私の気配に先に気づいたのは子猫の方だ。
ピンと耳を立て、背筋を伸ばし私を見つめる。
その視線を感じ取り、八雲君がこちらを振り返えると。
「やべっ!」
彼は奥二重の目を丸くし、私とソーセージと子猫の間を忙しなく見たかと思えば、ブンブンと大きく首を振った。
そして。
「こ、これは非常食を育ててるだけだからな!」
口にしたまさかの言い訳に私の方まで目を丸くしてしまう。
もちろん、それが嘘なのは百も承知だ。
でも、彼が餌をあげているのを言い訳するということは、隠さなければならない理由があるから。
だから今は八雲君の話に合わせることにする。
私の緊張が伝わらないように、彼が不安にならないように。
「その子、食べちゃうの?」
悲しげに眉を寄せ、首を傾げて問いかける。
すると八雲君は視線を泳がせた後、困った顔で子猫を見つめて。
「……食べない。食べるわけないだろ」
唇を尖らせて、声を零した。
子猫は私たちの様子を伺いながらも、八雲君の差し出すソーセージの匂い嗅いで小さな鼻をヒクヒクと動かしている。
続けてパクリと噛み付いたところで、八雲君は再び口を開いた。
「餌あげてるの、母ちゃんには言わないで」
しゃがみこんだまま子猫を見つめてそう頼んだ彼。
私はそっと八雲君の隣にしゃがみこむと、「わかった。約束するね」と頷いた。
安堵したんだろう。
彼の肩から力が抜けるのがわかって、私も自然と強張って握っていた手を緩める。
自分よりも幼い相手だとわかっていても、人見知りされると、同じく人見知りする私としてはどうやって距離を縮めればいいのかわからないのだ。
でも、とりあえず今は警戒を解いてくれたようでホッと胸を撫で下ろす。
美味しそうにソーセージを食べる子猫の存在も、私の緊張を解してくれてありがたい。
「かわいいね。この子のお名前は?」
お食事中の子猫を驚かさないように、静かな声で尋ねると、八雲君は小さく頭を振る。
「まだ、つけてない。それに、つけてもうちは飼えないし」
「ダメなの?」
「母ちゃん、猫アレルギーだから」
「そうなんだ……」
それだと、飼いたくても確かに厳しい。
でも、八雲君は諦めきれなくて、こうして隠れて餌をあげているのだ。
その気持ちは、私にも経験があるからわかる。
うちは家族の中にアレルギーを持ってる人はいなかったけど、祖母が動物が苦手だったので親とはぐれたらしき子猫を見つけた時、八雲君と同じようにこっそり餌を持っていってたっけ。
その子猫は誰かに拾われたのか数日後にはいなくなっていて、良かったと安心しながらも寂しかったのを思い出す。
名前なんてつけたら愛着が湧いて、いつかいなくなった時に八雲君は私以上に寂しい思いをするのかもしれないな、なんて考えていたら。
「お姉さんの家で、この猫飼える?」
八雲君が、期待を滲ませた瞳で私を見つめた。
「あ……えっと、ごめんね。私の家、この島じゃなくて凄く遠いところにあるんだ。それに、住んでるところアパートだから動物禁止なの……」
飼えない理由を並べているうちに、八雲君の表情が落胆に染まっていく。
申し訳なく思い、もう一度ごめんねと謝ると、彼は力なく首を横に振った。
そして、子猫がソーセージを食べたのを見届けると、すくっと立ち上がる。
「……そろそろ戻らないと、母ちゃんに怪しまれるから」
「そっか。それなら、私も一緒に戻ろうかな。私と一緒にいれば、お話してたのかもって女将さんも思うだろうし」
八雲君に続いて立ち上がると、彼は一度唇を引き結ぶようにしてから。
「あり、がと」
恥ずかしそうに、微笑んでくれた。
初めてくれた笑みが凄く嬉しくて。
「どういたしまして。私こそありがとう、秘密を教えてくれて」
私も微笑んで伝えると、彼はまたふるふると頭を振ってから、子猫に「じゃあな」と別れの挨拶をして草をかき分ける。
彼に倣い、私も子猫に「またね」と声をかけ、八雲君の後ろを歩いた。
そうして、二人でみなか屋に戻ると、八雲君は母屋、私は泊まっている部屋に向かおうと階段に足をかける。
その時、八雲君が「自由研究」と声を発して私は彼を振り返った。
すると、私を見ていた視線が彼の足元に落ちて。
「……まだ、何も決まってないんだけど、一緒に考えてくれる?」
彼の方から歩み寄ってくれた。
一緒に考えてほしいという言葉を口にするのに、勇気がいったことだろう。
一歩ずつ、互いの距離が近づいていく。
それはとてもゆっくりだけど、なんだかくすぐったくて、だけど嬉しくて。
私は何度もコクコクと頷いてみせる。
「力になれるように頑張るね」
思わず握りこぶしまで作ってしまったけれど、どうやら意気込みが伝わったようで。
八雲君は本日二度目の笑みを見せて、廊下を走り抜けていった。
奥の方で女将さんが走らないようにと注意する声が聞こえてきて、その賑やかな声に私は笑みを零して階段を上がる。
そして、部屋の扉を開けながら、八雲君の姿に昔の自分を重ねて。
だけど今も大して変わってないかもと、思わず苦笑し、扉を閉めた。
茶色い座卓の上には一枚のプリント。
まだ東の陽が窓から差し込むうららかな時刻に、私はそれに視線を落としていた。
これは昨夜、ジューシーなローストチキンと苺がたくさん乗ったクリスマスケーキを堪能した夕食後、お風呂に向かう途中で八雲君に渡された自由研究についての説明が記載されたプリントだ。
もちろん、その場で一度目を通させてもらっているけれど、悩みながら再度眺めているところで。
私は「んー」と声を零し両手で頬杖をついた。
今回の自由研究は【自由】ではあるけれど、一応縛りがあるらしい。
その縛りとは、この予渼ノ島の特産品や文化等、島に関係するものをテーマにするというもの。
昨日、布団に潜ってからネットで検索してみたところ、特産品の種類は多くはないので、他の生徒とかぶりそうだなと予想。
一方、パワースポットが豊富な島なので、そちらの方面ではと思うも、小学校低学年の作るものとしては少し大人びてるかなと悩んで。
一晩明けて、朝食を済ませた後もこうしてプリントと睨めっこしていた。
どうしたら、と頭を悩ませた直後、自然と私の手は胸元の勾玉に触れる。
これはもう癖となっていて、この勾玉が心の拠り所であり、精神を安定させる唯一のお守りなのが自分でもよくわかる。
あの時、ナギがお守りだと私に贈ってくれていなかったら、私は何を支えに生きていたのだろうか。
もうひとつの可能性を想像した刹那、座卓の上に置いていたスマホが震えて、私はナギではと期待し確認する。
けれど、残念ながらただのダイレクトメールで思わず肩を落とした。
実は昨夜九時過ぎに、私はナギに言われた通り彼の携帯に電話した。
もうナギも家にいるかもしれないし、そろそろ電源も入っているだろうと予想して。
けれど、昼間と変わらず繋がらないまま。
もしかして失くしたりしてるのかと心配になるも、ナギの家を知ってるわけでもない私には他に連絡手段もなく。
とりあえずショートメールを送っておくことにしたのだけど、今のところなんの音沙汰もない。
ちょっとしつこいかもしれないけど、また会えることを願って御霊還りの社に行ってみようと心に決めて。
そういえば、ヒロの連絡先も聞いてないけど、ヒロは何かあれば酒屋さんの方に行けば大丈夫かと考えていた時だ。
──コンコンと、ノックの音が部屋に響いた。
「はい!」
女将さんかなと半ば予想し扉を開けると、廊下に立っていたのは静かな水底のような深い青色セーターを着た八雲君で。
「八雲君」
「一緒に考えたらいいかなって思ったから」
だから来たのだと、彼は私を見上げて小脇に抱えた自由帳と筆箱を手に持ち直すと「いい?」と聞いてくる。
昨日のことで少しでも打ち解けてくれたのが嬉しくて、私はもちろんと頷き、八雲君を部屋の中へ招き入れた。
「実は、私も悩んでたところなの」
座卓を挟んで向かい合うように座る私たち。
八雲君は自由帳を開くと、まだ使ってない真っ白なページに鉛筆を走らせる。
タイトルなのだろう。
【自由けんきゅうのアイデア】と書いて、私を見た。
「とりあえずオレが昨日母ちゃんと考えたアイデアは、島で獲れる魚の紹介」
「なるほど。でも、何で魚なの?」
他にも島に育つ植物とか、生息している鳥とか、考えればあるのに魚なのはなぜかと問いかければ、八雲君は「父ちゃんが漁師だから」と教えてくれて納得する。
確かにそれなら詳しいだろうし、お父さんからもいいアドバイスが得られるはずだ。
八雲君が自由帳に【よみの島でとれる魚】と書く。
そして、その横に魚の絵を描いているんだけど……。
「わっ、凄く上手だね」
小学校低学年の描いた絵とは思えないほどの出来に驚いた。
尾ひれや背びれの特徴を掴んでいて、リアルすぎないクリっとした瞳が可愛らしい魚のイラスト。
「こんなの適当だよ」なんて八雲君は返してきたけど、口元はいつもより喜び綻んでいる。
それを可愛いなと思いつつ、私は「適当ならもっと凄い」と褒めた。
そうすれば、彼は秘密を打ち明けるような小さな声で。
「実はオレ、絵が好きなんだ。母ちゃんは大きくなったらみなか屋を一緒に手伝ってって言うけど、オレ、絵本作家っていうのになりたくて」
将来の夢を教えてくれた。
「そうなんだね。私、応援するよ」
「本当?」
「本当。八雲君の絵本、絶対買うね」
「……うん。ありがとう」
はにかんだ八雲君は、照れ臭そうに唇を噛む。
「それで、お姉さんは? 何かいいアイデア浮かんだ?」
「それが……これ! っていうのが思い浮かばなくて」
だけど、今。
八雲君の絵を見て、彼の夢を聞いて閃いた。
「でも、八雲君、こんなに絵が上手なんだし、いっそ絵をメインにして作るのはどうかな?」
「絵を?」
「さすがに本格的な絵本を作るのは大変だろうから、例えば……紙芝居で紹介、とか」
思いついたままに提案すると、八雲君は少し悩んで。
「紙芝居はやりたい。けど、魚の紙芝居はなんか嫌かも」
「えっと……それなら、どんなのがいい?」
「もっと絵本みたいな物語がいい」
そう言われて、でもすぐには思い浮かばなくて。
それならと、私は「図書館で何か探してみようか」と誘ってみた。
突然過ぎたかなと口にしてから不安になったけど、八雲君は困った様子もなく快諾してくれ、善は急げと女将さんに出かける許可を貰いに部屋を飛び出した。
そして、五分も経たないうちに戻ってきた彼は、すでにダウンジャケットとイヤーマフを装着していて、私は急かされるようにして二人でみなか屋を出発したのだった。