閉店間際のドラッグストアはお客さんの数が少なかった。店員も閉店作業に忙しく駆けずり回っていて、僕が入ってきても気付かれることはない。
 目立つのは苦手だから好都合だなと思いつつ、奥の錠剤コーナーへと向かった。
 大きな商品棚の中には、鎮痛剤、解熱剤、頭痛薬などなど豊富な種類の薬が置いてあるけれど、そのせいでどれを買えばいいか迷ってしまう。
 先ほども説明したけれど、僕は普段風邪を引かないのだ。だからドラッグストアに縁はないし、ここに置いてある薬にも特に縁はない。商品説明には様々な風邪の症状が羅列されていて、どれが一番華怜に合っていて、どれが一番効くのかがさっぱりわからなかった。
 もうドラッグストアは閉店する。閉店時間を超えても居座っていると、何か小言を言われそうだ。かといって、忙しい店員さんに相談をすることも、どうしてか憚られる。
「参ったな……」
 背負っている華怜がずり落ちてしまいそうだったから、慌てて担ぎ直す。反動で起きてしまうかと思ったけれど、まだ安らかに寝息を立てている。
 あぁ困った。焦りだけが、僕の心中に積もっていく。
「風邪ですか?」
 ふと背後から、優しい声が届いた。それは眠っている華怜を気遣ってかとても小さく、だから危うく聞き逃してしまいそうになる。
 振り返ると、気の良さそうな女性が微笑んでいた。少し茶色がかった髪は長くて、瞳は大きい。
 上品な雰囲気をまとっていて、年上にも見えるけれど、同年代の人のようにも見えた。
 七瀬先輩や華怜とはまた違った魅力を持っている。その魅力の正体は、たぶん、佇まいや気遣いからくるお淑やかさだろう。
 そういうことを考えていると、返事が遅れてしまった。いつの間にか彼女は、背中の華怜を覗き込んでいた。
「かわいい妹さんですね」
 柔らかく微笑む。
「あ、えっと……あの……」
「妹さんじゃないんですか?」
「妹です……」
 しどろもどろになって、思わず嘘をついてしまった。もう嘘をつく必要なんてないのに。
 しどろもどろになったのは、女性に話しかけられて動揺したわけではない。いや、もちろん少しは動揺するけど、このままじゃ色々とまずいのだ。
 華怜が起きた時が一番まずい。起きて、こんなにも綺麗な人が僕の目の前に立っていたら、小一時間ほど口を聞いてくれなくなるかもしれない。
 接してきてわかったけれど、華怜はヤキモチの塊だから。
「何か悪いものでも食べましたか?」
「あ、えっと……看病してて、朝から何も食べてないです……」
 正直に答えると、彼女は口元を押さえてクスリと微笑んだ。そういうわずかな仕草にも、気品が漂っている。
「あなたが優しい人なのはわかりましたけれど、今の質問の対象は妹さんですよ?」
 顔がパッと熱くなる。
 このタイミングで風邪を引いている華怜ではなく、僕に質問する人がどこにいるのだ。少し考えればすぐにわかったというのに。
「昨日は、サンドイッチを食べました。でも華怜は料理が上手いから、衛生面も気遣っていると思います。今日はおかゆを食べさせたんですけど、しっかり加熱させました」
「頭痛は訴えてましたか?」
「特にそういうことは……」
「なるほどなるほど」
 そう言うと、彼女は商品棚の錠剤を吟味していき、やがて赤色のケースに入った薬を僕へと手渡してきた。
「熱の症状にはこれが効きますよ。妹さん、早く良くなるといいですね」
 また笑顔を向けてきて、思わず出しかけた言葉が引っ込んでしまった。だけどお礼を言わなきゃ失礼だから、無理矢理引き戻して声に出す。
「あの、ありがとうございます……」
「お礼なんてとんでもないですよ。当然のことをしただけですから」
「それでも、ありがとうございます」
 ここであのままジッとしていたら、おそらく閉店までに薬を見つけられなかった。
 薬を見つけられないということは、華怜に飲ませることもできないということだから、やっぱり感謝しかない。
 彼女は「どういたしまして」と微笑んだ。
 それから慣れた手つきで棚の頭痛薬を手に取ったから、僕は思わず質問していた。
「風邪ですか?」
 なんの気ない質問だったけれど、彼女は丁寧に反応してくれた。
「実はちょっと前に妹が風邪を引きまして、うつっちゃったのかもしれません。ちょうど風邪薬が切れてたので、買い足しにきたんです」
 そして少し恥ずかしそうに微笑んだ後、また話を続けた。
「でも私、頑固なところがあるから、ただの自業自得なんですよね」
「自業自得?」
「実は朝からどこか体調が悪かったんですけど、駅前の本屋に予定があったので、頭を抑えながら頑張って向かったんですよ」
 冗談交じりに事の顛末を教えてくれたが、少しだけ引っかかることがあった。風邪を引いたからって、無理を偲んで本屋に行く人はそうそういないだろう。
 また明日も本屋には行けるのだから。
だから彼女は、どうしても今日行かなきゃいけない理由があって……その理由は、すぐに思い立った。
 僕の口から思わず、ぽつりと声が漏れる。
「名瀬雪菜……」
 そう呟いた途端、彼女は屈託のない笑みを浮かべて、僕の方に半歩ほど詰め寄ってきた。僕といえば、彼女はこんな笑顔も見せるんだと、少し意外に思ってしまう。
「名瀬先生のファンなんですか?!」
 先ほどの上品さとはかけ離れた振る舞いに、僕は思わずたじろぐ。彼女は僕より少し背が低いぐらいだから、少し近付かれただけで変な威圧感がやってきた。
「あ、えっと……」
「実は私もファンなんです!」
 こういうのをギャップというのかもしれない。
 彼女は下げていたおしゃれなミニバッグの中から、一冊の単行本を取り出した。それはちょっと前に出た名瀬雪菜の最新作で、もちろん僕も持っている。
 表紙には、マーカーでサインが入っていた。そして隣には、『嬉野茉莉華さんへ』と綺麗に書かれている。
 僕は思わず、
「あ、羨ましい……」
 と呟いた。
「サイン会、行かなかったんですか? もったいないですよ、せっかくのチャンスなのに」
 きっと悪気はなかったのだろう。だから、そう言葉を出した後、口元を押さえて彼女は
申し訳なさそうな表情を作った。
「ごめんなさい、妹さん。風邪引いちゃったんですよね」
「いえ、気にしてないので。僕もたぶん、同じ立場だったら同じことを言っちゃったと思いますから」
 好きな作家のファンに出会えて、嬉しくならないわけがない。僕は今、すごく嬉しく思っている。
 名瀬雪菜のことを語り合える人なんて、今までは先輩ぐらいしかいなかったのだから。
 だけどその相手が女性であることが、少しだけ残念だった。もちろん彼女は悪くない。華怜も悪くないし、悪いのはこの僕だ。
 華怜を不安にさせないように、必要以上に女の人と仲良くしないと決めたのだから。
「んんっ……」
 後ろから、可愛らしい寝起きの声が聞こえてくる。あ、まずいと思った頃には、嬉野さんという女性が華怜を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたか……?」
 僕はこの後嫉妬の嵐を受けるんだとばかり思っていたけれど、違った。華怜の表情が見えないから、どんな感情を抱いているのかまでは分からない。
 いつもの華怜だったら僕に絡めている手を強めて、どこにも行かないでと主張してくるはずなのに、それをしてこなかった。
 ただ華怜はいつも通りの声色で「初めまして。華怜っていいます。今ちょうど起きたかったところなので、大丈夫ですよ」と丁寧に挨拶した。
 僕がそれに少々驚いていると、嬉野さんも笑顔で挨拶をしてくれる。
「嬉野茉莉華です。初めまして」
「まりか、さん」
 華怜は小さく呟く。そしてもう一度、記憶に刻み込むように「茉莉華さん、ですね」と呟いた。
「あなたのお名前は、なんて言うんですか?」
 唐突に僕の方へと話題を振られて戸惑っていると、華怜が代わりに答えた。
「小鳥遊公生さんっていうんですよ。とっても優しい私の兄です」
「公生さんですか」
 どうして兄であると紹介したのか、僕には分からなかった。華怜なら、恋人だと主張して威嚇すると思ったのに。それにもう、僕らは兄妹だと周りに偽る必要もないのだ
「もしよろしければ、連絡先を交換しませんか? 実は名瀬先生のファンの方と出会ったの、初めてなんです」
「あ、えっと……」
 さすがに連絡先の交換は……と思っていると、華怜が後ろから不思議そうな声で問いかけてきた。
「連絡先、交換しないんですか?」
「……わかった」
 どこか釈然としないと思いながら、スマホを出して連絡先を交換した。もしかするとずっと一緒にいると約束したから、嫉妬もヤキモチも焼かなくなったのかもしれない。
 いやいや、そんなはずはない。華怜のヤキモチは、常人のそれとは比べものにならないのだから。
 だからこそ、どうしてこんなに綺麗な人に嫉妬をしないのかが分からなかった。もちろん華怜の方が可愛いに決まっているけれど。
 本当は、怒っているのかもしれない。
 だけど、声色だけで華怜が怒っているとは判断できない。
 一番可能性があるのは、華怜も嬉野さんと仲良くしたいと思っている線だ。記憶を取り戻したのだから、僕以外の人とも関わりたいと思ったって不思議じゃない。
 そんなことに頭を巡らせていると、店内のBGMがゆったりとしたものに変わり、もう閉店時間なのだということを教えてくれた。
「早く買わなきゃですね」
 嬉野さんがそう言ったから、僕も華怜を背負い直し、後をついて行った。