起動させた。
 その中の奥深くにあるテキストファイルを開き、画面上へ広げる。そこには膨大な数の文章が羅列されていて、彼女は目を丸めた。
「もしかして、小説ですか?」
 恥ずかしくなって、顔が焼けたように熱くなる。
「ごめん、やっぱり恥ずかしいから……」
「ちょっと静かにしててください」
 僕はその純粋な興味に気圧されて、黙らざるを得なかった。自分の書いたものを見られるというのは、とても恥ずかしい行為なのに。
 ましてやそれが自分のいる前で、というのならなおさらだ。相手が自分の好きな人であれば、羞恥は何倍にも膨れ上がる。小説を読まれるということは、その人の心の内側を覗いていることと同じだと、僕は思う。
 華怜の甘い柑橘系の匂いも相まって、本当にどうにかなってしまいそうだった。このまま押し倒して、そのまま……
「これ、面白いです」
「ごめんなさい!」
「……? どうして謝るんですか?」
 本当に疑問に満ちた目で僕を見てきて、ようやく手のひらを離してくれた。
 解放された手は画面右上に向かうはずだったのに、冷静になって中央へ思いとどまっている。
 華怜の言った言葉が、頭の中で上手く咀嚼できなかった。
「あの、なんて……? ごめん、もう一回言ってくれる?」
 すると華怜は笑顔になって「この小説、面白いですよ。恥ずかしがることなんて、一つもないです」と言った。
 それでも僕は未だ理解ができなくて、頭の中を三周ぐらい言葉が回って、ようやく元の位置へ戻ってきた。
「面白いって、この小説が……?」
「そうです。面白いです!」
 僕は、なんというか、嬉しくて、嬉しくて。
 きっと、この時、この瞬間の時のために、ずっとこれを書いていたんだと思えるぐらいに、心の中が温かいものに包まれて、満たされていた。
 ずっと誰にも見せずに、納得が出来ずに自己完結で済ませて、誰かに見せるということをしてこなかった。
 怖かったんだ。
 面白くないと言われるのが、怖かった。
 それなのに、今一番大切な人に「面白い」と言われて、平然としていられないわけがない。
 ずっとこのまま、夢半ばに挫折すると思っていた。それが今、ようやく報われた気がした……
「公生さん……?」
 華怜は僕のことを見つめてくる。いつもよりずっと近くにいて、あぁ、またこの子を不安にさせてしまったと思った。
だけどそれは違った。
 今度の華怜は、柔らかく微笑んでくれた。
「泣くほど嬉しかったんですか?」
「な、泣いてなんか……!」
「とかいって、身体はずっと正直ですよ」
 くそっ、不便な身体だ。好きな人に泣き顔を見られるなんて、これから一生うなされそうだ。
「小説家、目指さないんですか?」
 優しく問いかけてくれて、塞ぎ込んで凍っていたものが、ゆっくり氷解していくのがわかった。華怜のためなら、もう一度だけ頑張れるような気がした。
「……頑張るよ」
「一緒に、頑張りましょう」
 一緒に。その言葉は僕の心の中心に違和感なく座り込んで、内側から暖かく包み込んでくれた。
「どんな物語も、隅っこで埃をかぶってるのはかわいそうです。一緒にお外へ出してあげましょうね」
「うん……」
「へぇー、いい趣味してるじゃん。なになに〜」
「やめてください! それは見ないでください!」
 取り上げようと腕を伸ばしても何度もかわされて、僕はこの人を部屋にあげたことを後悔し始めた。
 それは、僕のずっと隠してきた黒歴史みたいなものだから。
 いくら片付けを手伝ってくれたからといって、そんな簡単に見せられるものじゃ……
「ほい、返すよ」
「へ?」
 謎の女性は、案外あっさりと返してくれた。その理由がすぐにわかってしまった僕は、やっぱり、これ以上小説家なんてものを目指すのはやめようと思った。
 これから先に同じことがあったとしたら、同じように傷ついて、ただ結局後悔するだけになるだろうから。
「君のそれ、〜だったで終わる文章が多いね。もちろんそういう演出もあるけど、もう少し工夫したほうがいいと思う。さすがにテンポが悪くなるからね。それと一人称の物語なんだから、三人称の視点を混在させてはいけないよ。君の物語の登場する主人公は、現在のことしかわからないんだから」
 諦めようとしていたから、そんなアドバイスが飛んできたことに驚きつつ僕は顔を上げた。
 謎の女性は顎に手を当てて、考える仕草を取っている。
「とは言っても、ストーリーは面白そうだね。病を背負った女の子と出会って、やがて打ち解けていく。結末はなんとなく予想できたけど、それが分からないように伏線を張ったりすれば、もっと良くなるんじゃないかな。一見関係のないことが伏線だったり、細かなミスリードを付けたりすると遊びが出ると思うよ」
 気付いたらメモ帳を取り出していて、彼女の言ったアドバイスを書き留めていた。
 ダメな部分、良い部分、そもそもキャラクターの性格に気を使ったほうがいいなど、色々なことを教えてくれた。時には実際の小説を例に挙げてくれた時もあった。
 面白くないから読むのをやめたんだと思っていたのに、本当によくわからない人だ。こんなに真剣に読んでくれていたなんて、思っていなかった。
「とまあ、こんな感じかなぁ」
 一通り説明が終わったのか、大きく伸びをした。いつの間にかメモ用紙を四枚も使っていて、僕もそんなに集中していたんだと驚く。
「あの、ありがとうございます!」
そうお礼を言うと彼女は微笑んで「いいよいいよ、これもお手伝いの延長だから」と言った。
優しい人なんだなと、素直に感じた。
彼女は、綺麗に片付いた本棚の右上あたりを指差す。
「その作家も、最初はダメダメだったみたいだけど、なんとかデビューできたからね。君も頑張ればデビュー出来るよ。とはいっても、最近は不調で人気が落ちてるんだけどね」
 どうして彼女がそこまで小説に詳しいのか、どうしてその作家について詳しいのか。そんな疑問が浮かんだけど、僕の中ではすぐに弾けた。
 それは違う、そう思ったからだ。
「名瀬雪菜さんの小説は、今でも面白いです。確かに全盛期と比べて見劣りするかもしれませんけど、表現力や構成力は全然衰えてません」
 それは僕が本当にそう思っていたことで、だから本音をぶつけてしまったことが恥ずかしくなった。
 初対面の人にこんな力説をしてしまえば、絶対に引かれてしまう。こいつ、どんだけ名瀬先生のことが好きなんだよ、と思われたはずだ。
 終わったな、僕は素直にそう思った。
 だからそのあとの彼女の表情は予想外で、僕はまた疑問に思うことが増えてしまった。
 彼女は驚いた表情を浮かべて、小さく微笑んだ。
「君は名瀬雪菜のことが大好きなんだね」
「はい……」
「そっか……きっと本人がそれを知ったら、とっても喜ぶんじゃないかな」
 そんなことはないと思った。僕はただの一読者にすぎなくて、そんな人はこの広い世界にはいくらでもいる。
 僕より名瀬雪菜のことを好きな人なんて、それこそたくさんいるだろう。
 だから、これは一読者の戯言にしか過ぎないのだ。
 それからは短い世間話をして、彼女は部屋を出ていった。そういえばお互いに自己紹介をしていなかったなと気付いたのは、夕食に引っ越し蕎麦を食べていた時。
 僕は、本当に誰かもわからない人を部屋にあげていたのだ。
 彼女を七瀬奈雪であると認識したのは、大学の入学式の日。
 キャンパスを一人で歩いていると、突然後ろから女性に話しかけられた。
「やあ少年。また会ったね」
 話しかけてくれた先輩は、気さくな笑顔を見せてくれた。その後に先輩が隣の部屋に住んでいるということを知って、また驚いた。
 必要最低限の科目しか取らないから部屋にいることが多いらしく、だからあれから一度もすれ違わなかったらしい。
 それが僕と先輩との出会い。たまに小説に関してアドバイスをもらったり、支えてもらったりしている……のはちょっと前までの話だ。今は、ただの隣人に過ぎない。
 名瀬雪菜は、新作の小説を出版してから二年間、一冊も本を出さなかった。引退したのではないかと巷で噂になり気が気ではなかったけど、今年になってようやく一冊の本を出して、それは前作よりも多く売れた。
 そしてどんな心境の変化なのかは分からないけれど、今度駅前の本屋でサイン会をすることになった。
 今まで顔出しすらしてこなかったから、僕はそれを聞いてもちろん喜んだ。
 だってこの街でサイン会をするということは、おそらく名瀬雪菜はこの街の出身だということだから。
 一度だけ会って、話しておきたかったのだ。
 それはどうしようもなく一方的なものだけれど、心の底からずっと伝えたかった。
 ありがとうと。
 あなたのおかげで、小説家になるという夢が出来ました。
 挫折して折れそうになったこともあったけど、支えてくれる好きな人が出来ました、と。
 お昼を食べた後、すぐに大学へ行く支度をした。今日は午前中の講義が一つもなく、その代わり午後に講義がある。
 本当は行きたくないけれど、その理由は華怜がいるからというもので、そんな不純な理由で休んでしまえば癖がつきそうだから、こればかりはしっかりしておこうと気を引き締めた。
 支度が終わってから華怜に留守番を頼んだけれど、首を縦には振らなかった。
 ただ一言「私も行きます」なんてことを言うから、どうしたものかと頭を抱える。
「大学ってどういう場所か知ってる?」
「勉強をする場所ですよね」
「そんなところに行っても楽しくないよ?」
「楽しいです」
「……じゃあ、華怜は今何歳か知ってる?」
「……たぶん、高校二年ぐらいです。だけど、バレなきゃ大丈夫です」
 こんな風に、決して折れてくれないのだ。
 このままだと講義が始まってしまうし、やがて言い合いの喧嘩にでも発展したらどうしようと焦った僕は、仕方なく華怜を大学へ連れて行くことにした。
 幸い今日は大講義室で行う講義だから、隅っこにいればバレることはないだろう。もしバレたりしても、一緒に逃げ出せばいいかぐらいに考えた。
 ダメだダメだと言ったけれど、華怜と二人でお出かけするのはそれだけで心が大きくときめく。
 デート、というものなのだろうか。
「二人でお出かけなんて、まるでデートみたいですねっ」
 屈託のない笑みで、そんなことを言ってきたから僕はびっくりして、唾液が気管の変な場所へ入っていって、思わずむせてしまった。
「だ、大丈夫ですか?!」背中を優しくさすってくれる。「ごめん、ありがと……」とお礼を言った。
 僕は今、とても幸せだ。
 それから華怜は言葉を付け加えた。
「こういう経験をしておくと、きっと小説を書くときに役立ちますよ。私、精一杯頑張りますね!」
 それを聞いた僕は、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ心が沈んだ。僕のためにデートをしてくれる。それはもしかすると、華怜の意思は介入していないのかもしれない。
 僕が小説家を目指していると伝えなければ、素直にお昼は留守番をしたのかも。
 僕という人間は卑屈な部分があるから、そういうことを一度でも考えてしまうと、どんどんと悪い方へと考えてしまう。
「どうしたんですか?」
 いつの間にか、下から顔を覗き込まれていた。無理に小さく微笑むと、華怜も同じく笑みを浮かべてくれる。
「楽しみですね。プレゼントしてくれたお洋服を着て、公生さんと一緒にお出かけしたかったんです」
 その純粋な笑顔を見て、卑屈な心は少しだけ和らいだ気がした。

※※※※

 大学まではバスをいくつか乗り継いで、駅前の方へ向かわなければいけない。二人でバスに乗って、ちょうど後ろの席が空いていたから腰を下ろすと、華怜は窓の向こうへ視線を向けた。
 なんの変哲もない住宅地だけれど、移り変わる景色を眺めているのが楽しいのだろう。
 住宅地からお店の多い繁華街へ、繁華街を過ぎれば感性豊かな城下町、城下町をしばらく過ぎればまた繁華街、そこをしばらく進めば車の数と高層ビルが増えてくる。
 この辺りは、この県の中で一番発展しているところだ。僕は都心部より田舎の風景の方が好きだから、少しだけ息が詰まる。
 大学に憂鬱を感じていたのも、立地場所が原因の一つだったのかもしれない。
「この辺は、あんまり好きじゃないです」
 もう華怜は外を見ていなかった。数分前までは、とても楽しそうに眺めていたのに。 
「駅前は緑が少ないからね。僕も息が詰まるよ」
「便利だからって、なんでもかんでも作り変えるのは間違ってます。でも、そのままっていうわけにもいかないんですよね」
 その寂しそうな表情を見たくなかったから、どうすれば彼女が笑顔になってくれるのかを考えた。そしてすぐに、良い案を思いつく。
「今度、遠出しようよ。なるべく緑の多いところに」
 その提案は当たりだったようだ。華怜は嬉しそうに口元をほころばせる。
「サンドイッチを持っていきましょう」
「なるべく晴れてる日の方がいいよね」
「シートを持っていったほうがいいかもしれません」
「お菓子はやっぱりポテトチップスだよね」
「のり塩です」
「僕も、のり塩」
 くすりと、お互いに笑い合う。声はひそめているから、周りに迷惑はかからない。
「これが恋愛小説だったら、女の子が男の子の肩に寄りかかるんですかね」
「どうかな。ありきたりすぎると思うけど」
「でも、経験しておいた方がいいと思います」
 そう言うと、僕が返答する前に左肩へ寄りかかってきた。ついでに頭をちょこんと乗せてきて、髪の匂いが鼻腔をくすぐる。
 想像と現実は全然違うのだと、僕は深く理解した。
 寄りかかりながら「どうですか?」と問いかけてくる。言葉が詰まってしまって、「なんか、すごい……」としか言えなかった。
 その小学生みたいな感想に、やはり華怜は微笑んでくれた。良い雰囲気だけど、あくまで小説を書くための経験値稼ぎみたいなものだから、浮かれすぎるのもよくない。
 浮かれて暴走して、華怜に迷惑をかけてしまうのは避けなければいけない。
 しばらくジッとしていると、隣から可愛らしい寝息が聞こえてきた。僕は苦笑して、緊張が和らぐ。
 起こしてしまうのも悪いため、目的地に着くまで寝かせて置くことにした。
寄り添って眠る華怜を起こしてからバスを降り、しばらく西の方へ歩くと、何度も見慣れた学校へ到着した。
「大きいですねー」
「市内の中で一番大きい大学だからね」
「今さらなんですけど、私が入っても大丈夫ですかね?」
「静かにおしとやかにしてれば、大学生に見えなくもないよ。私服も着てるし、目立ったりはしないと思う」
 それを聞いて安心したのか、僕と歩幅を合わせてきた。そしてなぜか右手を握ってくる。
「あの……これは?」
「デートは手を繋ぐものですよね?」
「それは恋人同士のデートじゃないの?」
「経験ですよ。経験」
 華怜は歩き出し、一瞬遅れて隣へ並ぶ。バスでの出来事があったから免疫が少しついたけれど、やっぱりこういうのは気恥ずかしい。
 これは華怜が迷子にならないようにするための配慮だと自分に言い聞かせ、僕たちはキャンパスの中へと入った。
 景観が良いようにと、この大学はキャンパス内にポツポツと木が植えられている。
 地面は石畳で、緑を増やすため所々に芝生が点在している。表面上はとても穏やかな気分になれる人工的な場所だ。
 キャンパス内は多くの人が歩きながら駄弁ったり、噴水のある水辺で仲良く昼食を摂ったりしていた。華怜を気にかける人なんて一人もいないし、もちろん僕を気にかける人もいるはずがない。
 それでも、こんなに人がいることを不安に感じたのか、先ほどよりもこちらへ距離を詰めてきた。頼られている、そう感じた。
「大丈夫だから。怯えなくてもいいよ」
「はい……」
 それでも華怜は身体を縮こませてしまうため、僕は苦笑する。
 キャンパスは北地区・中地区・南地区に分かれている。今回講義を受けに行かなければいけない場所は、北地区の大講義室だ。
 北地区には食堂や図書館もあるため、時間を潰すのによく使っている。
 しかしもう講義まで時間がないということもあり、急いで北地区の校舎へ向かった。
 レンガ作りの校舎へ入ると、中はひんやりとしていて心地いい。エレベーターに乗って三階へ上がり、しばらく廊下を歩いて大講義室へ入った。
 ここは一般的な大学と同じで、段差を作りながら机と椅子が扇状に並べられている。目の前には大きなスライドがあり、講義室の中にはもう何人かの生徒が座っていた。
 座らないと目立ってしまうから、僕らは講義室の右端の席へ腰を下ろす。
 すると華怜が突然深刻そうな表情で、
「大変です公生さん」なんてことを言うものだから、僕はちょっと背筋が張り詰めた。
「どうしたの?」
「私、教科書もノートも鉛筆も持ってません……」
 立っていたら、思わず滑って転んでいたかもしれない。
「華怜は大学生じゃないから、ノートに板書しなくてもいいよ」
「先生に怒られませんか?」
「ほら、人がいっぱいいるでしょ? 教授も一人一人にいちいち気を配ってられないから」
「でも万が一ということも……」
 記憶を失う前は真面目な優等生だったのかもしれない。そんなことを思いながら、必要ないと思うけれどルーズリーフとシャーペンを貸してあげた。
 ようやく安心したのか、深刻な表情を笑顔へと変える。
「楽しみですね、授業」
「楽しいものじゃないよ」
「それならお話してましょう」
「講義は聞かないと。学期末にテストがあるから」
「なんか、大学ってめんどくさいんですね」
 唇を尖らせながら言った華怜に、僕は苦笑する。
 しばらくコソコソ話をしていると、前方のドアから白髪交じりの初老の教授が入ってきた。
 生徒はみんな、最初だけスマホを触るのをやめておしゃべりも中断するけれど、講義が始まって十分ほど経てば、隠れながらスマホを触ったり居眠りする人が増え始める。
 大学というのはどこもかしこもこんなものなのだろう。
 おしゃべりをして講義の邪魔をする人がいないだけ、まだマシなのかもしれない。
 僕といえば、スライドを見てルーズリーフに板書をしていた。隣の華怜はあくまで僕に付いて来ただけなのに、必至に板書をしている。心理学なんて、華怜にわかるのだろうか。
 と思ったら、うつらうつらと船を漕ぎ始めて、シャーペンを机の上へ落とした。カシャンという高い音が響いたけれど、華怜はまだウトウトしている。
 横でその姿を見ていると、なんだか面白かった。
 しかし、ハプニングは突然起こる。
「……じゃあ、そこの右端の君。答えなさい」
 教授がそう言って、こちらを指差してきた。こちら、というよりウトウトしている華怜に、だ。
 華怜は当てられても起きることはなく、代わりに僕が答えようと立ち上がろうとしたら、教授が首を振った。
 横の寝ている子に答えさせなさいということらしい。
 すっかり忘れていたが、この教授はスマホや読書は黙認するけれど、居眠りに関しては厳しいのだ。こんな風に意地悪をしてくる。
 僕は仕方なく、華怜の肩を揺すった。
「……ふぇ?」
「当てられたから、とりあえず立って」そっと耳打ちする。
 すると華怜も予想外で驚いたのか、勢いよく立ち上がった。その音が講義室内へ響いて、いくらかの生徒が一斉にこちらを見る。講義室内は少しざわめき始めた。
 僕らは揃って赤面する。
「あ、あの……えっと……」と、華怜はしどろもどろになった。
 そんな様子を見かねて、教授はもう一度問いを繰り返す。
「条件反射を発見したイワン・パブロフによる実験の名前を答えなさい」
 もちろんそれを聞いても華怜は分かるはずもないため、さらに首をかしげてオロオロし始める。
 僕は少し面白くなって黙っていたけれど、さすがにかわいそうだから答えを紙に書いて彼女の見える位置へと滑らせた。
『パブロフの犬』
 それを確認した華怜は、安心したのかパッと笑顔になる。
「パブロフのワンちゃんです!」
 僕は思わず吹き出す。こちらを見ていた生徒もクスリと笑って、教授は呆れてひたいに手のひらを当てていた。もう席に座っていいと言われたため、華怜は赤い顔のまま席へ座った。
 少しだけ、講義室の空気が暖かくなった気がする。
 講義が終わると僕らは足早に廊下へ出た。先ほどの一件のことで、教授に呼び止められるとまずいからだ。
 それに、生徒の中で華怜のことが少しだけ話題になっていたのだ。
 みんな口々に「あの可愛い子は誰?」「全然見たことない」と話をしていた。
 あのままジッと座っていると、興味を持った人が話しかけてきそうな勢いだった。
 二人で校舎の外へ出て、近くにあった噴水の脇へ腰掛けると、華怜は大きなため息をついて肩を落とす。
「まさか、当てられるとは思いませんでした……」
「不運だったね」
「でも、あれから真面目に授業を聞いていたら、いつの間にか楽しくなってました」
 僕も、いつ当てられてもいいように必至に板書している姿を見ていて楽しかった。たぶん講義が楽しいって思ったのは、これが初めてのことだと思う。
 華怜は向こうで楽しそうに会話をしている学生を見ながら、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
 友達というものが恋しくなったのかと思ったけれど、どうやら違ったらしい。
 それは、僕のことだった。
「公生さんは、お友達と話したりしないんですか?」
「大学に友達はいないんだよ。高校の頃はいたけど、みんな疎遠になっちゃって」
「新しく作ったりはしないんですか?」
「いまさら友達を作るのは、ちょっと難しいんだ。大学ってそういうところだから」
 華怜はきっと、ここに自分がいない景色を思い浮かべたんだろう。噴水の前で、一人で座る僕の姿。それは今までの僕の日常だった。
 とっても寂しい、日常。
「ちょっとそれは、寂しいですね」
「寂しいね」
「でも、今は私がいますから」
 そう言ってから、優しく手を握ってくれた。僕はそこまで落ち込んだ表情を浮かべていたのだろうか。
 そう考えていると、華怜はしたり顔でニコリと笑った。
「今の、恋人っぽかったですよね。ドキッとしましたか?」
「唐突すぎてビックリしたかな。でも、嬉しかった」
「こういう経験、たくさんしないとですよね」
 きっと華怜に悪気がなかったのだろう。でも僕は少しだけ、ちょっとだけ心の中が歪んで灰色に染まった。
 善意でやってくれているのだろうけれど、僕は華怜のことが好きだから、その気持ちを弄ばれているように感じたのだ。
 もちろん彼女は、そんなことを微塵も考えていないんだろうけれど。
 だから僕は思いつめたような、少し怖い顔をしてしまったのだろう。華怜も笑みを曇らせて、申し訳なさそうな表情を作る。
本当はそんな顔、するはずじゃなかったのに。
「ご、ごめんなさい。何か気に障りましたか?」
「……ううん、別に何も。それより、喉渇かない? 近くに自販機があるから買ってくるよ」
「あっ……」
 返事を聞く前に立ち上がって、華怜を置いて自販機へ向かった。
 校舎の中へ入って事務室の前を通り過ぎ、突き当たりを右に曲がったところに自販機はある。
 そこまで歩いて立ち止まると、少し頭の中が冷えた気がした。
 華怜に悪気はない。
 僕が割り切って接すれば、何もおかしなことなんて起きたりしない。華怜は笑ってくれて、さっきみたいに笑顔を曇らせることもない。
 僕にそれができるかと考えて、無理だろうなと分かった。
 寄り添われて、手を繋がれて、励まされて。たったそれだけのことで心を揺り動かされているんだから、割り切って接するなんて不可能だ。
 それなら何かが起きる前に、華怜と別れなきゃいけない。だけど出ていけなんて言えないし、彼女が行くアテも場所もない。
 もう一度スマホでニュースを検索したが、華怜のことは取り沙汰されていなかった。
 わずか二日目にして、女の子と暮らすことの難しさを知ってしまった。一緒に生活していて、相手のことを好きにならないはずがない。
 告白しようなんて心の中で決意はしていたけれど、僕は後先のことまで考えられていなかった。もし失敗でもすれば、それこそ一緒にはいられなくなるというのに。
 本当なら、最初から付かず離れずの距離を保って、秘密を打ち明けたりしないで、料理を手伝ったりしないで、あくまで不干渉を決め込むべきだった。
 そんなことを考えても、もう遅い。
 僕はこれからの身の振り方を考えなきゃいけない。できるなら今この場所で、華怜のところへ戻る前に。
 だけどそんな短時間で決められるわけがないし、いまさら華怜への思いを封じることもできない。僕は本当に華怜のことが好きで、これからもずっと一緒にいたいと思っている。
 まとまらない思考はいびつに絡み合って、正体不明の感情を形成していく。
 そろそろ戻らないと心配させてしまうと考えた僕は、二人ぶんのお茶を買ってから華怜のところへ歩いた。
 願わくば、戻るまでに考えがまとまってくれればと思ったけれど、そう都合よくはいかない。
 校舎を出て、噴水前を見る。
 華怜が、男子学生三人に囲まれていた。
 僕はそれを認識すると、全ての思考を放り出して走り出す。輪の中へ割って入ると、そこには涙目の華怜が怯えた表情で座っていた。
 そして僕を認識すると、あの時のように抱きついてくる。僕はしっかりと抱きとめた後、囲んでいた三人を見渡して、言い放った。
「ぼ、僕の彼女ですから。か、勝手に話しかけたりしないでください」
 どもってしまったけれど仕方ない。本当に、締まらないなと思った。
 だけどツレがいると分かった三人は、口々に「チッ彼氏持ちかよ」などという恨みの言葉を吐きながら、向こうへ去っていく。
 とりあえず危機が去ったことに安堵して、華怜の頭を撫でてあげた。本当に恋人同士みたいだなと、そんな場違いなことをふと思う。
「怖かったです……」
「ごめん」
「本当に、怖かったんです……」
「本当にごめん……」
「離れたり、しないでください……」
 難しいことなんて、考えなくてもよかった。
 華怜のことがどれだけ好きでも、些細なことで心を揺り動かされたとしても、守ってあげたいって心さえあればそれでよかったんだ。
 恋人なんてただの肩書きみたいなもので、ただの確認作業みたいなものだ。
 そんなの、そばに居られるならこだわる必要なんてない。こちらから縛る必要なんてないんだ。
 ただ、華怜により添えるのならば、僕はそれでいい。
「そばにいるから」
 強く抱きしめた。
 周りには、どう思われているんだろう。
 どう思われていても、今は別によかった。
 華怜が落ち着いた頃にはもう、講義の開始時間は過ぎていた。今行っても遅刻になるだけだからそのまま帰ろうかとも思ったけど、華怜が「遅刻でも、行きましょう」と言ったため、また二人で大講義室へと向かった。こういうところは、妙に真面目らしい。
 ドアをゆっくり開けて、中を見渡す。
 学生も教授も、一人もいなかった。おかしいな、教室を間違えたかなと思って、一階の掲示板を見に行った。
 幸いにも、今日は教授が一身上の都合で欠席したらしい。時間変更のメールが回っていたらしいけれど、うっかりしていて確認を忘れていた。
 もう元気になった華怜は「あわてんぼうですね」と、微笑んだ。僕も微笑む。
 だけど、笑顔はすぐに固まった。
 それは、向こうの曲がり角あたりから聞こえてきた話し声だ。やけに、ハッキリと聞こえた。
「佐々木教授の娘さん、例の飛行機事故で亡くなったんだってさ……」