それから数日が過ぎて、五月になった。華怜は修学旅行の日が近付くにつれて、僕に気まずい表情を送ることが多くなり、いったいどうしたんだろうと心配になる。
そういえば手紙の内容の中に『これから先、私が公生さんに変な態度を取っちゃったら、あの一週間の出来事を思い返してあげて。たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』と書かれていたことを思い出した。
華怜が伝えたかったことは、もしかすると今のことを言っているのだろうか。
僕は大学二年の日々を思い返す。
あの時の華怜は、何をするにも僕にべったりとくっついてきた。大学に行くと言えば「私も行きます」と言って僕を困らせたし、ドラッグストアへ行くと言えば「ここにいてください」と甘えてきた。
何か隠し事があれば露骨に様子が変になるしで、あの頃は大変だった。だけど今にして思えば全てが懐かしい思い出だ。
今、僕たちに妙な態度を取っているのは、もしかすると修学旅行へ行きたくないからなのかもしれない。あの時と同じく、僕と離れるのが嫌なのかも。やっぱり自惚れかと思ったけど、華怜のことだから本気でそう思っていても不思議じゃない。
修学旅行へ行けば、一週間は僕と会えなくなってしまう。それを華怜は耐えることができるのだろうか。今までもずっと僕にべったりだったし、そういえば中学の修学旅行に行った時も渋々といった感じだった。
あの修学旅行は三泊四日だったけど、時間があるときは逐一電話をかけてきて本当に大変だった。丁寧に言葉を返さなきゃムスッとするし。でも、僕はそれを楽しいと思っていた。
しかし今回の修学旅行は海外だ。携帯を持って行くのはいいけど、聞いたところによると使用は禁止らしいし、まる一週間僕と会話もできなくなる。
果たしてそれが華怜に出来るのかと考えて、無理だなと思った。それは華怜がじゃなくて、他ならない僕がだ。心配で心配でたまらなくなって、仕事も手につかなくなりそうだ。
それに……
『飛行機は、怖いですから……』
あのとき言っていた華怜の言葉を思い出す。とても思いつめていて、今も昔も心が大きく締め付けられた。
『じゃあ、飛行機は使わないことにしよう』
『危ないですから、絶対に乗らないでくださいね』
『絶対に乗らないよ』
飛行機事故。
久しぶりに思い出した。あれだけの出来事があったというのに、今もなお大空に巨大な両翼が飛んでいる。
背筋がとても寒くなった。
やらなきゃいけない仕事があるのに、全然手につかない。どうしたものかと思っていると、部屋の扉がノックされた。
この控えめな音は華怜だなと思い、僕は「入っていいよ」と返す。ここ最近は僕の部屋にすら来なかったから、珍しいことだった。
華怜はわずかにドアを開けて顔を覗かせる。入ってきやすいようにと、僕は微笑んだ。それに安心して、こちらへてくてくとやってくる。
椅子を勧めると、すぐに座った。
長い髪が揺れて、シャンプーの柑橘系の香りが漂ってくる。
「お風呂、もう入ったの?」
「入ったよー。今、お母さんが入ってる」
そう言った後、僕の仕事机や周りの本棚をいつものように見回す。
「お父さんの部屋、本が増えたね」
「本が好きだからね。華怜の部屋も、本が増えたんじゃない?」
「私は、お母さんが読め読めって言ったのを貸してもらってるから」
茉莉華は本を勧めるのが大好きだから、面白い本があれば全部華怜に回している。それで華怜も本が好きになって、たまに小説の感想を言い合っていた。
「ずっと気になってたんだけど、聞いていい?」
「どうしたの?」
「お母さんが大切にしてる名瀬雪菜の小説って、奈雪さんが昔書いた本なの?」
「そうだけど、どうして分かったの?」
「だって、桜庭さんって旧姓が七瀬さんでしょ? 七瀬奈雪、名瀬雪菜。ほら、びっくりするほど似てる」
この分かりやすい真実を、僕は全然気がついていなかったんだということを思い出した。分かりやすすぎて、自分で笑えてくる。
「奈雪さんとコウちゃん、こっちに戻って来られてよかったね」
「それは本当によかったよ」
奈雪さんと公介くんは、公介くんが中学へ上がる時にこちらへ戻ってきた。夫婦で仲直りをすることができて、今は幸せに暮らしている。
とりとめのない会話を、僕たちは続ける。
「最近、お仕事大変?」
「今は比較的楽な方かな。今度出る小説は、もう出来上がってるから」
「それ早く読みたい。発売したら真っ先に買いに行くからね」
出版する小説は、発売するまで家族には見せないようにしている。買ってからのお楽しみというやつだ。最初の方は茉莉華も華怜もゴネていたけど、僕が曲げないと分かってからは素直に発売日を待つようになってくれた。
そしてようやく華怜は、本題を切り出してくる。
「最近、変な態度取っちゃってごめんね」
「自覚あったんだ」
「そりゃあ、めんどくさい女の子だなって自分でわかってるから」
僕がくすりと笑うと、華怜も微笑んだ。
「不安な部分もあるけど、楽しみなところもちゃんとあるんだよ。佑香と、久しぶりに同じクラスになれたから」
「佑香ちゃんって、幼稚園の頃からのお友だちだっけ?」
「そうそう。中学の頃は一度も同じクラスじゃなかったけど、今年は同じクラスなの。修学旅行も一緒に回るから楽しみなんだぁ」
その佑香ちゃんという子に、華怜は率先してファザコンと呼ばれていた気がする。たぶんお互いの愛情表現みたいなものなんだろう。
「本場の中華料理、実はちょっと楽しみ」
「感想とかいろいろ聞かせてよ」
「お土産ちゃんと買ってくるよ。なにがいい?」
「調味料とか買ってきたら、お母さんは喜ぶんじゃないかな」
「お母さんのじゃなくて、今はお父さんに聞いてるの」
「僕は、華怜から貰うものならなんでも嬉しいよ。でも出来るだけ、形に残るものがいいかな」
普段身につけていられるものなら、尚嬉しい。
その返答に満足したのか、華怜は笑顔になった。
「お父さんが喜びそうなものを厳選して買ってくるね」
「お土産選びに必死になって、観光を忘れちゃダメだよ?」
「分かってるって」
楽しそうにしている華怜を見て、やっぱり親である僕はしっかりしなきゃと改めて思った。お父さんなら、しっかり華怜のことを見送らなきゃいけない。
いずれ結婚もするんだから、こんなことで迷ってちゃダメだ。
華怜は「いいこと思いついた!」と言って両手を叩いた。こういう時の華怜は、大抵突拍子のないことを口走る。
「お父さんも私と一緒に香港に来なよ。きっと楽しいよ?」
僕は苦笑する。
「それはダメでしょ。それに、その日は外せない用事があるから」
「えー、いい提案だと思ったのになぁ」
本気で悔しがる華怜が面白い。
そうこうしているうちに、向こうから脱衣場のドアが開く音が聞こえてきて、そろそろ風呂に入る用意をしなきゃなと思い立った。
華怜も、もう話は済んだのか椅子から立ち上がる。
「ごめんね、話聞いてもらっちゃって」
「ううん、お父さんが相談に乗れることなら、なんでも言っていいよ」
「やっぱり、優しいねお父さん。ありがと」
最後にそう言って、華怜は部屋のドアに手をかけた。僕はその華怜へ言葉を投げる。
「実はお父さんは、華怜が生まれるずっと前から、華怜のことを知ってたんだよ」
「なにそれ」と、華怜は微笑む。僕もおかしくなって、笑みをこぼした。
「お母さんも、ずっと前から華怜のことを知っていた。華怜は、お父さんとお母さんを出会わせてくれたんだ」
あの時ああしていればという、もしもの出来事は無数にあるのかもしれないけど、僕らが経験した道は一つだけ。その道に華怜がいなかったら、危うく全てがすれ違っていたかもしれない。
しかしいろんな出来事が積み重なって、いろんな出来事がそれを揺るがしたとしても決して変わったりしないものが、人々の言う運命というものなのかもしれない。
華怜は手紙の中で、運命は本当にあるんだと言っていた。もしかすると僕と茉莉華が出会うことこそが運命で、華怜が生まれてくるのも運命だったのかもしれない。そんなロマンチックなことを考えていた僕は、途端におかしくなって小さく笑った。
「変なお父さん」
「変だよね」
「でも、私がお父さんのために活躍出来たなら、それはとっても嬉しいな」
「大活躍だったよ」
「えへへ」
「ありがとね、華怜」
華怜は頬を染めながら照れを見せる。
話はこれで終わりだ。
しかしなかなか取っ手を動かさなくて、どうしたのかと思っているとこちらへ振り返ってくる。
その表情は心なしか、不安に彩られている気がした。
「お父さんは、私がしばらくそばにいないと寂しい……?」
僕はまた、手紙の内容を思い返していた。
『たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』
ほぼ無意識的に、僕は思っていたことを口に出してしまう。
「とっても寂しいよ。華怜がそばにいないのは」
親として笑顔で見送らなきゃいけないんだろうけど、僕はそれが出来なかった。少しだけ悲しい表情を作ってしまって、だけど華怜は僕の答えに満足したように微笑んだ。
「そっかぁ、寂しいか。わかったよ、ありがとねお父さん」
その言葉を言った後、今度こそ華怜は部屋を出ていった。それからの僕は、これでよかったのかと何度も自分に問いかけたけど、華怜のいつも通りの笑顔を見るたびにこれでよかったんだと思い直す。
とりあえず、華怜がいつも通りになってくれてよかった。
やがて予定されていた小説が出版されて、華怜の修学旅行の日がやってくる。
僕と茉莉華はいつもの制服に身を包んだ華怜を、笑顔で見送った。華怜も楽しみなのか終始笑顔を崩していなくて、ちょっとだけ安心する。
僕が、子ども離れしなくちゃなと思い直した。
華怜が去っていった玄関口を見ながら、茉莉華はぽつりと呟く。
「やっぱり、心配ね……」
「華怜なら、きっと大丈夫だよ」
そう、華怜ならきっと大丈夫だ。だって僕と茉莉華の子どもなんだから。
だけど茉莉華の考えていたことは、少し違うらしい。
「ほら、公生くんが大学生の頃、飛行機事故があったでしょう? だから、ちょっと不安で……」
僕はその飛行機事故のことを思い返した。あれはひどいもので、だけど僕と茉莉華のことを引き合わせてくれたきっかけでもある。
「たしか、二〇一八年の……」
僕は急にど忘れをしてしまい、それがいつの出来事だったかを思い出せなかった。そういえばあの時、事故の映像なんか見たくなかったから、意図的に視界に入れないようにしていたのだ。
だから、具体的な被害状況などはあまり詳しく覚えていない。
隣にいる茉莉華が、補足してくれた。
「二〇一八年の、五月一五日よ。もう、そんなことも忘れちゃったの?」
茉莉華にそう言われて、僕もようやく思い出した。
二〇一八年の、五月一五日。僕と華怜が出会った、六日前の出来事だった。
「あぁ、ごめん……」
「私、今でも覚えてるわよ。五百二十六人が、みんな死んじゃったんですもの……公生くん、小説にもちゃんと書いてたでしょう?」
「そういえば、そうだった……」
書いたといっても、あれはほぼ書いていないに等しい。具体的な死亡者数も日にちも書かなかったし、そういうのを意図的に避けて書いた。
なぜかというと、あの悲惨な事故を想起させてしまうからだ。僕自身思い出したくもなかったし、書くことをためらった。
それにあの事故で家族を亡くした人が、この日本にはたくさん存在しただろうから。
「ちょっと、心配ね……」
僕の心も少しずつ、不安の気持ちに侵食されていった……
たくさんの人がひしめき合っている空港の中を、クラスの列に混じって歩いている。大きな旅行カバンは機内へ持ち込むことができないから、すでに先ほどカウンターへと預けた。
手荷物はスマホだけで、私はちょっと身軽になっている。
その軽くなった身体で、頬をぷんぷん膨らませた。佑香は私を見て面白そうに微笑んでいる。
「機嫌直しなよ華怜、たった一週間だよ?」
「たった一週間でも、お父さんとお母さんと離れるのは嫌なのっ!」
本心を叫ぶと、周りにいた友達も元気よく吹き出す。私は本当にお父さんとお母さんが好きだから、別に恥ずかしいとは思わない。
「ほんとに華怜はファザコンだなぁ」
「育ててくれた両親を大切に思うのは当然でしょう?」
「華怜のは度を越しすぎ。私、幼稚園の頃の華怜の夢今でも覚えてるよ?」
その昔の話を佑香に振られて、さすがに私は顔が焼けたように熱くなった。歩きながら佑香ちゃんの肩をぽかぽか叩く。
「それ、本当に言ったらダメだからね! 言ったら絶交だからっ!」
「痛い痛い、痛いって。とかいって、私がバラしても華怜はいつも許してくれてるじゃん。それにみんなはもう、華怜の夢は知ってるよ」
「佑香が教えたからでしょうが!」
バシンと頭を優しく叩いてあげると、佑香もみんなもさらに笑ってくれた。
私は私がみんなを笑わせられていることが嬉しい。ちょっと恥ずかしいけど、それで笑ってくれるならからかわれても構わない。
「まあまあ、元気だしなよ。一番の幼馴染の私が、毎晩慰めてあげるからさ」
「えー、佑香が私のこと慰められるかな?」
「華怜のことは一番よく理解してるから、そこは安心していいよ」
それはちょっと頼もしいけど、やっぱりお父さんに会えないのはかなり寂しくなると思う。本当なら、修学旅行に行かないでほしいと引き止めてほしかった。私って素直になれないから、お父さんに迷惑かけちゃうんだよね。
きっと、お父さんは戸惑っていた。
「というか、お父さんと喧嘩したの?」
佑香は私のことを心配してくれて、そっと耳打ちしてきた。やっぱり優しいんだなと思いつつ、引き止めてくれなかったことを話した。
すると呆れたように手のひらをひたいに当てる。
「それ、華怜が悪いよ。ちゃんと自分の気持ちを素直に伝えなきゃ」
「だ、だって。恥ずかしいんだもん……」
「恥ずかしいからって隠してちゃダメでしょ……華怜みたいに人の好意が分かる人なんて、そうそういないんだから」
佑香とは付き合いが長いから、私のことをよくわかってくれてる。それがとても心強い。
「でも、お父さんなんだからちょっとは分かってほしいよねっ」
「はいはい、わかったわかった」
適当にあしらわれていると、いつの間にか飛行機の入り口までやってきていた。列について続々と中へ入っていき、佑香と並んで席に座る。
あらかじめじゃんけんをして、どちらが窓側に座るかを決めておいた。幸いにも私がグーを出して、佑香がチョキを出したから、行きの飛行機は私が窓側だ。
窓側は晴れていれば、雲の隙間から富士山の頂上を望める。いわば特等席というやつだ。本当はお父さんと見たかったんだけど、仕方ない。
添乗員の方とアナウンスでシートベルトを付けるように指示を受け、離陸する前に身体を固定させた。実は飛行機を乗るのは初めてだから、ちょっと不安。
「佑香は、飛行機乗ったことあるんだっけ?」
「ん、一回だけね。といっても子どもの頃だから、あんまり覚えてないけど」
「やっぱり怖かった?」
「別にー。目つぶってれば大丈夫でしょ」
そう言いつつも、佑香は手を握ってくれた。こういうさりげない優しさが、大きな魅力だと思う。
しかしとても優しいのに、彼氏はいないらしい。一度どうして作らないのか聞いたことがあるけど、本人は「いやーそういうのは別にいいかな」と、私を見て照れながら言っていた。
私も彼氏は作る気がないけど、佑香の場合はよくわからない。もしかして、私との時間が減るのが寂しいのかな。
やがて飛行機は滑走路を高速で走り、大空に飛び立つ。わずかに重力が身体へかかり、しばらくするとそれが収まった。
シートベルトを外していいというアナウンスが入り、私はそれを外した。佑香は握っていた手を離して「ほらね、怖くなかったでしょ?」と微笑む。
「全然怖くなかったね」と私も微笑んだけど、それはきっと佑香がいたからだ。
かくして、乗員乗客四百五名を乗せた飛行機はゆったりとした飛行を続けた。
しばらくすると、佑香はぽつりと呟く。
「修学旅行、来ないかと思って心配してたんだよ」
「なんで来ないと思ったの?」
「ほら、華怜はファザコンだから」
どんな理由だと思ったけど、佑香の言う通り、お父さんが引き止めていたらきっとここにはいなかった。
「私、華怜が来なかったら実はサボるつもりだったんだよ」
「あっ、佑香悪い子だね」私は微笑む。
「だって華怜がいなきゃ、絶対に楽しめないと思ったもん。こういうこと言うのちょっと恥ずかしいけど、私華怜の一番の友達だって自覚あるよ」
赤くした頬を人差し指でかきながら、佑香は視線をさ迷わせる。
普段は決してこんなことを言う人じゃないんだけど、もしかすると修学旅行の浮かれた空間が素直にしてくれているのかもしれない。
私も佑香のことは、一番の友達だと思っている。だから純粋な感情を向けてくれているのが、私も嬉しい。
少しだけ、佑香に甘えてみることにした。
「私も、佑香のこと大好きだよっ!」言いながら佑香の肩へ寄りかかり、ほっぺに頭頂部をスリスリさせた。
「うわっ、それはこしょがしいからやめてっ!」
「佑香、私のことすっごく大好きなんだねっ」
「べ、別にそんなんじゃ……って、華怜に隠しても無駄なんだよね……」
そうだ、私に隠しちゃっても無駄だ。
声に出さなくても佑香の想いは態度などのいろんなもので伝わってくるし、それを自覚すると私も嬉しくなる。
「ありがとね、佑香」
「ん、どういたしまして」
しかし数十分後に突如異変が起こる。それは私が佑香と楽しげに会話をしていた時だった。
私たちが座っている後方あたりで、何かの破裂音が響く。それにより、周りのクラスメイトたちみんなに動揺が走り、スチュワーデスの人が原因究明までしばらくお待ちくださいとアナウンスした。
私はだんだんと早くなる動悸を抑えることができずに、いつの間にかまた佑香に手を握られていた。
「きっと大丈夫だよ。何かの間違いだと思う」優しい声色だった。
「本当に、大丈夫かな……」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと香港まで辿り着いて、一週間後にはお父さんに会えるから」
その言葉がとても心強かった。
やがて機内に白い煙が立ち込めてきて、それと同時ぐらいに酸素マスクが落ちてくる。私たちはそれを震える手で必死に装着して、事態の究明を待った。
しかし一向にそれは分からないまま、安全に飛行していたはずの飛行機の動きが不安定なものになってくる。生徒たちはみな不安の声を上げて、スチュワーデスの方は必死にそれをなだめ続けた。
私はこんな時でもやっぱり、お父さんとお母さんのことを考え続けていた。
※※※※
やがて飛行機は激しく揺らめき、各々の場所から悲鳴が上がる。シートベルトが身体に食い込んでとても痛い。
まるで、レールのないジェットコースターを走っているようだった。どちらへ向かうかも分からなくて、頭の中は絶望しかない。
窓際に座ってしまったのを、私は後悔し始める。揺れる景色を見て、だんだんと飛行機が落下しているのだと頭で深く理解させられた。こんなの富士山どころじゃない。
知らず知らずのうちに涙が溢れていた。それはとどまることを知らずに、頬を伝っては制服のスカートへ落ちていく。
こんな状況でも佑香は私の手を握ってくれていて、だけどそれに不安の色が混じっているのだと気付いた時には、もうダメだと悟った。
落ちる。
どこかで私はそれを確信した。そう確信してからは、これまでの様々な出来事が走馬灯のように頭の中をよぎった。
お母さんの手料理、お父さんの作ってくれたお味噌汁、家族で行ったお花見、帰る場所を作るために埋めたタイムカプセル。
タイムカプセル。
私は思い出した。まだ、やらなきゃいけないことがあるんだと。子どもの頃に、私は密かに胸の中で誓ったのだ。お父さんが夢を叶えるのを見届けるということを。
そんな大事なことを私はずっと忘れていた。
そして、子どもながらのささやかなお願い事。無邪気なお願い事を思い出して、私はまだここで死んじゃダメなんだということを悟った。
私の夢。お父さんが、小説家になるということ。
そして、帰るべき場所。
私は心の中で願った。
飛行機は加速的に地上へ落下していく。もう上か下かも分からなくて、様々なものが地面から宙へ浮いていた。
その中で、私はただ一つのことを祈る。
もう一度だけ、チャンスをくださいと――
後頭部に鈍い痛みを感じる。私はまどろみの中で、誰かの声を聞いた。それはとても懐かしい響きで、しかし誰のものなのかが分からない。
――大丈夫ですか
確かにそう聞こえた。私は途切れ途切れの意識の中で、かろうじて呻き声だけを漏らす。
優しい腕に抱き起こされた。
私はゆっくりと目を開く。
面識のない男性が私のことを見ていた。面識がないはずなのに、どこか懐かしく感じる。見ているだけで安心して、自然と心の中が暖かくなってくる。こんな気持ちになったのは、初めてかもしれない。
「あの、大丈夫?」
「頭……」
私は後頭部に手を伸ばし、そして触れた。ズキンと痛みが走り、全身が大きく張り詰める。
確認のために彼が触れてくれた。やっぱり痛くて小さな悲鳴を上げてしまう。
それから私は、彼に名前を聞かれた。私は思考を巡らせて、自分の名前を思い出そうとする。
しかし、すぐに浮かんできて当然のそれはなかなか引きずり出すことが出来ずに、結局思い出せたのはただ一つだった。
「カレン……」
私は地面へその文字をなぞる。
華怜。
その名前を書いて、確信を得た。
私の名前は華怜だと。
色々なものを忘れてしまっているけど、それだけは鮮明に思い出すことが出来た。
次いで名字を思い出そうとする。しかしそれは思い出すことが出来ない。
『た』の文字が思い浮かんだ気がしたけれど、それはすぐに消えていった。
結局私は、華怜であるということしかわからなかった。
彼が私を病院へ連れて行こうとする。だけど本能がそれを拒んでいた。彼の前から離れてしまったらダメだと。私にはまだやることがあるんだと。
その必死の思いをどうにかして伝えたら、彼は理解してくれた。とても優しい人だ。
名前を、小鳥遊公生さんというらしい。
その名前は懐かしい響きで、どこかで会ってるのかもと思った。だけど公生さんは私のことを知らないようで、謎は深まるばかりだ。
なしくずしてきに同棲生活を認めてもらった日の夜、飛行機事故が起きたのだということを知った。それは五月の十五日に起こってしまった飛行機事故で、乗員乗客が全て死んでしまったらしい。
私は全身に寒気が走って、まるで自分の身に降りかかった出来事のように感じてしまった。
仕切り直すために、公生さんが作ってくれた味噌汁を口に含む。それはとても懐かしい味がして、冷めているはずなのに、心の中がとても温かいもので満たされた。
「涙……」
「……えっ?」
私は遅れてそれに気がつく。両目から、溢れんばかりの涙が滴り落ちていた。それが私の頬を次々に濡らしていく。
袖で涙を拭おうとすると、持っていた味噌汁を机の上へこぼしてしまった。その行為がとても罪深いことのように思えて、さらに涙が溢れてくる。
公生さんがお味噌汁を温めなおしてくれた。それを飲んでいるときも、涙が止まらなかった。そんな私に公生さんは優しく接してくれて、「大丈夫だから」と安心する言葉をかけてくれる。
そのとき私は思った。
あぁ、この人のことが好きなんだと。
どうしてかはわからない。出会った時からしょうがないほどに惹かれていて、自分の想いを押し留めることが出来なかった。
結局、私たちはそれから付き合うことになる。なんとなく、公生さんも私のことを好いてくれているんだと分かっていたから、アプローチは自然に出来た。
公生さんとの毎日はとてもとても楽しくて、私はやがて、記憶なんてなくてもいいじゃないかと思い始める。
もし記憶が戻って、何か大きな罪を犯していたとしたら、公生さんに合わせる顔がなくなってしまう。それがどうしようもなく不安で、だけど公生さんはそんな私でも好きになると言ってくれた。
将来、公生さんが大学を卒業したらすぐに結婚をして、家事をしながら小説のお手伝いをして、ずっと一緒に、幸せに暮らすという未来を夢見るようになった。
だけどやっぱりそれは叶わないことだった。
私は記憶を取り戻す。
私は、小鳥遊公生さんと小鳥遊茉莉華さんから産まれてくる、小鳥遊華怜という子どもだった。そしてわたしはすぐに一つのミスを犯す。
タイミング悪く風邪を引いてしまい、公生さんがサイン会に行けなくなってしまった。これは些細なことのように思えて、とても重要な出来事だった。
子どもの頃に、お母さんからお父さんとの馴れ初めを聞いたことがある。お父さんとお母さんは、名瀬雪菜のサイン会で出会ったと。
一人でサイン会へ行ったお母さんが、一人でサイン会に来ていたお父さんに声をかけて、やがて意気投合したらしい。
その重要なイベントを逃してしまえば、お父さんとお母さんは出会えなくなる。私は必死にサイン会へ行ってくださいと懇願したけど、お父さんは向かってはくれなかった。
私のことを心配してくれて、ずっとそばにいてくれた。そんなこと思っちゃいけないのに、私はどうしようもなく嬉しくて、涙が溢れてきた。
そして黒い自分が顔を出す。
「ずっとここにいて、いいですか?」
それは、この歳まで育ててくれたお母さんを裏切る言葉だった。でも仕方ないじゃないか。もう、お父さんとお母さんの出会いの瞬間は過ぎ去ってしまった。
仕方ないと分かっていても、私は私を責めずにはいられなかった。私がもっとちゃんとしていれば、正しい歴史を刻むことができたのに。
それがもう叶わないことだというのなら、少しだけ欲を張っても許してくれるだろう。
私は最低な女の子だけど、それでもお父さんと……いや、公生さんと一緒にいたい。きっと公生さんもそう思ってくれている。
それなのに、運命という言葉が私の前に大きく立ち塞がった。
この先どんな出来事があっても、どれだけすれ違っても、おそらく公生さんと茉莉華さんは出会ってしまうんだろう。
それが分かってしまったから、私は潔く身を引くことにした。ちょっとだけ欲張ってしまったけど、公生さんは茉莉華さんの運命の人だから返してあげなきゃいけない。
私は精一杯、公生さんに嫌われる努力をした。それでも、ダメだった。私が公生さんを決して嫌いになれないのと同じように、公生さんも私のことを嫌いになれないのだ。そのことを知った時、やっぱり親子なんだなと身に沁みた。
私はこんな素晴らしい人から、いろんな素晴らしいものを受け継いだんだ。それを最後に知ることができた私は、それだけで産まれてきて良かったと心の底から思うことができた。
だからもう、十分だ。
このささやかな一週間のためだけに、私は産まれてきたのかもしれない。
私は公生さんの前から消えることを選んだ。
置き手紙一つを残して、私は部屋を去る。心残りのありすぎる手紙だった。
だから私は、ちゃんとしたものを残そうと思い至った。本当にわずかな心残りがあったからだ。
公生さんに、本当の私を知ってもらいたかったのと、公生さんの夢のことが気になっていたから。
タイムリミットが間近に迫っているのだろう。
私は、周りの人の認識から外れ始めているのだということに気付いた。
人にぶつかっても、相手は私のことを認識してくれない。本当は悲しいことだけど、むしろ好都合だなと思った。どうせこの後の私は、あの二〇四〇年の機内へと戻されるのだから。
死んでしまうなら、ちょっとぐらい悪いことをしてもバチは当たらないだろう。
いや、嘘だ。
気丈に振る舞ってはいるけど、本当は良心の呵責に耐えられていなかった。だけど仕方ないんだと言い聞かせて、百貨店から文房具とレターセットを拝借する。
何度もごめんなさいと謝って、私は外へ出た。ファミレスで何も注文せずに、公生さんと茉莉華さん宛ての手紙を書く。
本当は飛行機事故が起きると伝えたかったけど、それは出来なかった。一度はその事実を書こうとしたけど、紙の上にインクが全然乗らなかった。
これもまた運命なんだと、私は悟る。それなら後悔がないようにと、遠回しにそれを書くことにした。
私は絶対に素直になれないから、公生さんの方から歩み寄ってきてほしいと。そうすればきっと、笑顔で別れることができる。
私は最後まで、お父さんにそっけない態度を取ってしまった。そんな結末じゃ、死んでも死にきれない。
書き終わった手紙を、道中で拾った瓶の中へ詰めた。そしてどこに埋めようかと迷って、あそこしかないなとすぐに思う。私たちの思い出の場所。
桜の木の下だ。
あそこなら、今から十年後に必ず掘り返してくれる。私はすぐに公園へと向かい、またどこかで拝借してきたスコップを使い穴を掘った。そして手紙を埋めて、また十年後に掘り返されますようにと祈って埋め直す。
全ての準備が整った頃には疲れ果てていて、身体の感覚も途切れ途切れという感じだった。地に足がついていないようで、もうすぐ消えるんだなとふと思う。
桜の咲いていた木に寄りかかり、私はこの一週間の出来事を一つ一つゆっくりと思い返した。
涙が溢れてきたり、笑えてきたり、安心できたり、いろんな感情が次々に浮かび上がってくる。でも最後に浮かび上がってきたのはやっぱり、『もっとそばにいたかった』という後悔の感情だった。
もっとお父さんとお母さんのそばにいて、一緒に暮らしていきたかった。まだまだやり残したことはたくさんある。
そのやり残したことの大部分を占めているのが、お父さんの小説を読んでいないということ。せめてそれを読んでから、消えてしまいたかった。でもやっぱり、残酷なほどに時間が足りなかった。
容赦無く、最後の時間が私を攫っていく。
涙が溢れてきて止まらなかった。
私は、このまま……
「華怜っ!!」
その私を呼ぶ声にハッとなり、俯けていていた顔を上げる。お父さんが、私のことを探していた。私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとするけど、もう身体は動かせない。
届かなくてもいい。自己満足でもいいから、最後にちゃんと伝えたい。不安定な私の存在を、必死の思いで繋ぎ止めた。
お父さんは周りを見渡して、私のことを必死に探してくれていた。それがとっても嬉しくて、繋ぎ止めていられる原動力になる。
「おい華怜! どこかにいるんだろっ!」
ここにいるよ。
言葉を発そうとしても声にならない。もう私は、お父さんに認識されていないんだ。
それでも最後の瞬間までお父さんのことを焼き付けたくて、必死に耐え続けた。
お父さん、華怜はここにいるよ。お父さんのこと、ずっと見てるから。
「華怜! 華怜!!」
目が合った……気がした。でも気がしただけで、きっとお父さんには見えていない。だからこっちは走り寄ってきたのはただの偶然で、もしかすると私の想いが少しは届いたのかもしれない。
お父さんは、桜の木の前で止まった。
だけどその下にいる私には気がつかない。桜の木に手をついて、お父さんはぽつりと呟いた。
「ごめんな、華怜……僕、約束守れそうにないよ……」
そんな悲しい顔をしないで。お父さんはとっても優しい人なんだから、いつも笑っていなきゃ……
お父さんの涙が、私の頬へと落ちてくる。そばにいるのに、声が聞こえるのに、果てしなく遠い場所に私はいた。
元気付けてあげたい。抱きしめて、大丈夫だよと言ってあげたい。
お父さんが私の前で膝をつく。私は最後に残った力を振り絞って、お父さんの頬へと手を伸ばした。柔らかくて暖かい、お父さんの頬。たしかにそれは感じられた。
私は挟み込んで、最後の言葉を投げかける。
「お父さんなら、これからもきっと大丈夫だよ。だから、頑張って。私はずっとずっと、応援してるから」
その私の最後の言葉を、お父さんが聞いたかどうかは分からない。ただ私の意識はそこで一度途切れて、真っ暗闇に放り出された。
でもきっと、ちゃんと伝わったと思う。それはもしかすると、十年後かもしれない。とりあえず、私の気持ちは伝わったと信じよう。
これから私が向かうのはきっと、墜落する飛行機の中だ。そして何もかもを感じられないまま、死んでいくのだろう。
それでも、最後にお父さんに想いを伝えられてよかった。お父さんならきっと、夢を叶えることができる。十年後に宛てた私の手紙も読んでくれる。
きっと、大丈夫だ。
だって私だけの自慢のお父さんなんだから。
じゃあ、お父さん。
元気でね……
僕のファンでいてくれる人に、丁寧にサインを書く。
もう何十人も僕のファンだと言ってくれる人がいて、正直泣いてしまいそうだった。
華怜と出会う前の自分は本当にダメなやつで、誰からも必要とされないやつで、毎日、日陰にいるような人間だった。
そんな僕が、今はいろんな人に必要とされている。ある人は勇気付けられたと言ってくれて、ある人は前向きに生きられるようになったと教えてくれた。
きっとこういう風にして、人の想いは伝わっていくのだと思う。
奈雪さんがそうしてくれたように、今度は僕が。
そういう自分のことを、ようやく少しだけ誇れるようになった。
あの時抱いていた、何かを与えられる人間になりたいという小さな夢。もし過去の自分に会えるのだとしたら、伝えてあげたいと思った。
これからもいろんなことがあって、いろんな辛いことがあるけれど、今も昔も変わらずにずっと幸せだよ、と。君は与えられてばかりの人間じゃない。もっと、自分に自信を持っていいのだと。
僕は辺りを見渡す。華怜が来てくれているか探したが、それらしき姿はない。
次のファンの方から文庫本をもらって、僕はその表紙へ小鳥遊公生とサインした。とても喜んでくれて、握手を求められる。
僕は微笑み、その子の手を握った。眼鏡を掛けた、内気そうな高校生の女の子だった。
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「実は、デビューした当時からずっと先生のファンなんです」
「そんな時から読んでくれているんですか。それはほんとに、ありがとうございます」
少しだけ照れてしまう。
「あの。実は私も、昔の先生みたいにいろんなことに悩んでるんです。受験のこととか、将来のこととか、そのほかにも色々……」
彼女の声は、だんだんとしぼんでいく。僕は、必死に言葉を紡ごうとしてくれている彼女のことを、真剣に待ってあげた。
「……だけど先生のおかげで、少し前向きな気持ちになることができました。一作目を読んだ時から、勇気をもらわれてばかりで……ずっと一言、お礼を言いたかったんです」
それから彼女は精一杯頭を下げて、涙声になりながらも「ありがとう……ございますっ!」と感謝の気持ちを伝えてくれた。
僕は急に目頭が熱くなってしまって、それを誤魔化すように小さく笑う。
「君が前向きな気持ちになってくれて、僕も嬉しいよ。僕も頑張るから、君も精一杯頑張ってほしい」
「……はいっ!」
最後に元気な返事をくれて、女の子は向こうへと走っていった。それをしばらく見守っていると、急に彼女は立ち止まる。どうやら、知り合いの男の子に声を掛けられたようだ。女の子は目を丸めているが、いつのまにかその表情には笑顔が浮かんでいる。
それから女の子は僕の小説を開きながら、男の子と会話を始める。
きっと彼女はもう大丈夫だなと、僕は安心した。
次のファンの方にも、僕はサインを書いていく。
「今回の小説って、先生が昔体験したことなんですよね? これって全部、本当に実話なんですか?」
「びっくりするかもしれないけど、全部実話ですよ」
「なんだか、ロマンチックですよね。私、華怜さんがここへ来てくれるって信じてます」
「ほんとうに、ありがとうございます」
また次の人も、興奮した面持ちで「これって、実話なんですか?!」と聞いてきた。
僕は苦笑しながら「全部、実話ですよ」と答える。
ある人は涙を流しながら「これから先も、頑張って華怜ちゃんのために小説書き続けてください……!」と言ってくれた。
またある女の子は、僕の小説を読んで小説家になるという夢ができたと教えてくれる。僕はその女の子に「いつか、書店の同じ平台に並べられるのを待ってるよ」と言ってあげた。
あの頃の華怜が今の僕を見たら、褒めてくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
僕は本屋の周りを見渡して、華怜がいないかを必死に探す。見逃したりしないように、注意深く探し続けた。
先ほどから華怜を探し続けているのに、全然現れてくれない。やっぱりここへは来てくれないのだろうか。それとも、もうこの世界のどこにもいないのか……
それは出来るだけ考えたくなかった。
僕は必死に華怜のことを探し続ける。
サインを書いていく。今の僕には、それだけしかできない。
少しだけ、諦めかけていた。
泣きたくなって、顔を俯かせる。こんなんじゃダメだと言い聞かせているのに、抑えることができそうになかった。
やはり、来てくれないのだろうか……
「お父さん」
その時ふいにそう呼ばれて、顔を上げる。そこには旅行カバンを下げたままの華怜が立っていた。
「……華怜、修学旅行は?」
頬をかきながら、恥ずかしそうに華怜は言った。
「修学旅行は、先生に言ってキャンセルにしてもらったの」
「キャンセルって……」
「だってお父さん、私がいないと寂しいっていうから。一週間もいなくなったら、どうかしちゃうでしょ?」
「お父さんは別に、寂しくなんて……」
寂しい。
心の底からそう思ったから、僕の言葉は尻切れとんぼになって宙を漂った。
そんな僕に華怜はくすりと笑う。
「お父さん、やっぱり寂しいんでしょ」
なにも言い返せなくて、思わず顔を俯かせてしまう。
「お父さんは、私がいなきゃ本当にダメだなぁ」
なにも言い返せない。
僕は華怜がいないと、本当にダメだ。
「……私も、お父さんがいないと本当にダメなの」
「……えっ?」
思わず顔を上げて、華怜を見た。
「お父さんがいなきゃ、私はダメなの。だから本当は、修学旅行なんて行かないでって言ってほしかった。素直じゃなくて笑っちゃうよね」
笑ったりしない。
本当は僕だってそう言いたかった。だけど、言えなかった。僕の方こそ素直じゃなくて、笑えてくる。
「素っ気ない態度取っちゃって、ごめんね」
「僕の方こそ、素直になれなくてごめん……」
「お父さんの前から勝手にいなくなって、ごめんね」
その言葉を聞いて、僕はまっすぐに華怜の目を見た。いつの間にかそこには涙が溜まっていて、僕の目にも涙が溜まっている。
「……華怜?」
「ずっとお父さんが夢を叶えるのを、私は夢みてた」
「華怜、なのか……?」
「お父さんは、本当に強い人だよ。私の自慢のお父さん。だから私はあなたのことを、あんなに好きになったの」
僕は用意していた文庫本をカバンの中から取り出し、華怜へ差し出した。それを受け取ってくれて、大粒の涙をたくさん流す。
ここまで、本当に長かった。途方もなく長い時間の中で、ようやくまた君に巡り会えた。
「ずいぶんと遅れちゃったけど、君のために書いたんだ。だから、読んでほしいっ……」
華怜は涙を流し続け、それでも笑った。僕はこの笑顔を見るために、ずっと小説を書いていたんだということを思い出す。
そしてこれからも、華怜の笑顔を見るために僕は小説を書いていくのだろうなと思った……
「この物語は、大切な君への贈り物だよ」
※※※※
再び目を覚ました華怜がいた場所は、飛行機の機内ではなくいつも見慣れた公園だった。
桜の木の下で、大きな幹に寄り添いながら座っていた。
どうしてここにいるのだろうと最初は驚き、やがてすぐに経緯を思い出す。
『寂しい』と公生が言ったから、『仕方ないなぁ』と思い修学旅行をキャンセルしたのだ。
後悔はなかった。
最初から、旅行へ行くよりも公生のそばにいたかったのだから。それに、せっかくのサイン会の日に旅行へ行くなんてありえないと華怜は常々思っていた。
どうせなら驚かせてやろうと思い、修学旅行へ行くふりをしたのだ。
華怜は腰を上げて、大きな旅行カバンを手に持つ。
そして、夢を叶えた一番大切な人の場所へ、最初の一歩を踏み出した。
※※※※
「ただいま、茉莉華」
「あら、おかえり。……って、華怜?!」
「えへへ」
「修学旅行はどうしたのよ!」
「サボってきちゃった」
「サボったらしいね」
「サボったってっ……!」
玄関口で、僕と華怜は茉莉華に抱きしめられた。
「よかったっ……! ほんとによかった……!」
「茉莉華、どうしたの?」
茉莉華の頭を撫でる。華怜は大好きなお母さんの背中を撫でてあげた。
「修学旅行の飛行機が、墜落したって……それでっ……」
「お母さん」
「……華怜?」
「お母さん、ありがと。小説ちゃんと読んだよ。素敵な名前を、本当にありがとう」
「華怜……」
「あの時食べさせてくれたチーズケーキ、とっても美味しかったよ。ほんとに、ありがとっ!」
その言葉で茉莉華も確信を得たのか、驚いた表情で華怜を見た。華怜は、微笑んでいる。
そして最後には、茉莉華へと抱きついた。
「これからも、ずっとずっとずーっと一緒にいようねっ! お母さんっ!」
その日、乗員乗客四百三名を乗せた航空機が、山の斜面へ墜落した。
現時点での死傷者の数は不明。
それは二〇四〇年、五月二〇日 日曜日の出来事だった。
僕たちは今日という日の出来事を、あの輝かしい一週間の出来事を、一生心に刻み続けて生きていくだろう。
記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕。(終)