『──凛(りん)』
誰かの声に呼ばれた気がして、私はゆっくりと振り返った。
けれど、そこには誰の姿もない。
というより、ここには何もなかった。
足元さえも見えない真っ暗な空間。
自分がきちんと地に足をつけているのかも怪しく思えてくるこの場所に、私はどうしているのか。
いつから、立っていたのか。
瞬きをしても、目の前は相変わらず黒、黒、黒。
自分の存在までもがこの暗闇に溶けてしまったのではと、不安に駆られ、声を出そうと唇を開いたら。
ヒラ、と。
薄紅色の花びらがひとひら、淡く光を放ち私の前に降ってきた。
ひらり、ひらりと。
風もない暗闇の中を揺れて舞うように。
優しい灯りを纏う花びらは、この真っ暗な空間において希望の光のようで。
けれど、どこか儚さを感じ、私はそっと両手を伸ばして花びらを受け取った──刹那。
リリンと音が鳴った。
水面に広がる波紋のような、美しい鈴の音が。
途端、手に乗った花びらが光を膨張させ、花が開くように一気に広がり、弾ける。
眩しさに思わず目を瞑り、数秒の後にゆっくりと瞼を持ち上げると、景色は一変。
辺りは、薄紅色の花びらで埋め尽くされていた。
頭上には夜空に煌々と浮かぶ満月。
足元には散った花びらたちが絨毯のように敷き詰められていて、一帯を囲むように薄紅色に染まる桜の木が立ち並んでいる。
そうか。この手に乗る花びらは桜だったのかと改めて手のひらの花びらに視線を落とすと。
『凛』
また、名前を呼ぶ声が聞こえて。
私は視線をツ、と持ち上げる。
今度は、見つけることができた。
名を呼んだであろうその人は、私から十メートルほど離れたところに立っている。
でも、花々が淡く発光しているせいか、相手の顔をしっかりと確認することができない。
それでも、相手が自分とは違う男性であることはその体つきから見てとれた。
知っている人だろうか。
でも、私の周りには、私を名前で呼ぶ人は母と、中学からの唯一の友人である八木原 朋美(やぎはら ともみ)だけだ。
とはいえ、ここが現実とは思えず、夢であれば私が生み出した人物なのかもしれないと考えて。
「……誰、ですか?」
とりあえず、声をかけてみた。
元々、私は人付き合いが得意な方ではない。
ここが夢の世界であるならば、せめて明るい声を出してみたいところだが、夢の世界でも私は私らしい。
遠慮がちに発した小さな声は、相手に届いていなかったのか、返事はなかった。
彼は身動ぎひとつせず、こちらを見続けている。
沈黙に居たたまれなくなって、視線を外そうとした時。
ある物に気づき、私の目は釘付けになる。
彼の首から下がっているペンダントに覚えがあったからだ。
というか、それは私もいつも身につけている物だった。
淡い碧色の勾玉と呼ばれるお守り。
咄嗟に自分の胸元を確認すると、私のペンダントはしっかりとある。
では、なぜ彼が、と考えた瞬間、もう一人の持ち主を思い出した。
「……ナギ?」
自然と唇がその名前を紡ぐと、彼の手がそっとこちらに伸ばされる。
相変わらず顔はハッキリと見えないけれど、ナギなのではと思ったら躊躇いなど霧散した。
私は、彼の手に己の手を重ねるべく一歩踏み出す。
歩く度に、花が足元でふわりふわりと舞い踊り、上品な甘い香りが鼻をくすぐって。
いよいよ白い指先が絡まろうとした刹那──。
目の前の彼は、その姿を無数の花びらに変えて。
空気に溶けるように、消えてしまった。
そして、目の前にある全ては、テレビの電源が落ちるように突然終わりを迎えた──。
ハッとして顔を上げる。
音楽も何もつけていない静かな自室には、私の息遣いと、壁掛け時計の秒針が時を刻む音だけが聴こえているのみ。
どうやら私はテーブルの上に突っ伏して寝ていたようだ。
読んでいた文庫本は白い折り畳みテーブルから落ちて、毛の長いラグマットに倒れている。
私はそれを拾い上げながら、壁にかかるアンティーク調の丸い時計を見た。
もうすぐ日付が変わろうとしている。
家には私以外の気配は感じられず、母は彼氏と昼間からデートに出かけたきりで、まだ帰ってきていないようだ。
「……ナギ」
夢の中、最後に紡いだ名前を呟く。
顔は見えなかったけれど、呼んだら手を伸ばしてくれた。
それなら、あれはきっとナギだったのだろう。
私は、首から下がる勾玉をそっと手に取り眺めた。
五百円玉ほどの大きさがあるこの勾玉は、八年前……私が小学校三年生の時に転校する際、仲良しの男の子の一人、ナギからもらったものだ。
当時、私は、人口が一万人ほどの離島、【予渼ノ島(よみのじま)】に住んでいた。
住人は皆穏やかで、時間もゆったりと流れているような印象が幼いながらにも残っている。
今、毎日を過ごしているこの都会は電車もバスもひっきりなしに行き交っているし、少し歩けば欲しいものも手軽に入手できて便利だけど、他人に関心があるようでいて無関心な雰囲気がある。
その無関心さは、人付き合いが苦手な私にはちょうどいいのかもしれない。
けれど現在、その効果はあまり発揮されていない。
高校生である私は、一歩学校に入れば集団で過ごさなければならず、友人関係を築く必要があるからだ。
全員と仲良くする必要はないとわかっているし、実際仲良しなのは朋美だけ。
他の子たちとは特に深く関わったことはなく、少し目立つタイプの子たちとは挨拶以外では話したこともない。
自分でももう少しどうにかならないかと思う内向的なこの性格は、昔からのものだ。
母から聞いた話だと、私は生まれてからずっと人見知りがひどかったらしい。
家族以外と接する時は、母や父の後ろに隠れたりしながら、首を縦に振ったりして相手とどうにかコミュニケーションを取っていたとか。
保育園でも毎日親と離れるのを嫌がって泣いて過ごしていた私だったけど……。
そんな毎日を変えてくれたのが、ナギだった。
『これ、おもしろいよ』
保育園にあるオモチャを私に差し出して、とびきりの笑顔でオススメしてくれた男の子。
戸惑う私のことなんて気にした様子もなく、ナギは自分が楽しいと思ったものを私に紹介してくれた。
それが、少しずつ楽しみになって。
いつしか保育園に行くのが嫌じゃなくなって。
ナギの事が大好きになった。
だから、父が病気で他界し、母の実家のある都会に引っ越すことが決まった時は泣きじゃくったのを覚えている。
ナギの前でも泣いてしまい、そうして、励ますように手渡されたのがこの勾玉だ。
『これ、オレが持ってるのと合わせると、ひとつになるんだ。じいちゃんからも、繋ぐ力があるって聞いた。これがあれば離れてても繋がってる。だから、凛。大丈夫』
優しい笑みを浮かべ、私の手に勾玉を握らせて。
私に勇気をくれた人。
思い出すだけで心を切なく震わせる、私の初恋。
そして、今でも変わらずに想い続けている、好きな人。
想いを胸に勾玉に触れながら窓の外に視線をやれば、秋の夜空には綺麗な三日月が浮かんでいる。
……なぜ、あんな夢を見たのだろう。
もし朋美に話したら、私の想いが作り出したものだと笑うかもしれない。
それは大いにあり得るのだけど……。
なぜだか、さっきから落ち着かない気持ちが消えない。
ナギのことが無性に気になるのだ。
会いたい、と。
常に淡く胸の内にあった願いが強くなる。
私は足下に置いていたスマホを手にしてカレンダーを確認した。
今日は十一月十一日。
来月には冬休みに入る。
母に頼んで、冬休みの間だけ島に帰りたいと頼んでみようか。
きっと、彼氏とゆっくりと過ごせるし、ダメとは言わないだろう。
私も、最近よくこのアパートに訪れる母の彼氏に気を使わなくて済むし、用事なんてないのに出かけたりする必要もなくなる。
悲しいかな、友人の少ない私は交際費もあまりかからず、本屋のバイトで稼いだ貯金もそれなりにあるから、安い民宿なら二週間くらいは滞在できるはずだ。
バイトも今ならシフト申請提出に間に合う。
私はチラリとアンティーク時計を見た。
すでに時刻は新しい日を迎えている。
この分だと、母はまた朝帰りかもしれない。
相談があるとだけメールをしておくことにして、私はベッドに潜り込む。
そして、縋るように勾玉を手で包むようにしながら、瞼を閉じた。