その無表情な顔に、私は幼い頃の彼の面影を見つけて。
「あ、の……ヒロ? ですか?」
ドクドクと心臓が暴れ始める中、勇気を出して尋ねた。
もしも違ったら申し訳ないので敬語で。
いや、よく考えたらヒロはナギと同じ年なので私より年上だから間違った対応ではないのだけど。
遠慮がちな私の声に女将さんが振り返る。
「あら凛ちゃん。ヒロ君と友達なの?」
「え、えっと、もしかしたらなんですけど」
人違いだったらごめんなさいと続けようとしたけれど。
「凛……花岡(はなおか)、凛?」
謝罪は、彼が私の名を口にしたことで紡がれることはなくなった。
「そ、そう! そうです!」
素っ気ない口ぶりだけど、穏やかさのある声は、一見、不良っぽい彼の心根の優しさを表しているようで。
「覚えててくれて良かった……」
喜びと共に心底安堵し、肩の力を抜いた私を見たヒロは、フと息だけで笑って表情を和らげた。
「感動の再会ってやつかい? ふふ、青春だねぇ。私は調理場戻るけど、ここでゆっくり話してていいからね」
そう言い残し、酒ビンや食材が入ったダンボールを抱え調理場へと去って行く女将さんに会釈する。
ヒロもペコリと頭を下げてから、再び私と視線を合わせた。
「いつからこっちに戻ってたんだ?」
「今日なの。さっき着いたばかりで」
だから、こんなに早くヒロに会えるなんて驚いたと伝えると、ヒロは「ホントだな」と頬を緩めた。
「お前ひとりか?」
問われて、私が首を縦に振ると、彼もまた短く「そうか」と頷く。
この一連のやりとりが、昔とあまり変わらなくて。
それが、なんだか嬉しくて。
ふふ、と笑みを零すとヒロが首を傾げる。
「なんだ?」
「うん……変わってないなって、嬉しくなったの」
元気そうで良かったと続けると、彼も白い息を吐き出しながら小さく笑った。
「お前もな。それで、島にはいつまで?」
「冬休みの間はいるよ」
答えると、ヒロは「そうか」とお決まりの相槌を打ちながら、黒いダウンコートのポケットに手を入れた。
彼の履いているジーンズの上には、紺地に白文字で【あだち酒販】と書かれた前掛けが巻かれている。
そういえば昔、ヒロが『うちはお酒屋さん』だと話していたことがあったなと思い出した。
勝手にご飯を食べるところだと決めつけていたけど、酒屋さんのようだ
ヒロは将来、酒屋さんを継ぐんだろうか。
ナギも神社を……と考えたところで、私はヒロにナギのことを聞くことにする。
「あの、ナギは元気?」
どこにいるの? と聞くのは、彼を目的に帰ってきたのだとアピールしているみたいで恥ずかしいので、まずはそう尋ねると、なぜかヒロは私から視線を外して黙った。
「ヒロ? ……もしかして喧嘩でもしたの?」
聞いていいものかと迷い、遠慮がちに確かめてみれば、ヒロは私と視線を合わせないまま小さく唇を動かす。
「そう、だな。それから、ナギとは話せてない」
どこか気まずそうな素振りで話すヒロ。
なんだか心配だけど、とりあえず彼の口振りから、ナギは元気なのだろうと思えた。
ヒロと喧嘩中なら、悩んではいるかもしれないけど。
「仲直りは、難しそうなの?」
原因が何かはわからないけれど、話し合えないのかなと思い、聞いてみた。
するとヒロは眉間にしわを寄せて、視線を足元に落として。
「……あいつ次第だな」
どことなく、独り言のように呟いた。
「あの時、俺が余計なことを……」
続けたその声が、なんだか辛そうだったから、思わず私まで眉をハの字にしてしまう。
「……ヒロ?」
大丈夫? と、声に出そうとして。
けれど、ヒロはハッとした表情を見せたかと思えば、詮索されるのを避けるように「悪い。次の配達あるから」と口にした。
「そ、そうだよね。お仕事中にごめんね」
「いや……。滞在中は、ずっとここに泊まるのか?」
ヒロの視線がまだ私には戻って来ない中「うん」と返すと、彼はようやく目を合わせてくれる。
「そうか。なら、また会いに来る」
「う、うん、ありがとう」
私と同じく、ヒロの中でも、私たちの関係が子供の時の話ではなく、まだ続いているのがわかって。
それを嬉しく思いながら頷くと、彼は「またな」と軽く右手を上げて踵を返した。
ざり、と地面を軽く蹴り鳴らして、ヒロは屋根付きのバイクに跨る。
エンジンをかけて、もう一度だけ私に手を上げて挨拶をして。
私が手を振り返すのを確認すると、すっかり陽が落ちてオレンジと紺が混ざり合う空の下を走り出した。
ふと、冷たい空気の中に冬の匂いを感じる。
ひとりになって、寒さにぶるりと震えた体をそっと抱きしめてから、私は勝手口の扉を静かに閉めた。
ヒロに再会できた喜びを胸に。
そして、明日、またヒロに会えたなら、ナギの居場所を聞いてみようと心に決めながら。
鏡の向こうで、身につけた勾玉のペンダントが太陽の陽を受けて一瞬光る。
身支度を整えた私は、洗面台から離れると部屋の隅に置いていたショルダーバッグとダッフルコートを手に取り部屋出た。
コートを羽織りつつ階段を下っていると、雑巾を手にした女将さんが私に気づいて「おでかけかい?」と笑みを浮かべる。
「はい。さっき女将さんから聞いた情報を頼りに、散歩に行ってきます」
実は、二時間ほど前、朝食を部屋に運んできてくれた女将さんに尋ねたのだ。
ヒロの実家である酒屋さんの場所を。
どうやら、民宿の目の前にある停留所からバスに乗り、十分ほどのところにある【天神(てんじん)商店街】の中にあるらしい。
「今ならバスはすぐ来るけど、商店街はまだ開店前だよ?」
女将さんは、小さな受付カウンターに雑巾を置いて心配そうに眉を寄せた。
私は慌てて両手のひらを振る。
「あ、えっと、そっちはまだで、先に教えてもらった展望台に行って、それから商店街に行こうかなって」
「なるほどね。気をつけていっておいで」
「はい。いってきます」
笑みと共に送り出されて、私はカバンを肩からかけた。
そうして宿を出るとタイミング良く姿を見せたバスに乗り込む。
展望台は女将さんが教えてくれた島のオススメスポットだ。
予渼ノ島には、この正式な島の名前とは別にもうひとつの名前がある。
それが【黄泉之島(よみのしま)】であり、死んだ魂が還る国である【黄泉の国】への入り口があるのだと昔から言い伝えられている。
展望台はその謂れの地に近い場所にあるらしく、亡くなった人への想いを抱えて訪れる人が多いのだと女将さんは教えてくれた。
黄泉の国に近い場所から強く想えば、その声が亡くなった相手に届くのだと信じて。
私も、八歳の時に父を亡くした。
優しくて、よく笑う人だった。
ちょっと天然ボケな一面もあり、方向音痴の父が時々迷子になると、母が呆れていたのを思い出し、私はバスの一番後ろの席でひっそりと笑みを零す。
この島で亡くなった父は、迷わず黄泉の国に行けたのだろうか。
父のお墓は母の希望で今住んでいるアパートから近いお寺に移した。
だから、普段はそっちで手を合わせているけれど、せっかく女将さんに教えてもらったし、ヒロのところへ行く前に展望台からも父に話しかけてみようと思ったのだ。
バスは島の中央部を目指し、緩やかな坂を登って。
やがて、予渼ノ島で一番高い位置にある停留所でバスは停まり、そこから歩いて五分もない場所に島を一望できる展望台に到着した。
時間が早いからか、観光シーズン外という時期的なものもあるのか、展望台には私の他に人の気配はない。
私は快晴の冬空の下、朝の澄んだ空気を肺に取り込みながら、三百六十度見渡せる展望台をゆっくり歩く。
太陽の光を浴びてキラキラとプリズムを放つ海をゆっくりと行き来する船。
港から伸びる道の先には観光客が多く訪れる市街地が見える。
風が吹けば島の木々が波打つように柔らかく揺れて。
私は、風で少し乱れた髪を押さえて青空を見上げた。
「……お父さん、私、元気だよ」
都会での生活では色々あるけど、こうしてひとり、お父さんとの思い出が残る島にも来れるくらいに成長もしたよ。
ここに来て、昨日、さっそくヒロに会えたの。
ナギにも会えるかな。
無事に会えるように、お父さんも祈っていてね。
心の中で話しかけて、コートの下の勾玉があるあたりに手を添えた直後。
そよ風に花の香りが乗って、私の花をくすぐって。
──ヒラリ。
小さな薄紅の花びらが、ひとひら。
「……桜?」
こんな時期にと珍しく思いながら、蝶が踊るように空を舞う花びらに向かって腕を伸ばし受け取る。
運良く手のひらに乗った花びらを見つめて、そういえばと、夢の中で狂い咲いていた花を思い出した。
この花びらは光ったりしていないし、現実的にそんなことはあり得るはずもないのはわかっている。
でも、どこからこの花びらがやってきたのかが気になって、私は辺りを見渡し桜の木を探した。
近くに植物園のようなところがあるのではと、展望台を降りて少し歩くと。
また、ひとひら。
桜の花びらが風に乗って私の元にやってきた。
それはひらひらと風に舞い、まるで導くように薄暗い林の入り口に落ちる。
見える限りきちんとした道はなく、細い獣道が伸びているのみ。
進んでいいものかと躊躇っていると、ふと、林のずっと奥に明るい色を見た気がして。
「……大丈夫」
少しだけ進んで、何もなさそうならすぐに引き返そう。
ダッフルコートの中から勾玉を引っ張り出してギュッと握りしめると、日差しの遮られた林の中へと一歩踏み出した。
木の枝や枯葉を踏みながら、やや足場が不安定な獣道をゆっくりと進む。
藪の中から動物や蛇が飛び出してきそうで、歩みの速度とは反対に早く早くと気が急いて。
風が葉を揺らす音にさえビクビクしている私の鼻に、再度、甘く上品な香りが届いた。
さっきよりも強く感じる香りに、桜の木が近くなっていると確信した直後。
「えっ」
香りの出どころに気を取られていたせいで、あると思っていた地面がいきなりなくなり、私は声を上げる暇もなく、傾斜のきつい土の上を滑るようにして落下した。
「い、たた……」
のそのそと土の上から体を起こし、自分の状態を確認する。
どうやら葉が多くクッションになったのが幸いし、手のひらを擦りむいただけて済んだようだ。
ホッ肩をなでおろし、顔を上げた瞬間──
私は、目の前に広がる光景に思わず声を失った。
足元に伸びる丈の短い緑の野原。
後方から吹く風に押されて、波のように身を倒す野原を囲むように並び立つのは……。
「これ……全部、桜だ……」
薄紅の花を咲かせた桜の木々。
太陽の陽を受けた桜は桃色というよりも白に近く見えて。
私は、ゆっくりと立ち上がると、柔らかく揺れる桜に見惚れながら緑の葉を踏みしめた。
下方に広がる優しい緑と、心を奪う可憐な桜の壁。
そして、空を見上げれば雲ひとつない青空が私を見下ろしていて。
完成された名画のような光景の中、感嘆の息を吐いて改めて見渡せば。
いつから、そこにいたのか。
桜の木々の下に青年がひとり佇んでいるのを見つけて、私は息を飲む。
桜を見上げるその人は、こちらに背を向けていて顔はわからないけれど、ひたすら似ていると思った。
今が現実なのかさえわからなくなるほど、あの日見た夢に。
それなら、彼は……と、青年が誰であるかを期待した刹那。
まるで、答えをくれるように彼がこちらを振り返った。