その一行目を見た茉莉華は、僕の腕を掴み震わせながら、その長い手紙を一緒に見た。
『もし別の方がこの手紙を先に見つけてしまったら、そっと元の場所に戻してくれると嬉しいです。おそらく数年後に、二人がここへやって来て見つけれくれると思います』
『この手紙を読んでいる頃には、きっと私のことを忘れているかもしれません。もしかすると手違いがあって、これは読まれないかもしれません。だけど、たとえ忘れていたとしても、たとえ読まれなかったとしても、大切な二人のために、この手紙を残したいと思います。
どうしてあの時、あの瞬間に私が公生さんの前に現れたのかをずっと考えていました。二〇十八年の五月二十一日。残された短い時間でそれを考え続けて、ようやく結論のようなものを見つけることができました。
私はその理由を『たまたま』だと言いましたが、たぶん、そう、公生さんの言った通り、偶然なんかじゃなかったんだと思います。だってそれは私も、もちろん公生さんも望んでいたことだからです。
それは必然・運命なんかじゃ言い表せないほど奇跡的なもので、だけど私はそのチャンスを大きな失敗で逃してしまいました。
大切な思い出を、記憶喪失という形で失ってしまったんです。せっかく与えられたチャンスなのに、私は全然それを活かすことができませんでした。ただあなたとの毎日が楽しくて、毎日が嬉しいことの連続で、記憶なんてなくてもいいじゃないかと思ってしまいました。
あなたは、何もかもが不確かな私を、全てを失った私を愛してくれたから。何も持っていない私を愛してくれたから。
私が愛されていると自覚するたびに、自分自身の記憶に蓋をするようになりました。思い出した時、私は公生さんにふさわしい人間であるかが怖かったからです。もし、何かの罪を犯していたら、悪いことをしていたらと考えると、不安で不安で仕方ありませんでした。
そんな時に、公生さんは言ってくれたんです。
どんな私だったとしても、嫌いになんてならない。どんな私でも好きになってくれるって。
何者なのかもわからなかった私は、ただただ嬉しくて、満たされて、もし叶うのなら、ずっとそばにいたいと本当に心の底から思いました。
将来、公生さんが大学を卒業したらすぐに結婚をして、家で家事をしながら小説のお手伝いをして、ずっと一緒に、幸せに暮らすことを夢に見ていました。
上手くいかないときは私が励まして、いつか公生さんのためにアルバイトをしようとも考えていました。
でもそんなこと、願ったらダメなことだったんです。記憶を取り戻してすぐ、私はなんてことをしてしまったんだと思いました。いっそのこと死んじゃえばよかったのに……とも。
だけど頭では考えていても、そんなことはできませんでした。すべての事実を受け入れても、知ってしまっても、そばにいたいと欲を張ってしまったんです。
たとえ全てを裏切る行為だったとしても、公生さんのことが好きだったから……
公生さんが茉莉華さんと出会ったとき、運命って言葉は本当にあるんだなって思いました。私のやっていたことは二人の邪魔ばかりで、入りこむ隙間なんてどこにもなかったんです。
だから公生さんと茉莉華さんが出会ったあの日を最後に、この恋から身を引こうと自分の中で決心しました。二十五日で最後だと、自分に言い聞かせました。
だけど日付をまたいだ時に、やっぱり諦めきれなくて、公生さんのことを困らせてしまいました。
茉莉華さん、ごめんなさい。大切な公生さんを取ろうとしてごめんなさい。
言い訳がましいかもしれませんが、公生さんを茉莉華さんに返すために、たくさん努力をしたんです。
このままじゃダメだと思ったから、必死に嫌われる努力をしました。公生さんの言葉を無視して、勝手にスマホを触って勝手にメールを送って、嘘をついてみたり、お皿を落としたり……食べ物をこぼしてみたり、自分で着替えをしなかったり……
だけど、ダメでした。私がどんな悪いことをしても、公生さんは私のことを嫌いになんてなってくれませんでした。
公生さんが茉莉華さん以外の女性の話を楽しげにしている時、思わず本気で怒ってしまいました。それはたぶん、私自身の嫉妬も含まれていたんだと思います。
だから私は思わず、公生さんのことをぶってしまいました。あんなこと、するはずじゃなかったのに。でもこれで私のことを嫌いになってくれると、嬉しくもありました。
だけど公生さんは私のことを優しく抱きしめるだけで、嫌いになんてなってくれませんでした。だからその理由を知った時、私は心の底から涙を流しました。
あんなにも私のことを愛してくれていて、とてもとても、言葉じゃ言い表せないぐらい嬉しかったんです。
私も公生さんのことを嫌いになんてなれないから。だから私は、公生さんの前から去ることを決めました。私がいると、茉莉華さんにも迷惑をかけてしまうと思ったから……
手紙一枚で部屋を出ていって、ごめんなさい。本当はちゃんと公生さんに事情を話してから、あの場所を去りたかったです。勝手なことをして、本当にごめんなさい。
これが、一週間の間に私が感じていたことの全てです。
手紙なんて残すのはダメだと思いましたが、私の本当の気持ちを知ってもらいたくて書き記しました。気に入らなかったら、忘れてしまっていたら、破って捨ててしまってください。
ここから先は純粋に、三十歳になった公生さんと茉莉華さんのために書きたいと思います。
そうはいっても、実は心残りはあまりありません。私が聞いたりしなくても、十年後の二人はとっても仲良しだと知っていますから。
ほんと、妬けちゃうぐらい仲が良いよね二人とも。
これを掘り起こしたってことは、みんながまだ一緒にいるっていう何よりの証拠だから。だから、特別書きたいことは残っていません。
でも、一つだけ心残りがあるとしたら……
公生さんは、小説家になれた?
私との約束、ちゃんと覚えてるよね。
私のために小説を書いてくれるって。今の私はそれを読めないけれど、少し大きくなった私に、たくさんたくさん読ませてあげて。ほんとは私も読みたかったんだけど、もう叶わないことだから。
私はあなたの夢の手伝いを出来たことを、いつまでも誇りに思うよ。
きっと有名になって、いろんな人が公生さんのことを好きになってると思う。それを茉莉華さんがほんのちょっぴり妬いちゃって、六歳になった私が声を出しながら笑っちゃうの。
六歳の私は一生懸命公生さんを励まして、三十歳の茉莉華さんは公生さんをサポートしてあげる。そんな未来がいいな。そんな未来だったら、私の頑張った甲斐があるよね。
もし、小説家になれていなかったとしたら……さすがに恥ずかしいけど、桜の木の下に埋めるはずだった手紙を読んでみて。
そこにたぶん、全てが書いてあるから。私は恥ずかしがるかもしれないけど、他でもない私が許してあげるから、遠慮なく見ていいよ。
それを見てもしもう一度頑張れるなら、今度は目の前にいる私と茉莉華さんのために、小説家を目指してあげて。
公生さんなら、きっとまた立ち直れるはずだから。私はいつだって信じてるよ。
本当は伝えたいこととか教えたいこととか、もっとたくさんあるんだけど、さすがにそれはルール違反だと思うから書けません。だから、遠回しに……
これから先、私が公生さんに変な態度を取っちゃったら、あの一週間の出来事を思い返してあげて。たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな。
心残りなんてないって言ったのに、いろいろと注文付けちゃってごめんね。怒ってると思ったけど、たぶん公生さんのことだから怒ってないんだろうね。公生さんは、とっても優しい人だから。
茉莉華さん。公生さんともっともっと幸せになって、小学生中学生になった私を、たくさん妬かせてあげてね。
締めの言葉がなかなか思い浮かばなかったけど、決めました。最後は華怜じゃなくて、二人の娘として書きたいと思います。
私、ずっとずっと二人のことが大好きだよ。他の誰より、あなたたちのことが。
さようならは言わないよ。きっとまた、会えるから。
だから今は一つだけ、
ありがとう
私を産んでくれて、本当にありがとう。
お父さんとお母さんのことをずっとずっと愛しています。
結局、二つになっちゃったね(笑)
最後だから、笑って許してあげてください。
二人の大切な娘より。
小鳥遊華怜。
※※※※
その全てを読み終わった僕は、華怜との約束を何も守れていなかったのだということを思い出した。小説家を目指すと誓ったこと。ずっとそばにいると誓ったこと。
その全てを忘れてしまっていた僕は、十年分のいろんな思いが一挙に押し寄せてきて、押しとどめることができなかった。茉莉華は隣で泣きながら、僕の方へと寄りかかってくる。
華怜は僕と茉莉華の足を掴んで、必死に励ましてくれていた。
ダメだ、このままじゃダメだ。
それを埋めてしまう前に、確かめなきゃいけないことがある。きっとそこには、高校生の華怜が僕の前に現れた理由が書かれているのだから。
全てを吐き出す前に華怜の肩を掴み、優しく聞いた。声の震えは止めることができなかった。
「ごめん、華怜……タイムカプセルに入れた手紙、読ませてもらっていいかな……?」
「え……てがみ、みるの……?」
「うん、見せてほしいっ……」
一瞬の逡巡の後、頬を染めた華怜は笑顔で頷いた。
「おとーさんになら、みられてもいいよっ!」
僕はそれに「ありがとう……」と言って、埋めるはずだった瓶を開けた。今朝華怜が書いていた手紙を開き、それを読む。
『おとーさんのおよめさんになれますように。おとーさんとおかーさんと、ずっとわらっていられますように。おとーさんが、しょーせつかになれますように』
その自分宛の手紙を読んだ僕は、十年前の出来事を一つ一つ思い返していた。
僕のために、小説家になる手伝いをしてくれた華怜。僕を支えてくれていた華怜。ずっとそばにいたいと言ってくれた華怜。
『男の子が大学を卒業したら、女の子と結婚するんです』
『いきなりぶっとんだね』
『ずっと部屋の中でひとりぼっちだったんですから、すぐに男の人を好きになるはずですよ』
『それから男の人は小説家になります』
『どうして小説家?』
『だって、外に仕事に行ったら女の子が寂しくなりますから。家で小説を書きながら、二人で一緒に仲良く暮らしていくんです』
『そんな風になったら、いいですよね』
たとえ記憶をなくしたとしても、華怜は同じ様に僕を想ってくれていた。僕の夢を叶えようとしてくれていた。だからこそ、忘れてしまっていた僕が何も果たせていなかったということに気付いて、僕はどうかしてしまいそうだった。
こんなはずじゃなかった。
僕はただ、華怜の笑顔を見たかっただけなんだ。
歪に絡み合う思考の中で、それでも華怜は僕の頭を撫でてくれた。何も約束を果たすことができなかったのに、優しく僕のことを撫でてくれた。
だから僕は、溢れてくる涙を止めることができなかった。。
泣いて泣いて、十年分の絶叫を吐き出した僕は、いつの間にか、子どもの華怜に抱きしめられていた。
それでも僕は泣くことをやめられずに、僕はただずっと、泣き続ける。
華怜はそんな僕を「おとーさん、だいじょーぶだから。かれんがずっとそばにいるからね」と慰め続けてくれた。
それがまた僕の心を刺激して、溢れてくる涙を止められない。
いつもいつも、華怜は僕に似ていると思っていた。そんなの、当たり前だった。華怜は他ならない僕の娘で、僕の背を見てずっと育ってきたんだから。
僕はどうしようもないほどに嬉しかった。こんなにも華怜が僕のことを思ってくれていて。だけどそれと同じぐらい、僕自身が情けなかった。僕は華怜との約束を全て破ってしまったのだから。
もう一度、頑張ることができるのだろうか。
華怜は、信じてるよと言ってくれた。そして目の前にいる華怜と茉莉華のために、小説家になってあげてと言ってくれた。
僕は、華怜のいない世界で再び頑張ることができるのだろうか。一度は諦めてしまったから、これから再び頑張れる自身がなかった。
そんな僕に、やはり華怜は微笑んでくれる。今度は小さな手で、僕の頬を優しく挟み込んでくれた。
「お父さんなら、これからもきっと大丈夫だよ。だから、頑張って。私はずっとずっと、応援してるから」
なぜだろう。それは六歳の華怜に言われたはずなのに、高校生の華怜が後押しをしてくれた気がした。僕の涙はいつの間にか止まっていて、心が温かいものに満たされていく。
目の前の華怜は、僕の頬に手は添えていなかった。
僕は知らず知らずのうちに頷いていて、また一筋涙が溢れる。華怜はやっぱり、微笑んでくれた。
「ごめん……ごめんな、華怜。お父さん、全然約束守れなくてっ……」
「ゆるしてあげるよ。でも、」
僕から少し離れた後、華怜は右手の小指を差し出してきた。僕はその意味がすぐにわかって、小指を差し出す。
「おとーさんのごほん、ちゃんとかれんによませてね」
「うんっ、約束するっ……」
「やくそくやぶったら、はりせんぼんだよ?」
「もう約束は破らないから、安心して」
絡めた指を数回振った後、どちらからともなくそれを離した。いろんな約束を反故にしちゃったけれど、これだけは何があっても守りたいと思う。守らなきゃ、高校生の華怜が僕のことを心配してしまう。
それから華怜は頬を染めて「やっぱり、はりせんぼんはいたいから、やくそくやぶったらよるごはんぬきね」と訂正した。僕はようやくそれにくすりと笑って、見守ってくれていたみんなも連鎖するように笑いあう。華怜は恥ずかしさで頬を染めた。
僕は今、とても幸せだった。
君は今、どこにいるのだろう。色々と君について理解したことがあるけれど、それだけが唯一分からなかったことだ。
もう、元の場所へと帰ったのだろうか。それともまだこの世界のどこかにいるのか。もしこの世界にいるのなら、見つけてあげなきゃいけないと思った。だって出会った時のように、道端で倒れているかもしれないじゃないか。
じゃあ、それはどうやってみつける?
その方法は案外とすぐに思いついた。何年かかるか分からないけれど、きっと果たせると思う。だって僕は小説家になると決めたのだから。
もし、もうこの世界にいなかったとしても、それは決して無駄になんてならない。
君が、この世界にいたのだという証を残せるのだから。
僕はまた、前を歩き出す決心をした。
記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕(終)
************************************************
あとがき
本書を手に取っていただき、誠にありがとうございます。
そして、ここまで読んでくださったみなさんに、僕は謝罪をしなければいけません。何もかもが中途半端なまま、作品が終わりを迎えてしまい本当に申し訳ございません。
僕の私用のために、関係各所を巻き込んでしまったことも重ねて謝罪申し上げます。
ここまで読んでくださったみなさんは、きっと混乱してしまっていると思います。ですが、これまでに語ってきた物語は、全て僕の歩んできた実話を基に構成しています。
信じるか信じないかは、あなた次第。
だけど、この本の読者がみんな信じなかったとしても、あなただけは信じてくれると僕は願っています。なぜなら、華怜はあの一週間を、僕と一緒に過ごしたんだから。
僕は、いなくなった君のことを、今でもずっと探しています。
小鳥遊公生
記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕
LAST EPISODE
二〇四〇年 四月
『まったく、君には驚かされてばかりだね』
とある平日の昼下がり。僕は日頃お世話になっている女性の担当編集さんと、打ち合わせの電話をしていた。とはいえ、もう原稿は全て出来上がっていて、後は本になり店頭に並べられるだけだから、ただの世間話みたいなものだけれど。
「すいません……こんな無理を押し通してしまって……」
『いくら謝っても、全然足りないぐらいだ。私の青臭くて忘れたい過去話も、君はこれから白日の下に晒そうとしているんだからね』
先輩――女性編集者である桜庭奈雪さんは、とても愉快だと言わんばかりに笑っている。この話を持ち出したとき、この話を書いているとき、そして書き終わった時、いつかは本気で怒られるだろうと思っていたのに。
「本当に、すいません……」
僕はもう一度、菜雪さんに謝罪する。彼女には最初から最後まで、たくさん迷惑をかけてしまったから。
『別に、本当は怒ってなどいないよ。これが、君の選んだ道なんだろう? あの瞬間から、君はこの時だけを目指してきたんだから。何年も経ったんだ。私はもう、覚悟くらいできている』
「……ありがとうございます」
再び小説家を目指すことを決意したあの時、僕は同時にあることも決断していた。それは、僕の書いた小説で華怜のことを見つけるということ。
僕の小説がたくさんの人に読まれて、僕の名前がたくさんの人に知られれば、世界のどこかにいる華怜が気付いてくれるかもしれないと思ったから。だから僕は小説家になって人気が出て来たら、この話を書くことを心に誓っていた。この、僕の物語を。
『一番心配だったのは、編集長に話を通す時だったね。君にはたくさんお世話になっているとはいえ、こんな突拍子もない物語を本当に出版してもいいものか、私も正直疑問に思っていたから』
「奈雪さんが編集者になっていなかったら、出版まで漕ぎ着けなかったかもしれません」
『そんなに私を過大評価するんじゃない。でもまあ、編集者としての最後の仕事で、この作品にたずさわれて本当によかったと思っているよ』
奈雪さんは今回の仕事を最後に仕事を退職して、家庭に入るようだ。本当に最後までお世話になりっぱなしで、彼女の前では頭を下げっぱなしである。
『編集長から聞いたけど、こういう裏設定的なものがあった方が読者の反響を期待できるそうだよ』
「裏設定というより、全部事実なんですけどね」
『まあ、こんな不思議なおとぎ話を、まともに信じるやつなんていないだろうからね。編集長もきっと、今も半信半疑だよ。でもほかの編集者さんは、きっとこの物語の中に真実が隠されてます! と主張していたけどね』
僕はくすりと微笑む。こんなファンタジックで不思議なおとぎ話を本当に信じる人がいるとしたら、その人はとても変わっている。でも、一人ぐらいは信じてほしいと思った。華怜は本当に、あの時あの場所にいたのだから。
しかし実際のところ、もうSNSなどでは小さな話題となっていた。小鳥遊公生が、自分の名前を小説の中に登場させたのだから。もっと広まってくれれば、本当に華怜が見てくれるかもしれない。
『とってもロマンチックな話じゃないか。小鳥遊先生』
「その呼び方はちょっと……」
「君はいつになったら慣れるんだい?」
小説家になって日は浅くないけれど、それでもまだその呼ばれ方は慣れていない。なんだかむずがゆくなってしまう。
『それにしても、私の指摘を覚えていて、まさか物語の中に取り込んでくるなんてね』
「あぁ、あの時のことは今でも忘れられませんから。先輩のアドバイス、今でもしっかり覚えています」
あの時先輩には、『一人称の物語なんだから三人称の視点を混在させてはいけない』と指摘された。だけど僕はその指摘を逆手に取り、今回の話ではわざと三人称の視点を挟ませている。
この話に至っては、こんな反則技を使っても何の問題もないだろう。そしてうまく騙された人は、最後まで読んでようやく『そういうことだったのか』と理解する。
一種のお遊びみたいなものだ。
『ところで、茉莉華さんは今どこに?』
「今は外で、華怜と洗濯物を干してます」
『そうかそうか、仲の良い家族だね』
僕は「ありがとうございます」とお礼を言った。
しばらく電話をしていると、向こうから、男の声が聞こえてくる。どうやら公介くんに呼ばれたようで、茉莉華さんは『それじゃあまた今度。茉莉華さんによろしくと伝えておいてくれ』と言った。
「わかりました。よろしく伝えておきます」
『それじゃ、サイン会の日が楽しみだね』
そう言って、奈雪さんは通話を切る。
僕は手持無沙汰になり、原稿の一番最初から物語をもう一度読み直してみる。それは僕の記憶を辿る行為だ。あの頃の出来事は、今でも鮮明に思い出すことができる。
二〇一八年の五月二十一日から、二〇二八年の四月まで。完全に僕の視点を忠実に追ったこの物語の中に、真実は隠されているのだろうか。
そういうことを必死に考えていると、ドアの向こうから「ただいまー!」という元気な声が突き抜けてきた。僕はそれだけで笑顔になり「おかえり、華怜!」と言ってリビングへ向かう。
果たしてそこにいたのは十年前そっくりに成長してくれた華怜の姿で、あの倒れていた時と同じ制服に身を包んでいた。
僕を見つけるとパッと笑顔になり、勢いよく抱きついてくる。そしてもう一度「ただいまー」と言って嬉しそうに笑った。
「華怜はもう十七歳だろ? いつも思ってたけど、ちょっと子どもっぽくないか?」
「いいもーん、子ども心を忘れないのは、とってもいいことだからっ!」
やがて茉莉華もリビングへと戻ってきて、華怜に「おかえり」と微笑む。華怜は「ただいま、お母さーん」と、僕に抱きついたまま返事をした。
茉莉華は「本当に二人は仲が良いわね」と微笑む。華怜はその言葉に誇らしげに胸を張った後、僕の身体から離れた。
そして次は茉莉華へ抱きつき「お母さんも大好きだよー」と甘え始める。
こんなことをするのはさすがに家の中だけのことだが、華怜は幼稚園の頃と同じく高校でも僕らの自慢をしているらしい。最近はそのことが原因で、マザコンファザコンと言われるようになったらしく、だけどなぜか本人は喜んでいた。
華怜にとっては喜ばしいことらしい。
スキンシップもほどほどに、茉莉華は一枚の紙を棚から取り出して華怜に見せた。
「ほら、来月の修学旅行で必要なもの揃えなきゃ。前日になってあれがないこれがないって言われても困るのよ?」
「わかってるよー」
少々めんどくさそうに華怜は言った。あまり修学旅行には乗り気じゃないらしい。行き先は香港らしいけど、海外旅行なんて滅多に行けないから楽しんでくればいいのにと思う。
そんな華怜は僕の腕を掴み、すり寄ってきた。
「ねーお父さん、本当に修学旅行行かなきゃダメ?」
「絶対行かなきゃダメってことはないけど、行かないと思い出が作れないから後悔すると思うぞ?」
すると華怜は唇を尖らせてそっぽを向いた。いったいどうしたんだろう。
茉莉華は呆れたようにため息をつく。
「海外旅行なんて一生に何度も経験できることじゃないんだから、精一杯楽しんできなさい」
今度の華怜はさらに唇を尖らせて「もういいっ!」と言って自分の部屋へ戻っていった。茉莉華は肩をすくませる。
「華怜、どうしたのかしら?」
「もう高校生だから、いろいろ多感な時期なんだろ」
「いいことなのかしら」
「ちょっと寂しいけど、これも成長したってことなんじゃない?」
寂しいけど、いつまでも僕たちにべったりというわけにもいかない。華怜もいずれは親離れをして、大人になっていくんだから。
しかしそうは言うものの、やっぱり親離れというのは寂しいものだ。
それから数日が過ぎて、五月になった。華怜は修学旅行の日が近付くにつれて、僕に気まずい表情を送ることが多くなり、いったいどうしたんだろうと心配になる。
そういえば手紙の内容の中に『これから先、私が公生さんに変な態度を取っちゃったら、あの一週間の出来事を思い返してあげて。たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』と書かれていたことを思い出した。
華怜が伝えたかったことは、もしかすると今のことを言っているのだろうか。
僕は大学二年の日々を思い返す。
あの時の華怜は、何をするにも僕にべったりとくっついてきた。大学に行くと言えば「私も行きます」と言って僕を困らせたし、ドラッグストアへ行くと言えば「ここにいてください」と甘えてきた。
何か隠し事があれば露骨に様子が変になるしで、あの頃は大変だった。だけど今にして思えば全てが懐かしい思い出だ。
今、僕たちに妙な態度を取っているのは、もしかすると修学旅行へ行きたくないからなのかもしれない。あの時と同じく、僕と離れるのが嫌なのかも。やっぱり自惚れかと思ったけど、華怜のことだから本気でそう思っていても不思議じゃない。
修学旅行へ行けば、一週間は僕と会えなくなってしまう。それを華怜は耐えることができるのだろうか。今までもずっと僕にべったりだったし、そういえば中学の修学旅行に行った時も渋々といった感じだった。
あの修学旅行は三泊四日だったけど、時間があるときは逐一電話をかけてきて本当に大変だった。丁寧に言葉を返さなきゃムスッとするし。でも、僕はそれを楽しいと思っていた。
しかし今回の修学旅行は海外だ。携帯を持って行くのはいいけど、聞いたところによると使用は禁止らしいし、まる一週間僕と会話もできなくなる。
果たしてそれが華怜に出来るのかと考えて、無理だなと思った。それは華怜がじゃなくて、他ならない僕がだ。心配で心配でたまらなくなって、仕事も手につかなくなりそうだ。
それに……
『飛行機は、怖いですから……』
あのとき言っていた華怜の言葉を思い出す。とても思いつめていて、今も昔も心が大きく締め付けられた。
『じゃあ、飛行機は使わないことにしよう』
『危ないですから、絶対に乗らないでくださいね』
『絶対に乗らないよ』
飛行機事故。
久しぶりに思い出した。あれだけの出来事があったというのに、今もなお大空に巨大な両翼が飛んでいる。
背筋がとても寒くなった。
やらなきゃいけない仕事があるのに、全然手につかない。どうしたものかと思っていると、部屋の扉がノックされた。
この控えめな音は華怜だなと思い、僕は「入っていいよ」と返す。ここ最近は僕の部屋にすら来なかったから、珍しいことだった。
華怜はわずかにドアを開けて顔を覗かせる。入ってきやすいようにと、僕は微笑んだ。それに安心して、こちらへてくてくとやってくる。
椅子を勧めると、すぐに座った。
長い髪が揺れて、シャンプーの柑橘系の香りが漂ってくる。
「お風呂、もう入ったの?」
「入ったよー。今、お母さんが入ってる」
そう言った後、僕の仕事机や周りの本棚をいつものように見回す。
「お父さんの部屋、本が増えたね」
「本が好きだからね。華怜の部屋も、本が増えたんじゃない?」
「私は、お母さんが読め読めって言ったのを貸してもらってるから」
茉莉華は本を勧めるのが大好きだから、面白い本があれば全部華怜に回している。それで華怜も本が好きになって、たまに小説の感想を言い合っていた。
「ずっと気になってたんだけど、聞いていい?」
「どうしたの?」
「お母さんが大切にしてる名瀬雪菜の小説って、奈雪さんが昔書いた本なの?」
「そうだけど、どうして分かったの?」
「だって、桜庭さんって旧姓が七瀬さんでしょ? 七瀬奈雪、名瀬雪菜。ほら、びっくりするほど似てる」
この分かりやすい真実を、僕は全然気がついていなかったんだということを思い出した。分かりやすすぎて、自分で笑えてくる。
「奈雪さんとコウちゃん、こっちに戻って来られてよかったね」
「それは本当によかったよ」
奈雪さんと公介くんは、公介くんが中学へ上がる時にこちらへ戻ってきた。夫婦で仲直りをすることができて、今は幸せに暮らしている。
とりとめのない会話を、僕たちは続ける。
「最近、お仕事大変?」
「今は比較的楽な方かな。今度出る小説は、もう出来上がってるから」
「それ早く読みたい。発売したら真っ先に買いに行くからね」
出版する小説は、発売するまで家族には見せないようにしている。買ってからのお楽しみというやつだ。最初の方は茉莉華も華怜もゴネていたけど、僕が曲げないと分かってからは素直に発売日を待つようになってくれた。
そしてようやく華怜は、本題を切り出してくる。
「最近、変な態度取っちゃってごめんね」
「自覚あったんだ」
「そりゃあ、めんどくさい女の子だなって自分でわかってるから」
僕がくすりと笑うと、華怜も微笑んだ。
「不安な部分もあるけど、楽しみなところもちゃんとあるんだよ。佑香と、久しぶりに同じクラスになれたから」
「佑香ちゃんって、幼稚園の頃からのお友だちだっけ?」
「そうそう。中学の頃は一度も同じクラスじゃなかったけど、今年は同じクラスなの。修学旅行も一緒に回るから楽しみなんだぁ」
その佑香ちゃんという子に、華怜は率先してファザコンと呼ばれていた気がする。たぶんお互いの愛情表現みたいなものなんだろう。
「本場の中華料理、実はちょっと楽しみ」
「感想とかいろいろ聞かせてよ」
「お土産ちゃんと買ってくるよ。なにがいい?」
「調味料とか買ってきたら、お母さんは喜ぶんじゃないかな」
「お母さんのじゃなくて、今はお父さんに聞いてるの」
「僕は、華怜から貰うものならなんでも嬉しいよ。でも出来るだけ、形に残るものがいいかな」
普段身につけていられるものなら、尚嬉しい。
その返答に満足したのか、華怜は笑顔になった。
「お父さんが喜びそうなものを厳選して買ってくるね」
「お土産選びに必死になって、観光を忘れちゃダメだよ?」
「分かってるって」
楽しそうにしている華怜を見て、やっぱり親である僕はしっかりしなきゃと改めて思った。お父さんなら、しっかり華怜のことを見送らなきゃいけない。
いずれ結婚もするんだから、こんなことで迷ってちゃダメだ。
華怜は「いいこと思いついた!」と言って両手を叩いた。こういう時の華怜は、大抵突拍子のないことを口走る。
「お父さんも私と一緒に香港に来なよ。きっと楽しいよ?」
僕は苦笑する。
「それはダメでしょ。それに、その日は外せない用事があるから」
「えー、いい提案だと思ったのになぁ」
本気で悔しがる華怜が面白い。
そうこうしているうちに、向こうから脱衣場のドアが開く音が聞こえてきて、そろそろ風呂に入る用意をしなきゃなと思い立った。
華怜も、もう話は済んだのか椅子から立ち上がる。
「ごめんね、話聞いてもらっちゃって」
「ううん、お父さんが相談に乗れることなら、なんでも言っていいよ」
「やっぱり、優しいねお父さん。ありがと」
最後にそう言って、華怜は部屋のドアに手をかけた。僕はその華怜へ言葉を投げる。
「実はお父さんは、華怜が生まれるずっと前から、華怜のことを知ってたんだよ」
「なにそれ」と、華怜は微笑む。僕もおかしくなって、笑みをこぼした。
「お母さんも、ずっと前から華怜のことを知っていた。華怜は、お父さんとお母さんを出会わせてくれたんだ」
あの時ああしていればという、もしもの出来事は無数にあるのかもしれないけど、僕らが経験した道は一つだけ。その道に華怜がいなかったら、危うく全てがすれ違っていたかもしれない。
しかしいろんな出来事が積み重なって、いろんな出来事がそれを揺るがしたとしても決して変わったりしないものが、人々の言う運命というものなのかもしれない。
華怜は手紙の中で、運命は本当にあるんだと言っていた。もしかすると僕と茉莉華が出会うことこそが運命で、華怜が生まれてくるのも運命だったのかもしれない。そんなロマンチックなことを考えていた僕は、途端におかしくなって小さく笑った。
「変なお父さん」
「変だよね」
「でも、私がお父さんのために活躍出来たなら、それはとっても嬉しいな」
「大活躍だったよ」
「えへへ」
「ありがとね、華怜」
華怜は頬を染めながら照れを見せる。
話はこれで終わりだ。
しかしなかなか取っ手を動かさなくて、どうしたのかと思っているとこちらへ振り返ってくる。
その表情は心なしか、不安に彩られている気がした。
「お父さんは、私がしばらくそばにいないと寂しい……?」
僕はまた、手紙の内容を思い返していた。
『たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな』
ほぼ無意識的に、僕は思っていたことを口に出してしまう。
「とっても寂しいよ。華怜がそばにいないのは」
親として笑顔で見送らなきゃいけないんだろうけど、僕はそれが出来なかった。少しだけ悲しい表情を作ってしまって、だけど華怜は僕の答えに満足したように微笑んだ。
「そっかぁ、寂しいか。わかったよ、ありがとねお父さん」
その言葉を言った後、今度こそ華怜は部屋を出ていった。それからの僕は、これでよかったのかと何度も自分に問いかけたけど、華怜のいつも通りの笑顔を見るたびにこれでよかったんだと思い直す。
とりあえず、華怜がいつも通りになってくれてよかった。
やがて予定されていた小説が出版されて、華怜の修学旅行の日がやってくる。
僕と茉莉華はいつもの制服に身を包んだ華怜を、笑顔で見送った。華怜も楽しみなのか終始笑顔を崩していなくて、ちょっとだけ安心する。
僕が、子ども離れしなくちゃなと思い直した。
華怜が去っていった玄関口を見ながら、茉莉華はぽつりと呟く。
「やっぱり、心配ね……」
「華怜なら、きっと大丈夫だよ」
そう、華怜ならきっと大丈夫だ。だって僕と茉莉華の子どもなんだから。
だけど茉莉華の考えていたことは、少し違うらしい。
「ほら、公生くんが大学生の頃、飛行機事故があったでしょう? だから、ちょっと不安で……」
僕はその飛行機事故のことを思い返した。あれはひどいもので、だけど僕と茉莉華のことを引き合わせてくれたきっかけでもある。
「たしか、二〇一八年の……」
僕は急にど忘れをしてしまい、それがいつの出来事だったかを思い出せなかった。そういえばあの時、事故の映像なんか見たくなかったから、意図的に視界に入れないようにしていたのだ。
だから、具体的な被害状況などはあまり詳しく覚えていない。
隣にいる茉莉華が、補足してくれた。
「二〇一八年の、五月一五日よ。もう、そんなことも忘れちゃったの?」
茉莉華にそう言われて、僕もようやく思い出した。
二〇一八年の、五月一五日。僕と華怜が出会った、六日前の出来事だった。
「あぁ、ごめん……」
「私、今でも覚えてるわよ。五百二十六人が、みんな死んじゃったんですもの……公生くん、小説にもちゃんと書いてたでしょう?」
「そういえば、そうだった……」
書いたといっても、あれはほぼ書いていないに等しい。具体的な死亡者数も日にちも書かなかったし、そういうのを意図的に避けて書いた。
なぜかというと、あの悲惨な事故を想起させてしまうからだ。僕自身思い出したくもなかったし、書くことをためらった。
それにあの事故で家族を亡くした人が、この日本にはたくさん存在しただろうから。
「ちょっと、心配ね……」
僕の心も少しずつ、不安の気持ちに侵食されていった……
たくさんの人がひしめき合っている空港の中を、クラスの列に混じって歩いている。大きな旅行カバンは機内へ持ち込むことができないから、すでに先ほどカウンターへと預けた。
手荷物はスマホだけで、私はちょっと身軽になっている。
その軽くなった身体で、頬をぷんぷん膨らませた。佑香は私を見て面白そうに微笑んでいる。
「機嫌直しなよ華怜、たった一週間だよ?」
「たった一週間でも、お父さんとお母さんと離れるのは嫌なのっ!」
本心を叫ぶと、周りにいた友達も元気よく吹き出す。私は本当にお父さんとお母さんが好きだから、別に恥ずかしいとは思わない。
「ほんとに華怜はファザコンだなぁ」
「育ててくれた両親を大切に思うのは当然でしょう?」
「華怜のは度を越しすぎ。私、幼稚園の頃の華怜の夢今でも覚えてるよ?」
その昔の話を佑香に振られて、さすがに私は顔が焼けたように熱くなった。歩きながら佑香ちゃんの肩をぽかぽか叩く。
「それ、本当に言ったらダメだからね! 言ったら絶交だからっ!」
「痛い痛い、痛いって。とかいって、私がバラしても華怜はいつも許してくれてるじゃん。それにみんなはもう、華怜の夢は知ってるよ」
「佑香が教えたからでしょうが!」
バシンと頭を優しく叩いてあげると、佑香もみんなもさらに笑ってくれた。
私は私がみんなを笑わせられていることが嬉しい。ちょっと恥ずかしいけど、それで笑ってくれるならからかわれても構わない。
「まあまあ、元気だしなよ。一番の幼馴染の私が、毎晩慰めてあげるからさ」
「えー、佑香が私のこと慰められるかな?」
「華怜のことは一番よく理解してるから、そこは安心していいよ」
それはちょっと頼もしいけど、やっぱりお父さんに会えないのはかなり寂しくなると思う。本当なら、修学旅行に行かないでほしいと引き止めてほしかった。私って素直になれないから、お父さんに迷惑かけちゃうんだよね。
きっと、お父さんは戸惑っていた。
「というか、お父さんと喧嘩したの?」
佑香は私のことを心配してくれて、そっと耳打ちしてきた。やっぱり優しいんだなと思いつつ、引き止めてくれなかったことを話した。
すると呆れたように手のひらをひたいに当てる。
「それ、華怜が悪いよ。ちゃんと自分の気持ちを素直に伝えなきゃ」
「だ、だって。恥ずかしいんだもん……」
「恥ずかしいからって隠してちゃダメでしょ……華怜みたいに人の好意が分かる人なんて、そうそういないんだから」
佑香とは付き合いが長いから、私のことをよくわかってくれてる。それがとても心強い。
「でも、お父さんなんだからちょっとは分かってほしいよねっ」
「はいはい、わかったわかった」
適当にあしらわれていると、いつの間にか飛行機の入り口までやってきていた。列について続々と中へ入っていき、佑香と並んで席に座る。
あらかじめじゃんけんをして、どちらが窓側に座るかを決めておいた。幸いにも私がグーを出して、佑香がチョキを出したから、行きの飛行機は私が窓側だ。
窓側は晴れていれば、雲の隙間から富士山の頂上を望める。いわば特等席というやつだ。本当はお父さんと見たかったんだけど、仕方ない。
添乗員の方とアナウンスでシートベルトを付けるように指示を受け、離陸する前に身体を固定させた。実は飛行機を乗るのは初めてだから、ちょっと不安。
「佑香は、飛行機乗ったことあるんだっけ?」
「ん、一回だけね。といっても子どもの頃だから、あんまり覚えてないけど」
「やっぱり怖かった?」
「別にー。目つぶってれば大丈夫でしょ」
そう言いつつも、佑香は手を握ってくれた。こういうさりげない優しさが、大きな魅力だと思う。
しかしとても優しいのに、彼氏はいないらしい。一度どうして作らないのか聞いたことがあるけど、本人は「いやーそういうのは別にいいかな」と、私を見て照れながら言っていた。
私も彼氏は作る気がないけど、佑香の場合はよくわからない。もしかして、私との時間が減るのが寂しいのかな。
やがて飛行機は滑走路を高速で走り、大空に飛び立つ。わずかに重力が身体へかかり、しばらくするとそれが収まった。
シートベルトを外していいというアナウンスが入り、私はそれを外した。佑香は握っていた手を離して「ほらね、怖くなかったでしょ?」と微笑む。
「全然怖くなかったね」と私も微笑んだけど、それはきっと佑香がいたからだ。
かくして、乗員乗客四百五名を乗せた飛行機はゆったりとした飛行を続けた。
しばらくすると、佑香はぽつりと呟く。
「修学旅行、来ないかと思って心配してたんだよ」
「なんで来ないと思ったの?」
「ほら、華怜はファザコンだから」
どんな理由だと思ったけど、佑香の言う通り、お父さんが引き止めていたらきっとここにはいなかった。
「私、華怜が来なかったら実はサボるつもりだったんだよ」
「あっ、佑香悪い子だね」私は微笑む。
「だって華怜がいなきゃ、絶対に楽しめないと思ったもん。こういうこと言うのちょっと恥ずかしいけど、私華怜の一番の友達だって自覚あるよ」
赤くした頬を人差し指でかきながら、佑香は視線をさ迷わせる。
普段は決してこんなことを言う人じゃないんだけど、もしかすると修学旅行の浮かれた空間が素直にしてくれているのかもしれない。
私も佑香のことは、一番の友達だと思っている。だから純粋な感情を向けてくれているのが、私も嬉しい。
少しだけ、佑香に甘えてみることにした。
「私も、佑香のこと大好きだよっ!」言いながら佑香の肩へ寄りかかり、ほっぺに頭頂部をスリスリさせた。
「うわっ、それはこしょがしいからやめてっ!」
「佑香、私のことすっごく大好きなんだねっ」
「べ、別にそんなんじゃ……って、華怜に隠しても無駄なんだよね……」
そうだ、私に隠しちゃっても無駄だ。
声に出さなくても佑香の想いは態度などのいろんなもので伝わってくるし、それを自覚すると私も嬉しくなる。
「ありがとね、佑香」
「ん、どういたしまして」
しかし数十分後に突如異変が起こる。それは私が佑香と楽しげに会話をしていた時だった。
私たちが座っている後方あたりで、何かの破裂音が響く。それにより、周りのクラスメイトたちみんなに動揺が走り、スチュワーデスの人が原因究明までしばらくお待ちくださいとアナウンスした。
私はだんだんと早くなる動悸を抑えることができずに、いつの間にかまた佑香に手を握られていた。
「きっと大丈夫だよ。何かの間違いだと思う」優しい声色だった。
「本当に、大丈夫かな……」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと香港まで辿り着いて、一週間後にはお父さんに会えるから」
その言葉がとても心強かった。
やがて機内に白い煙が立ち込めてきて、それと同時ぐらいに酸素マスクが落ちてくる。私たちはそれを震える手で必死に装着して、事態の究明を待った。
しかし一向にそれは分からないまま、安全に飛行していたはずの飛行機の動きが不安定なものになってくる。生徒たちはみな不安の声を上げて、スチュワーデスの方は必死にそれをなだめ続けた。
私はこんな時でもやっぱり、お父さんとお母さんのことを考え続けていた。
※※※※
やがて飛行機は激しく揺らめき、各々の場所から悲鳴が上がる。シートベルトが身体に食い込んでとても痛い。
まるで、レールのないジェットコースターを走っているようだった。どちらへ向かうかも分からなくて、頭の中は絶望しかない。
窓際に座ってしまったのを、私は後悔し始める。揺れる景色を見て、だんだんと飛行機が落下しているのだと頭で深く理解させられた。こんなの富士山どころじゃない。
知らず知らずのうちに涙が溢れていた。それはとどまることを知らずに、頬を伝っては制服のスカートへ落ちていく。
こんな状況でも佑香は私の手を握ってくれていて、だけどそれに不安の色が混じっているのだと気付いた時には、もうダメだと悟った。
落ちる。
どこかで私はそれを確信した。そう確信してからは、これまでの様々な出来事が走馬灯のように頭の中をよぎった。
お母さんの手料理、お父さんの作ってくれたお味噌汁、家族で行ったお花見、帰る場所を作るために埋めたタイムカプセル。
タイムカプセル。
私は思い出した。まだ、やらなきゃいけないことがあるんだと。子どもの頃に、私は密かに胸の中で誓ったのだ。お父さんが夢を叶えるのを見届けるということを。
そんな大事なことを私はずっと忘れていた。
そして、子どもながらのささやかなお願い事。無邪気なお願い事を思い出して、私はまだここで死んじゃダメなんだということを悟った。
私の夢。お父さんが、小説家になるということ。
そして、帰るべき場所。
私は心の中で願った。
飛行機は加速的に地上へ落下していく。もう上か下かも分からなくて、様々なものが地面から宙へ浮いていた。
その中で、私はただ一つのことを祈る。
もう一度だけ、チャンスをくださいと――
後頭部に鈍い痛みを感じる。私はまどろみの中で、誰かの声を聞いた。それはとても懐かしい響きで、しかし誰のものなのかが分からない。
――大丈夫ですか
確かにそう聞こえた。私は途切れ途切れの意識の中で、かろうじて呻き声だけを漏らす。
優しい腕に抱き起こされた。
私はゆっくりと目を開く。
面識のない男性が私のことを見ていた。面識がないはずなのに、どこか懐かしく感じる。見ているだけで安心して、自然と心の中が暖かくなってくる。こんな気持ちになったのは、初めてかもしれない。
「あの、大丈夫?」
「頭……」
私は後頭部に手を伸ばし、そして触れた。ズキンと痛みが走り、全身が大きく張り詰める。
確認のために彼が触れてくれた。やっぱり痛くて小さな悲鳴を上げてしまう。
それから私は、彼に名前を聞かれた。私は思考を巡らせて、自分の名前を思い出そうとする。
しかし、すぐに浮かんできて当然のそれはなかなか引きずり出すことが出来ずに、結局思い出せたのはただ一つだった。
「カレン……」
私は地面へその文字をなぞる。
華怜。
その名前を書いて、確信を得た。
私の名前は華怜だと。
色々なものを忘れてしまっているけど、それだけは鮮明に思い出すことが出来た。
次いで名字を思い出そうとする。しかしそれは思い出すことが出来ない。
『た』の文字が思い浮かんだ気がしたけれど、それはすぐに消えていった。
結局私は、華怜であるということしかわからなかった。
彼が私を病院へ連れて行こうとする。だけど本能がそれを拒んでいた。彼の前から離れてしまったらダメだと。私にはまだやることがあるんだと。
その必死の思いをどうにかして伝えたら、彼は理解してくれた。とても優しい人だ。
名前を、小鳥遊公生さんというらしい。
その名前は懐かしい響きで、どこかで会ってるのかもと思った。だけど公生さんは私のことを知らないようで、謎は深まるばかりだ。
なしくずしてきに同棲生活を認めてもらった日の夜、飛行機事故が起きたのだということを知った。それは五月の十五日に起こってしまった飛行機事故で、乗員乗客が全て死んでしまったらしい。
私は全身に寒気が走って、まるで自分の身に降りかかった出来事のように感じてしまった。
仕切り直すために、公生さんが作ってくれた味噌汁を口に含む。それはとても懐かしい味がして、冷めているはずなのに、心の中がとても温かいもので満たされた。
「涙……」
「……えっ?」
私は遅れてそれに気がつく。両目から、溢れんばかりの涙が滴り落ちていた。それが私の頬を次々に濡らしていく。
袖で涙を拭おうとすると、持っていた味噌汁を机の上へこぼしてしまった。その行為がとても罪深いことのように思えて、さらに涙が溢れてくる。
公生さんがお味噌汁を温めなおしてくれた。それを飲んでいるときも、涙が止まらなかった。そんな私に公生さんは優しく接してくれて、「大丈夫だから」と安心する言葉をかけてくれる。
そのとき私は思った。
あぁ、この人のことが好きなんだと。
どうしてかはわからない。出会った時からしょうがないほどに惹かれていて、自分の想いを押し留めることが出来なかった。
結局、私たちはそれから付き合うことになる。なんとなく、公生さんも私のことを好いてくれているんだと分かっていたから、アプローチは自然に出来た。
公生さんとの毎日はとてもとても楽しくて、私はやがて、記憶なんてなくてもいいじゃないかと思い始める。
もし記憶が戻って、何か大きな罪を犯していたとしたら、公生さんに合わせる顔がなくなってしまう。それがどうしようもなく不安で、だけど公生さんはそんな私でも好きになると言ってくれた。
将来、公生さんが大学を卒業したらすぐに結婚をして、家事をしながら小説のお手伝いをして、ずっと一緒に、幸せに暮らすという未来を夢見るようになった。
だけどやっぱりそれは叶わないことだった。
私は記憶を取り戻す。
私は、小鳥遊公生さんと小鳥遊茉莉華さんから産まれてくる、小鳥遊華怜という子どもだった。そしてわたしはすぐに一つのミスを犯す。
タイミング悪く風邪を引いてしまい、公生さんがサイン会に行けなくなってしまった。これは些細なことのように思えて、とても重要な出来事だった。
子どもの頃に、お母さんからお父さんとの馴れ初めを聞いたことがある。お父さんとお母さんは、名瀬雪菜のサイン会で出会ったと。
一人でサイン会へ行ったお母さんが、一人でサイン会に来ていたお父さんに声をかけて、やがて意気投合したらしい。
その重要なイベントを逃してしまえば、お父さんとお母さんは出会えなくなる。私は必死にサイン会へ行ってくださいと懇願したけど、お父さんは向かってはくれなかった。
私のことを心配してくれて、ずっとそばにいてくれた。そんなこと思っちゃいけないのに、私はどうしようもなく嬉しくて、涙が溢れてきた。
そして黒い自分が顔を出す。
「ずっとここにいて、いいですか?」
それは、この歳まで育ててくれたお母さんを裏切る言葉だった。でも仕方ないじゃないか。もう、お父さんとお母さんの出会いの瞬間は過ぎ去ってしまった。
仕方ないと分かっていても、私は私を責めずにはいられなかった。私がもっとちゃんとしていれば、正しい歴史を刻むことができたのに。
それがもう叶わないことだというのなら、少しだけ欲を張っても許してくれるだろう。
私は最低な女の子だけど、それでもお父さんと……いや、公生さんと一緒にいたい。きっと公生さんもそう思ってくれている。
それなのに、運命という言葉が私の前に大きく立ち塞がった。
この先どんな出来事があっても、どれだけすれ違っても、おそらく公生さんと茉莉華さんは出会ってしまうんだろう。
それが分かってしまったから、私は潔く身を引くことにした。ちょっとだけ欲張ってしまったけど、公生さんは茉莉華さんの運命の人だから返してあげなきゃいけない。
私は精一杯、公生さんに嫌われる努力をした。それでも、ダメだった。私が公生さんを決して嫌いになれないのと同じように、公生さんも私のことを嫌いになれないのだ。そのことを知った時、やっぱり親子なんだなと身に沁みた。
私はこんな素晴らしい人から、いろんな素晴らしいものを受け継いだんだ。それを最後に知ることができた私は、それだけで産まれてきて良かったと心の底から思うことができた。
だからもう、十分だ。
このささやかな一週間のためだけに、私は産まれてきたのかもしれない。
私は公生さんの前から消えることを選んだ。
置き手紙一つを残して、私は部屋を去る。心残りのありすぎる手紙だった。
だから私は、ちゃんとしたものを残そうと思い至った。本当にわずかな心残りがあったからだ。
公生さんに、本当の私を知ってもらいたかったのと、公生さんの夢のことが気になっていたから。
タイムリミットが間近に迫っているのだろう。
私は、周りの人の認識から外れ始めているのだということに気付いた。
人にぶつかっても、相手は私のことを認識してくれない。本当は悲しいことだけど、むしろ好都合だなと思った。どうせこの後の私は、あの二〇四〇年の機内へと戻されるのだから。
死んでしまうなら、ちょっとぐらい悪いことをしてもバチは当たらないだろう。
いや、嘘だ。
気丈に振る舞ってはいるけど、本当は良心の呵責に耐えられていなかった。だけど仕方ないんだと言い聞かせて、百貨店から文房具とレターセットを拝借する。
何度もごめんなさいと謝って、私は外へ出た。ファミレスで何も注文せずに、公生さんと茉莉華さん宛ての手紙を書く。
本当は飛行機事故が起きると伝えたかったけど、それは出来なかった。一度はその事実を書こうとしたけど、紙の上にインクが全然乗らなかった。
これもまた運命なんだと、私は悟る。それなら後悔がないようにと、遠回しにそれを書くことにした。
私は絶対に素直になれないから、公生さんの方から歩み寄ってきてほしいと。そうすればきっと、笑顔で別れることができる。
私は最後まで、お父さんにそっけない態度を取ってしまった。そんな結末じゃ、死んでも死にきれない。
書き終わった手紙を、道中で拾った瓶の中へ詰めた。そしてどこに埋めようかと迷って、あそこしかないなとすぐに思う。私たちの思い出の場所。
桜の木の下だ。
あそこなら、今から十年後に必ず掘り返してくれる。私はすぐに公園へと向かい、またどこかで拝借してきたスコップを使い穴を掘った。そして手紙を埋めて、また十年後に掘り返されますようにと祈って埋め直す。
全ての準備が整った頃には疲れ果てていて、身体の感覚も途切れ途切れという感じだった。地に足がついていないようで、もうすぐ消えるんだなとふと思う。
桜の咲いていた木に寄りかかり、私はこの一週間の出来事を一つ一つゆっくりと思い返した。
涙が溢れてきたり、笑えてきたり、安心できたり、いろんな感情が次々に浮かび上がってくる。でも最後に浮かび上がってきたのはやっぱり、『もっとそばにいたかった』という後悔の感情だった。
もっとお父さんとお母さんのそばにいて、一緒に暮らしていきたかった。まだまだやり残したことはたくさんある。
そのやり残したことの大部分を占めているのが、お父さんの小説を読んでいないということ。せめてそれを読んでから、消えてしまいたかった。でもやっぱり、残酷なほどに時間が足りなかった。
容赦無く、最後の時間が私を攫っていく。
涙が溢れてきて止まらなかった。
私は、このまま……
「華怜っ!!」
その私を呼ぶ声にハッとなり、俯けていていた顔を上げる。お父さんが、私のことを探していた。私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとするけど、もう身体は動かせない。
届かなくてもいい。自己満足でもいいから、最後にちゃんと伝えたい。不安定な私の存在を、必死の思いで繋ぎ止めた。
お父さんは周りを見渡して、私のことを必死に探してくれていた。それがとっても嬉しくて、繋ぎ止めていられる原動力になる。
「おい華怜! どこかにいるんだろっ!」
ここにいるよ。
言葉を発そうとしても声にならない。もう私は、お父さんに認識されていないんだ。
それでも最後の瞬間までお父さんのことを焼き付けたくて、必死に耐え続けた。
お父さん、華怜はここにいるよ。お父さんのこと、ずっと見てるから。
「華怜! 華怜!!」
目が合った……気がした。でも気がしただけで、きっとお父さんには見えていない。だからこっちは走り寄ってきたのはただの偶然で、もしかすると私の想いが少しは届いたのかもしれない。
お父さんは、桜の木の前で止まった。
だけどその下にいる私には気がつかない。桜の木に手をついて、お父さんはぽつりと呟いた。
「ごめんな、華怜……僕、約束守れそうにないよ……」
そんな悲しい顔をしないで。お父さんはとっても優しい人なんだから、いつも笑っていなきゃ……
お父さんの涙が、私の頬へと落ちてくる。そばにいるのに、声が聞こえるのに、果てしなく遠い場所に私はいた。
元気付けてあげたい。抱きしめて、大丈夫だよと言ってあげたい。
お父さんが私の前で膝をつく。私は最後に残った力を振り絞って、お父さんの頬へと手を伸ばした。柔らかくて暖かい、お父さんの頬。たしかにそれは感じられた。
私は挟み込んで、最後の言葉を投げかける。
「お父さんなら、これからもきっと大丈夫だよ。だから、頑張って。私はずっとずっと、応援してるから」
その私の最後の言葉を、お父さんが聞いたかどうかは分からない。ただ私の意識はそこで一度途切れて、真っ暗闇に放り出された。
でもきっと、ちゃんと伝わったと思う。それはもしかすると、十年後かもしれない。とりあえず、私の気持ちは伝わったと信じよう。
これから私が向かうのはきっと、墜落する飛行機の中だ。そして何もかもを感じられないまま、死んでいくのだろう。
それでも、最後にお父さんに想いを伝えられてよかった。お父さんならきっと、夢を叶えることができる。十年後に宛てた私の手紙も読んでくれる。
きっと、大丈夫だ。
だって私だけの自慢のお父さんなんだから。
じゃあ、お父さん。
元気でね……