声を失った美しき男、ティエンを拾って早ひと月。
ユンジェは彼と、仕事に出向くことが日課となっていた。
ティエンの怪我は十日足らずで完治したものの、彼には帰る家がなく、他に行く所もなかった。彼自身も、今後について深く悩んでおり、日を増すごとに表情が暗くなった。
ユンジェには、彼の事情など一切分からない。
何故、森の中で倒れていたのか。怪我をしていたのか。声を失っているのか。見たこともない、美しい衣を着る彼の身分すらも。
しかし、困っていることはよく分かった。
そこで彼に提案した。
「ティエン。助けた代わりに、俺の仕事を手伝ってくれよ。もうすぐ収穫の時期で、一人じゃ大変なんだ」
このまま家にいても良い。
素直にそう伝えるよりも、彼に役割を与えた方が、ティエンも要らない気遣いをしなくて済むと思った。
察しの良い彼は、ユンジェの意図に汲み、何度も頷いてくれた。どこか泣きそうな顔だった。
こうしてティエンは、ユンジェの手伝いを始める。
華奢な体をしている彼は、見た目通りの非力なので、木を伐ったり、鍬で芋を掘ったり、重い物を持つことはできない。
それでも畑や森に連れて行くと、見よう見まねで、自分の仕事を覚えようとする。
彼はとても熱心だった。高飛車な態度を取っていたあの頃が霞んでしまうほど、よく働いてくれた。
本来のティエンはきっと、優しく、義理堅い性格をしているのだろう。声こそ聞けないが、立ち振る舞いで分かる。彼は恩を返そうと一生懸命であった。
その頃からだ。ティエンの食事に変化が現れる。
以前の彼は米や新鮮な川魚、形の整った甘い果実を好み、土臭い根物や彩りのない料理を拒んでいた。
ユンジェに心を開いても、それは一緒で、芋料理や、豆ばかりの煮物、味の薄い葉物汁を出しても、あまり良い顔をしない。舌が肥えているのだろう。
けれど。仕事を手伝うようになって、彼はそれらを美味そうに食べるようになった。
どれも自分が働いて得た、貴重な食い物だ。思い入れが強いのだろう。なにより苦手としている芋粥を出しても、ティエンは喜んで食べていた。
仕事に触れること自体、初めてなのかもしれない。
晩に藁で縄や筵をこしらえていると、彼は好奇心を宿した目で、いつもその作業を見守ってくる。
先に寝て良いと言っても、ユンジェがその仕事を終えるまで、見守り続けるのだ。
時に疲れが優って眠りこけてしまうことがある。その度に衣を掛けてやった。
その夜もティエンは夢路を歩き、壁に寄りかかって眠りこけていた。
作業の手を止めたユンジェは、風邪を引かないよう衣を肩から掛けてやる。あどけない寝顔は、まるで子どもであった。
(大きな弟ができた気分だよ。世話が焼けるなぁ)
ティエンはユンジェより、年上であることには違いないだろうが、どうにも年下を世話している気分だ。彼を弟と言っても、まったく違和感はない。
(お前は今まで、どうやって生きてきたんだ? ティエン)
ユンジェは常々疑問に思う。
畑仕事も、木を伐ることも、藁で物を作ったことがないティエンは、これまでどうやって生きてきたのだろう。どうして、生きてこられたのだろう。
良いところで育ってきたようだから商人か薬師、地主辺りの子だろう。他にも裕福な職があるかもしれないが、ユンジェの知る限りはこれらであった。
生まれて、畑と森と町を行き来するばかりの生活を送ってきたユンジェだ。範囲を超えれば、知る術もない。
(いいや。ティエンがどこの人間だって。今は俺と同じ農民なんだ。それでいいじゃないか)
行く場所がない彼を、ユンジェが拾い、家に置いているのだ。身分を気にしたところで、どうしようもない。大切なのは今だ。
ユンジェは藁や道具を片付けると、ティエンの隣に並び、彼に掛けていた衣の半分を自分の方に引いた。
家にひとり、人間が増えるだけでユンジェの家は苦しくなったが、心は以前より穏やかであった。
爺がいなくなってから、ひとりで生活してきたユンジェだ。もう子どもではないと思う一方で、人恋しく思っていた。毎日、同じような仕事を一人でこなす、その日常にさみしさと虚しさを覚えていたのだ。
だから苦労が増したって、これでいいと思える。
「お金をためて、医者にティエンを診てもらおう。声が戻るかもしれない」
ユンジェは静かに瞼を閉じた。やがて体が傾き、ずるりと壁を滑っていくが、それはティエンの肩によって受け止められる。
大きく柔らかな手が、ユンジェの体を引き寄せたのは、それから間もなくのことであった。