二人の間で張り詰めていたものがほどけていく。
ナギとヒロの瞳から、悲しい色が消えていくのが嬉しくてたまらなくて。
「良かった」
これなら二人の関係はもう大丈夫だろうと胸を撫で下ろすと、二人もまた私に優しい微笑みをくれる。
……そう。
二人はもう大丈夫。
だけど、ナギが打ち明けた事実に、私はゆっくりと笑みを納めた。
ヒロだけじゃない。
私の存在も、ナギの事故の原因になっていた。
呼ばれて、そして今、私が島に帰ってきてしまって。
それがきっと、不必要にナギの魂を呼んで死に近づけている。
私が、ここにいるから、ナギが。
それなら──。
決めると、私は大きく息を吸って、ナギを見つめた。
「会いたいと思ってくれて、ありがとう、ナギ」
私を求めてくれて、呼んでくれて。
島に帰ってこれた私は、たくさんの優しさに触れて、強くなれた。
私を支えてくれたナギ。
私の大切な、生涯ただひとりの初恋の人。
「私ね、ナギが目覚めるまで側にいたいと思ってた」
「……過去形?」
ナギの問いかけに、私は眉を下げて笑むとそっと頷いた。
「お母さんに相談して、また早めに戻ってくるつもりでいたの」
けれど。
「でも、ここにいれば私はナギを想って呼んでしまう。だから、私は早めに島を出る」
そして、ナギが目覚めるまで、戻ることはしない。
そばにいたいけれど。
目覚めるその時を、ナギの近くで待ちたいけれど。
その気持ちを抑えて、堪えて、ナギを見つめ続ける。
ヒロが瞳を伏せて。
ナギは真剣な表情で私を見つめ返していて。
「お母さんとの関係も、人との関りも頑張るよ。だから、ナギは早く起きて」
そして、生きていて。
死んだら終わってしまうから。
黄泉の国になんて行かないで。
そこに行ったら、もう会えなくてなってしまう。
独りよがりの想いを届けたつもりで、満足して。
ナギを求めて空を見上げるだけなんて、そんな苦しい時間は欲しくない。
「私は、ナギが生きている今が、明日が欲しいの」
かけがえのない毎日を。
精一杯、心のままに伝えると、どこか悲しそうに、けれど慈しみを滲ませて微笑むナギ。
「強くなったな。昔はさ、俺たちのうしろでモジモジしてたのに」
「ナギとヒロのおかげだよ」
昔と同じように、ナギが手を引いて、ヒロが背中を支えてくれたから。
ううん、それだけじゃない。
女将さんも、八雲君も、ヒロのお姉さんも。
私が踏み出すきっかけをくれた。
「この島に帰ってきて、二人とまた会えて、本当によかった」
感謝の気持ちを込めて声にすると、微笑むナギとヒロに微笑みを返して。
風に舞上がった桜の花びらに、どうか、どうかと、大切な人の幸せな行く末を請い願った。
何度目かのコール音のあと、聞こえてきた母の声は少し小さく潜められていた。
まだ仕事中だったようで、またかけ直すことを伝えたけれど、大丈夫だから用件はと尋ねられて。
「あのね、やっぱり明日、帰ることにしたから」
先程変更してもらったばかりのフェリーのチケットを手にしながら伝える。
あのあと、ナギはまた力尽きるように消えてしまった。
様子を見に行ってくると病院に向かったヒロからは、やっぱりナギの容態が悪くなっていてウロウロできる力もなかったのだろうと電話で聞かされて。
グズグズしてはいられないと、雪が降り始める中私は港へ急行し、フェリーの予約を変更してもらった。
飛行機もさっき電話で空きを探してもらい、どうにか帰れる目処がたったところだ。
『渚君の意識は?』
オフィスから離れたのか、母の声がいつものトーンに戻る。
「まだ戻ってないの。でも、私は私のすべきことを頑張るって決めたんだ」
コロコロと予定変更ばかりしてごめんなさい。
謝ると、母は『それは気にしないでいいわよ』と言ってくれた。
その上。
『時間は? 荷物多いだろうし、迎えに行けそうなら行くわ』
気まで使ってくれて、私は一応時間を伝えつつも、仕事もあるだろうし無理はしないでとお願いした。
互いを気遣うようなぎこちない間は存在するけれど、それでも今は満足で。
よくなっていく状況に、通話を終えた私は勾玉を優しく包むように握りしめる。
このままいい流れになるようにと。
ナギの命をしっかりと繋いで、早く目覚めるようにと。
祈って、私は女将さんに帰ることを伝えに部屋を出たのだった。
着信が鳴り響いたのは、スーツケースに荷物を纏めていた時だ。
窓の外では未だ雪が降り続けている。
ディスプレイに表示された名前を見て、私は何かあったのではと、どうにも嫌な予感を胸にスマホを耳に当てた。
「ヒロ、どうしたの?」
『今、ナギと一緒か!?』
「え? い、一緒じゃないけど……」
慌てふためくヒロの声に、胸騒ぎは強くなっていく。
杞憂であって欲しい、予感なんて外れて欲しいと祈りながら、何かあったのかと口にする前に、ヒロが悲痛な声で言った。
『ナギが……危篤、状態になった』
一瞬つかえた声は、彼の動揺を伝えていて。
「ナ、ナギ……」
全身の血が冷えていくような感覚が私を襲った。
急いで病院にと、立ち上がってふと思い至る。
死の間際にいるというなら、もしかしたら。
「わ、私……御霊還りの社に行ってくる」
黄泉路を渡る前に引き止めなければと、スマホを耳に当てながらコートを掴んだ。
『待て凛。雪も降ってるし、もう暗いからあの林を抜けるのは危ないぞ』
「危なくても行かなくちゃ!」
幸い、吹雪くような雪じゃない。
時間だってまだ九時を回ったばかりだ。
「ナギがいたら戻るように話すから、ヒロは病院で待っていてあげて」
『凛!』
なおも止めようとするヒロ。
申し訳なく思いつつも、通話を切って部屋を出ると慌ただしく階段を駆け下りる。
何事かと驚いたのか調理場から女将さんが顔を出して。
「いったいどうしたの?」
「ナギが……幼馴染が、危篤にっ……」
自分で言葉に出した危篤という響きはずっしりと重く、音にした途端、今、かけがえのない存在が遠くへ行こうとしてることをまざまざと感じさせられて恐怖を覚える。
心に絶望感が満ちて、眉を悲しげに寄せて驚く女将さんにお辞儀をして。
「私、行ってきます!」
それだけ伝えると、みなか屋を飛び出した。
バスは七時を過ぎるともう走っていないので、明日返す予定だったヒロの自転車に跨った時だ。
「凛ちゃん! 車出すから乗りなさい!」
コートを肩にひっかけた女将さんが愛車のドアを開けて運転席に乗り込む。
早くと促されて、彼女の優しさに瞳を潤ませながら、私は自転車を置くと助手席に座った。
気持ちが焦る中、私は車内で説明する。
以前話した幼馴染が危篤状態に陥っているとヒロから連絡があったこと。
その幼馴染とは、幽霊みたいな状態で私と会っていたこと。
その彼を、今から引き止めにいくのだと。
女将さんは驚きつつも、疑わずに真剣に話を聞いてくれて。
雪が積もり始めた道を慎重に、けれど急いで車を走らせてくれる。
やがて御霊還りの社に続く林の入り口で車が止まると、扉を開けた私に女将さんは言った。
「ここで待ってるからしっかり頑張っておいで。帰ったら一緒に温かい紅茶を飲もうね」
「はい!」
大きく頷くと、私はスマホのライトをつけて林の中へと足を踏み出した。
うっすらと雪をかぶる獣道を進んでいく。
夜の林は暗くて薄気味悪い雰囲気に包まれているけれど、恐怖心を振り払うように私は足を前に前に向かわせる。
そして、身を切るほどの寒さの中、辿り着いた御霊還りの社は。
「これ、は……」
ナギが呼んでいた夢のように、どこもかしかもが白に染められていた。
足元には絨毯のように広がる雪と、それを囲む冬桜の木々。
はらりはらりと舞い散る雪と桜の花びら。
頭上の雪雲の向こうに、淡く光る月がうっすらと見えていて。
「……ナギ、いないの?」
しんと静まり返った空間に、私の声が溶けていく。
ライトを消したスマホにヒロからの連絡はない。
それはきっと、まだ、ナギが生きている証拠。
「ナギ……ダメだよ、ダメ」
小さく頭を振って、ぐるりと辺りを見回した。
涙で滲む景色の中に、ナギはいない。
ただ、ひたすらに白い景色が続いているだけ。
「お願いだから、まだ逝ってはダメ」
どうか逝かないで。
吐き出す息が震える。
ああ、今ならよくわかる。
神様が愛しい巫女の魂を自分の元に引き留めたのが。
大切に想う人が離れていくなんて。
会えなくてなるなんて。
そんな苦痛、耐えられない。
胸元の勾玉を引っ張りだして、両手で包む。
「神様、お願いです」
かつて、巫女の魂を自らの魂と繋げたアメノヨモツトジノカミ様。
その行先が、自らの死に繋がるとしても。
「私の命で彼を助けられるのなら、彼の魂を繋いでください」
ナギの命を繋ぎ止めて、家族を失って居場所を求める彼に、どうか、温かな幸せを。
心から願って、俯いた顔を上げた刹那。
雲の隙間からゆっくりと満月が現れて、御霊還りの社を月光が照らしていく。
月の光を受けて、風に舞う花びらが、雪が、淡く光る。
幻想的な光景に息を漏らしたと同時。
──リリン。
たまゆらが知らせる。
「そんなこと、俺が許さない」
ナギが、ここにいると。
「神様が許しても、俺は許さない」