「お願い」
ナギを背に庇うように二人の間に立って、無理矢理にもピリピリとした空気を追い払おうとする。
ヒロは止めに入った私を見つめ、仕方なさそうなにため息を吐いた。
「とにかくさっさと体に戻って起きろ。話の続きはそれからだ」
「じゃあ戻らない」
「っ……ナギ、お前いい加減にしろよ!」
今度は私を間に挟むように言い合いになって。
けれど、ヒロがふいにジーンズの後ろポケットからスマホを取り出してそれは中断された。
どうやらメッセージが送られてきたらしく、ヒロは軽く舌打ちをすると「家に戻る」と苛立ちながらまたスマホをポケットにしまう。
「ナギ、とにかく戻れよ。いいな」
念を押すようにナギを指差して、踵を返したヒロにナギは返事をしなかった。
私はゆっくりとナギを振り返る。
すると彼は、私へと手を伸ばしてきて。
「……ああ、やっぱりダメか」
頬に触れようとした手が通り抜けるのを確認する。
そして、ヒロがいたから触れないのかと思ったんだけどと寂しそうに零した。
「ナギ……戻って」
戻らないと、触れないだけじゃ済まなくなる。
だからどうか早くと願うも、ナギはゆったりとした動きで首を横に振った。
「戻り方なんて知らないんだ。気付いたら、いつも凛に会いに来てるだけだからな」
「……私?」
「ごめん。少し眠いから、ヒロには俺のことはかまうなって……言っといて」
ごめん、と。
もう一度弱々しく声にしたかと思えば、ナギは。
最初からそこには何もなかったかのように、景色に溶けて消えてしまって。
「ナギ……?」
どこを見渡してもナギの姿を見つけることができず、辺りにはただ、夕陽に染まり始め、静かに花びらを落とす桜の木々があるだけで。
「……ナギ、戻れたの?」
それは、本当に彼が魂のようなものなのだと痛感した、切なく苦しい瞬間だった。
夕暮れの橙色が藍色へと変わる前に、私は御霊還りの社を出た。
目的地はナギが眠る総合病院。
幸いにも病院近くで停車するバスが展望台前の停留所から出ていて、私はヒロにメッセージを送ったりしながら二十分ほど待って少し早めに到着したバスに乗り込んだ。
車内では初詣帰りらしき老夫婦が、大きな紙袋から破魔矢を取り出して「大きすぎたかね」なんて会話をしている。
和やかな雰囲気なのに、私の心はほっこりするどころか切なさを覚えていた。
こうした日常に参加できないナギの現状を思うと胸が痛い。
もし、ナギが事故に遭わなければ、今頃私たちもこんな風に初詣から帰ってきていたのかな。
ナギと、ヒロと、私の三人で。
適当なことを口にしてふざけるナギに、面倒そうな顔でヒロがクールに突っ込みを入れて。
そんな二人を笑いながら見守る私。
訪れなかった今を想像して、またツキンと痛む胸。
堪えるように左肩を右手でギュッと掴んだ。
ナギが触れようとして、なんの感触もなくすり抜けた肩を。
ナギは、ちゃんと戻れたのだろうか。
容態は安定しているだろうか。
不安ばかりが押し寄せて、見るともなしに窓に流れる陽の落ちた景色に視線を置く。
どうして、うまくいかないんだろう。
人付き合いも、お母さんとのことも、ナギが目を覚まさないことも。
ナギのことに関しては私が動いてどうにかなるようなことじゃないけれど、それでも、彼の人生を思うと運命というものを恨みたくなる。
ううん、私のことはいい。
せめて、ナギだけでもうまくいって欲しい。
願って、祈って、バスを降りて。
ヒロと来た時の道順を思い出しながら廊下を進み、ナースステーションで受付を済ませると、逸る気持ちを抑え、そっとナギの病室の扉に手をかけた。
室内にはモニターの電信音だけが聞こえていて、それはナギに大きな異常がないことを告げている。
酸素マスクはつけられているものの、呼吸を繰り返し眠るナギを見て、私はようやく肩の力を抜いた。
「よかった……」
衰弱が激しいと聞いていたし、もしかしたら更に悪化して看護士さんや先生に囲まれていたらどうしようかと思っていたけれど、そこまで緊迫した状況ではなさそうだ。
でも、お医者さんが覚悟という言葉を伝えてきたなら、それなりに危険なはず。
けれど、今はちゃんと体と魂がひとつになっているから少しは安定しているのかもしれない。
そんな予測をして、ベッドの横に立ち彼の様子を見守る。
静かに胸を上下させるナギ。
彼の眠るベッド横には、木製のサイドテーブルが設置されている。
そこに置かれているのは、二十インチほどの液晶テレビと、ナギの物であろうスマホ。
何度かけても繋がらず、メッセージの返信がないのも、今のナギの状態なら当たり前だ。
連絡先を聞いた時、ナギはスマホがないと話していた。
あの時点では間違いなく自分の状態を知らなかったんだろう。
今ナギはどんな気持ちで眠っているのか。
早く、目覚めて。
そう祈った時。
眠るナギの手に何かが握られているのに気づいた。
意識のない彼が、一体何を手にしているのか気になり、私はそっとその手に触れる。
私とは違う少し固い指先に力はなく、白いシーツにポロリと落ちたそれは。
「勾玉だ……」
私とお揃いの勾玉だった。
病室を照らす蛍光灯の光を受けて、一瞬キラリと光ったそれを手にした直後、カラカラと音を立てて扉が開き、女性の看護師さんが入ってくる。
「こんばんは。点滴を替えにきました」
「は、はい」
邪魔にならないようにと、勾玉を手に取ったまま一歩後ろに下がれば、看護師さんが私の手にある勾玉を見た。
「それ、神城さんのですよね?」
「は、はい。何持ってるんだろうって、気になって」
「その勾玉ね、事故で運ばれてきた時にしっかりと握ってたんですよ。それで、大切なものなんだろうからって、握らせてあげてるんです」
「そう、だったんですね……」
事故に遭ってもなお、その手に握っていた勾玉。
ナギにとっても、それほどに大切なお守りなんだ。
私はナギの手に勾玉を再び握らせる。
看護師さんは点滴を新しいものに取り替えると、何かあれば声をかけてくださいねと言い残して部屋から出た。
また、室内が静かになって。
瞼を閉じ続けるナギの顔を見つめる。
ふと、ヘッドボードのネームプレートが目に入って、私はそれになんとなく読んだ。
【神城渚様】
【主治医 藤田Dr.】
【血液型 B型】
【入院日 十一月十一日】
「……十一月、十一日」
その数字が一瞬心に引っかかって、何かあっただろうかと頭を傾げたと同時、思い出した。
夢を見た日が、十一月の十一日だったのだ。
もしかして、もしかすると。
「……私は、やっぱり呼ばれたの?」
ナギに。
ずっと会いたいと思っていたと言ってくれていた、私も会いたいと思っていた、初恋の人に。
予想を口にして、勾玉を包んでいるナギの手を見つめ続けて。
どのくらいそうしていたのか。
立ち尽くしていた私の耳に、再び扉が開く音が聴こえて視線をそちらにやる。
現れたのは、バスに乗る前にナギの伝言とこれから病院に様子を見に行くことを伝えておいたヒロだった。
「……ナギは、戻ってるのか?」
「多分……。ヒロ、用事は大丈夫?」
「とりあえずはな。それより、ナギだろ。眠いって言って消えたのか?」
私の横に並んで立つヒロに、私はひとつだけ頷いて答える。
「……完全に弱ってるじゃねーか」
「どうしよう、ヒロ。ナギがこのまま……」
死んでしまったら。
その言葉は、声に出してしまったら本当になってしまう気がして言えなかった。
でも、ヒロには伝わったようで、彼は拳をギュッと握る。
「……そうなったら、俺のせいだ」
「……どういうこと?」
なぜ、ナギの事故にヒロが関係するのか。
眉を寄せ、後悔を滲ませた横顔に問いかけると、ヒロは少しの沈黙の後、教えてくれる。
──それは、ナギのお祖母さんの葬儀も終わった翌月のこと。
ナギとヒロは、友人の家に一緒に出かけた帰り道を歩きながら、今後どうするのかを話していたらしい。
ヒロはもちろん家業を継ぐと話して。
ナギは祖父母の残した神社を継ぐのだと、ヒロは思っていた。
けれど、ナギの口からは別の言葉が出てきた。
『俺は、神社は別の人に託そうと思う』
『……託すって、手放すのか?』
『ああ。それで、島を出る』
決めたと言い切ったナギに、ヒロは反対したらしい。
『お前、頼まれてたんだろ? お祖父さんとお祖母さんに、神社をよろしくって』
『そうだな。でも、決めたんだよ』
卒業したら島を出るのだと譲らないナギ。
そんな彼を、ヒロは認められなくて。
『無責任だろ。約束したんだから果たせよ』
強い口調で責めると、ナギは『お前にはわからないだろ』と言い放ったそうだ。
「ただいま」と言える家族がいるヒロにはわからないと。
何も言い返せずに立ち止まったヒロを、ナギは振り返った。
『ここに、俺の居場所はもうないんだ』
後ろ歩きで、悲しい言葉を残した直後。
『ナギ!』
ナギは、猛スピードで歩道に乗り込んできた車に跳ねられた。
語り終えて、ヒロは苦しさを逃すように息を吐く。
「事故直後、俺のせいだと思った。立ち止まらなければ、タイミングがズレてナギが轢かれることはなかったって。でも、ナギの責任感のなさが、俺には許せなかった」
正直、今でも許せない。
でも、ナギが残した居場所がないって気持ちを汲み取れなかった自分も許せない。
「小さい頃、ひとりだった俺に居場所を作ってくれたナギに、俺は何も言ってやれなかった」
「ヒロ……」
そうか。
ヒロもまた、ナギを支えにしてきたひとりなんだ。
苦手な性質の違いはあれど、人付き合いが得意じゃないヒロも私も、ナギという居場所に救われていた。
「ヒロ……話してくれてありがとう」
お礼を告げると、ヒロはゆるゆると頭を振る。
「お前がナギに会いたがってるの知ってたのに、ずっと黙ってて悪かった」
ヒロの謝罪に今度は私が首を横に振ってみせた。
そうして、私たちは面会時間ギリギリまで、ナギの様子を見守って。
明日こそ目覚めることを願いながら、病室の扉を閉めた。