どれだけ眠っていたかはわからない。ただ、部屋の中は上り始めた月明りに照らされていて、もう夜の帳が落ち始めているのだということは理解できた。彼女の甘い匂いが僕の鼻腔を通り抜けて、知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。
いろいろなものをトイレで吐き出してしまって、もう胃の中のものは空っぽだった。だというのに、喉の奥からまた別の何かがせり出してきそうで、もう何もかもを吐き出してしまいたかった。彼女との思い出も、全部、全部……
「起きた?」
それは、どこまでも優しい声だった。一瞬、彼女が戻ってきてくれたのではないかと思ったけれど、すぐにそうじゃないということに気が付く。
僕の頭はとても柔らかく暖かいものの上に置かれていて、彼女は優しく撫で続けてくれていた。僕の目からは、涙が溢れて止まらなかった。
「とっても、大切な人だったんだ……」
「とても、大切な人だったんだ?」
「初めて、だった……こんなにも、誰かのことを想えて、好きになれたのは……」
「そんなに、彼女のことが好きだったんだね」
僕は頷く。
大好きだった。たとえ何もかもが上手くいかなかったとしても、彼女がいてくれさえすれば、どんな時でも幸福だと思えるくらいに。
「でもそれは僕が感じていただけで、ただの一方的な感情だったのかも……」
「君は、彼女に嫌われていたの?」
「わからないんだ……彼女が何を考えていたのか、僕にはわからない……」
「彼女は、君に酷いことを言ったりした?」
頬を叩かれた。鋭い目で睨み付けられたりもした。だけどあれは、きっと彼女の本心ではなかった。
僕が、不甲斐なかったのだろう。彼女を心配させたりしなければ、安心させていればあんなことにはならなかったはずだ。
その時嬉野さんは初めて、彼女の名前を言った。
「華怜ちゃんは、公生くんのことが大好きだったよ」
「そんなこと……」
そんなこと、嬉野さんにわかるわけがない。僕らはまだ知り合って日も浅いし、お互いのことを何も知らないのだから。それなのに彼女は自信ありげで、僕は嬉野さんのことさえも、わからなくなってしまった。
「公生くんはさ。華怜ちゃんが、自分のことを愛してくれている人を嫌いになれる人だと思う?」
「あっ……」
それは僕が、華怜に伝えた言葉だった。僕は、僕のことを好きになってくれた人を、嫌いになんてなれない。いろんなところが似通っている僕らは、もしかすると、同じことを考えていたのかもしれないと、微かにそう思ってしまった。
「たくさん、お酒を飲んだんだね」
「うん……嫌なこと、全部忘れてたかったから……」
「それは、忘れられたのかな」
僕は首を振る。 
初めて飲んだビールはとても不味くて、だけど机の上には空き缶だけが増えていった。不味いけれど、余計なことを考えずに済まなくなって、どこか身体の内側がぽかぽかとした。
しかし不意に頭の中を華怜の笑顔がよぎったとき、僕は何をやっているんだと自分を殴りたくなった。きっと今の華怜が僕を見たら、幻滅してしまう。
 それすらも僕は忘れてしまいたくて、酒をあおった。
 やがて胃の中を何かがせりあげてくる感覚がやって来て、トイレへ駆け込み全てを吐き出した。
そこまでやっても、華怜との思い出を忘れることなんてできなかった。忘れたかったのに、忘れることなんてできなかった。僕の頭の内側にへばりついて、決して消えてはくれなかったのだ。
「全部、忘れてしまいたかった。何もかも、失ってしまったから……」
「忘れられなかったのは、それが公生くんにとって、大切な思い出だったからだよ」
嬉野さんはただ優しく、僕の頭を撫でてくれる。まるで泣いている子どもをあやすように。本当に子どもみたいで、情けなくて、自分をみっともないと思った。
「辛かったんだね」
「うん……」
「もっと早く君を見つけられていれば、苦しい思いを二人で分け合うことができたのに……」
机の上の空き缶を見ながら、嬉野さんは呟く。まるで自分のことであるかのように、彼女は僕と一緒に傷ついてくれた。とても、とても優しい人なのだろう。そういうところは華怜とよく似ていて、また涙が溢れた。
「今は、ゆっくり眠りなよ。私が、公生くんのそばにいてあげるから。だから安心して、眠ってもいいんだよ。私は決して、いなくなったりしないから」
彼女の甘い言葉に誘われて、僕のまぶたはだんだんと落ち始めていた。優しい、何もかもを包み込んでくれる彼女のそばで、やがて僕の意識は途絶える。
その時見た夢の中では、僕と嬉野さんと、それから華怜が一緒に笑いあっていた。だからもう一度目を覚ました時に、僕はまた一筋、大粒の涙を流した。

※※※※

嬉野さんは僕が眠っている間に、机の上の空き缶をゴミ袋の中へまとめてくれていた。それから台所の方で、包丁でまな板を叩く音も聞こえてくる。
ふらついた足取りで近づいてみると、そこでは嬉野さんが余った食材で調理をしてくれていた。彼女は僕に気が付くと、安心したように笑みを浮かべてくれる。
「酷い顔してるから、洗ってきなさい。昨日から一度も鏡見てないでしょ」
「あ、うん……」
 僕は洗面所へ行って自分の顔を見た。たしかに、酷い表情をしている。目は虚ろで、いろいろなものを吐き戻したから青白い顔をしていた。
 顔を洗って、ついでに歯も磨く。そうしていると、幾分かは冷静になれた。
 台所へ戻ると水を用意してくれていて、僕はお礼を言ってそれを飲む。
 初めてお酒を飲んで、こんなにも頭がクラクラするのだということを学んだ。
 一時はいろいろなことを考えなくて済むようになるけれど、代償が酷い。冷静になった時に思い出がフラッシュバックして、また酒をあおる。
僕はもう、酒で逃避をするのはやめようと心に誓った。
「ちょっとは落ち着いた?」
「……うん」
「それなら、よし」
 使ったコップを洗ってくれて、調理をしてくれたものを居間の机へ並べてくれる。僕が使っていた布団も畳んでくれて、洗うものは洗濯機へ放り込んでくれた。
嬉野さんが作った料理を食べている時、僕はまた泣きそうになる。
 華怜との日々を思い出していたのだ。手作りの料理を食べていると、それだけで心が苦しくなる。
 どことなく料理の味付けが似ている気がしたから。
 食べながら、嬉野さんは僕に質問してくる。
「美味しい? 妹にたまに教えてるから自信はあるんだけど、友達に食べさせたのは初めてだから」
「美味しいよ。とっても、美味しい……」
「そ、よかった」
 僕も質問をする。
「どうして、知り合ったばかりの僕にこんなによくしてくれるの……?」
 ずっと気になっていた。昨日も華怜のためにいろいろと根回しをしてくれて、今日も僕のためにこうしてくれている。友達だと言ってくれたけれど、本当にそう思ってくれているのだろうか。
 嬉野さんは箸を置いた。
「初めは、華怜ちゃんがきっかけなの」
「華怜が?」
「うん。初めて会ったはずなのに、なんだか全然そんな気がしなくて。どうしてかわからないけど、ずっと友達だった気がして、なんというか、嬉しい気持ちになったの」
 僕も、似たような感情を抱いていた。ずっと一緒にいたような気がして、なんというか他人の気がしなかった。
 どうしてそんな気持ちになったのかはわからない。だけどその曖昧な気持ちが引き金になって、だんだんと惹かれていって、いつの間にか誰よりも好きになっていた。
「それで一緒にいる君のことも、ちょっと気になってた。妹思いのお兄ちゃんなんだなって、私も妹がいるからなんとなくわかるなぁって思って。それで話してみたら、名瀬雪菜のことが好きなんだってことがわかって、この人も仲良くなれそうだなって思ったの」
 結局華怜は僕の妹なんかじゃなかったけれど、嬉野さんにそういう風に思われていたんだ。
 正直僕も、同じ作家を好きな彼女とは仲良くなれるかもと、出会ったときから思っていた。
「ここからは、ちょっと恥ずかしい話なんだけど……」と嬉野さんは前置きした。
「昨日も話したけど、私、本のことになると目の前が全然見えなくなるの。すごいマシンガントークしちゃって、だから今まで自分の思ってること、あんまり表に出さないようにしてた」
 僕は、やっぱり夢中になれることがあるのはいいことだと思う。友達に引かれるから押さえておくなんていうのは、ちょっともったいない。
「いつも、みんなとどこかで距離を置いてた。でも二人といると、なぜか自然に振る舞っちゃってて。公生くんも華怜ちゃんも嫌な顔一つせずに聞いてくれて、とっても嬉しかった。だから私は、君にこんな風に接してるんだと思う。気の置けない友だちってやつかな。ほんとはちょっと、君のことが好きなのかもしれないけど」
「……え?」
 最後の言葉が引っかかって、僕は変な聞き返し方をしてしまった。あまりにさらっと答えたから、聞き間違えかと思ったのだ。
 でもたぶん、間違いじゃなかった。嬉野さんは少し頬を染めて、恥ずかしそうに頬をかいていた。
「いや、ほらね。私、趣味のことは色々と隠してきたから、同じ作家が好きで共通の趣味を話せる人に出会えて嬉しかったの。その人が同じ日に生まれたって知った時は、運命かなってちょっとだけ思った。ほんと、今しゃべる話じゃないんだけど、きっかけって案外そんな単純なことなのかもね。華怜ちゃんが彼女だって知ったときは、ちょっと落ち込んだんだよ? それで、あぁやっぱり好きだったんだなって分かって、それなら応援してあげなくっちゃって思ったの」
「あの、なんというか、ごめん……」
 きっと、こんなことを話すつもりはなかったんだと思う。その気持ちが本当のことなのか、はたまた嘘なのかは分からないけど、少しでも場を和ませるために恥ずかしさを承知に話してくれたのだ。
 嬉野さんはもう一度頬をかいて、ぎこちなく笑った。
「華怜ちゃんは、きっとまた会いに来てくれるよ。元気出して」
「うん……」
 僕はまた、嬉野さんが作ってくれた料理に箸を伸ばした。
 もし僕が華怜と出会っていなかったら、今の告白に対してどう返事をしたのだろう。そう考えて、思考を投げ捨てた。そんなことを考えちゃいけない。
 それは嬉野さんに対しても、華怜に対しても失礼な行為だから。
 嬉野さんのおかげで、ちょっとだけ元気がもらえた気がした。いつ会えるのかは分からないけれど、少しだけなら待てる気がする。
「ありがと、嬉野さん」そう呟くと「どういたしまして」と返してくれた。
 夕食を食べ終わった後、嬉野さんは食器も洗ってくれて、スマホは常時身につけておきなさいと叱られた。
 僕は小さな笑みを浮かべられるぐらいには心に余裕ができていて、嬉野さんも安心したような笑みを返してくれる。
 玄関先で、嬉野さんにお礼を言った。
「今日は、本当にありがとう」
「公生くんが困ってるなら、助けてあげるのは当然だよ」
 優しいなと思いつつ、仕事の休みを二日ぶん潰してしまったのはやっぱり申し訳ないなと思った。
「明日、また家にお邪魔していい?」
「仕事は?」
「五時に終わるから、そのあとは? 大学とか大丈夫?」
「その時間なら大丈夫」
「じゃあ、また明日ね」
 微笑んだ後に小さく手を振って、嬉野さんは部屋を出た。僕は居間へ戻り、本棚の小説を手に取る。一瞬執筆のことが脳裏をよぎったけれど、やっぱりそれはダメだと思った。
 誰かに何かを与えることができる人間になりたいと思ったが、それは一度諦めてしまった夢。華怜のおかげで、再び目指そうと心に決めた夢。その華怜がいなくなってしまったのだから、もう書く気力なんて残っていない。たぶんもう、筆は握らないと思う。
 嬉野さんにも、このことは話さない。もう、終わってしまった夢だから。
 もし、華怜が戻ってきてくれれば、あるいは……
 僕はただ、華怜にもう一度だけ会いたかった。