午前の講義が終わるとすぐにバスへ乗り込み、数十分ほど揺られて目的の場所で下車する。ずっと座っていたから腰の負担が大きく、二人揃って青空に向かって伸びをした。
天気は、朝と同じように快晴だ。
「お出かけ日和ですねっ!」
「晴れてよかったよ」
緑地公園へ向かうべく川辺の方角へ移動すると、それにしたがって周りに緑の気配が増え始める。いつの間にか左右にはアーチのように高い木々が立っていて、きっと春には綺麗な桜並木になるんだろうなという予感をさせた。
「空気が美味しいですね」
「歩いてるのに、なんだか気分が安らいでくるね」
「やっぱり、来てよかったです」
しばらく歩き続けると、やがて開けた場所へ出た。
「うわぁ」と、華怜は感嘆の息を漏らす。僕も、同じように息を吐きそうだった。
「緑ですね」
「緑だね」
その表現は過剰なんかじゃなくて、むしろ足りないぐらいだ。
中央には大きな噴水が据えられていて、周りの地面には緑の絨毯が敷かれている。木々は風によって揺らめいていて、千切れた木の葉が舞っていた。
子どもたちは緑の絨毯の上を走り回っていて、大人たちはシートを敷いて和やかに談笑している。
その光景にしばらく見惚れていると、華怜のお腹がクーッと鳴った。僕はクスリと笑って、華怜は顔を真っ赤にする。
「とりあえず、お昼ご飯食べよっか」
「そ、そうですね! そうしましょう!」
日差しが当たらないように、木陰にシートを敷いて腰を下ろした。華怜は僕のリュックから出てくるものを心待ちにしているのか、両手を握りしめてウズウズしている。
それに苦笑して、意地悪せずに並べてあげた。
「いただきま――」
「その前に、手拭こうね」
「む……」
お手拭きを渡すとすぐに手を拭いてくれる。
そしてようやくベーコンサンドに手を伸ばした華怜は、それをすぐに口の中へ入れて、美味しそうに頬張り始めた。
「おいひいです!」
「飲み込んでから話そうね」
そう言うと、言われたとおりにごくんと飲み込んだ。
「美味しいです!」
「それはよかったよ」
「マヨネーズの味が効いてますね」
僕もベーコンサンドを手づかみしてかぶりついた。最近はいつも朝ごはんにベーコンを食べているけれど、こういったところで食べるとまた違った味わいがある。
パンに挟んでいるからというのもあるけれど、多分それだけじゃないんだろう。
「美味しいね」
「ですよねっ!」
次いで、たまごサンドへ手を伸ばす。
これもマヨネーズと絡めていて、とても美味しかった。それは華怜も同じだったようで、咀嚼しながら頬に手を当てている。
「んー!」
「ちゃんと噛まなきゃだよ?」
しっかりと顎を動かして、またごくんと飲み込んだ。
そして幸せな表情を浮かべた後、そろそろと僕の隣へ移動してくる。
どうしたのかと思っていると、寄り添って肩に頭を乗せてきた。ふと、ドギマギしていた頃が懐かしいなと感じる。
今はこうして彼女と寄り添うことが、何物にも比較できないほどの幸福だった。
「前も思ったんですけど、こうしていると落ち着きます」
「僕も、前は緊張したけど今は落ち着くかな」
「緊張してたんですか?」
「だって、こんなこと一度もされたことなかったからね」
「ふふっ、私が公生さんの初めてなんですね」
初めて、という言葉に少し落ち着かなくなる。それを言ってしまえば、手を繋いだのも初めてだし、キスをしたのも初めてだ。
これからも、華怜といろんな初めてを共有していくのだろうかと想像して、僕の心はまた幸福に包まれる。
「私、ずっと思っていたことがあるんです」
「何を?」
「もしかすると、本当はどこかで公生さんと出会ってるのかもって。こんなに安心するってことは、私たちが幼馴染だったりしませんか?」
「どうかな。僕も同じことを考えたことがあるけど、たぶん一度も華怜と出会ったことはないと思う」
「公生さん、本当は隠しているんじゃないですか?」
「もう何も、華怜に隠し事はしてないよ」
仮に幼い頃に華怜と出会っていたとして、当時の出来事を覚えていないはずがない。それこそ僕が記憶喪失にでもならないと、いつまでも執念深く覚えているだろう。
「じゃあもしかすると、前世で一度出会ってるのかもしれません」
「それはないんじゃないかな」
「わかりませんよ? 公生さんのことが忘れられなくて、会いにきたのかもしれません」
そんな小さな妄想をして、二人でクスリと笑いあった。それから断言するかのように、華怜は言った。
「絶対に、私たちはどこかで出会ってます」
どうしてだろう。
僕の中にそんな記憶はないはずなのに、それが事実であるかのように思えてくる。事実だったらいいなと思った。
「私、めんどくさい女の子ですよ」
「いきなりどうしたの?」
「これから先、絶対に苦労すると思います」
言いたいことはなんとなくだけど伝わった。
「浮気は絶対許しません」
「絶対浮気なんてしないから」
「七瀬さんと仲良く話してるだけで、ちょっと妬いちゃいます」
「なるべく話さないようにする」
先輩には悪いけれど、華怜が妬いちゃうなら仕方がない。
「毎日こうしてくれないと、心配になるかもしれません」
「じゃあ、毎日寄りかかってきなよ」
「でも公生さんが愛してくれるぶんだけ、私も頑張りますよ」
「何を頑張るの?」
「頑張って、アルバイトを始めます」
僕は思わず、小さく微笑んだ。
「公生さんが小説で上手くいかない時に、隣で励ましてあげます」
「それは頼もしいや」
「だから、なってくださいね」
「うん」
君のために、小説家を目指そう。誰かを前向きな気持ちにするために、そして一番大切な華怜のために。
改めてそう決意すると、華怜は隣で大きなあくびをした。
「眠くなってきた?」
「ちょっと、眠くなってきました……」
「今日はいい天気だからね」
「せっかく外に遊びにきたのに、ごめんなさい……」
「そういうのも、たまにはいいと思う」
華怜は自ら頭を僕の膝の上へ移動させて、眠る体勢に移行する。優しく、綺麗な長い髪を撫でてあげると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
「やっぱり、安心しますね」
「華怜が起きるまでそばにいるから」
「それはとっても、安心できます……」
その言葉を最後に、華怜はまぶたを閉じた。それでも髪を撫で続けていると、次第に可愛い寝息が聞こえてくる。僕は撫でるのをやめて、つい出来心でほっぺたをつついてみた。
寝ながら華怜が笑みをこぼして面白かったけれど、さすがに起きてしまいそうだからすぐにやめる。
そうしているうちにも穏やかにゆっくりと時間は流れていって、気付いたら僕もウトウトし始め、いつの間にか意識が飛び飛びになっていた。
危ない危ないと思いつつ、自分のほっぺを軽く叩いてかぶりを振る。
どれぐらい眠っていたんだろうと思って、ふいに思いついたように空を見上げた。
「曇ってる……」
あんなに晴れていたのに、いつの間にか青空はどんよりとした雲に遮られていた。
雨が来る。そんな予感がどこからか湧き上がる。
そういえば、天気予報を見ていなかったことを思い出す。最近はずっと晴れていたから油断してしまっていた。
スマホを取り出し天気予報を調べると、午後の時間は雨雲になっている。
今朝、華怜の調子が芳しくないのを思い出した。今歩き出さないと、確実に雨に降られる。そして、風邪を引かせてしまう。
まだお昼寝をさせてあげたかったけれど、すぐに華怜の身体を優しく揺すった。寝起きはいいのかすぐに起きてくれて、僕を見上げて微笑む。
「おはようございます、公生さん……」
「おはよ、華怜。起きてばかりで悪いけど、今すぐ帰ろっか。雨が降りそうだから」
「雨?」
華怜もねぼけまなこで空を見上げる。そして目が覚めたのか、僕の膝から離れすぐに立ち上がった。
「まずいですね」
「うん、まずい」
「帰りましょっか」
「そうだね」
僕たちは、来た道を急いで引き返した。
※※※※
幸いバスに乗り込むまで一滴も雨に降られなかったけれど、アパート近くのバス停に着いたほぼ同時刻に、パラパラと雨が降り始めた。
「雨、降ってきちゃいました」
「走ろっか」
「はい」
わずかに濡れるのを覚悟して、僕らはアパートへの道を走った。表通りから裏通りへ入り、近道を使いながら住宅街をひた走る。だけど無慈悲にも時間は間に合わなくて、突然雨が大降りになった。
「ひゃー! つめたいです!」
「あそこ! あの公園に行こう!」
僕が指をさした先には大きな公園がある。公園の中には屋根がある憩いのスペースがあり、とりあえずはそこで雨をしのげそうだった。
といっても、もう全身はずぶ濡れだけれど。
屋根の中へ入り込み、備え付けられているベンチに腰を下ろした。
「ああ……寒いです……」
「大丈夫?」
そう訊くと、「くちゅん」という可愛らしいくしゃみをした。平常時なら笑いながらいじれたけれど、今はそういうわけにもいかない。
華怜はベンチに座りながら身体をかがめて、寒さに震えていた。五月といっても、濡れてしまえばとても寒い。
何かで暖めてあげられればと思ったが、着ているものは全部濡れていてどうしようもない。気休めにしかならないと思ったけれど、僕は後ろから華怜に抱きついた。
「雨が止むまでこうしてるよ」
「ごめんなさい……」
また、「くちゅん」とくしゃみをする。
「今朝のことだけど」
僕は気になっていたことを訊くことにした。
「本当は、体調悪かったんでしょ?」
気付かないわけがなかった。これでもずっと華怜のことを見ていたんだから。それでも僕が折れてしまったのは、彼女の落ち込む姿を見たくなかったから。これでは、恋人失格だなと自嘲した。
華怜は言い逃れは出来ないと分かったのか、申し訳なさそうにぎこちなく笑った。
「バレちゃってましたか……」
「バレバレだよ」
「ごめんなさい……」
「怒ってないから」
むしろ確認不足だった自分を怒りたい。天気予報を見なかった自分を、青空の下でうたた寝してしまった自分を。
「雨が止んで部屋に戻ったら、すぐにお風呂を沸かそう」
「はい……」
「それで、暖かい毛布に入ってすぐに寝ようか」
「はい……」
ぎゅっ、強くと抱きしめてあげる。華怜はいつも以上に身体を縮こませる。
「あれ……?」
華怜がふと、公園の中央に生えている大きな木を見ながら呟いた。
「どうしたの?」
「あの、あれです……」
そう言って彼女は、自分の背丈の何倍もある大きな木を指さした。
だけど、あれがどうしたのだろう。
「あれがどうかしたの?」
「あれって、桜の木ですか?」
僕は記憶を思い起こす。そういえば、今年の春にここを通った時に、桜が咲いていた気がする。
「たぶん、そうだと思うよ。でも、どうしてわかったの?」
しばらく華怜は黙り込んで、ジッとその桜の木を見つめていた。本当にどうしたのかと思って顔を覗き込むと、再び彼女はゆっくりと口を開く。
「私、前にこの公園で……」
そう呟いた途端、華怜は急に頭を抑えはじめた。
「ちょっと、どうしたの?」
「うっ、うっっ!!」
「華怜? 華怜?!」
突然、彼女が呻き声を上げ始める。僕はどうすればいいのかわからなくて、ただただ華怜のことを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
何度も、根拠のない大丈夫という言葉を囁き続ける。
その呻き声は、しかし唐突に鳴り止んだ。落ち着いたのかと思ったけれど、それは違った。
腕の中の華怜はぐったりとしていて、熱い吐息を漏らしている。身体はびっくりするほど発熱していた。
「……華怜?」
返事はない。気を失ってしまったんだ。熱に浮かされたのか、それとも何か別のことが関連しているのかわからない。
僕は華怜を抱きしめたまま、アパートへの道を走り出した……
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華怜という少女は誰からも好かれる人間で、同時に誰に対しても分け隔てなく好意を振りまく人だった。
鈍感な部分があるかと思えば、妙に鋭い部分も持ち合わせている。
人の好意の感情には特に敏感に反応して、なんとなく「この人は私のことを好きなんだ」ということがわかる人間だ。それは他人が他の誰かに向けている感情にも同じく作用して、八割ほどの確率で的中させている。
そして心を許した人間には過度に甘えて、独占欲の強い人間である。とはいえ同年代、あるいは同じぐらいの歳の男性に心を許したことは一度も無い。そのせいか、中学時代・高校二年までの交際経験は皆無だった。
ならば誰に対して心を許したのかというと、それは自分を産んでくれた両親に対してだ。幼い頃から熱い愛情を注がれて生きてきた華怜は、同じぐらい両親に甘えていた。
『甘えていた』といっても、自分のことは自分でこなすタイプの人間である。
向上心があるため、興味を持ったことに対してはとことん関心を示す。
料理が上達したのも、お母さんの姿を見て、教えてもらっていたからだ。
普段は名前の通り可憐に可愛く振る舞うが、しかし心を許した人間に対しては無防備な一面を見せる。
たとえば鼻先に金箔を付けたり、みたらしを口元にぺたりと付けたりする。
寄り添って眠ることが出来るのは、公生を信頼して心を許しているからであって、誰に対しても行うというわけでは決してない。
そんな華怜には、歳の少し離れた幼馴染がいた。その子とは家族ぐるみの付き合いをしていて、気付いた時にはいつの間にか仲良くなっていた。
とはいえ両親ほど心を許したりすることはせずに、強いていうならば「お兄ちゃん」という位置付けにとどまっている。
これは華怜が昔、五歳の春頃に体験した出来事だ。
その時期はちょうど桜が満開で、華怜と華怜の両親、幼馴染と幼馴染の母親とでお花見に来ていた。
最初はバスに揺られながら沈んだ表情を浮かべていたが、城下町付近へやってきた頃には移りゆく景色を嬉しそうに眺めている。
「コウちゃんコウちゃん」
隣に座っているコウちゃんと呼ばれた内気そうな幼馴染は、少し照れた面持ちでカレンの方を見た。
「どうしたの?」
「ピンクピンク! ピンクばかりだよ!」
「さくらっていうんだよ」
「さくら? へー!」
城下町周辺はそこかしこの道端に桜の木が植えられていて、よく花見に来る客で賑わっている。
「ねえ、カレン」
「どうしたの?」
チラと窓の外へ向けていた視線をコウちゃんへと戻す。
目があって、しかしすぐにそらされた。
彼女は首をかしげるも、なんとなくその意味は理解できていた。
つまるところ、コウちゃんは私のことが好きなのだ、と。妙なところで鋭いカレンは、そういうことが直感的にわかっていた。
「バスの中はしずかにしないと……」
つり革を持ちながら立っていたお母さんも、微笑みながら口元に人差し指を近づける。コウちゃんに注意されたならまだしも、大好きなお母さんに注意を促されたら、口を閉じずにはいられない。
静かにカレンが外の景色を眺めていると、コウちゃんはホッと胸を撫で下ろした。
※※※※
「すっごい! きんぴかだよ! きんぴか!」
カレンの指をさした先にはソフトクリームを販売している甘味処がある。そのソフトクリームには、この土地の有名な工芸品である金箔が乗せられていた。
「すごい、きんぴかだね」
「きんぴかっ! きんぴかっ!」
年相応にカレンがはしゃいでいて、目立つことが苦手なコウちゃんもその金色に思わず目を輝かせている。
カレンは背の大きなお父さんの足元にしがみついて、おねだりを始めた。
「おとーさんおとーさん、カレンあれがたべたい!」
「さっきお昼ご飯食べたばかりだろ?」
「でもおなかすいたの!」
そのあどけない笑顔を見せられると、誰でも仕方がないなぁと思ってしまう。結局お父さんはカレンとコウちゃんのためにソフトクリームを買ってあげた。
近くにちょうどいい緑地の広場があるため、そこのベンチへ腰掛ける。この広場の中心には現代美術を展示した円形の美術館が立てられている。この建物を見に、よく県外から足を運ぶ観光客も多い。
しかしカレンは美術館に興味はないのか、キラキラ光る金箔に目を輝かせていた。
「きらきら! きらきら!」
そんなカレンのことを横目で盗み見るコウちゃんは、心の内側に熱いものを秘めている。
その気持ちに気付いているコウちゃんの母親は、隣で「アタックしてみなよ」と合図を送っているが、恥ずかしがって首を振るばかり。
そうしている間にカレンは金箔ソフトクリームにかぶりついて、幸せな表情を浮かべた。だけどすぐに、釈然としないといった表情に切り替わる。
「これ、あじがぜんぜんしないよ?」
「金箔はそういうものなのよ」と、これはカレンのお母さんが答えた。
お母さんはカレンの鼻先を見てクスクスと微笑んでいる。
コウちゃんはずっとカレンのことを見ていたため、もちろんそれに気がついていた。
それを拭いてあげて、頼りになる男の子だとアピールするべきなのに、モジモジと体を左右に動かしたまま動き出さない。
そうこうしているうちに、お父さんがそれに気付いてしまった。
「華怜、鼻に金箔が付いてるよ」
「えっ?」
ゴシゴシと鼻先をこするけれど、それは金粉となって広がるだけ。仕方ないといった風に、お父さんは微笑みながらハンカチで鼻先を拭いてあげた。
「くすぐったい!」
「ちょっとだけ我慢しててね」
大きな手で、カレンが動かないように頭を固定する。ゴシゴシ拭ってあげると、それはすぐに取れた。
「よしっ、これでもういいよ」
「ありがとー! だいすきっ!」
そう言ってカレンはお父さんに抱きつく。それを受け止めて、よしよしと頭を撫でてあげた。
コウちゃんはといえば、そんな二人を見て気分を沈めていた。僕もカレンのお父さんのようにしてあげれば、あんな風に抱きついてくれたのかも、と考えているのだろう。
いやいや絶対にそうはならないと思ったのか、すぐにかぶりを振った。コウちゃんは、カレンの大切な誰かにはなれていないのだ。
また、ある時の春。
あのお花見からちょうど一年後ぐらいの春のことを、夢の中の華怜は思い出していた。
あの時も同じメンバーで集まって、家の近くの公園へ遊びに来ていた。その一番の目的は、タイムカプセルを埋めるため。
それは華怜のお母さんが提案したことで、思いで作りの一環だった。
ちょうどコウちゃんが家庭の事情で引っ越すことになったため、またいつかここで集まれるようにという思いを込めたのだと華怜は聞いている。
華怜とコウちゃんは、砂場で小さなお城を作っていた。
数年付き添った相手が引っ越すというのは華怜もそれなりに寂しいようで、どこか浮かない顔をしている。コウちゃんも、先ほどからずっと口をつぐんでいた。
だけど意を決したのか、ようやく口を開く。それは積み上げていた砂にトンネルを開通させる作業をしていた頃だった。
「カレンは、おてがみになんて書いたの……?」
お母さんからは、未来の自分へ宛てた手紙を書きなさいと言われている。
カレンは頬を染めながら「ないしょっ!」と恥ずかし気にそっぽを向いた。
「いじわるしないで、おしえてよ……」
コウちゃんの方が年上だというのに、若干涙目を浮かべていた。それでもカレンは教えたくないのか、口を真一文字に引き結ぶ。
もう手紙は大瓶の中に入れられていて、それは向こうの憩いの場で談笑している大人たちが管理している。
お父さんたちはきっと、別れを惜しんでいるのだろうとカレンは思った。今すぐあそこに入れた手紙を入れ替えたい。
恥ずかしいことを書いてしまったから。
でもあそこに書いたことはまぎれもない本心で、嘘偽りのない少女の本音だった。
顔が熱くなる。
だけどそれにジッと耐えて、ようやくトンネルは開通する。コウちゃんとカレンの手がピタリと触れ合った。コウちゃんはピクッと身体を震わせて、思わず手を引っ込める。
「あ、あのカレン……!」
「うわっ、どうしたの?」
突然の大声でビックリしたのか、カレンは目を丸めた。それも構わずに、コウちゃんは話を続ける。
「じ、じつは、ひっこしする前に伝えたいことがあって……!」
「つたえたいこと?」
「じっじつは……」
コウちゃんが緊張していると分かったカレンは、ニコリと笑顔を浮かべた。
「おちついておちついて。しんこきゅうしなよ」
「あ、うん……」
深呼吸をして落ち着いたコウちゃんは、おそらく気付いてしまったのだろう。
ここで本当の気持ちを伝えてしまったら、一緒にいられなくなるかもしれない。
もしかすると拒絶されて、将来ここに集まることができなくなるのかもしれない。
それを一度でも考えてしまったコウちゃんの言葉は、喉の奥に引っ込んでしまった。
「どうしたの?」とカレンは純粋な瞳で訊ねる。
「ううん、なんでもない……」
「そう?」
それからカレンは物憂げな表情を浮かべて「やっぱり、さびしくなるね」と言った。
結局誰の想いも伝わらないまま、そのタイムカプセルは桜の木の下へ埋められた。
そしてそれから数年の時は流れて……
五月二十日。
華怜を乗せた日本航空機は、山の斜面へと墜落した――
※※※※
そうだ、私はあの飛行機に乗っていたんだ。
その全てを思い出して、私は悟った。
どうして私が公生さんの前に現れたのか。
これはきっと、最後に与えられたチャンスだった。だけどそのせっかくのチャンスを、私は記憶喪失という形で無駄にしてしまった。
それだけならまだしも、私は致命的なまでに大きなミスを犯してしまっている。
取り返しのつかないかもしれない、大きなミス。それに気が付いてしまった私は、急に背筋に寒気を覚えて、地に足がついていないのではないかという錯覚に陥った。
本当なら、こんなはずじゃなかった。
後悔をしたって、もう遅い。私はどうしようもないぐらい公生さんのことが好きで、愛していて、その思いを伝えてしまっているのだから。こんな純粋な思いは、伝えるべきじゃなかった。
私はただひたすら、ごめんなさいと心の中で謝り続けた……
五月二十五日 (金)
「三十九度八分」
布団の上に横たわっている華怜の脇から体温計を取り出し、その数字を読み上げた。それはもう誤魔化しようのない、立派な風邪だった。
荒い息を吐きながら、華怜は全身から大粒の汗を流している。
「こうせいさん……」
「ごめん華怜……僕がそばについていたのに……」
おでこに乗せていた水タオルを取り替えて、彼女が起き上がろうとしたのを制止させる。熱のせいで身体に全く力が入っていなかった。
「こうせいさん……」
「今日はしっかり休もう。ずっとそばにいるから、安心してて」
「そうじゃなくて……」
「どうしたの?」
「サイン、会……」
僕は壁にかけられている時計を見た。おそらくもうサイン会は始まっていて、今更駅に向かっても間に合わない。
というより、行くわけがない。風邪を引かせてしまった女の子を一人置いてそこへ行くなんて、どうかしている。
それにもう昨日の時点で、サイン会は諦めていた。
「僕のことは気にしないで。サイン会なんかより、華怜の方が大事だから」
熱に浮かされている華怜の目の焦点は定まっていない。
「行って、ください……」
「絶対に行かないよ」
華怜の汗に涙が混じる。こんな時まで僕のことを考えてくれていて、華怜は本当に優しい女の子だ。
だけど今は、その優しさを真正面から受け止めることはできない。辛いけれど、これが僕が彼女にしてあげられることだから。
「わ、たし……」
華怜は呟いた。ただ一言「ごめんなさい」と。
それから彼女は気を失ったようにすぐ眠り、眠っている時も苦しそうに呼吸を繰り返している。おそらく身体は汗ばんでいて、拭いてあげないと余計に冷やしてしまうと思った。
だけど恋人だからといって、女の子の服を脱がせて身体を拭くというのはためらわれる。
仕方ないし申し訳ないけれど、隣の部屋の先輩を呼ぶことにした。今頼れるのは先輩しかいない。
僕はどこかで、どうせ今日もパジャマを着たまま髪をボサボサにして、部屋の中で何かをやっているのだろうと勝手に思っていた。とても失礼だと思うけれど、普段の先輩がそうなのだから仕方ない。
結論だけ言うと、先輩は部屋の中にいなかった。
何度インターホンを押しても反応はないから、おそらく寝ているというわけでもないのだろう。すごく、タイミングが悪い。
部屋へ戻って再びタオルを交換して、卵のおかゆを作った。風邪のときは消化の良いものを食べた方がいいと聞いたことがあるから、間違ってはいないだろう。
それから何度かタオルを取り替えていると、華怜は目を覚ました。もう当然サイン会は終わっているだろうから、諦めてジッとしてくれるかと思ったけど、違った。
「サイン会、行ってください……」そう言って、また彼女は涙を流す。
「もうたぶん終わってるから、行っても意味がないよ」
温めたおかゆをスプーンですくって、華怜の口元へ近づけた。最初は口を引きむすんでいたけれど、やがてゆっくりと口を開いてくれる。
長い時間をかけて咀嚼して、飲み込んだ。
それを何度か続けてから、アパート前にある自販機で買ってきたドリンクをストローを使って飲ませてあげる。
「身体、拭いてもいい?」
しばらくの沈黙の後、華怜はコクリと頷いた。彼女は自分でボタンを外していき、綺麗な肌を露出させる。
その扇情的な光景に一瞬胸がどくりと跳ねたけれど、慌ててかぶりを振った。今はそういうことを考えているわけにはいけない。
早くしないと、華怜は身体を凍えさせてしまう。
上の方からバスタオルで拭いてあげた。それが胸のあたりへ行ったとき、ぽつりと華怜は呟く。
「あの、公生さん……」
「もしかして、何かまずかった?」
「いえ……むしろ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。それで、どうしたの?」
華怜はもう一度つぶやいた。
「ごめんなさい……」
どうして謝る必要があるのかと思ったが、深くは聞かないことにした。今は、一刻も早く風邪が治ってほしい。
「僕の方こそ、ごめん」
「ごめんなさい……」
「華怜は何も悪くないよ」
下着と寝巻きを取り替えて、もう一度寝かしつける。おでこに手を当てて軽く熱を測ったけれど、先ほどからあまり変化はなかった。
華怜がすがるように、僕の手を握ってくる。
「大丈夫、そばにいるから。安心して」
そう伝えてあげると安心した表情で、華怜はもう一度目をつぶった。しばらくすると安らかな寝息を立て始める。
いつの間にか時刻は夕刻になっていた。
サイン会のことが頭をよぎったけれど、別に後悔なんてない。
名瀬雪菜がこの県に住んでいるのなら、きっとまたチャンスはいくらでもやってくるだろう。たとえもうそんなチャンスがやってこなかったとしても、後悔なんて絶対しない。華怜と一緒に居られるなら、僕はそれだけでいいから。
「コウちゃん……」
「え?」
思わずその呟きに反応する。どうやら寝言だったようだ。
妹にコウちゃんと呼ばれていた時期があったため、懐かしいなと思った。
もしかすると、記憶を失う前の友達のあだ名なのかもしれない。
今華怜は、幸せな夢を見ているのだろうか。せめて夢の中ぐらいは幸せであってほしいと、僕はそう思った。
※※※※
華怜が目を覚ましたのは、夕刻の六時を少し回った頃だった。
僕はその間ずっと手を繋いでいて、そのおかげか目を覚ましたときは安心したように微笑みを向けてくれる。
「熱測っていい?」
「はい」
体温計を脇に挟んで熱を測ると、三十八度三分だった。少しだけ下がったけれど、まだまだ熱はある。
「辛い?」
「ちょっと、辛いです。でも少しだけ楽になりました」
タオルを変えてあげると、華怜は「ありがとうございます」とお礼を言う。気持ち的にも落ち着いたみたいで、本当によかった。
「あの、公生さん。話しておきたいことがあるんです」
「どうしたの?」
華怜は布団の中でもぞもぞと動き、しっかりと話ができるようにこちらを見た。大事な話なんだろうな、ということがすぐに理解できたから、僕もしっかりと耳を傾ける。
僕はその話の内容を聞いて、ドクンと心臓が跳ねた。
「記憶が、戻りました」
急に、口の中に渇きを覚える。
記憶が戻ったということは、その先を決める権利が華怜に生まれたということだ。僕は彼女の決めたことに口を挟むことをしちゃいけないから、その意思に任せるしかない。
「華怜は、どうしたい?」
一週間捜索してくれなかった両親の元へ、本当に戻りたいのか。その言葉を僕は、必死に飲み込んだ。僕は僕が最低の人間だと、痛いほどにに自覚した。
きっと何かしらの事情があったのだ。会わなくても、華怜の両親が素敵な人間だということは容易に想像が付く。
料理が上手いのは、たぶん母親に教えてもらったからだ。あんなに美味しい味噌汁を作れる華怜の家庭が崩壊しているなんて考えられない。
あの綺麗な肌を見て、虐待を受けたりしていないことは容易に想像できる。
僕はただ、悪い方悪い方へと転がってほしいと思っていたんだ。本当に最低で、卑怯者だ。
華怜が家へ帰りたいと思うのは、至極当然の思考だ。もうこれで、甘く穏やかな生活が終わるのだと思うと、なんだかとても、辛かった。
だから僕は、次に飛び出した華怜の言葉を理解するのに、やっぱり数秒の時間がかかった。
「ここにいても、いいですか?」
手を握ったまま、まっすぐと、華怜はそう言ってくれた。この時の僕は、さっぱりわからなかった。どうして自分の両親より、この僕を選んでくれたのか。こんな、どうしようもない僕のことを。
ここにいたって苦労をするだけで、幸せになれる保証なんてないのに……
「いえ、間違えました」
「間違えた……?」
僕は途端に不安になる。
だけどその不安を、華怜はすぐに払拭してくれた。僕の目頭が、急に熱を帯び始める。
「ずっとここにいて、いいですか?」
「ずっと……?」
「ずっとです」
華怜は決して目をそらさない。熱で身体は辛いはずなのに、ただ僕をまっすぐに見てくれる。
「両親には、なんて言うの?」
「公生さんが了承さえしてくれれば、なんとかなります」
「高校は?」
「公生さんが了承してくれれば、すぐにやめます」
「本気……?」
「本気です。別に学歴がなくても、アルバイトぐらいは出来るので」
熱に浮かされているとか、そんなのじゃない。華怜は本気だ。本気で僕との将来を考えてくれていて、そのために、取り戻した記憶を全て手放そうとしてくれている。
そこまでしてくれる華怜が嬉しくて、嬉しくて。僕はいつの間にか、無意識に華怜のことを抱きしめてしまっていた。
「ここにいてほしい」
スッと華怜の鼻をすすった音が聞こえる。身体は未だ熱を帯びていて、ここにちゃんと生きていて、夢なんかじゃないということを強く実感させてくれた。
華怜はぽつりと、呟く。
「私、親不孝ものですね……」
「両親には、いずれしっかりと説明するよ」
「許してくれるか、わかりませんよ」
「それなら駆け落ちしよう。どこか、ずっと遠くに」
「駆け落ち、ですか?」
その声は涙声で震えていた。
「北海道でも、沖縄でも、どこでもいいよ」
「暖かい場所がいいです」
「じゃあ、沖縄にしよう」
華怜となら、きっとどこへ行っても大丈夫だ。最初は僕が定職に就いて、華怜はアルバイトをしながら生活費を稼ぐ。余裕が出てきたら、小説家になる夢をゆっくり叶えていけばいい。
時間はたっぷりとあるんだから。
「嬉しいです」と、華怜は言った。抱きしめる腕を強めてくる。その腕は微かに震えていた。泣いていると分かったから、僕も強く抱きしめる。
怖いものなんて何もないと、ただ純粋にそう思った。
僕は普段風邪を引かないから、家に薬というものを常備していない。本当ならすぐにドラッグストアに買いに行って飲ませるべきだったのだけど、華怜を一人にすることの方が心配で外に出ることをしなかった。
熱が下がってきているとはいえ、まだ三十八度台だ。
風邪が長引くのもよくないし、なるべく薬は飲ませたほうがいいだろう。
華怜も幾分落ち着いてきたから、ドラッグストアに行ってくると提案したけれど、しかし首を縦には振らなかった。代わりに手を握って、
「ここにいてください」
と、甘えてくる。
「風邪、治るの遅くなるよ?」
「公生さんがいなくなる方が、風邪の治りが遅くなります」
どういう理屈だと呆れてしまったけれど、華怜は僕を必要としてくれているのだ。それは素直に嬉しい。
「ちょっとだけだから」
「ちょっとでもダメです」
「じゃあ、一緒に行く?」
「行きます」
おぶっていくからそれほど華怜の負担にはならないだろうと思い、彼女の意思を尊重して連れて行くことにした。パジャマの上から厚着をしてもらい、用意が出来てから背中におぶる。
公園から家に運ぶ時も感じたけれど、彼女はびっくりするほど軽かった。女の子はみんな、こんな感じなのだろうかと、彼女を背負いながらふと思う。
「重くないですか?」
「全然」
「ほんとですか?」
「重いって言ってほしいの?」
「重いなら、頑張って痩せますから」
その健気さに僕はクスリと笑う。熱はあるけれど、表面上はとても元気だった。
「華怜は、そのままでいいよ」
「わかりました」
嬉しかったのか、頬を僕の後頭部に擦り寄せてくる。華怜は甘え上手だ。
彼女を背負ったまま部屋の外へ出て、繁華街の方へと歩いた。もう日は落ち始めていて、辺りは薄暗闇に満ちている。住宅街の片隅に設置されている街灯が、人知れず点灯した。
「寒くない?」
「あったかいです」
「それならよかったよ」
しばらく住宅街を歩くと、ポツリと華怜は呟いた。
「ここら辺も、ずいぶん変わっちゃったんですね」
どこか昔を懐かしむ声色だった。
「華怜は、昔ここら辺に住んでたの?」
なぜか返答に間があって、十秒後ぐらいに「まあ、そんな感じです」という曖昧な返答を返す。
「昔、タイムカプセルを埋めたんですよ」
また、ポツリと呟いた。
「へぇ、なんかいいね、そういうの」
僕は素直に感じた言葉を返す。タイムカプセルがあれば、たとえ離れ離れになっても、また同じ場所に返ってくることかできる。それはとっても素敵なことだ。
「良い思い出でした。中には手紙を入れたんです」
「そうなんだ。華怜は、なんて書いたの?」
「内緒です」
そう呟いた彼女の声は、涙声で震えていた。
「どうしたの?」と、僕は心配になって問いかける。
おぶっていて表情は伺えないけれど、きっと泣いてしまっているのだろう。
「な、なんでもないです」
「なんでもないってこと、ないんじゃない?」
「ほんとになんでもないんです」
「なにか、悲しいことがあったの?」
しばらくの間、返事は返って来なかった。だからどうしたのかと思い立ち止まると、ポツリと短い言葉が返ってくる。
「幸せなことです」
「本当に?」
「ほんとうです」
それなら無理に心配することはないと思った。華怜が幸せを感じているなら、ましてやそれが嬉し涙であるのなら。
「眠っても、いいですか?」
「うん、ゆっくり眠りなよ」
「ありがとう、ございます……」
お礼を言った華怜は、頭を僕の背中へと預けてきた。静かになると華怜の心臓を打つ音が、どくんどくんと伝わってくる。
安らかな音だった。
この音を真剣に聞いていると、僕まで眠くなってきそうだから、かぶりを振ってドラッグストアへ向かう足を速めた。
閉店間際のドラッグストアはお客さんの数が少なかった。店員も閉店作業に忙しく駆けずり回っていて、僕が入ってきても気付かれることはない。
目立つのは苦手だから好都合だなと思いつつ、奥の錠剤コーナーへと向かった。
大きな商品棚の中には、鎮痛剤、解熱剤、頭痛薬などなど豊富な種類の薬が置いてあるけれど、そのせいでどれを買えばいいか迷ってしまう。
先ほども説明したけれど、僕は普段風邪を引かないのだ。だからドラッグストアに縁はないし、ここに置いてある薬にも特に縁はない。商品説明には様々な風邪の症状が羅列されていて、どれが一番華怜に合っていて、どれが一番効くのかがさっぱりわからなかった。
もうドラッグストアは閉店する。閉店時間を超えても居座っていると、何か小言を言われそうだ。かといって、忙しい店員さんに相談をすることも、どうしてか憚られる。
「参ったな……」
背負っている華怜がずり落ちてしまいそうだったから、慌てて担ぎ直す。反動で起きてしまうかと思ったけれど、まだ安らかに寝息を立てている。
あぁ困った。焦りだけが、僕の心中に積もっていく。
「風邪ですか?」
ふと背後から、優しい声が届いた。それは眠っている華怜を気遣ってかとても小さく、だから危うく聞き逃してしまいそうになる。
振り返ると、気の良さそうな女性が微笑んでいた。少し茶色がかった髪は長くて、瞳は大きい。
上品な雰囲気をまとっていて、年上にも見えるけれど、同年代の人のようにも見えた。
七瀬先輩や華怜とはまた違った魅力を持っている。その魅力の正体は、たぶん、佇まいや気遣いからくるお淑やかさだろう。
そういうことを考えていると、返事が遅れてしまった。いつの間にか彼女は、背中の華怜を覗き込んでいた。
「かわいい妹さんですね」
柔らかく微笑む。
「あ、えっと……あの……」
「妹さんじゃないんですか?」
「妹です……」
しどろもどろになって、思わず嘘をついてしまった。もう嘘をつく必要なんてないのに。
しどろもどろになったのは、女性に話しかけられて動揺したわけではない。いや、もちろん少しは動揺するけど、このままじゃ色々とまずいのだ。
華怜が起きた時が一番まずい。起きて、こんなにも綺麗な人が僕の目の前に立っていたら、小一時間ほど口を聞いてくれなくなるかもしれない。
接してきてわかったけれど、華怜はヤキモチの塊だから。
「何か悪いものでも食べましたか?」
「あ、えっと……看病してて、朝から何も食べてないです……」
正直に答えると、彼女は口元を押さえてクスリと微笑んだ。そういうわずかな仕草にも、気品が漂っている。
「あなたが優しい人なのはわかりましたけれど、今の質問の対象は妹さんですよ?」
顔がパッと熱くなる。
このタイミングで風邪を引いている華怜ではなく、僕に質問する人がどこにいるのだ。少し考えればすぐにわかったというのに。
「昨日は、サンドイッチを食べました。でも華怜は料理が上手いから、衛生面も気遣っていると思います。今日はおかゆを食べさせたんですけど、しっかり加熱させました」
「頭痛は訴えてましたか?」
「特にそういうことは……」
「なるほどなるほど」
そう言うと、彼女は商品棚の錠剤を吟味していき、やがて赤色のケースに入った薬を僕へと手渡してきた。
「熱の症状にはこれが効きますよ。妹さん、早く良くなるといいですね」
また笑顔を向けてきて、思わず出しかけた言葉が引っ込んでしまった。だけどお礼を言わなきゃ失礼だから、無理矢理引き戻して声に出す。
「あの、ありがとうございます……」
「お礼なんてとんでもないですよ。当然のことをしただけですから」
「それでも、ありがとうございます」
ここであのままジッとしていたら、おそらく閉店までに薬を見つけられなかった。
薬を見つけられないということは、華怜に飲ませることもできないということだから、やっぱり感謝しかない。
彼女は「どういたしまして」と微笑んだ。
それから慣れた手つきで棚の頭痛薬を手に取ったから、僕は思わず質問していた。
「風邪ですか?」
なんの気ない質問だったけれど、彼女は丁寧に反応してくれた。
「実はちょっと前に妹が風邪を引きまして、うつっちゃったのかもしれません。ちょうど風邪薬が切れてたので、買い足しにきたんです」
そして少し恥ずかしそうに微笑んだ後、また話を続けた。
「でも私、頑固なところがあるから、ただの自業自得なんですよね」
「自業自得?」
「実は朝からどこか体調が悪かったんですけど、駅前の本屋に予定があったので、頭を抑えながら頑張って向かったんですよ」
冗談交じりに事の顛末を教えてくれたが、少しだけ引っかかることがあった。風邪を引いたからって、無理を偲んで本屋に行く人はそうそういないだろう。
また明日も本屋には行けるのだから。
だから彼女は、どうしても今日行かなきゃいけない理由があって……その理由は、すぐに思い立った。
僕の口から思わず、ぽつりと声が漏れる。
「名瀬雪菜……」
そう呟いた途端、彼女は屈託のない笑みを浮かべて、僕の方に半歩ほど詰め寄ってきた。僕といえば、彼女はこんな笑顔も見せるんだと、少し意外に思ってしまう。
「名瀬先生のファンなんですか?!」
先ほどの上品さとはかけ離れた振る舞いに、僕は思わずたじろぐ。彼女は僕より少し背が低いぐらいだから、少し近付かれただけで変な威圧感がやってきた。
「あ、えっと……」
「実は私もファンなんです!」
こういうのをギャップというのかもしれない。
彼女は下げていたおしゃれなミニバッグの中から、一冊の単行本を取り出した。それはちょっと前に出た名瀬雪菜の最新作で、もちろん僕も持っている。
表紙には、マーカーでサインが入っていた。そして隣には、『嬉野茉莉華さんへ』と綺麗に書かれている。
僕は思わず、
「あ、羨ましい……」
と呟いた。
「サイン会、行かなかったんですか? もったいないですよ、せっかくのチャンスなのに」
きっと悪気はなかったのだろう。だから、そう言葉を出した後、口元を押さえて彼女は
申し訳なさそうな表情を作った。
「ごめんなさい、妹さん。風邪引いちゃったんですよね」
「いえ、気にしてないので。僕もたぶん、同じ立場だったら同じことを言っちゃったと思いますから」
好きな作家のファンに出会えて、嬉しくならないわけがない。僕は今、すごく嬉しく思っている。
名瀬雪菜のことを語り合える人なんて、今までは先輩ぐらいしかいなかったのだから。
だけどその相手が女性であることが、少しだけ残念だった。もちろん彼女は悪くない。華怜も悪くないし、悪いのはこの僕だ。
華怜を不安にさせないように、必要以上に女の人と仲良くしないと決めたのだから。
「んんっ……」
後ろから、可愛らしい寝起きの声が聞こえてくる。あ、まずいと思った頃には、嬉野さんという女性が華怜を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたか……?」
僕はこの後嫉妬の嵐を受けるんだとばかり思っていたけれど、違った。華怜の表情が見えないから、どんな感情を抱いているのかまでは分からない。
いつもの華怜だったら僕に絡めている手を強めて、どこにも行かないでと主張してくるはずなのに、それをしてこなかった。
ただ華怜はいつも通りの声色で「初めまして。華怜っていいます。今ちょうど起きたかったところなので、大丈夫ですよ」と丁寧に挨拶した。
僕がそれに少々驚いていると、嬉野さんも笑顔で挨拶をしてくれる。
「嬉野茉莉華です。初めまして」
「まりか、さん」
華怜は小さく呟く。そしてもう一度、記憶に刻み込むように「茉莉華さん、ですね」と呟いた。
「あなたのお名前は、なんて言うんですか?」
唐突に僕の方へと話題を振られて戸惑っていると、華怜が代わりに答えた。
「小鳥遊公生さんっていうんですよ。とっても優しい私の兄です」
「公生さんですか」
どうして兄であると紹介したのか、僕には分からなかった。華怜なら、恋人だと主張して威嚇すると思ったのに。それにもう、僕らは兄妹だと周りに偽る必要もないのだ
「もしよろしければ、連絡先を交換しませんか? 実は名瀬先生のファンの方と出会ったの、初めてなんです」
「あ、えっと……」
さすがに連絡先の交換は……と思っていると、華怜が後ろから不思議そうな声で問いかけてきた。
「連絡先、交換しないんですか?」
「……わかった」
どこか釈然としないと思いながら、スマホを出して連絡先を交換した。もしかするとずっと一緒にいると約束したから、嫉妬もヤキモチも焼かなくなったのかもしれない。
いやいや、そんなはずはない。華怜のヤキモチは、常人のそれとは比べものにならないのだから。
だからこそ、どうしてこんなに綺麗な人に嫉妬をしないのかが分からなかった。もちろん華怜の方が可愛いに決まっているけれど。
本当は、怒っているのかもしれない。
だけど、声色だけで華怜が怒っているとは判断できない。
一番可能性があるのは、華怜も嬉野さんと仲良くしたいと思っている線だ。記憶を取り戻したのだから、僕以外の人とも関わりたいと思ったって不思議じゃない。
そんなことに頭を巡らせていると、店内のBGMがゆったりとしたものに変わり、もう閉店時間なのだということを教えてくれた。
「早く買わなきゃですね」
嬉野さんがそう言ったから、僕も華怜を背負い直し、後をついて行った。
別々に薬を買って外へ出ると、もう完全に日は沈んでいた。
嬉野さんは僕らの方へ振り返り、笑みを浮かべる。
「サイン会にも行けて、素敵なお友達が二人も出来て、今日はとても嬉しい日でした」
きっと本心からそう思っているのだと、珍しく僕はそのままの意味で受け取ることができた。それはおそらく、彼女が誠実な人間であるという証拠なのだろう。
「私も、茉莉華さんとお友達になれてよかったです」
「そう? 嬉しいなっ」
もう二人はくだけていて、まるで姉妹のように笑いあっていた。もしかすると相性がいいのかもしれない。
それから嬉野さんはこちらを見て「もうそろそろ家に帰って晩御飯の支度をしないといけないので、今日はこれで」と丁寧に別れの挨拶をした。
僕も、いつまでもたじろいでいてはいけないと思い直し、笑みを貼り付ける。
「いえ、今日は本当にありがとうございます」
「また、そのうち三人でお話しましょうね」
華怜にも柔らかい微笑みを向けて、嬉野さんは横断歩道を渡り向こうへと歩いていった。その姿が見えなくなるまで見送った後、華怜はぽつりと呟く。
怒られる、ふいにそう思った。
「茉莉華さん、良い人でしたね」
違った。
それはいつも通りの声色だった。
「ごめん、華怜」
「どうして謝るんですか?」
「女の人と話しちゃった。連絡先も交換しちゃったし」
「気にしてません」
「ごめん」
「だから、気にしてません」
怒っていない、のだろうか。やっぱり記憶を取り戻したから、仲の良い人を作りたいだけなのかもしれない。
もしそうなのだとしたら、本当にこれからも嬉野さんと関わることが増えるのかも。そう考えると、僕もちょっとだけ嬉しい。それは名瀬雪菜の話を語り合えるからであって、それ以外の他意は一切ない。
「帰りましょうか」
「そうだね」
華怜の言葉で僕は意識が戻され、アパートへの道のりを歩いていく。その間、華怜はずっと無言で、行きと同じく寝てしまったのかと思った。
だけどふいに、華怜が僕の首元あたりに鼻を近付けてきたから、寝ていなかったのだと気付く。
どうしたのかなと考えていると、すーっと息を吸い込んできた。その後に口元から深呼吸のように息を吐き出し、僕の首元に暖かい息がかかる。
ぶるっと、全身の毛が逆立った。こしょがしい。
「ど、どうしたの?」
「良い匂いだなって思ったんです」
「今日はまだ風呂入ってないよ?」
「シャンプーじゃなくて、公生さんの匂いです。安心するんです」
そう言うと、また勢いよく匂いを嗅いできて、ふっと吐き出した。僕はまた身震いして、変な声が出そうになるのを耐える。
「安心した?」
「安心しました」
「それならよかった」
お互いにくすりと笑い合う。
「今日は帰ったら、小説を書きましょう」
「いいね、書こうか」
「書いた小説は読み聞かせてください」
「それはちょっと恥ずかしいね」
「公生さんの膝の上に頭を乗せながら、聞きますね」
昨日の膝枕はちょっと恥ずかしかったけれど、二人だけの空間なら別に構わない。
「眠るときは、楽しいお話をたくさんしてくださいね」
「もちろん。華怜が眠るまで、そばにいるから」
「ありがとうございます」
また、僕の匂いを嗅いできた。それはまるで、僕の匂いを忘れたりしないように刻みつけているみたいで、どうしようもなく心がざわついた。
どこにも行ったりしないよね?
そう訊こうと思ったけれど、声にはならなかった。ずっと一緒にいると約束したのだから、どこにも行ったりするはずがない。
余計なことを考えるのは僕の悪い癖だ。そんなこと、起きるはずがない。
それからアパートへと帰って華怜に薬を飲ませ、約束通りに小説の短編を書いた。内容は、よくある恋愛小説だ。
ありきたりすぎて説明する必要もない話だけれど、それでも華怜は真剣に膝の上で耳を傾けてくれた。小説を読みながら頭も撫でてあげると、くすぐったそうに身をよじる。
「小説家、なってくださいね?」
華怜は唐突に、そんなことを呟いた。
「華怜のために、小説家になるって決めたから」
「絶対に諦めないでくださいね」
「絶対に諦めるもんか」
「出版したら、朝から並んで買いに行きます」
「一番にサインしてあげるよ。ううん、華怜のだけにサインしてあげる」
「嬉しいです」
スッと華怜は鼻をすすった。
「そろそろ、寝ましょうか」
「そうだね」
少し残念だけど、もう夜も更けている。
布団を敷いて明かりを消して横になると、華怜もすぐ隣に横になった。いつもよりその距離はずっと近い。
「抱きしめてください」と言ってきたから、僕は何もためらわずに抱きしめてあげた。
華怜は向こうを向いていたから、後ろから抱きしめる形になる。
「これでいい?」
「安心します」
「それはよかった」
「楽しい話、してください」
僕はすぐに、楽しい話を思い浮かべた。
「二人で駆け落ちした後、経済的に豊かになったら、何人子どもがほしいかな」
「いきなり、ですね」
「将来の夢を語るのは楽しいでしょ?」
くすっと腕の中で笑ったから、僕もつられて微笑む。こういう話は、心の中に秘めているより口に出した方が叶う気がする。
「子どもは、別に作らなくていいですよ」
「どうして?」
「公生さんと一緒にいられる時間が減っちゃうからです」
やっぱり華怜はヤキモチの塊みたいな人だ。将来僕らの間に子どもができて、その子どもと仲良く遊んでいると、顔を真っ赤にさせて肩をぽかぽかと叩いてくるかもしれない。
そう考えると、面白くて楽しくて、なんだかいいなと思ってしまった。
「どうして笑うんですか?」
「いや、なんだか面白いなって」
「面白いですか?」
「嬉しい」
華怜はおそらく唇を尖らせて、むすっとした表情を浮かべたのだと思う。
「小説がたくさん売れたら、どこかに旅行へ行こうか」
「いいですね。でも、電車か新幹線で行ける距離がいいです」
「どうして?」
「飛行機は、怖いですから……」
小さな身体をさらに縮こませたから、僕はさらに強く抱きしめてあげる。確かに、飛行機は怖い。それは日本の国民すべてに植え付けられた消えない記憶だと思う。
「じゃあ、飛行機は使わないことにしよう」
「危ないですから、絶対に乗らないでくださいね」
「絶対に乗らないよ」
心配性な華怜は念を押してくる。僕はしっかりと頷いた。
「じゃあ、京都に行くのがいいかもね。あそこはいろんな観光名所があるから」
「金閣寺とか、一度見てみたいです」
「いいね。僕も行きたい。ちなみに金閣寺が金色なのは、表面に金箔が張られてるからなんだよ。実はその金箔はここの県で作られてるんだって」
「物知りですね」
「高校の頃に授業で習ったんだ」
たまに豆知識を披露すると、関心したように頷いて、真剣に聞き入ってくれた。
「ふと思ったんだけど、京都に住むのもいいかもね。毎日観光に行けるから」
「それもいいですね。私、着物も着てみたいですし」
「着物ならいつでも買ってあげるよ。今年の夏は着物を着て川辺に花火を見に行こうか」
「花火、大好きです」
「僕も大好きだよ」
「大きな花火もいいですけど、線香花火もいいですよね」
「パチパチ火花が散るのが、儚い感じがしていいよね」
もうそろそろ花火の季節だから、一緒に遊べるのかと思うと今から楽しみで仕方がない。
「秋は紅葉を見に行こうか」
「また、緑地公園に遊びに行きましょう」
「冬はスキーをするのもいいかもね」
「スキー、出来るんですか?」
「実は、やったことない……」
華怜が小さく笑ったから、僕は少し顔が熱くなった。元々運動はそこまで得意じゃないのだ。
「スキーがダメなら、ソリでもいいですよ」
「じゃあ一緒のソリに乗って滑ろっか」
「いいですね、それ」
また二人で笑い合う。
ふと、月明かりを頼りに時計を見ると、あと数秒で今日が終わる時間になっていた。華怜は風邪を引いているから、そろそろ寝ないと悪化するかもしれない。
そうこうしているうちに、金曜日は終わりを告げた。
五月二十六日 (土)
「もう日付が変わったから、寝よっか」
僕がそう言うと、腕の中の華怜はピクリと身体を震わせた。どうしたのかと思い様子を伺うも、その表情は見ることができない。
「もう、そんな時間なんですね……早すぎます……」
「だね……もっと話していたいけど」
「寝ましょっか」
小さく呟いたあと、華怜はようやく僕の方へ振り向いてくれた。
振り向いてくれて、ようやく僕は気付いた。
さっきからずっと、華怜は涙を流していたんだ。
大きな瞳から大粒の涙が溢れていて、頬を絶えることなく濡らし続けていた。
「華怜、どうしたの……?」
その問いの答えを返す前に、華怜は僕の首へ腕を絡めてきて、唇を重ね合わせてきた。熱くて、暖かくて、やっぱりそれだけで僕の心は満たされる。
何度か経験したその行為は、そのどれもが神秘的なものだった。
やがて唇が離れると、僕は息をするのを再開させる。そうしようとして、また塞がれた。僕はただ華怜のその行為を受け入れる。
満足したのか疲れたのか、華怜はようやくキスをやめた。僕の胸に顔を埋めて、身体を震わせる。僕はただ、抱きしめた。
「朝になれば、いつも通りの私に戻りますから……」
「うん」
「だから今だけは、許して下さい……!」
「大丈夫だよ」
そう言うと、華怜は声を押し殺して泣き始めた。どうして泣いているのか、どうしてキスをしてきたのか。本当の意味は、その時の僕には分からなかった。それがわかるのは、この物語の終着点。ずっとずっと、先の事だ。
僕は分からないなりに精一杯彼女のことを抱きしめ続けて、そばにいるよと囁き続ける。
結局その後、華怜は糸がプツリと切れたように眠りについた。いつも通り安らかな寝息を立て始める。
僕もそれに安心して、まぶたを閉じた。
どうか明日も、笑顔でいられますようにと、ただそれだけを願いながら、僕も安らかに眠りについた。
朝目が覚めると、抱きしめていたはずの華怜がいなくなっていた。どくんと、何故か心臓が大きく跳ねて、まどろみの状態から一気に覚醒する。
僕は布団を半ば投げ飛ばすように起き上がり、部屋を見渡す。華怜の姿はない。
次いで、焦る足を必死に動かして、キッチンへと向かった。そこに、華怜はいた。
いつも通り包丁を握り、いつも通り調理をしていて、僕は心の底から安堵する。今思えば、どうしてこんなにも心が乱れたのか、わけがわからなかった。
華怜はどこにもいったりしないのに。
「おはよ、華怜。手伝うよ」
フライパンに油を引いて、固めの目玉焼きを作る。その動作が知らず知らずのうちに、僕の日常の中に組み込まれていた。
華怜もいつも「しょうがないですね」なんてことを微笑みながら言って、半歩ほど左へ移動してくれる。
今日は、そうはならなかった。
華怜は僕の方を振り返りもせずに、ただ淡々と調理を続けている。
無視されたというより、どうかしたのかと思い心配になった。もっとそばへ近づいて、声をかける。
「華怜?」
「公生さんは部屋で待っててください」
ぶっきらぼうに、ほぼ無感情な声でそう言われる。それでも僕は食い下がった。
「いや、手伝うよ。二人でやったほうが早く終わるし」
「小説、書いててください」
「今日は土曜だから、時間はたっぷりあるんだよ」
「机の上のスマホ、メール来てましたよ? 茉莉華さんが、もし時間が空いていたらお茶をしたいそうです」
「メール?」
勝手にスマホを見たことは、特にどうとも思わなかった。ロックをかけていないし、そもそも見られて困るようなものは何も入っていない。
それに、華怜なら信用しているから。
僕は居間へと戻りスマホを起動させて、メールフォルダを見た。確かに、嬉野さんからメールが来ている。
しかし二通も来ていて、そのうちの一つは華怜の話した内容。もう一つは「では、駅前の喫茶店で朝の十時に。華怜ちゃんと公生さんが来るの、楽しみにしていますね♩」というものだった。
送信フォルダを見ると、僕が「行きます」といった旨のメールを送ったことになっている。これはきっと、華怜の送ったものだ。
僕はキッチンへと戻る。
「ねえ華怜。メールを返すなら、一言ちょうだいよ」
すると華怜は振り向いて、僕を見た後、視線をわずかにそらして「ごめんなさい……」と謝った。
別に、僕は怒ってなんかいない。それに、普段こういったメールを嬉野さんに返すぐらい別にいいと思っている。華怜は使用できる携帯を持っていないから、嬉野さんとの連絡手段は僕の携帯しかないのだから。
僕は華怜に近付いて、おでこに手を当てた。それにびっくりしたのか、華怜はピクッと身体を震わせる。
「熱、大丈夫なの?」
「……え?」
「朝起きたら、測ってみた?」
「測ってないです……」
「ダメじゃん。三十七度以下じゃないと、喫茶店には連れてけないよ」
そう言って、華怜の手を引いて居間へ戻った。体温計を取り出して華怜に渡すと、素直に脇へ入れて測る。
体温は三十六度五分で、もう熱は下がっていた。これは薬を選んでくれた嬉野さんのおかげだろう。僕は安心して、華怜の頭を撫でてあげる。
「熱下がってよかったね。それじゃあ、午前中は喫茶店行こっか」
「あの……」
「どうしたの?」
とても言い辛そうに、華怜は口ごもる。両指を絡めて、視線は右の方へ泳いでいた。
どうしたのかと思いそれを見守っていると、ぽつり呟くように華怜は言った。
「私は、行きません……公生さん一人で行ってください……」
僕は、華怜の行動の意味がわからなかった。行く気がなかったなら、どうしてメールを返したのだろう。
今日の華怜はちょっとおかしい。そう考えて、以前も似たようなことがあったのを思い出した。あれは、華怜が風邪を隠していた時だ。
「もしかして、どこか調子悪いの?」
そう訊くと、逃げ場を見つけた子猫のように首を縦に振った。それからすぐに「……実は、お腹が痛いんです」と、控えめに主張する。
「それじゃあ、喫茶店には行けないね」
「そうなんです。だから……」
「申し訳ないけど、嬉野さんには電話で断わっておくよ。今日は一緒に部屋で休んでよっか」
今度は戸惑いの混じった目を僕に向けてくる。わけがわからない、といった風にも見てとれた。
華怜はたぶん、僕一人で行ってほしいのだろう。でも僕には、華怜を一人にしておくことなんて出来ない。
どうして僕一人で行って欲しいのかも、わからなかった。
「どうして……」
「鬱陶しいなって思われるかもだけど、華怜のことが心配なんだよ。僕が注意を向けてなかったせいで、風邪を引かせてしまったんだから」
「鬱陶しいなんて、そんなことっ……」
目に涙を溜めて口を引き結び、うつむかせてしまった。
また、何か心配をさせるようなことをしてしまったのだろうか。僕は僕自身の甲斐性のなさに呆れてくる。心配させてしまう原因すらわからないなんて、本当にダメなやつだ。
頭を撫でてあげると、引き結んだ口を解いてくれた。
「嘘つきました……」
「気にしてないよ」
「お腹なんて、痛くありません……」
「風邪が治って、本当によかった」
僕らはまた、二人でキッチンに立つ。間には不自然すぎる距離が開いていて、これは今の心の距離なんだなと感じた。
少し、距離を取られているのだ。その事実が僕は、たまらなく辛かった。
サラダを作った華怜は、いつも通り食器棚からお皿を取り出す。もう何度も見慣れた光景だから、特に気にせずフライパンの上の卵に注意を向けていた。
それが、よくなかったのかもしれない。
狭いキッチンの中で何かが割れる音が響いて、すぐに華怜がお皿を落としたのだということに気付いた。
慌てて火を止めて、華怜に近寄る。
「あっ……ごめんなさい……」
「怪我、なかった?」
「……え?」
また不思議そうな目で僕を見てくる。
「怪我だよ。飛び散った破片、足に当たったりしなかった?」
「怪我は、ありません……」
ほっと胸を撫で下ろし、散らばった破片に注意しながら華怜を遠ざける。本当に怪我をしなくてよかった。
「あの、公生さん。お皿割ってしまって、ごめんなさい……」
「お皿なんていくらでも買い換えればいいから。華怜は何も気にしなくていいよ」
「でも、」
「華怜が怪我をしなくて、本当によかった」
再び目に涙をためて、今度はそれがぽろっと頬に伝った。持っていたハンカチで拭いてあげて、抱きしめながらポンポンと頭をやさしく叩く。
「朝ごはんは僕が作るから、華怜は部屋で休んでて」
「……わかりました」
「今は難しいこと、何も考えなくていいから」
そう言ってから身体を離し、もう一度頭を撫でてあげる。可愛い顔が涙でくしゃくしゃだった。
「あの、嫌いになりましたか……?」
「こんなことで嫌いになんてならないよ」
その言葉に安心したのか、それとも別のことなのかは分からないけど、それからも華怜は涙を流し続けた。僕はずっと頭を撫で続けて、涙を拭き続けてあげる。
誰のせいでもないけれど部屋の中の空気は最悪といっていいほど重かったから、嬉野さんがお茶を誘ってくれて本当によかったと思う。外へ出れば、少しは華怜も気晴らしになるだろうから。
朝ごはんを食べている時は、一言も会話を交わさなかった。間違った触れ方をしてしまえば、華怜は壊れてしまいそうだったから。
今の華怜は、ちょっとしたことで大きく感情が揺らめいてしまっている。
たとえば味噌汁を飲んでいる時、何が心の琴線に触れたのかは分からないけれど、ぽろっと涙を流していた。固めの目玉焼きを口に運ぶ時は、箸ごと机の上に落としてしまっている。僕が「箸を取り替えるから、待っててね」と言うだけで、華怜は再び涙を流す。
目玉焼きを僕のと取り替えればさらに涙を流し、いろいろと収拾が付かなくなっていた。
それでも無事に朝ごはんを食べ終わると、いつも通り華怜はお皿をキッチンへ運び、いつも通りお皿を洗った。
その間僕が隣にいて見張っていたからなのかは分からないけれど、あからさまな失敗は一つもしない。
ただ一つだけ僕の心に重くのしかかったのは、華怜が意図的に僕と目を合わせてくれなくなったということだ。
今までふとしたことで視線が重なっていたのに、それがバッタリと無くなってしまった。向かい合って必死に合わせようとしても、僕から逃げるように視線を泳がせてしまう。
僕はそれが、たまらなく辛かった。
お出かけの洋服に着替える時、僕はまたいつも通り外へ出る。心配で心配でたまらなかったけれど、女の子なんだから着替えを見られるのは嫌だろう。
そしてまた、いつもと違うことが起きていることに気がついた。
いつもなら、僕が玄関のドアを開けて数秒すると、見計らったかのように先輩が出てくるのに、それがなかった。
僕としては先輩と話さずにすめば、今の華怜も少しは落ち着くだろうからほっとしている部分があったのだけど、やっぱりこっちも心配だ。
なにせ、あの先輩が昨日部屋に居なかったのだから。
いつも部屋にいるのが当たり前なのに、いなかった。これは結構大問題だと思う。すごく失礼な話だけど。
十分ほど経っても華怜は合図を示さなかった。
さすがにどうしたのかと思って部屋へ戻ると、華怜は居間の座布団に座ったまま、ただ机の上をジッと見つめていた。それにまだ、寝巻き姿のままだった。
僕が戻ってきたのを認めると、ぎこちなく微笑んで「ごめんなさい」と言った。僕は華怜の頭を撫でてあげて、着替えを手伝ってあげる。
一人では服も脱ごうとしなかったのに、僕が手伝うとすんなり着替えを始めてくれた。だけど自分で動くことは決してしなくて、代わりにタンスの中から洋服を出してあげる。
気分が明るくなると思って、プレゼントした洋服を選んだ。それを華怜に着させた後、僕もすぐに着替える。
またぽつりと、華怜は言った。
「ごめんなさい」
僕はただ、頭を撫でてあげる。
いったい、どうしてしまったというのだろう……
それからもいろいろ紆余曲折があったけれど、十時に間に合う時間に出かける支度が終わった。
しかし華怜が心配だったから「今日はやめて、また今度にする?」と提案するも、首をふるふると横に振るだけで、折れようとはしない。
僕はこの前以上に目を光らせなきゃいけないなと思った。
そしてその決意は、部屋を出た瞬間にいきなり試されることになる。
ドアを開けた瞬間が、タイミング悪くも隣の部屋の先輩と重なってしまった。
最悪のタイミングだなと思いつつも、僕は一応後輩だから挨拶ぐらいはしなきゃいけない。それぐらいなら、華怜も許してくれるだろう。
僕は挨拶だけだと言い聞かせて、部屋から出てくる先輩を見た。今日はおかしなことが、立て続けに起きている。
「先輩、その格好……」
僕が半分驚きつつそう訊くと、先輩は照れくさそうに頬をかいた。部屋から出てきた先輩は、就活用のスーツに身を包んでいて、髪もしっかりセットしていたのだ。
こんなにしっかりした姿を見るのは、二年ぶりだった。
「いやぁ、私も一応は就活生だからね。そろそろ、真面目にやらないとダメかなって」
「あ、あぁ。そうなんですか……」
就活生なのだということをすっかり忘れていた。今から就活って、結構大変なんじゃないだろうか。準備とか、早い人は何ヶ月も前から始めているだろうし。
そんな余計な心配をしていると、僕の服の袖を華怜が引っ張った。そちらを見ると華怜は視線をさっと外して、微妙な表情を浮かべている。
やっぱり、先輩と話すのは許してくれないらしい。どうにかして会話を中断させようと試みたけれど、先に先輩がいつも通り左手を上げて別れの合図をしてくれた。
「それじゃ、私は急いでるから」
「あ、はい。頑張ってください」
「君も、ね」
気のせいかもしれないが、最後に見えた先輩の表情は切なげにも、儚げにも見えた。僕はやっぱり、その表情の意味がわからない。分からないことが、多すぎる。
「……浮気はダメです」
「絶対しないよ」
「許しませんからね」
なんだかいつもより険しい顔をしていて、少し怖いと感じた。今までなら不安の表情を浮かべて、必死に懇願してくる感じだったのに。
だからといって、僕は今のスタンスを変える気なんてないけれど、少し気がかりだ。
もしかして、今朝から僕に対して怒っているのだろうか。怒られるようなことをした覚えは一つもないのに。
僕らはまた微妙な空気間をまとったまま、駅の方へと向かった。バスに乗っている時も一言も会話を交わさず、華怜は景色を見ることをしなかった。ずっと俯いたまま、僕と距離を取っている。
駅に着いたらバスを降りて、喫茶店へと向かう。指定されていたところは裏道にあり、普通に歩いていたら見落としてしまいそうだった。
隠れた穴場、という場所なのかもしれない。外装と同じく店内もこじんまりとしていて、お客は少ない。応対してくれた店員に「待ち合わせをしているんです」と要件を伝えると、笑顔で奥のテーブル席へと案内してくれた。
そこには赤縁メガネをかけて本を読んでいる嬉野さんがいて、僕らに気がつくと柔らかい笑顔を向けてくれる。
「おはようございます。公生さん、華怜ちゃん」
僕ら二人を交互に見て微笑む。僕は笑みを返したけど、華怜は僕のやや後ろへと移動して「おはようございます……」と呟くだけだった。
それもどこか中途半端で、僕の後ろに身を隠したというよりも、嬉野さんから身を隠したといった方が正しいのかもしれない。
そんな態度に、嬉野さんは嫌な顔を一つも浮かべなかった。
正面の席に手を差し出して、「どうぞ腰掛けてください」と勧めてくれる。僕は壁際に腰掛けて、華怜は微妙な距離を開けて隣に座る。
試しに僕が椅子を華怜の方向へとずらしてみると、同じぶんだけ反対側に移動してしまったから、おそらく意図的なのだろう。
少し、意地悪をしてしまったかもと反省した。
やってきた店員さんに、コーヒーとカフェオレを注文した。僕がコーヒーで、華怜がカフェオレだ。嬉野さんの正面には、もうコーヒーとチーズケーキが置いてあった。
「今日は突然お誘いしてすいません。ご迷惑でしたか?」
「いえ、僕たちも暇だったので大丈夫ですよ」
今度は華怜の方を見て、話しやすいように嬉野さんが笑みを浮かべた。
「華怜ちゃんは、もう風邪大丈夫?」
「あの、えっと……治りました……」僕の時と同じく視線をさ迷わせている。
「そっかぁ、優しい公生お兄さんに感謝しなきゃね」
華怜はチラと僕を見た後、すぐにまた視線をうつ向かせる。心なしか照れているように見えたけれど、表情の端には気まずさも見てとれた。
華怜はその表情のまま「ありがとうございます、お……」と、不自然なところで言葉を切った。
みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。きっと『お兄ちゃん』と言い間違えそうになったんだと推測した。よくあるよくあると思いつつ、僕はくすりと笑う。
華怜は、なぜか目の端に涙を浮かべていた。
笑ってしまったのが、まずかったのだろうか。
「華怜、大丈夫……?」
「な、なんでもないですっ。ごめんなさい……」
「華怜ちゃん、もしかしてまだ体調良くなってないとか……?」今度は嬉野さんが、心配の視線を向ける。
それに対してブンブンと首を横に振り、溜まっていた涙を袖で拭いた。
僕は視線で『今日はずっとこんな感じなんです』と伝える。それを察した嬉野さんは、また不安げな表情を浮かべた。
彼女は優しい人だ。出会って間もない見ず知らずの僕らに、こんなにも気を使ってくれるなんて。
嬉野さんは、コーヒーと一緒に隣に置いてあったチーズケーキを華怜の目の前へと移動させた。
「華怜ちゃん華怜ちゃん、ほらチーズケーキだよっ! 実はこのお店一番のオススメなの!」
涙で潤ませた瞳でケーキを見たあと、猫のような伺う目で今度は嬉野さんを見た。嬉野さんはニコリと笑って、ケーキ用のフォークを華怜へと手渡す。
女の子同士の方が通じ合えるものがあると思い、ここは見守っていることにした。
華怜は素直にフォークを手に取り、もう一度嬉野さんを見る。
「甘いもの食べたら元気になるよ。食べて食べてっ」
「……ありがとうございます」
控えめにお礼を言った華怜は、フォークの先端をケーキへと突き立てた。柔らかいのかすんなりと奥まで通り、口元へと運ぶ。
その一口を食べた華怜の涙は、驚くほどピタッと止まった。そんなにここのチーズケーキは美味しいのだろうか。
「美味しいですっ」
「でしょ!」
嬉野さんは大喜びで一度手を叩き、その音が店内に響き渡る。あまりお客さんがいないため、そこまで迷惑にはなっていないけれど、ちょっとだけその音にびっくりした。
「でも、あの。これ……」
「全部食べていいよ。実は、華怜ちゃんのために注文したんだから」
彼女は嘘が上手いと思った。いや、それは事実なのかもしれないけれど、どちらにしても嬉野さんの優しさには変わりない。
「ありがとうございます」とお礼を言った華怜を見て、嬉野さんはこちらへ小さくウインクを飛ばしてくる。
僕は「ありがとうございます」と微笑みで返した。
「華怜ちゃんと公生さんは、ここら辺に自宅があるんですか?」と訊かれ、そういえば嘘をついたのだということを今更ながらに思い出した。
華怜には答えられないから、僕が答えなければいけない。
「実家は別の県なんです。それで……」
僕はマズイことに気が付く。一人暮らしの兄の家に住みながら別の県の高校へ通うなんて、普通じゃありえない気がする。
ありえないというか、不自然だ。
それなら普通に、地元の学校へ通えばいいじゃないか。
そろそろ、本当のことを説明しないといけないなと思った。そもそも隠す必要なんてなかったし、これからも仲良くしていくなら、いずれ分かってしまうことだ。
嘘をついたことを訂正するのは勇気がいるけれど、こういうのは誠実でなければいけない。
「実は……」
「私は、こっちの県の高校に通ってるんです」
僕が訂正する前に、華怜が嘘を塗り重ねてしまった。
「地元はここじゃないのに?」
その当然の疑問を嬉野さんは投げかけてきて、僕は思わず華怜を見る。動揺したり助けを求めてきたりせずに、ただ嬉野さんへと微笑みを向けていた。
そんなこと、言わなくてもわかりますよね。という優しい笑みだ。
それを受けた嬉野さんは、納得したという表情を見せている。
「お二人は、仲が良いんですね」
嘘をついて、よかったのだろうか。どうして華怜は嘘を貫き通したのだろう。
今、僕が訂正すれば華怜が嘘を付いた悪者になってしまう。それは、出来なかった。
だから僕も、その嘘を貫き通さなきゃいけない。
「そうです、仲の良い妹なんです」
その仲の良い妹とは、未だ微妙すぎる距離が開いている。この距離は心の距離でもある。少し離れてしまっただけで、華怜の考えていることが何一つ分からなくなった。
「嬉野さんは、大学に通っているんですか?」
これ以上嘘をつくことには耐えられない僕は、さりげなく話題を変える。
「私、高校を卒業してから就職したんです」大学生かと思っていたけれど、違ったらしい。
丁寧な言葉遣いは、仕事で身についたものなのだろう。
「実家はここですか?」
「生まれも育ちもずっとこちらですよ。実家暮らしなので、一人暮らしは憧れちゃいますね」
そう言った後「そういえば二人暮らしでしたね」と微笑みながら訂正した。前から思っていたけれど、仕草の一つ一つが上品な人だ。
きっと周りの人にも、よく気が配れるのだと思う。
華怜は、隣で静かにチーズケーキを食べていた。時折美味しさで笑顔を浮かべているのを見て、僕も和む。
「あの、せっかくのお休みなのに、よかったんですか?」
「昨日は有給を使って、今日と明日は休みなので暇を持て余してたんですよ。一番大事な用事は昨日終わっちゃったので。私、普段は本しか読まないんですよね」
「あ、僕もです」
思わず返答してしまった。華怜のことがあるから、適度に距離感を保とうとしていたのに。
少し、嬉野さんは笑顔になる。
「どんなジャンルをお読みになるんですか?」
「えっと……恋愛小説です」華怜が気にしていないか隣を窺うと、ちょうどチーズケーキを食べ終わった頃だった。
丁寧に手を合わせて、フォークをお皿の上へ置く。
「公生さんの本棚、恋愛小説ばかりですよね」と、さりげなく会話に混ざってきた。別に特段気にしていないようで、僕はホッとする。
心なしか、気分も落ち着いているみたいだ。
気にしすぎていたのかもしれない。
「恋愛小説いいですよねっ。名瀬先生の第一作目とか、何回も読み直してます!」
「あの予想外の場面でヒロインが死んじゃうやつですよね」
僕も、あの作品は大好きだ。
「そうですそうです! ヒロインが亡くなるところとか、私、本当に涙が止まらなくて……」
そう言った嬉野さんの目には、本当に涙が溜まっていた。それにビックリしつつも、すぐに気付いた嬉野さんは「あ、ごめんなさい!」と言って目元をハンカチで拭った。
華怜が「大丈夫ですか……?」と気にかけると「ごめんね。ちょっと、本のことになると熱くなっちゃうの」と微笑んだ。
なんというか、少し変わった人だ。
「私、ちょっとしたことでもすぐにウルッときちゃうんです。感動する小説とか読むと、涙で先に進めなくなっちゃうぐらいで」
僕はクスリと笑う。
「そんなに本が好きなんですね」
「両親が読書家だったので、子どもの頃からずっと本に囲まれてたんです。それの影響ですね」
嬉野さんもくすりと微笑む。
それから注文していたコーヒーとカフェオレを店員さんが運んでくれて、僕はお礼を言った。
「華怜ちゃんは、本は読まないの?」
「私は、ちょっとだけ読みますよ。お母さんに、読め読めって何度も言われていたので」
それは初耳だった。そもそも記憶を失っていたのだから当然だけど。
「本を勧めてくれるなんて、いいお母さんだね。私も子どもの頃に本を勧めてくれて、今はとっても感謝してるの」
「私も、とっても感謝してます」
チーズケーキのおかげなのかは分からないけど、華怜は嬉野さんに笑顔を向けていて、嬉野さんもそれを受けて微笑んでいた。
二人が打ち解けられて、本当に良かったと思う。こうしていると、僕より仲の良い姉妹に見える。いや、華怜は僕の妹じゃないんだけど。
そういえば、嬉野さんにも妹がいるのだということを思い出した。嬉野さんの年齢は、いくつなんだろうか。
「そういえば、公生さんって歳はいくつなんですか?」僕の考えていたことと全く同じ質問を投げかけてきて、ちょうどいいなと思った。
「今年の四月に誕生日を終えて、今は二十歳ですよ」
答えると、嬉野さんは予想外の反応を示した。
驚いたといった表情を浮かべたあと、華怜に対してみせる笑みを僕にも見せてくれたのだ。
「同い年っ!」
「え?」
僕はその事実を聞いて、変な声が出た。
「私たち、同い年だったんですねっ」
ようやく、彼女の言っていることを理解できた僕は、驚きつつも少し笑うことができた。
「嬉野さんも、二十歳なんだね。てっきり二、三歳は上なのかと思ってました」
そう言った後、僕は慌てて「あ、あの。別に老けてるとかじゃなくて、大人っぽいって意味ですっ」と訂正する。
嬉野さんは人懐っこい笑みを浮かべた。
「大人っぽいって言われたの、初めてです。いつもは子どもっぽいって言われるので。あと、私も公生さんって二、三歳は年上なのかなって思ってました」
全く同じことを考えていたらしく、ちょっとおかしかった。
そしてどこかいい雰囲気になってしまったから、華怜がまたヤキモチを焼くかと思って冷やっとしたけど、そんなことなかった。僕はちょっと自惚れ始めたのかもしれないと、自嘲気味になる。
「二人とも、お似合いですね」
それは嫌味なんかじゃなくて、純粋に思ったことなんだと思う。嬉野さんと似たような笑みを浮かべて、クスクスと笑っていた。
それから「茉莉華さんって、四月の何日生まれなんですか?」と華怜は聞いた。
さすがにそれはないだろうと思ったけれど、嬉野さんの次の言葉は僕を二度驚かせることになる。
「四月の二十七日だよ」
「うわ、マジですか」
思わず変な日本語になる。
嬉野さんは口元に手を当てていた。
「もしかして、公生さんも?」
「僕も、四月二十七日です」
こんな偶然、あるのだろうか。
僕は元々女の子との関わりが少ないから、余計に変な気持ちになってくる。
「私たちって同じ日に生まれて、こうして偶然知り合えたんですね」
「なんか、すごい確率ですね」
「はいっ!」
嬉野さんは屈託のない笑みを浮かべる。
それから「もしよければなんですけど、このあと駅前の本屋に行きませんか?まだ二人といろいろお話がしたいんです」と言ってくれた。
僕は華怜さえよければいいと思っている。隣をチラと伺うと、控えめに小さく頷いていた。それにはどこか期待と嬉しさのようなものが含まれていて、僕への気まずさはちょっとだけ減っている気がした。