ユンジェは悩んでいた。

 当然、それは目覚めた男についてだ。
 最初こそ動揺と混乱、そして殺意を向けていた男だが、今は落ち着きを取り戻している。ユンジェが声を掛けても、懐剣を抜くことは無い。

 けれども、警戒心を解いたわけでもないようだ。
 ユンジェが動きを見せる度、寝台から鋭い眼光で監視してくる。体に触れようものなら、虫を叩き潰す勢いで、手を払ってくるので迂闊に近寄ることもできない。
 かと言って、親しみを込めて声を掛ければ、問答無用に物を投げられる。声こそ出ていないが、怒鳴り散らされることも多々であった。

 おかげで(じじ)と使っていた広い寝台は、男に占領されてしまい、ユンジェは冷たい床で寝る毎日を送っている。散々だ。

(……天人って、すごく我儘なんだなぁ)

 とにかく取り扱いが難しい。

 とりわけ頭を悩ませているのは、男の食事であった。
 どうやら男には好き嫌いがあるらしく、ユンジェの作った芋の料理には一切手を付けようとしない。

 せっかく怪我人が消化しやすいように、芋を粥状にしたり、汁物にしたり、と工夫したのに、男はそれを拒んだ。
 汚い物を見るような目で、芋の料理を見るばかりなのだ。    

 仕方がないので、貴重な米で粥を作ると、それはぺろりと平らげてしまう。
 他にも新鮮な川魚や、形の整った甘い果実といった食い物は口にしてくれた。どれもユンジェが苦労して手に入れなければならないものばかり、男は好むのだ。

 さすがに、ここまで好き嫌いがあると頭にくる。
 ユンジェが普段から口にしているものは汚物で、苦労しなければらないものこそ食い物、とでも言いたいのだろうか。

 芋だって立派な食い物だ。具の少ない汁物だって、米代わりの芋粥だって、ユンジェにとってしてみれば、ご馳走に他ならない。

 芋さえ収穫できず、木の根や皮をかじることもあるというのに。
 本当は米も、新鮮な川魚も、形の整った甘い果実も、ユンジェが食べてしまいたいというのに。

 こうなれば、男を追い出すべきだろうか。
 助けたことを少々後悔し始めていたユンジェだが、それは難しい話だろう。
 なにせ、男は寝台から一歩も動こうとしない。懐剣を傍らに置き、突き上げ戸から外を眺めるばかり。

 畑ばかりの景色だというのに、飽きもせず、ぼんやりと見つめることが多い。

 男は考え事をしているようだ。

(天に還りたいのかな?)

 ユンジェには彼の気持ちが分からない。聞いたところで、睨まれるだけ。
 こういう時、会話の有難みを切に感じる。はやく男の声が戻ってくれたら良いのだが。


 男の我儘に付き合っていれば、当然、彼の好む食糧は尽きる。

 ユンジェは頭を抱えた。芋料理で我慢してもらうのが一番なのだが、癇癪を起こして、暴れられては面倒である。

(はあっ。仕方ない。金を作るか。今日は川魚を獲ってこよう)

 ユンジェにできる金稼ぎは、収穫した野菜や薪を売るか、藁でこしらえた(むしろ)や縄を売るか、である。

 それでは満足に米も買えない。せいぜい二食分、買えれば良い方だろう。

 そこで、ユンジェは物々交換に目をつけた。米を得るためには、それ相応の物をこちらも用意するしかない。これが世の理だ。

 ある晩、ユンジェは月の訪れと共に身支度をした。
 自分が寝るまで、決して寝ない男に「留守をよろしくな」と、声を掛けると、彼は怪訝な顔をする。まるでユンジェを信用していない。

「帰ってきたら、腹いっぱい米を食べさせてやるからな」

 やはり信用をしていない。いつものことなので、気にすることなく家を出る。
 正直、男のためにここまでする必要性はないのだが、彼を拾ったのはユンジェ自身である。

 こうなれば、傷が癒えるまで面倒を看ようではないか。たらふく米を食わせれば、相手も自分を認めるに違いない。
  
(必ずあの男から、礼の言葉を吐かせてやる。声が出ないなら、頭を下げさせてやる。見てろよ)

 ユンジェは半ば自棄になっていた。

「野ウサギか、キツネ。トビらへんが獲れたら幸運だな」

 ユンジェは獣を米の物々交換の対象とした。獣ならば、肉にもありつけるし、毛皮や小道具も作れる。交換条件は満たしているだろう。

 本当は昼間に狩りに出掛けるべきだろう。

 夜は視界が利かない上に、肉食の獣も多い。下手をすれば狩る前に、襲われてしまう可能性だってある。

 それでも、ユンジェは夜の狩りを決行した。昼間は大人の狩人や農民が森をうろついており、捕らえた獲物を横取りされる恐れがあるのだ。

 それを幾度も経験しているユンジェは、夜の狩りに慣れていた。

 横暴な大人に太刀打ちできないと知っているからこそ、頭を働かせる。ただただ生きるのではなく、強く生き抜くために、どうすればいいのか、よく考えるのだ。

 ユンジェは夜の森を慎重に、常に警戒心を抱えながら走り回った。

 猛毒の蛇はいないか、腹を空かせた狼はいないか、身ぐるみを剥がす夜盗はいないか。こみ上げてくる恐怖を拭いながら。


「ただいま。いま、帰ったよ」


 ユンジェが帰宅したのは、あくる日の夕方のこと。
 腹を空かせていたのか、男はいつにも増して、帰宅する自分を睨んでくる。しかし、それも、すぐ驚愕に変わってしまう。男はユンジェの身なりに、目をひん剥いていた。

 対照的にユンジェは、決まり悪く腕を擦る。

「ごめん。獣を狩ろうとしたけど、全然獲れなくてさ。物々交換ができなかった」

 更に足を滑らせ、崖から転げ落ちてしまった。その上、頭をぶつけて気絶してしまったのだから、とんだお笑い種だ。踏んだり蹴ったりである。


「あ、明日はちゃんと獲ってくるからさ。今日は……芋粥で我慢してくれないか?」


 腫れている右頬を隠すように背を向ける。
 ユンジェは気恥ずかしかった。男に腹いっぱい米を食べさせると宣言していたのに、こんな結果で終わってしまうなんて。ああ、大見得を切るのではなかった。

(自信はあったのになぁ)

 不貞腐れたいような、泣きたいような、そんな気分だ。
 ユンジェは男が癇癪を起こさないよう、次の手を打った。

 彼に近付くと寝台の上に、笹の葉に(くる)まった桃饅頭を置く。

 子どもは甘いものが大好きだ。男も子どもっぽいので、これを食べれば、芋粥も我慢して食べてくれるとユンジェは考えた。

「桃饅頭。美味いと思うぜ」

 すると、それまで睨んでばかりの男が、はじめて別の顔を見せた。戸惑ったように自分の髪を抓み、哀れみの目を向けてくる。
 言いたいことが分かったユンジェは、うなじをさすって苦笑いを浮かべた。

「時間を掛けて育てた野菜を売るより、何もしなくても伸びる髪の方が高く売れるって悔しいよな」

 狩りに失敗したユンジェは、その足で町へ向かった。
 桃饅頭はおまけで、目的は塩や油を買うためだった。

 男が家に転がり込んでからというもの、生活物資の減りが早い。今日買っておかなければ、明日困るものばかり足りなくなっていた。

 背中まで伸ばしていた髪を切るのは名残惜しかったが、遅かれ早かれ金の足しにするつもりだった。髪はまた伸ばせばいい話だ。

「腹減っただろ? それでも食べて、気長に待っててくれよ」

 桃饅頭を一瞥すると、ユンジェはそそくさと寝台から離れる。

 甘味が好きなのは自分も同じだ。想像しただけで唾液が溜まる。

 けれど、一個しか買えなかった。

 二個分の金がないわけではなかったが、ユンジェは今後の生活を優先した。桃饅頭を買うくらいならば、塩や油を買った方がいい。そう何度も自分に言い聞かせた。

(……なんで、俺がここまで我慢しなきゃならないんだろう。間違っている気がする)

 片隅で疑問に思ったが、仕方がないと言い聞かせた。男の癇癪の方が面倒なのだから。
 出来上がった芋粥を持って、男のいる寝台に戻る。桃饅頭はそのままにされていた。

「あれ、なんで食べていないの?」

 桃饅頭が嫌いなのであれば、喜んでユンジェが食べるつもりだ。
 それとも、口直しのために取っているのだろうか。ああ、きっとそうだ。男は芋粥を、汚物を見るような目で見てくるのだから。

 芋粥を桃饅頭の隣に置く。
 離れようとしたところで、男に腕を掴まれた。ユンジェは驚いてしまう。苦情を言われても、今日は芋粥しか出せないのだが。

「え? 座れって?」

 男はユンジェの腕を引き、座るよう態度で促してくる。仕方がなしに、寝台の縁に腰を掛けると、彼は懐剣を抜いた。

 まさか切られるのか。

 心中でハラハラするユンジェを余所に、男は笹の葉を開き、それで桃饅頭を半分に割った。片割れを差し出される。

「……俺にくれるの?」

 顔を出している白餡と、彼の顔を交互に見やっていたユンジェだが、やがて頬を緩めると、有り難くそれを受け取った。
 勘違いでなければ、男は一緒に食べようと誘ってくれているのだろう。くすぐったい気持ちになる。
    


「あんたの隣で食べていい?」

 思い切ったことを聞いてみる。
 睨まれるかと思ったが、男は静かに頷いてくれた。ぎこちないながらも、微笑みをくれる。

 ユンジェはとても嬉しくなった。

 これまでの行いが報われたような、そんな温かな気持ちに包まれる。齢十三相応の笑顔で返すと、桃饅頭を笹の上に置き、己の分の芋粥を取りに行った。




 その時間の夕餉は、すごく楽しかった。
 塩気の薄い芋粥を食べながら、男と色んな話をした。もっぱら話すのはユンジェで、聞き手は彼となったが、ちっとも気にならなかった。

 誰かと食事をする、この時間が久しぶりで、楽しいと思えたのだから。

 桃饅頭を食べる頃になると、ユンジェは男自身について尋ねた。
 絶対に天人(てんにん)だと思っていたのに、彼は違うと否定する。嘘だと思った。こんなにも美しい女のような男がいるわけない。

「あんたが女だって言われても、まったく違和感ないよ。(めと)りたい男も出てくるんじゃなイっ、いってー! なんで殴るんだよ!」

 力いっぱい頭を叩かれた。思ったことを口にしただけなのに。


 なにやら男には事情があるらしく、怪我をしていた理由や、森で気を失っていた理由、身分について尋ねると目を泳がせる。
 深く追究したところで、知識の乏しいユンジェには分からない話だろう。

 うっかり名前を聞いてしまった時は、お互いに気まずい思いを噛み締めた。

 男は声が出せず、答えることができない。機転を利かせた彼が、ユンジェの手の平に、名前であろう文字を書いていくが、自分には読み取る力がない。

「ごめんな。俺、字の読み書きができなくて」

 彼に信じられないような顔を作られてしまうが、本当のことであった。
 ユンジェは生まれてこの方、文字の読み書きを学んだことがない。

 所謂、文盲だ。

 学んできたことはいつも、生きるための術であった。

「文字は読めるようになれば便利だってことは知ってるんだけど……学び舎に行くお金も時間もなくて。(じじ)も、俺を学び舎に行かせようとしてくれてたんだけど」

 ユンジェにはできなかった。
 (じじ)を一人で働かせ、学び舎に行くことなど。食べていくだけでも精一杯なのだ。学び舎に行けば、(じじ)は無理をする。そんなに嫌だった。

 暗い空気になりかけたところで、ユンジェは話を戻す。

「声が出るまで、呼び名を付けていいか? あんた呼ばわりは嫌だろ?」

 男が承諾の代わりに、頷いてくれたので呼び名を考える。やや憂慮ある眼を向けられるが、変な名前を付けるつもりはなかった。
 せっかく隣に座る許可を出してくれたのだ。仲良くいきたい。

「うーん。天人じゃないって言われたけど、あんた、それっぽいから(ティエン)。俺、これからティエンって呼ぶ。どう?」

 悪くはなかったようで彼、ティエンは笑ってくれた。

 少しは心を開いてくれたようで、就寝する際、ティエンはユンジェに隣で寝るよう手招いた。
 元々そこはユンジェの寝台なのだが、それについては棚に上げているらしい。

 だがユンジェは素直に従った。
 寝台の持ち主のことなど微々たる問題だった。大切なことはティエンが、ユンジェに心を開こうとしている、この瞬間だ。

「おやすみ、ティエン。明日の夜こそ狩りを成功させるからな」

 腹いっぱいに米を食べさせてやるから。

 ふたたび約束を取りつけようとすると、ティエンは首を横に振り、もういいのだと態度で示した。

 ユンジェに失望して首を横に振っているのではない。
 生活の現状と、優しさを知ったからこそ、遠慮してくれているのだ。

 明日からティエンは、ユンジェと一緒に芋粥を食べてくれるだろう。我儘に振る舞うこともないだろう。子どものように起こしていた癇癪も、きっと無くなることだろう。

 それが嬉しいやら、でもやっぱり米は諦められないやら。

(明日の夜も狩りに行こう。ティエンと一緒に米が食べたい)

 心の中で計画を立て、ユンジェは眠りに就いた。



 声を失った美しき男、ティエンを拾って早ひと月。

 ユンジェは彼と、仕事に出向くことが日課となっていた。

 ティエンの怪我は十日足らずで完治したものの、彼には帰る家がなく、他に行く所もなかった。彼自身も、今後について深く悩んでおり、日を増すごとに表情が暗くなった。

 ユンジェには、彼の事情など一切分からない。

 何故、森の中で倒れていたのか。怪我をしていたのか。声を失っているのか。見たこともない、美しい衣を着る彼の身分すらも。
 しかし、困っていることはよく分かった。

 そこで彼に提案した。

「ティエン。助けた代わりに、俺の仕事を手伝ってくれよ。もうすぐ収穫の時期で、一人じゃ大変なんだ」

 このまま家にいても良い。

 素直にそう伝えるよりも、彼に役割を与えた方が、ティエンも要らない気遣いをしなくて済むと思った。
 察しの良い彼は、ユンジェの意図に汲み、何度も頷いてくれた。どこか泣きそうな顔だった。


 こうしてティエンは、ユンジェの手伝いを始める。

 華奢な体をしている彼は、見た目通りの非力なので、木を伐ったり、(すき)で芋を掘ったり、重い物を持つことはできない。
    

 それでも畑や森に連れて行くと、見よう見まねで、自分の仕事を覚えようとする。

 彼はとても熱心だった。高飛車な態度を取っていたあの頃が霞んでしまうほど、よく働いてくれた。

 本来のティエンはきっと、優しく、義理堅い性格をしているのだろう。声こそ聞けないが、立ち振る舞いで分かる。彼は恩を返そうと一生懸命であった。


 その頃からだ。ティエンの食事に変化が現れる。

 以前の彼は米や新鮮な川魚、形の整った甘い果実を好み、土臭い根物や彩りのない料理を拒んでいた。
 ユンジェに心を開いても、それは一緒で、芋料理や、豆ばかりの煮物、味の薄い葉物汁を出しても、あまり良い顔をしない。舌が肥えているのだろう。

 けれど。仕事を手伝うようになって、彼はそれらを美味そうに食べるようになった。
 どれも自分が働いて得た、貴重な食い物だ。思い入れが強いのだろう。なにより苦手としている芋粥を出しても、ティエンは喜んで食べていた。

 仕事に触れること自体、初めてなのかもしれない。

 晩に藁で縄や(むしろ)をこしらえていると、彼は好奇心を宿した目で、いつもその作業を見守ってくる。

 先に寝て良いと言っても、ユンジェがその仕事を終えるまで、見守り続けるのだ。


 時に疲れが優って眠りこけてしまうことがある。その度に衣を掛けてやった。

 その夜もティエンは夢路を歩き、壁に寄りかかって眠りこけていた。

 作業の手を止めたユンジェは、風邪を引かないよう衣を肩から掛けてやる。あどけない寝顔は、まるで子どもであった。

(大きな弟ができた気分だよ。世話が焼けるなぁ)

 ティエンはユンジェより、年上であることには違いないだろうが、どうにも年下を世話している気分だ。彼を弟と言っても、まったく違和感はない。

(お前は今まで、どうやって生きてきたんだ? ティエン)

 ユンジェは常々疑問に思う。

 畑仕事も、木を伐ることも、藁で物を作ったことがないティエンは、これまでどうやって生きてきたのだろう。どうして、生きてこられたのだろう。

 良いところで育ってきたようだから商人か薬師、地主辺りの子だろう。他にも裕福な職があるかもしれないが、ユンジェの知る限りはこれらであった。

 生まれて、畑と森と町を行き来するばかりの生活を送ってきたユンジェだ。範囲を超えれば、知る術もない。

(いいや。ティエンがどこの人間だって。今は俺と同じ農民なんだ。それでいいじゃないか)
    
 行く場所がない彼を、ユンジェが拾い、家に置いているのだ。身分を気にしたところで、どうしようもない。大切なのは今だ。

 ユンジェは藁や道具を片付けると、ティエンの隣に並び、彼に掛けていた衣の半分を自分の方に引いた。

 家にひとり、人間が増えるだけでユンジェの家は苦しくなったが、心は以前より穏やかであった。

 (じじ)がいなくなってから、ひとりで生活してきたユンジェだ。もう子どもではないと思う一方で、人恋しく思っていた。毎日、同じような仕事を一人でこなす、その日常にさみしさと虚しさを覚えていたのだ。

 だから苦労が増したって、これでいいと思える。

「お金をためて、医者にティエンを診てもらおう。声が戻るかもしれない」

 ユンジェは静かに瞼を閉じた。やがて体が傾き、ずるりと壁を滑っていくが、それはティエンの肩によって受け止められる。

 大きく柔らかな手が、ユンジェの体を引き寄せたのは、それから間もなくのことであった。

 ◆◆


「ティエン。大丈夫か? もっと俺の籠に豆を入れてもいいんだぞ」

 ユンジェは朝から、ティエンを連れて出掛けていた。
 日課となっている畑仕事には向かわず、収穫した芋や豆を背負い籠に入れ、険しい森を進んでいる。

 おうとつと傾斜が激しい道なので、慣れていないとティエンのように、すぐ疲労してしまう。

「ほら、ティエン」

 頭から布をかぶり、顔を隠しているティエンだが、その下は苦痛にまみれていることだろう。息が上がっている彼を気遣い、己の背負い籠に収穫した豆を入れるよう促す。

 しかし、ティエンは首を横に振った。
 これ以上、軽くしてもらっては悪いと思っているのだろう。ユンジェの背負い籠には重量感のある、大小の芋が隙間なくひしめきあっている。

 ユンジェにしてみれば、彼が持ってくれている分、いつもよりも軽いと思える量なのだが、ティエンは頑なに気遣いを拒んだ。

「なら。もう少し、ゆっくり歩くよ」

 ティエンが申し訳なさそうに頷いた。険しい道に加え、歩く速度が早かったようだ。

「ん? なに」

 彼が口を動かし、何かを訴えてくる。おおかた今日の予定を聞いているのだろう。

「塩と油、それに藁が少なくなったから、物々交換に行くんだ。まずはいつも、藁をもらっている農家に行く。笊一杯分の豆と芋で、五束は交換してもらえるはずだ」

 すると。彼はぎゅっと眉を寄せてしまった。貴重な収穫物を藁に交換するのは勿体無い、とでも思っているのだろう。
 とんでもない。その反対だ。

「藁は物を作るだけじゃない。畑の肥料にもなるんだ。良い土が手に入れば、良い収穫物になって高く売れるだろ? だから藁は必要なんだ。もう米の収穫も終わっているだろうから、藁が出ているはずだ」

 ユンジェの家は水田を持っていないため、それを持つ農家の下で、物々交換の取引をしている。
 水田を持つ農家も、芋や豆といった食糧が欲しいことは知っている。芋に至っては保存も利くのだ。円滑に取引が行えるだろう。

「なんだよ、ティエン。そんなに感心したって、今日の飯は豪華になんねーぞ。畑仕事やっている人間なら誰でも知っていることだって」

 何度も頷き、態度でユンジェを称賛するティエンに苦笑いを作る。悪い気はしなかった。


「あら、ユンジェじゃない。久しぶりね」


 得意先となっている農家を訪れると、()を振るって米を脱穀している少女が手を止めた。
 ひとつ年上のリオだ。ここに来ると、いつもユンジェを歓迎してくれる。

 どんな状況でも、笑顔を忘れない女の子なので、彼女の顔を見ると心が軽くなる。

「リオ、久しぶり。おじさんか、おばさんはいるか? 取引をしたいんだけど」

「お母さんが家にいるわ。いま、呼んでくる。そちらの人は?」

 ティエンはユンジェの背後に立ったまま、動こうとしない。
 あまり人と顔を合わせたくないのだろう。リオに会釈をすると、背を向けてしまう。もう少し、愛想を良くしてもいいだろうに。

 程なくして彼女の母、トーリャが顔を出した。ふくよかな体が、ずんずんと大またで歩く姿は、いつ見ても迫力を感じる。


「ユンジェ。良く来てくれたねぇ。あんたを待っていたよ。さっそくだけど、少しばかり芋を多めに貰えないかい? 今年の冬は厳しくなりそうでねぇ」

「……米、不作なの?」


 背負い籠を下ろし、物々交換の準備をするユンジェは、トーリャのため息を聞き逃さなかった。

「雨が多かったものだから、穂に実がつかなくてねぇ。ただでさえ、今年は多めに年貢を納めないといけないというのに」

「また年貢が上がったの? 去年上がったばかりじゃないか!」

 ユンジェは頓狂な声を上げる。
 多くの農民は地主から土地を借り、そこで農作物を育てている。土地を借りている代わりに、収穫の一部を年貢として納めているのだが、近年その年貢の量が増えている。

 農民達にとってしてみれば、堪ったものではない。

 収穫の量は天候によって左右されるため、毎年同じ量を納めることができるとは限らない。

 なのに、地主は年貢の量を増やす。
 特に水田を持つ、農民達の年貢を集中的に上げるので困っているのだと、トーリャは顔を顰めた。

「米は贅沢品で、お偉いさん方の好物だ。私達から絞れるだけ絞って、たんまりと米を食べようって寸法だろうさ」

 酷い話だ。農民にだって生活があるというのに。

「おばさん、笊三杯分の芋を用意するから、多めに藁をちょうだい」

「いいのかい? 二杯分にしてくれたら、儲けものだと思っていたんだけれど」

「いいよ。おばさんのところは、八人家族じゃないか。冬に備えて、蓄えておきたいだろ?」

 ユンジェの家も苦しいが、トーリャの家はもっと苦しく、大変だということを知っている。困っている時は助け合うことが大切だと、(じじ)から口酸っぱく教えられているため、笊三杯分の芋を用意した。

 ティエンに笊一杯分の豆を用意してもらい、トーリャに差し出す。彼女は頭を下げ、感謝を述べた。

「ユンジェ。本当にありがとう。後で藁と一緒に砂糖をあげるよ。持っていておくれ」

 砂糖は米よりも贅沢品だ。手軽にもらえる品物ではない。

 しかし、トーリャは渡すと言って譲らなかった。彼女は本当に律儀で優しい女性だ。ユンジェは心の底から、トーリャを尊敬する。

「あんたのところも、チョウ(じい)が亡くなって大変なのに、すまないねぇ」

(じじ)が死んで、もう二年経つんだ。大変なことは多いけど、慣れていかないとね」

「あんたはしっかり者だねぇ。リオ、ユンジェを見習って頑張るんだよ。あんたも、もう立派な大人で、人様の嫁になるんだから」

 嫁。ユンジェはリオを凝視した。

「お前、嫁ぐのか?」

「うん……七日後にね。もう、十四だから」

 彼女は近くの土地で、養蚕業を営む家に嫁ぐのだそうだ。
 ユンジェはくしゃりと、胸が押しつぶされたような、つらい気持ちになった。喜ばしい話だというのに息が苦しい。


「まだ会ったこともないんだ。私の旦那さん、どんな人だろう……」


 リオは乗り気でないのだろう。表情は浮かない。
 
 近くとはいえ、知らない土地で、知らない人間と、新しい生活を送らないといけないのだ。楽しみより、恐怖があって当然だ。

 それでも彼女は嫁がなければならない。
 それはきっと家のためであり、家族のためなのだろう。語る口から一言も、拒絶の言葉は出なかった。

「元気でね、ユンジェ。里帰りしたら、きっと貴方に会いに行くから」

 帰り際、ユンジェはリオにお別れの言葉をもらった。
 返す言葉が見つからず、頷くことしかできなかったユンジェだが、彼女の濡れそうな瞳と目が合い、強くはっきりと告げた。


「必ず幸せになれよ、リオ。挫けるなよ。お前は笑っている顔が一番似合っているから」


 リオのくしゃくしゃな笑顔が、頬を伝った涙が、胸に突き刺さる。

 これは彼女の望む結婚ではない。分かっている。
 農家に生まれた女の大半は、こうして世継ぎのために貰われていく。分かっている。
 リオだけが特別な運命を背負うわけではない、他の女達も似た境遇に立たされる。すべて分かっている。

 けれど、リオにだけは、彼女だけには気の利いた言葉を贈りたかったのだ。

 でも、あの顔を見てしまうと、幸せを願った言葉すら、本当は言ってはいけないような気がした。

 もっと知識があれば、リオを喜ばせる、気の利いたお祝いの言葉が贈れただろうか。




(……リオ。幸せになれるといいなぁ)

 砂糖の入った布袋を見つめ、それを強く握り締めた。
 町へ向かう足取りが重くなる。ため息が増えた。心がいつまでも潰れたような、つらい気持ちでいる。

 と、軽く頭を撫でられた。弾かれたように顔を上げると、ティエンが慰めるように、微笑んでくる。
 途端に気恥ずかしくなり、ユンジェはかぶりを振って、彼の手を落とした。

「り、リオと会えなくなるのは残念だけど、あいつは嫁ぐんだ。きっと幸せになるさ」

 ちらりとティエンを一瞥すると、困ったように笑っている。その顔すら美しく思えるので、美貌とは恐ろしいものだ。
 やはりこの男、人間の皮をかぶった、天人(てんにん)なのではないだろうか。

「わっ、ちょっと! ティエン!」

 彼は気丈に振る舞っている、ユンジェの気持ちに気付いているようだ。
 頭から振り落とされても、ふたたび頭に手を置いてくる。軽く叩いてくる。そして、静かに撫でてくる。

(なっ、なんだよ。俺は子どもじゃねえぞ!)

 ユンジェは顔を紅潮させると、慰める手から逃げるように早足で歩き始めた。(じじ)に似た、あたたかで優しい手だと片隅で思った。


 ユンジェはあまり、町が好きではない。

 そこは人が集い、様々な物が売られ、賑わいと活気があるので、見ている分には楽しい。

 特に祭りの時期は、朝な夕な人々が集まって、美味しい食い物や小物、曲芸なんかが見られて面白い。

 しかし。ユンジェはどうしても、町を好きになれない。農民であれば、誰もがそう思う。

 ユンジェは塩屋を訪ねた。
 農民達の間で、『カエルの塩屋』と言われ、忌み嫌われる店だ。店主がカエルのような顔をしているため、皮肉を込めて、『カエルの塩屋』と呼ばれている。

「こんにちは。塩を交換して下さい」

 奥の席で台帳に筆を走らせていた店主が、ゆるりと顔を上げる。
 のっぺりとした四面顔と、鼻にきびはいつ見ても、鳥肌が立ってしまう。口角をつり上げ、下劣な笑いを浮かべる姿は、本当に気味が悪い。

 背後にいるティエンも、何かを感じたのだろう。男の顔に、足を一歩下げていた。

「塩の交換か。なら、笊五杯分の芋と豆だ。それでいつも通り、一袋分の塩をやろう。ありがたく思えよ。これでも、安くしているんだから」

 途端にティエンが驚いた顔を作り、ユンジェに身ぶり手ぶりで何かを訴える。

 分かっている、あれは見え見えの嘘だ。

 塩一袋分が、笊五杯分の芋や豆と見合うはずがない。もっと、安く手に入ることをユンジェは知っている。

 塩の入った麻袋を一瞥する。
 値札がつけられているが、それがいくらなのか、読み取る力はない。

 なんとなく数字は読めるものの、それがどれほどの価値で、どれほどの芋や豆の量に相当するのか、ユンジェには理解できない。

 大半の農民達は文盲であるため、物々交換になると、町の商人から足元を見られることが多いのだ。

 それでも、塩は必需品である。
 金が用意できない時は、向こうに有利な交渉であっても、それを呑むしかない。

(相手が子どもだから、値段をつり上げてきているな。前は笊四杯だったくせに。気分で変えやがって)

 だから塩屋の店主は、農民達から嫌われているのだ。

(この後、油を買わなきゃいけない。芋と豆は、もう少し残しておきたいな)

 ユンジェは砂糖の入った袋を差し出し、店主に交渉を持ち掛ける。

「砂糖をつけるから、芋と豆、笊二杯分で勘弁してくれませんか?」

 店主の目の色が変わる。砂糖は贅沢品だ。商人といえど、簡単にお目に掛かれる品ではない。

「農民のくせに、良い物を持っているじゃないか。いいだろう。笊三杯分にしてやる。どうせ、砂糖の食べ方なんて、小僧には分からないだろうからな。有り難く頂戴してやるよ」

 ティエンの奥歯を噛み締める音が聞こえる。
 笊二杯分にまけないどころか、ユンジェの身分を蔑んできたのだ。腹立たしい物の言い草に、腸が煮えくり返りそうなのだろう。

「ああ、でも。この砂糖、本物かどうか分からないな。農民が砂糖なんて買えるはずもない。偽物だったことを考えると……塩は笊四杯分で譲ろう」

 とんでもない言い掛かりだ。

 さすがに偽物呼ばわりされ、砂糖を巻き上げられては困る。
 あれはトーリャがユンジェの気持ちに感謝を示した砂糖だ。

 それを苦肉の策として出したのに、まったく安くならないなら意味がない。

「だったら砂糖は返してもらいます。笊五杯分、いま用意するので」

「だめだ。砂糖と笊四杯分でなければ、塩は譲らない」

 偽物呼ばわりしたくせに、しっかりと、贅沢品の砂糖は巻き上げる。なんて意地汚い人間なのだろう。

 ユンジェは下唇を噛みしめ、砂糖を出したことを後悔した。もっとよく考えて出すべきであった。

「分かりました。それでお願いします」

 結局、ユンジェは店主に丁寧に礼を告げて、物々交換を行った。
    
 顔色を窺いながらの物々交換は、いつ取引を行っても味が悪い。それでも、これに慣れていかなければ、生活していけない。もう塩を売らないと言われる方が困る。

 同じ要領で油屋から油を買うと、持参した収穫物が無くなってしまった。
 残っているのは藁の束ばかり。

 本当は収穫物を少しだけ残し、町で物売りをするつもりだったのだが、予定が狂ってしまった。

「ごめん、ティエン。嫌な思いをさせちゃったな」

 塩屋を出てからずっと、美しい顔が怒りにまみれている。

 やり切れない気持ちはユンジェも同じだ。

 もっと上手く交渉ができれば、笊二杯分で塩が手に入ったかもしれないのに。(じじ)が生きていた頃であれば、この交渉は上手くいっていただろうに。

「俺が子どもだから、舐められたんだな。あのカエル店主、本当に嫌な奴だよ」

 気丈に振る舞う声が震える。目の奥が熱くなった。必死に顔を振って熱を冷ます。

 こんなことで挫けては、この先やっていけない。
 ユンジェは自分に言い聞かせる。大丈夫、いつものことだ。次は上手くやればいい。それを呪文のように繰り返す。

「ティエン、帰ろう。今日はお前の好きな米にするよ。それでも食べて、さっきのことは忘れ……ティエン?」

 町を出たところでティエンが立ち止まる。
    
 そして、おもむろに背負い籠を下ろすと、何度もそれを指さし、ユンジェに待ってくれるよう頼んだ。

「お、おいティエン!」

 ティエンが走って町へ戻っていく。
 残されたユンジェは、彼の背負い籠と留守番をする羽目になった。一体どうしたというのだ。町の用事はもう済んだというのに。便所だろうか。



「……やっと帰って来たな。ティエン」


 日が傾き、空が赤く染まり始める。
 それだけ、長いこと待ちぼうけを食らっていたユンジェの下に、ようやくティエンが戻って来た。何かを持っているようだ。

「お前な。急にどっかに行くなよ。心配しただろ!」

 帰って来るや否や、ユンジェはティエンを見上げて叱りつける。けれども、彼は優しく笑うばかり。まるで反省の色がない。

 眉をつり上げるユンジェに、ティエンが持っていた物を差し出してくる。
 笹の葉で(くる)んだ桃饅頭であった。蒸されて間もないようで、それは湯気立っている。

 声を上げて驚いてしまった。

 何故、ティエンが桃饅頭を買っているのだろうか。彼は無一文だ。それは助けた時に確認済みである。

「……お前、まさか」

 布から顔を出したティエンが、満面の笑みを浮かべる。
 予想した通り、彼の髪は短くなっていた。絹糸のように美しかった長い黒髪が、ユンジェと同じくらいに短くなっている。短髪になっても、その顔は女のように美しい。

「な、なにやってるんだよ。大切にしていた髪じゃないか!」

 ユンジェは知っている、彼が髪を大切にしていたことを。自分は農民であるため、髪を切ろうが、また伸ばせばいいと思える。

 だが、ティエンは違う。
 彼はいつも、あの長い髪を纏め、(かんざし)を挿していた。ユンジェと暮らし始めても、髪を纏め、簪を挿し続けていた。彼なりの誇りがあったに違いない。

 それを切って、売ってしまうなんて。

「もう簪が挿せないんだぞ。なんで、こんなことを」

 ティエンは笑みを深め、かぶりを横に振ると、腰にさげていた布袋を叩いた。銭の音がする。簪も売ってしまったのだろう。
 もう必要ないのだと態度で示し、頭に手を置いてくる。

 呆然と彼を見上げていたユンジェだが、次第に顔を歪め、体を震わせる。

「……おまえ、ばかだろ」

 先ほど堪えた涙が溢れ出てきた。

 ティエンは助けられた恩を返すために、髪を切り、桃饅頭を買って来たのではない。
 ユンジェを励ますために、これを買って来たのだ。町の大人達の汚いやり方に耐えるユンジェを、彼なりに慰めているのだ。

「ばかだっ、ほんとうに……」

 ユンジェを知る者達は皆、自分を『しっかり者』だと称賛する。
 (じじ)がいなくとも、一人で生計を立て、前を向いて生きようとする姿が素晴らしいと拍手を送る。


 それは勘違いだ。


 ユンジェはしっかり者なんかではない。頼れる大人がいないから、一人でどうにかしようとも、必死に足掻いているだけなのだ。感情を殺し、我慢しているだけなのだ。大人になろうと、背伸びをしている、ただの子どもなのだ。

 抑えられない苦い感情を噛みしめ、ユンジェはティエンの懐に入った。胸に顔を押しつけ、我慢していた気持ちを吐き出す。

「悔しいっ、ティエン……俺、くやしいっ」

 上擦った声が泣き声にかわる。

「腹の底が熱くなるくらい、悔しい……悔しいよ」

 悔しいの言葉しか出ない。

 大切に育てた収穫物を、貰った貴重な砂糖を簡単に取り上げられ、尚且つ何も言い返せない自分が情けない。
 もっと知識があれば、言い返すこともできただろうに。塩の値札が読めれば、その価値を理解し、平等な物々交換が望めたかもしれないのに。

 無知だから損ばかりする。子どもだから舐められる。農民だから蔑まれる。そんな自分が嫌で仕方がない。

 知識さえあれば、こんな思いをしなくて済んだのだろうか。嫁ぐリオにも、素敵な言葉が贈れたのだろうか。ユンジェには何も分からない。

「桃饅頭っ……半分、お前にやるよ。一緒に食べよう。今日のことはそれで、忘れる。忘れられるから」

 強く頭を抱きしめられる。背中を叩かれ、子どものように慰められる。
 それが余計に涙と悔しさと情けなさを誘い、ユンジェは声を押し殺して泣いた。甘えるように泣き続けた。

 (じじ)が死んで二年余り。誰にも頼れなかったユンジェが、初めて心から頼れる者を見つけた瞬間であった。
    


 ◆◆


「これが『おはよう』で、こっちが『おやすみ』で。えっと、『こんにちは』ってどう書くんだっけ?」

 ユンジェはティエンに、字の読み書きを習い始めた。

 これは彼の提案である。文盲のユンジェに、少しでも読み書きができればと、身近な物の単語を地面に書いて教えてくれるようになった。

 字が読めず、損ばかりしてきたユンジェなので、喜んでその案に乗った。

 読み書きの代わりに、ユンジェはティエンに生きる術を教える。畑仕事はもちろん、料理や火の熾し方、刃物の研ぎ方。狩りのやり方などなど、生きていく上で必要な知識は、すべて彼に教えた。
 
 そうそう。ティエンはとても狩りが上手い。どうやら弓の経験者のようだ。彼にそれを持たせると、百発百中で獲物を射る。ユンジェなんて足元にも及ばない。

「ティエンに狩りなんて教えるんじゃなかった。俺の出る幕ないじゃんかよ!」 

 あまりにも上手いので、ユンジェはその腕に嫉妬し、こんなことを言ってしまう始末。ティエンから大笑いされてしまった。


 二人で足りないところを補い合いながら暮らしていく内に、ユンジェにとって、ティエンはいつの間にか、かけがえのない兄のような存在となっていた。


 はじめこそ、世話の焼ける大きな弟ができたと思っていたが、ユンジェの精神面はいつもティエンが支えてくれた。
 理不尽な物々交換の取引時や、物がまったく売れなかった時、狩りの獲物を大人達に横取りされた時など、いつも彼が傍にいて慰めてくれた。

 口が利けなくとも、優しい目でユンジェを支えてくれる。
 そんな目に甘えたくなる自分がいるので、認めざるを得なかった。彼は弟ではなく、兄のような存在だと。

 一度認めてしまうと、小さな欲が出た。彼と言葉で会話をしてみたい。どんな声で、どのように喋るのか、とても気になったのである。

 思いが優り、ユンジェは何度か、ティエンに医者に行こうと誘ったことがあった。

「ティエン。医者に診てもらおう。俺、少しだけ髪が伸びたから、金は作れるよ。声が戻るかもしれない」

 しかし、ティエンは声の話になると、諦めたようにかぶりを横に振る。医者に診てもらったら、声が出ない原因が分かるかもしれないのに、彼は遠慮を示す。

 戻らないと分かっているようなのだ。

 ティエンはユンジェの気遣いに、いつも曖昧に笑う。そんな顔を向けられたら、無理に意見を押し通すこともできない。

(ちゃんと話してみたいんだけどなぁ。もし声が戻ったら、ティエンの本当の名前を呼べるのに)

 それだけではない。ティエン自身のことも、たくさん聞くことができるのに。

 ユンジェにすっかり心を許し、自分を可愛がってくれるティエンだが、ひとつだけ、未だに許されない行為がある。

 それは彼の懐剣に触れることだ。

 あれはとても大切な物らしい。ユンジェの頼みであろうと、決して触れることは許さない。いつも肌身離さず持っている。

(ティエンはあれを、簡単に抜けるんだよな。どうしてだろう?)

 一度、鞘から抜こうと試みたことがあるユンジェは、懐剣を見る度に首を傾げてしまう。
 非力なティエンに抜けて、彼より力のあるユンジェに抜けない理由なんて、皆目見当もつかなかった。



 ティエンと初めて迎えた、冬のある日。

 薪づくりに精を出していたユンジェは、ティエンの様子がおかしいことに気付き、作業の手を止めた。
 彼には細かく切り分けた木を束ね、広い場所まで運んでもらう仕事を任せている。もしや、運ぶ最中に足でも挫いたのだろうか。

「ティエン。何か遭ったのか?」

 声を掛けると、彼は焦燥感を隠すこともなく頷き、しきりに地面へ目を配っている。
 口が利けないティエンと、毎日過ごしているユンジェだ。彼の主張は態度で分かる。

 青ざめた顔で地面を見ている。

 ということは、何かを落としたのだろう。彼をここまで焦らせているのだ。ユンジェはティエンの帯を一瞥し、彼の落し物を把握した。

 たばさんでいる筈の懐剣が無くなっている。

(帯に挟んで作業したら、いつか落とすからやめとけって注意していたのになぁ。作業中は集中していることが多いから、落とした音にも気付きにくいのに)

 普段は懐に入れて持ち歩いている懐剣だが、体を動かす時は邪魔になっているようで、帯にたばさんでいることが多い。ティエンの悪い癖だ。

「手分けして探そう。二人で探せば、すぐ見つかるよ」

 すると、ティエンは自分ひとりで大丈夫だと両の手を振ってくる。薪づくりを中断させては申し訳ないと思ったのだろうが、考えが甘い。

「あれ、鞘に綺麗な石がついているから、大人が見つけたら絶対に盗まれるぜ。ここらへんには、狩人や俺達のように薪を作る農民がうろついている。もし持ってかれたら、お前どうするんだよ。大切なんだろ?」

 急いで探すべき理由を教えると、ティエンは一層、青白い顔になった。よほど大切な物なのだろう。一緒に探して欲しい、と深く頭を下げてきた。

 水くさい奴だ。落し物を探すくらい、なんてことないのに。

 ティエンには運んでいた道を辿ってもらい、ユンジェは彼が木を束ねていた場所で、懐剣を探す。