たまゆらなる僕らの想いを



島に行ったのが悪いような言い方に、私は唇をきつく噛む。

私のことならまだいい。

でも、ナギやヒロ、女将さんの優しさを否定されたようですごくショックで。

どうしてそうしたいのかさえ気にしてくれない母に苛立って。

だから、黙っていらずに私は吐き出した。


「……おかしくなったのは、お母さんだよ。おばあちゃんちにいた時はまだ良かった。お母さんは私の将来の為にって必死に働いてくれていたの知ってたよ」

『そうよ。今だって頑張って働いてるじゃない』

「それは私の為じゃなくて、彼氏との時間の為でしょう!?」


私の為にと早く帰ってきたことはないけれど、彼氏に会うからと定時で帰ってきては出かけて。

頑張って作った夕飯は味見さえしてもらえず、私はまたそれを次の日の夕飯にしていた。

母にとって、私はなんなのか。

ずっと、ずっと気になって、苦しくて、辛くて。


「私が出ていけば、彼氏と同棲できるしちょうどいいでしょ」


邪魔なら。

いらないのなら。


『……凛、とにかく一度帰ってきなさい 』


それからきちんと話そう。

母はそれだけ告げると、電車に乗るからと通話を終了させた。




「……否定、してくれないんだ」


どこかで期待してたのだ。

あの日聞いた言葉は何かの間違いで、凛も大切だと、言ってくれるのを。

でも、過去の想いと仕事に関して認めただけだった。

目頭が熱を持つ。

唇が戦慄いて。

──ポタリ。


「ふっ……」


ポタリと。

頬を伝う涙は止まらず。

ただひたすらに、漏れそうになる嗚咽を両手のひらで留めて。

迷わず、強く立てる大人に早くなりたいと、ゆっくりと暮れ始めた空と緑溢れる山の稜線を眺めながら、願っていた。










悲しくて、悲しくて、どうしようもない時は、水の中で生きられたらと、そう思うことがある。

透き通る水底にたゆたえば、見上げた水面には光が反射して綺麗で。

音は遠く静かな水中では、どれだけ泣き叫んでも声はくぐもり、涙を流しても水に溶けて消えていく。

そんな想像から私は、どうしても我慢できずに泣きそうになると、お風呂に入るようにしていた。

堪えて、お湯を張って、肩まで浸かって。

泣いて涙を流したら、呼吸を止めて温かいお湯の中に沈む。

そうして顔を上げた時、私の頬には涙のあとはなく少しだけ心も落ち着きを取り戻すのだ。

でも、ここは自宅じゃない。

だからどうにか堪えたかったけれど、今回は我慢できかなかった。

自宅であれば大抵ひとりだから何も気にすることはないけど、ここはみなか屋。

泣いたまま部屋を出て、誰かに見られては困るし、心配もかけたくなくて。

だから、涙を拭いて、人の気配がしないのを確かめてから私はお風呂へと向かった。

ヒノキの香りに包まれ、泣き腫らした顔を洗う。

洗い場の鏡に映る私の瞼は少し腫れぼったいけれど、これなら誤魔化せる範囲だろう。




体を洗いシャワーで流し、ゆっくりとお湯に浸かって。

そっと瞳を閉じると自然と母の言葉を思い出し、胸がまた痛む。

いつもより感情が揺れているのは自分でもわかっている。

風船のように少しずつ膨らみ続けていた思いがついに爆発し、母に気持ちをぶちまけてしまったせいだ。

私の言葉はきっと、母を傷つけただろう。

もっと他に言い方があったはずなのに。

あんな意地の悪い言葉をぶつけてしまうなんて。

はぁ、と小さく溜め息を落とし、湯船の濁り湯を両手で掬い上げる。

湯は指や手の隙間から少しずつ流れ出て。

そうやって零れ行くのをぼんやりと見つめ体を温めていれば、お風呂に入る前に比べると僅かに心が凪いでいくのを感じ、私は静かに瞼を閉じて浴槽に背を預けた。

そして、数十分後──。


「暑い……」


つい長湯になってしまい、火照った体を冷ましながらひんやりとした廊下を歩いて部屋に戻る。

そうしてパタリと畳の上に横になって、ほのかな井草の香りを感じると同時に、座卓の上に放置していたスマホに手を伸ばした。




母からは連絡はない。

そして、ナギからも音沙汰はないまま。

ナギに──会いたい、な。

いつもなら、勾玉に触れて願うだけ。

触れて、心を落ち着けて。

少しずつ、また頑張ろうって心を回復させていく。

でも、この島にはナギがいる。


『少しでも悩んでいて、少しでも変わりたいと思ってるなら、たまには勇気を出してみるのもいいんじゃないか?』


ねぇナギ。

少しだけ、甘えさせてもらってもいいかな?


『それでもし傷つくことがあったら俺が癒してやる』


もしも迷惑じゃないのなら、会って、今日のことを聞いてもらいたい。

ナギだったらどう考えるか、聞かせてもらいたい。

私は、まだ一度も返信のないナギとのチャット画面を開き、明日の昼過ぎに御霊還りの社で待ってるとメッセージを入れた。

どうか、ナギが見てくれますように。

そう願い、翡翠の勾玉をキュッと握りしめた。




母のことで悩んで、ナギの返信が気になって。

なかなか寝付けず寝不足気味で目覚めた翌朝。

起き抜けの寝ぼけ眼でスマホを確認しても、未だにナギからの連絡は何もなかった。

母からも連絡はなく、怒っているのかも悲しんでいるのかもわからない。

本当なら、すぐにでも「嫌な言い方をしてごめんなさい」と謝るべきなのだろう。

頭ではそれがいいんだって理解しているけれど、そうすることは躊躇われた。

私が大切に思っている幼馴染や、優しく思いやってくれる人、思い入れのあるこの島を悪く言われたのが引っかかっているから。

……とりあえず、女将さんには一度帰って来いと言われたことは伝えておかなくちゃ。

昨夜、落ち込んでいたせいであまり夕飯が食べられず、気にしていてくれてたし。

温かい布団に丸まったまま、カーテンの隙間から差し込む朝日を眺める。

まだ少し眠いけれど、朝御飯を食べたら八雲君の自由研究の手伝いがある。

しっかり目を覚まさないと。

それで、昼食を軽く済ませたら御霊還りの社に行ってみよう。




今日の予定を頭の中で確認して、スマホを手にしているついでに、昨日ネットで検索した玉響物語について詳しくまとめられているサイトを開いた。

玉響物語とは、奈良時代から語り継がれている予渼ノ島が舞台の日本神話。

内容はフィクション説が色濃いとされているけれど、物語に描かれている人の娘にはモデルとされた女性がいるらしく、それ故に実話なのではと信じている人も多いとか。

娘は名を翡翠といい、物語には勾玉が用いられている。

その関係から、この島では勾玉を名産品として扱っていて、女性の観光客にはお土産にストラップやアクセサリーとして人気なのだとか。

私はスマホを操作して、物語が綴られたページを表示させる。

そうして、あとで物語をわかりやすくまとめる為に復習した。




『玉響物語』


まだ、日の本の平定に向けて神々が人と共にあった時代。

黄泉乃島(予渼ノ島)に一柱の神が、神々の住まう高天原より降り立ちました。

その神の名は【アメノヨモツトジノカミ(天乃黄泉刀自神)】といい、黄泉乃島にいくつかある黄泉の国への入り口を管理し見守る役割を担っておりました。

ある時、アメノヨモツトジノカミの元へ一人の美しい巫女が訪ねてきました。

巫女は言います。


「わたくしは、アメノヨモツトジノカミ様にご奉仕するようにと、昨夜、アマテラスオオミカミ(天照大御神)様よりお告げを承りました翡翠(ひすい)と申します。何卒よろしくお願い申し上げます」


アメノヨモツトジノカミの社にはまだ自分しかおらず、巫女のことを大層喜び迎え入れました。

また、巫女は心の根が優しく聡明な女性であり、アメノヨモツトジノカミはいつしか巫女に心を寄せるようになりました。



そんなある日のこと、命を落とした一柱の姫神が、黄泉路で自らの死を嘆き怒り狂い、入り口まで引き返してきたのです。

そればかりか、穢れを持って巫女の身体に乗り移ってしまいました。

巫女の意識は遠くに追いやられ、穢れを纏った身体が一歩歩くごとに辺りの草花は腐っていきます。

アメノヨモツトジノカミは黄泉の国を統べる大神(オオカミ)に力を借り、姫神を巫女の体から引きずり出しましたが、巫女は穢れをその身に宿した為に命は風前の灯火でした。

アメノヨモツトジノカミは巫女を抱き起こし、どうにか魂を引き止めようと言葉を紡ぎます。


「翡翠よ。どうか逝かないでくれ。私の側にいてくれ。私はそなたと夫婦になりたい。翡翠、逝ってはならぬ。どうか、どうか……どうか」


しかし、巫女はぐったりとしたまま身動ぎすらしません。

このまま巫女の魂が黄泉路を渡れば、いくらアメノヨモツトジノカミといえども追うことはできません。

泣き濡れながら、アメノヨモツトジノカミは決心します。

自らの命を巫女の命と結ぼうと。