「たんとお食べ!」
女将さんが笑顔と共に部屋に運んできてくれた夕食は、新鮮なお刺身に焼きアワビと、旬のお野菜を使った天ぷら。
さらには牛肉のしゃぶしゃぶも出てきて、その豪華さに驚いた。
益子焼きと呼ばれる器に盛り付けられたそれらは、見た目も味も良く、大満足だったけど、さすがに良くしてもらい過ぎな気がして恐縮してしまって。
だけど女将さんは『これくらいはさせて』と、たつ君のお礼をしてくれたのだ。
みなか屋に戻ってから聞いたのだけど、どうやらたつ君は五つ年上のお兄ちゃんと遊んでいてうっかりはぐれたらしい。
少し探したけど弟が見つからず、焦ったお兄ちゃんが青い顔して帰ってきて、女将さんに事情を説明したそうだ。
ちなみに、たつ君は龍彦(たつひこ)君、お兄ちゃんは八雲(やくも)君という名前だと女将さんが教えてくれた。
宿内で会うこともあるだろうから、もし良かったらかまってやってね、と。
私は人見知りだけど、小さい子が相手なら割と大丈夫なので、私で良ければと答えた。
お腹がいっぱいになり箸を置くと、私は長い息を吐き出した。
満腹感からもあるけれど、ナギのことが頭から離れないからだ。
結局、自転車を回収しに比良坂神社に戻ってみたものの、ナギの姿はどこにもなかった。
鳥居を潜り、階段の先にある境内も見て回ったけれど、そこに人の気配はなく、木漏れ日に照らされる本堂が静かに佇むのみで。
もしかしてと寄ってみた社務所にも鍵がかかっていて入れなかった。
せめてお礼くらい言いたかったし、できればナギの連絡先も聞きたかった。
でも、ナギも用事があって急いでいたのかもしれない。
明日また、あの冬桜の咲く場所にいってみよう。
もしかしたら会えるかもと期待し、私はまだ手をつけていなかったデザートの抹茶ケーキにフォークを刺したのだった。
一夜明けて──。
朝食も外出の支度も終え、そろそろ出かけようかとカバンを手にした時のこと。
窓の外から元気な声が聞こえてきて、私は窓をそっと開けた。
冬のキンと冷えた空気が入り込んできて、思わず身を震わせる。
すると、階下から「ヒロ兄、今度バイクの後ろに乗せてよ」と男の子の声がして。
少し身を乗り出して様子を伺えば、ヒロと小学生くらいの男の子が庭で会話をしているのが見えた。
どうやら縁側があるようで、男の子はそこに座り、足をブラブラさせながらヒロに話しかけている。
そしてヒロはというと。
「もう少しでかくなったらな」
少し優しい声色でやんわりとお断りした。
後ろに乗せてということは、ヒロは二輪バイクを持っているのかな。
そういえば、朋美の彼氏が年上で、最近二輪バイクの免許をとったけど、二人乗りするには免許取得から一年が経過してないとできないと嘆いていたのを思い出す。
ヒロの口ぶりからすると、もう後ろに乗せることができるのかな。
だとしたら、免許は高校に入学した頃に取ったのかもしれないと勝手に予想していると。
ふと、ヒロの視線がこちらを向いた。
ジッと見てしまっていたから、視線を感じたのかもしれない。
邪魔をしてしまったことを申し訳なく感じながら手を振ると、ヒロは軽くこちらに手をあげて挨拶を返してくれる。
と、ちょうどその時、縁側に女将さんが現れたようで。
「ヒロ君、待たせてごめんねぇ。今旦那が用意してるから」
明るい声が庭に響いた。
「特に急いでないんで大丈夫です」
ヒロが答えて、女将さんが「そりゃ良かった」と口にしてから洗濯カゴを抱えて庭に出てくる。
そして、物干し竿の下にカゴを置いた後、トントンと腰を叩いた。
……もしかしたら、腰の調子が悪いのだろうか。
ヒロは男の子の話に付き合っていて、女将さんの様子に気づいていないようだ。
手伝いましょうか。
その言葉が喉までせり上がるも、声にならない。
余計なお世話だろうか。
人様の洗濯物を干すのは非常識ではないか。
でも、腰の調子がさらに悪くなったら、きっとここの仕事にも支障が出るだろうし、子供たちだって心配するはずだ。
悩んで、唇を引き結ぶ。
また女将さんが腰をさするのを見て、私の頭の中にリフレインするナギの言葉。
『もしかしたら、この島にいる間に少しは克服できるかもな』
心根の優しい人が多いからと。
そして、私は確かにあの時思った。
少しでも変われたらいい、と。
女将さんが真っ白なシーツを手にとったのを見て、私は息を吸い込むと窓を閉め階下へと降りた。
玄関で靴を履いて、鉢植えや花壇が並ぶ庭へと小走りで入る。
ヒロが私に気づいて、彼のその視線を辿り、男の子も何事かと目を丸くして。
シーツを物干し竿にかけた女将さんが振り返った。
「あら凛ちゃん、どうしたの?」
ドクドクと心臓が跳ねる中、私は緊張で乾き始めた唇を開く。
「あの、女将さんの腰が」
思っていたよりも小さい声になってしまったけれど、女将さんの耳には届いていたようで。
「私の腰?」
彼女は両手で自分の腰に手を当てた。
「上から見てて、もしかして痛いのかなって、思って」
一気に言葉を繋げられず、考えながら少しずつ伝えると、女将さんは理解して両手のひらをパンと合わせる。
「ああ! そうなの、最近腰痛がね、ひどくなってきてて。サポーターが手放せないのよ」
歳とるって嫌ねぇなんてケラケラ笑う女将さん。
その明るい雰囲気に少し緊張がほぐれた私はようやく目的を口にできる。
「良ければ、手伝ってもいいですか?」
すると、女将さんは瞬きをした。
「そんなそんな! 凛ちゃんはお客さんだから」
「そ、そうですけど、でも女将さんの腰ありきのみなか屋ですから!」
女将さんが元気でなければ大変だというようなことを伝えるつもりが、なんだかおかしな言い方になってしまって、案の定、女将さんはポカンと口を開けてから。
「あっはっはっは! そうね! 確かに私の腰ありきのみなか屋だわ!」
大爆笑すると、洗濯物の中から布団のシーツを引っ張る。
「じゃあ、凛ちゃんはこっちのシーツ類をお願いね」
「は、はい!」
受け入れてもらえたことに心から安堵し、私は女将さんの元に駆け寄るとシーツを受け取った。
「本当にありがとうね」
優しく微笑まれて、私ははにかんだ。
「いえ。あの、何か他にお手伝いできることがあればさせてください」
「他に? でも悪いよ。凛ちゃんはこの島を満喫してきなさいな」
今度はきっぱりと断れてしまう。
差し出がまし過ぎたかな……と、こっそり肩を落としていたら。
「女将さん」
ヒロが男の子の頭に手を置いて。
「八雲の宿題、手伝う時間がないって言ってたけど、それは?」
なにやら提案してくれる。
「ああ! そうだね!」
「宿題、ですか?」
どんな宿題だろう。
ドリルとかかな?
小学生のものなら特に問題ないけれど……。
「実はね、冬休みの宿題で、自由研究がひとつあるのよ」
まさかの自由研究で、私は内心狼狽える。
算数や国語を手伝うなら問題ないけど、自由研究の類いを手伝うのは何気にコミュニケーション能力が問われる気がしたからだ。
「私や旦那は店があるしね。良ければ手伝ってやってくれないかい?」
「わ、私は大丈夫です、けど」
八雲君は初対面の私で大丈夫なのかと、彼を見れば、パッと視線を逸らされた。
その瞳は、居心地が悪そうに泳いでいて。
……もしかしてと思った矢先、ヒロが微笑んで頷いた。
「八雲は、お前と同じで人見知りするんだ」
「そ、そうなんだね」
私たちの会話を聞いていた女将さんが懐かしそうに目を細める。
「そういえば、凛ちゃんに会うといつもお父さんの後ろに隠れてたねえ」
「す、すみませんでした……」
記憶にないけれど、きっと挨拶をしてくれたりしていたのだろう。
それで緊張して隠れていたに違いない。
「いいのいいの。可愛らしかったよ」
女将さんはハンガーに洗濯物をひっかけると、八雲君に「あんたもいいよね?」と確認する。
八雲君は否定も肯定もせず、視線を膝に落としたままだ。
彼の気持ちは良くわかる。
知らない人と何かをするなんて、緊張するし不安ばかりが胸を占めてるはずだ。
なんて答えるべきかわからず黙ってしまう。
でも、そんな時、私はいつも思っていた。
嫌なわけじゃないんだと。
だから、私の緊張や不安なんてお構いなしに、笑顔を向けて手を引いてくれるナギの存在は大きくて。
私は、そんなナギのことを思い出しながら、シーツを物干し竿にかけて。
なるべく笑みを浮かべるように意識して、八雲君の前にしゃがんだ。
「えっと……八雲君、私は花岡 凛といいます。もし嫌じゃなければ、自由研究のお手伝いさせてくれる?」
頷いてくれたらいいなと願いつつ、声をかけてみる。
けれど。
「……オレ、行くとこあるから」
「えっ……」
彼の緊張をほぐすことができなかったようで、八雲君は家の中に逃げてしまった。
「こら八雲!」
女将さんが足を大きく広げて叫ぶをのを、私は「いいんです」と気持ちを落ち着けてもらう。
「きっと緊張してるんだと思うので」
近寄りたいけれど、少し怖い。
そんな気持ちが逃げに走らせる。
それは私にも経験があるからよくわかる。
あとで少し話しておくからと女将さんは言って、洗濯物をまた干し始めた。
私も続きを手伝っていると、みなか屋の店主である旦那さんがやってきて、ヒロに大きな発泡スチロールの箱を手渡した。
お礼を告げて受け取ったヒロは、帰る前に私に声をかけてくれて。
「大丈夫そうか?」
「わからないけど……少し頑張ってみる」
「そうか。お前なら八雲の気持ちもわかってやれるだろうし、うまくいくよ」
「うん。ありがとう。それと、定食のお代もありがとう」
これだけはちゃんと言わなければと、奢ってもらったお礼を口にすると。
「まあ、安いクリスマスプレゼントってことで」
気にするなと微笑んだ後、なにかあれば手伝うと言ってくれて。
ヒロが鳴らすバイクのエンジン音を聞きながら、私はまたシーツを手にし、広げる。
ふわりと清潔な香りがして、私はそれを肺いっぱいに吸い込んだ。