町の出入り口は二か所。
そこへ足を運ぶと、各々見張りの傭兵が立っていた。仲間から連絡を受けたのだろう。町の外に出る人間の顔を凝視している。
織ノ町は外壁に囲まれている町だ。
出入り口以外からの脱出は、壁をのぼらない限り、不可能だ。縄を使う手もあるが、のぼり切るのにどれほど時間を要するか分からない。試すなら夜だろう。
「どれくらいの傭兵が、俺を探しているんだろう」
数が把握できれば、考える手も広がるのだが。
「あくまで傭兵は、町を守るために雇われた兵だ。ユンジェに回す兵は少ないだろう。相手は子ども。四、五人程度だと思う」
勿論、それは傭兵に限った話だ。
見えない間諜の存在が、なによりも脅威である。町人にまぎれているのか、ただの杞憂なのか、それすら分からない。考えれば考えるほど、神経がすり減りそうだ。
顔を隠して過ごすティエンは、いつもこんな気持ちを味わっているのだろうか。
「せめて、私達にも馬がいればな。お前を乗せて走ることができるんだが」
「ティエン、馬に乗れるの?」
「ああ。どっかの誰かさんが懇切丁寧に教えてくれたおかげでな。腹立たしい思い出だ」
ティエンの低い声に、ユンジェは冷汗を流す。カグムに教わったのか。
(傭兵だけでもなんとかできたらなぁ……)
いくら知恵を振り絞ったところで、数に勝るものはない。
こうなったら。
ユンジェはティエンに布紐を出すように告げた。自分も数本の布紐と、小袋、香辛料と塩を取り出すと、家屋の陰で作業を行う。
それが終わると、ユンジェはティエンに道具を渡し、出入り口に立つ見張りの傭兵に見つからないよう身をかがめた。
彼と目を合わせると、ひとり家屋の陰から移動した。
目指すは向かいの家屋の陰。
(ふう。どうにか、移動できた)
無事に成功したユンジェは、頭陀袋から再び小袋を取り出して、中に入っている火打ちをひっくり返す。
それらを頭陀袋に収めると、両手で砂をかき集めた。袋に入るだけ、砂を詰め込む。
「これでよし」
開け口を紐で結び、腰に下げておく。準備は整った。あとは。
「見つけた。こら、坊主。なんで逃げたりしたんだ」
夢中になって砂を集めていたせいか、背後に忍び寄る傭兵に気づけなかった。
ユンジェは頓狂な声を上げ、大慌てでその場から逃げる。しかし腕を掴まれ、それは叶わなくなった。
相手は大人の男で兵士。雇われだろうがなんだろうが、ユンジェより力がある。
「世話を焼かすなって。早馬を出した。夕方にはお前の兄さんが到着するだろうよ」
「お、俺には兄さんなんていないよ。爺が死んで、ずっと一人だったんだ。お願いだから放してよっ」
足を踏ん張って抵抗を見せるが、体格の良い傭兵はびくともしない。問答無用で連れて行かれるので、ユンジェは必死に腕を振った。
その際、向かい側の家の陰に潜むティエンの鋭い目と合ったので、軽く首を横に振っておく。
ユンジェは駐在所に連れられた。そこには数人の屈強な傭兵がおり、到底体当たりをして逃げる、なんてことはできない。
更に先程の一件で学んだのか、ユンジェは窓のない部屋で待機を強いられた。物置として使用されている部屋のようだ。箱荷が目立つ。
何か使えるものはないか、と物色したかったが、生憎見張りを置かれたので、下手な行動は取れない。
(はあ。これは、お手上げだね)
どうしようもないので、部屋の隅で膝を抱える。
今のユンジェにできることは、耳をすませることと、ティエンの無事を祈るばかりだった。
ふと、扉の向こうが賑やかになる。
夕方になったのだろう。声の多さが、時間が経ったことを教えてくれる。体勢を変えず、座っていたので尻が痛い。
膝小僧に顔を埋めていたユンジェは、そっと顔を上げて扉を睨む。
間もなくそこが開かれ、見覚えのある顔ぶれが二つ現れた。取りあえず、負け惜しみ代わりに舌でも出しおく。
返ってきたのは、カグムの含み笑いであった。
「こんなにも探していたのに、ずいぶんな挨拶だなユンジェ。兄さんは、とても心配していたんだぞ」
「それはごめんなさい、カグム兄さん。俺は会いたくなかったよ。びっくりしたね。俺はいつの間に、あんたの弟になっていたんだか」
傍らにいたハオが傭兵の一人に銭の入った袋を手渡し、ひそひそ声で話している。
美しい男が傍にいなかったか、と聞こえたので、ティエンの姿を探しているのだろう。
そう、彼らの本命はピンイン王子であって、ユンジェではないのだ。
とはいえ、彼等にとって、自分は大きな収穫に違いない。
カグムに腕を掴まれ、無理やり立たされる。
二、三回、腕を振ってみたが、それが解かれることはなかった。寧ろ、力が増すと学んだので抵抗をやめ、おとなしく連行されることにする。
おおよそ、傭兵達も気付いているのだろう。
世話になった礼を告げるカグムとハオ、そしてユンジェの関係が『兄弟』ではなく、訳ありの関係であることを。
ユンジェが追われている身なのも察しているようだが、傭兵達は見て見ぬ振りをしていた。
金を貰った今、傭兵達には関係のない話なのだ。そういう振る舞いをされても仕方がないだろう。
駐在所を出ると、カグムに腕を引かれるがまま織ノ町を歩く。
どこかに逃げられないだろうか。隙を窺いながら、周囲を見回していると、痛い拳骨が落ちてきた。悲鳴を上げるユンジェに、ハオが余所見をするなと怒鳴ってきた。
「なんだよ。殴ることねーじゃん」
横目で睨むが、相手の睨みの方が鋭かった。
「お前のせいで余計な時間を食っているんだよ。よくもまあ、小癪な真似をしてくれたな」
それがお互い様である。ユンジェはカグムに視線を投げた。
「ねえ、カグム兄さん。俺をどうするつもりなの? 言っておくけど、ティエンの居所を吐かせようとしたって無駄だからね。あんた達のせいで、俺はティエンとはぐれたんだ」
わざわざカグムを兄と呼び、嫌味を投げつける。
今すぐにでも探しに行きたいと舌打ちを鳴らすと、カグムが能天気に笑声を漏らした。
「お前さんがいれば、すぐにピンインさまも保護できるだろうさ。なにせ、あの方にとってユンジェは唯一の繋がり。お前を放っておくわけがない。だからユンジェを尋ね人にしたんだよ。お前を放っておく方が厄介だしな」
なるほど。ティエンを尋ね人にしなかった、もう一つの理由が分かった。
彼らはティエンを一人残すことで、捕獲しやすい状況を作り上げたのだ。ユンジェを泳がせておけば、また妙な手を出してくると思っているのだろう。
なんて、したたかな男だ。
(ティエン一人じゃ何もできない。そう思っているんだろうな)
だったら一刻も早く彼と合流しなければ。ユンジェは空いた手を帯に忍ばせる。「こらこら。ユンジェ」
足を止めたカグムが、その手を掴みあげた。そのまま捻られ、顔を歪めてしまう。痛い。
「懐剣は抜かせない。それこそ、最大の厄介事だからな」
「かっ、ぐむ」
この男、腕を折るつもりだろうか。捻られた箇所がぎしぎしと軋む。
「お前が懐剣を抜けばどうなるか、俺もハオも、この目でしかと見ている。あんまりお痛するようなら、この場で腕を折る。覚えておいてくれ」
力が緩められると、ユンジェのこわばっていた体が脱力する。カグムの言葉は本気なのだろう。微笑みながら脅すとは、なんとも恐ろしい男だ。
なのに、「悪いな」と、申し訳なく謝ってくるものだからタチが悪い。脅すなら、それを貫けばいいものを。
「ハオ、懐剣はお前が持っておいてくれ。ユンジェに持たせておくのは危険だ」
肩を竦めたハオが、ユンジェの帯から懐剣を引き抜いた。
ユンジェは顔色を変える。まずい、あれはティエンから授かった大切なもの。他人に持たせるわけにはいかないのに。
と、ハオが間の抜けた声を出して、懐剣を地面に落とした。
うっかり落としたのかと思いきや、彼は両の腕を震わせながら、それを拾い上げようと必死になっている。どうにか持ち上げても、やはり腕は震えていた。何をしているのだろう。
「洒落になってねーぞ。これっ……カグム、こんなの持ち歩けねーよ」
「どういう意味だ?」
「持ってみれば分かる」
半ば呆れ気味のカグムに唸り、ハオがそれを放り投げる。
片手で受け止めたカグムの手が、瞬く間に懐剣を弾いた。彼は熱いと眉を顰め、地面に転がるそれを見つめている。
一体この男達は何をしているのだろう。ユンジェは双方を見やり、首を傾げた。
「あのさ。それ、大切なものだから、あんまり落とさないでほしいんだけど」
ユンジェの注意など聞こえていないのだろう。カグムとハオは難しい顔で、懐剣を観察している。
その内、カグムが再び懐剣に手を伸ばし、それに触れられるかどうかの確認を始める。彼は熱くて無理だと肩を竦めた。
対照的に、ハオはそれに触れられるものの、ずいぶんと重たそうに懐剣を持っていた。
二人の目がユンジェに向いたので、解放された左手を差し出す。
「軽いし、熱くもないけど」
懐剣を上下に持ち上げ、加護が宿った黄玉を見つめる。静かに揺らめくともし火が、ユンジェの心を落ち着かせた。
「なんで、このクソガキはなんともねーんだよ。麒麟の使いだからか?」
「加護のせいかもな。ピンインさまは、今まで麒麟の加護を受けていなかった。だが、この懐剣には加護が宿っている。そのせいだろう」
「加護、ねぇ。凡人の俺には分かんねーけど……加護を受けるようになったってことは、今まで認められてなかったピンインさまが、真の王族になったってことなんだろう?」
「違うよ」
ユンジェには王族の真偽など分からないが、ハオの言葉は否定することができる。
認められていなかったんじゃない、彼には加護が必要なかったのだ。そして皆、気付いていなかっただけなのだ。ティエンの傍にはいつも麒麟がいる、ということを。
ああ、見せてやりたいものだ。彼の傍にいる麒麟を。気高い存在を。それに呼応するティエンのまことの姿を。
タオシュンに弓を放った時の彼は、言葉にならないほど神々しかった。
「ティエンは王族なんて小さな存在じゃない。あいつは天人、誰にも穢されない存在。だから俺は麒麟から使命を授かり、あいつを生かすために守護の懐剣となったんだ」
目を瞠る二人に、「なんてね」と言葉を付け足しておく。冗談めいた態度を咎める者はいなかった。
懐剣は無事、ユンジェに返された。
それはカグムとハオに持てる物ではなく、彼らの帯にたばさむ前に懐剣の方が拒絶をする。
頭陀袋に入れて、ユンジェから遠ざけようものなら、道すがらで不幸に遭ってしまうのである。
ユンジェは既に三度、頭陀袋に懐剣を入れたハオの不幸を目の当たりにした。
最初は水を掛けられる程度だったのだが、三度目になると不幸が重くなり、彼は危うく突風に煽られ、潰れる出店の下敷きになるところだった。
次は命を取られかねない。
身の危険を感じたハオが、カグムの頭陀袋に収めようとすると、なぜだろう、彼の頭陀袋が燃えかけた。懐剣の祟りだと言われても、まったく不思議ではない。
「カグム。懐剣はガキに持たせるべきだぜ。たぶん、麒麟の使命を授かったこいつから懐剣を遠ざけると、呪いを受けちまうんだよ。なにせ、ピンインさまの懐剣小僧なんだから」
呪われた王子の懐剣だから、下手なことはしない方がいい。ハオはそう主張した。
「昔、俺が触った時には、こんなことなかったんだがな」
いまいち不幸事を呪いと思えないカグムは、釈然としない顔をしていたが、彼の意見を聞き入れ、ユンジェに懐剣を返した。
これで一安心。かと思いきや、カグムは必要以上にユンジェを警戒した。ただの小僧である自分に何かしら、懸念するものがあるのだろう。
勝手にユンジェの頭陀袋から布紐を取り出すと、それで手首をまとめ、縛り上げてしまった。
これの丈夫さは、誰より作り主のユンジェが知っている。歯で裂こうとしたって、簡単にはいかない。
しかも余った紐部分はカグムが握り、手綱のようにユンジェを引いてくる。少しで懐剣や頭陀袋に手を伸ばそうとすれば、笑顔で引っ張られた。
これではまるで。
(家畜だよなぁ。そんなに警戒されても困るんだけど)
ユンジェは己の弱さを知っている。
真っ向からカグムやハオに挑んで、まず勝てるわけがない。卑怯な不意打ちや策で乗り切っていることが大半だ。二人だって、それは分かっているだろうに。
「自分の作った紐で縛られる日がくるなんて思わなかったよ。しかも、こんな格好で町を歩かせるとか、ちょっと酷くないか?」
前を歩くカグムに文句をぶつけると、彼はくつりと一つ笑いを零す。
「外衣の下に隠しておけば、違和感なんてないさ。酷いことをしている自覚はある。すまんな。だが、お前に自由を与えれば、痛い目を見ると分かっている」
では、ティエンに自由を与えるのは良いと?
周りに目を配る二人の、警戒心の薄さにユンジェは鼻で笑いたくなる。
(カグム。あいつはもう、お前が知る囚われの王子なんかじゃないんだぜ?)
ユンジェはこの町のどこかにいる、彼に想いを寄せる。大丈夫、ティエンなら上手く逃げている。そして、きっと。
彼らは路地裏を選び、ひと気の少ない道を進む。大通りで騒がれては面倒だと考えているようだ。
会話から察するに、今から馬宿へ向かうらしい。そこでユンジェを軟禁しようって魂胆なのだろう。
「カグム。ピンインさまは、まだ見つからないのか?」
「いま、ライソウとシュントウが町中を探し回っている。あの容姿だ。聞き込みをすれば、すぐに見つかるさ。仮に顔を隠しても、その姿は目立つだろう」
「はあっ。そんなこと言ってもよ。小さな町とはいえ、二人だけじゃ時間が掛かるぜ」
「最悪、また金を払って傭兵に手伝ってもらうさ」
「ったく。こいつが変な策を打たなきゃ、もっと多く連れて来ることができたのによ」
ハオに加減なく耳を引っ張られ、ユンジェは悲鳴を上げそうになる。
口を一の字に結んで彼を睨むと、鼻先を指先で弾かれた。この男、人が自由を奪われていることをいいことに好き勝手にしてくれる。
腹立たしい気持ちを抱く一方、ユンジェは忍び笑いを浮かべた。
(追っ手は四人だな。よし、数は把握できた。町人にまぎれた間諜もいない)
それだけ分かれば、余計なことを考えずに動くことができる。ユンジェは拘束されている両手首を見つめ、上唇を舐めた。もう二人の傍にいる必要もない。
両隣の家屋に目を向けた。ふと地面にできる丸い影に気付いたので、覚られないように視線を戻して、その上を素通りする。
「なあ、カグム。ガキをオトリにして、一人で町を出たってことはねーかな?」
ハオが横目で見下ろしてくる。その意味深な目は訴えている。こんなガキ、いくらでも代わりはいるだろうと。失礼な奴だ。
「何度も言うが、ピンインさまがこの子を置いて、どこかへ逃げるとは到底思えない。懐剣のこともそうだが、あの方にとって、その子どもは家族なんだ。身を潜めて機会を窺っているだろうさ」
「農民のガキが家族、ね。こんなガキを家族にしたところで、王族の品位が損なわれるだけなのに、何を考えているんだか」
正直、正気の沙汰ではない、とハオは肩を竦めた。しかし、カグムはしごく真面目に答える。
「ハオも王族の近衛兵をすると分かるさ。あそこは、常に暗い感情が渦巻いている。心許せる場所なんて片指程度。自由があるようで、習わしに縛られている。贅沢なんて気休め。よっぽど平民の方が、生きた心地がする」
ティエンと似たようなことを言っている。カグムは彼をよく理解していたのだろう。王族に生まれたティエンを、本当に気の毒だと語っていた。
「とりわけピンインさまは、孤独な方だった。呪われた王子だからと王族からも、貴族からも蔑まれ、疎んじられていた。いつも人のぬくもりに飢えている方だった。だからこそ、己の力で得た繋がりは大切にする」
その中にカグムに入っていたのは、本人も自覚していることだろう。
なのに、どうして。ああ、どうして。
ユンジェは目を細めた。そこまで理解しておいて、どうして彼を裏切ったのだろう。悲しませたのだろう。傷付けたのだろう。
今もそう。
「なあ、カグム。なんで、ティエンを怒らせるようなことばかりするんだ?」
彼の背に問いかける。振り返る様子はない。
「今のティエンは、あんたに強い負の感情を持っている。それはカグムだって分かっているんだろう? でも、あんたはティエンを怒らせるような発言ばっかりする。今回だって、なんで俺の兄をあんたが名乗ったんだ。ハオだって良かったじゃないか」
カグムはユンジェの兄だと名乗り、それを竹簡に記してばらまいた。
それはまるで、ティエンから家族を奪うと、宣戦布告しているようにも思える。彼はティエンに告げていた。ユンジェの身は、必ず自分が預かると。
これがハオであれば、ティエンもただの策だと思って受け止めただろうに、あの時の彼は怒りと憎しみに満ち溢れていた。
きっと、ユンジェには想像もつかないほど、彼は激情に駆られていたに違いない。
カグムはティエンが嫌いなのだろうか? それとも天士ホウレイの命を遂行すべく、負の感情を利用しているのだろうか。
依然、何も答えないカグムに、ずるい奴だと悪態をつく。
「誰よりも、ティエンのことを分かっているくせに。理解してやっているくせに。あいつを散々に振り回す。それって、すごくずるいことだと思う。何も言わないってのが、またずるいよ」
おかげでティエンはカグムに一喜一憂してばかりだ。一喜など、もうひと欠片も残っていないだろうが。
「これだけは教えてよ。ティエンのこと、あんたは呪われた王子だと、死んでほしい存在だと思っている?」
足を止め、ゆるりと振り返るカグムは笑みを浮かべて答えた。その顔が沈んでいく夕陽に照らされ、光陰がはっきりとつく。
「ああ。思っているよ」
ユンジェも笑みを返す。
「そうか。なら、俺はあんたからティエンを全力で守らないとな」
言うや否や、その場にしゃがみ、手綱となっている布紐を力の限り引く。
カグムの体勢が崩れた。驚いたハオが手を伸ばしてくるが、その手に矢が掠めた。何事だと頭を上げた彼目掛けて、ふたたび矢が飛び、それは顔面に当たった。
矢じりの先端に括ってある穴あき袋が弾け、中から粉山椒が舞う。ハオが両目を瞑り、苦言を零した。
「くそっ、目つぶしか! 目が痛ぇっ!」
「ハオ! まさかっ」
顔を守るように、両隣の家屋の屋根を見上げるカグムに、甘いとユンジェは声を上げた。不自由な手を無理やり帯に伸ばすと、ぶら下げていた砂袋を掴み、紐を解いて振りまく。
それを避けた彼の手から、手綱が滑り落ちる。
すかさず、懐剣を両手で抜き、カグムに向かって振り上げた。
「ユンジェから離れろ――っ!」
屋根の上にいたティエンが、カグム目掛けて飛び降りる。
さすがにこれは、ユンジェも驚きの声を上げてしまう。
平屋とはいえ高さはあるのだ。下手したら足を挫かねないというのに、ティエンはカグムを下敷きにして、地上に下り立った。
勇敢なんだか、無謀なんだか、分からない奴である。
「ティエン。無茶するなよな」
「わざと捕まった、ユンジェには言われたくないな」
「俺はお前が助けてくれると信じていたから、安心して捕まったんだよ」
「簡単に言ってくれるよ。走るぞ」
駆け寄って来るティエンが短剣でユンジェの布紐を切ると、腕を引いて走り出す。
しかし。すぐに足を止めると、肩に掛けていた短弓を構え、迷うことなく矢を放った。粉山椒が弾け、追って来るカグムの視界を奪う。
「ふざけた真似ばっかりしてくれるぜ。本当によっ!」
さすがに苛立ちを覚えたのだろう。カグムの口調が荒くなる。それを面白がるティエンは彼に、力いっぱい吐き捨てた。
「覚えとけ。弱い奴ほど、どんな手を使ってでも生き延びようとすることを――私の兄弟は確かに返してもらったぞ、カグム兄さん」
正面から勝てない相手を、わざわざ正面から勝負する馬鹿がどこにいる。
彼はカグムを嫌味ったらしく鼻で笑い、颯爽と大通りへ向かって走る。
そんなティエンに、ユンジェは思わず苦笑いを浮かべた。
「お前、すごく根に持ってたんだな」
「当然だろう。何が兄で、何が生き別れの弟。腹立たしい限りだ」
ティエンが不愉快そうに鼻を鳴らすので、ユンジェは小声で呟いた。
「俺の兄さんなんて、考えなくても一人しかいないじゃん」
「おや? ユンジェ。どうして照れているんだ。私に教えてくれないか?」
「……ティエン、お前って本当に性格が悪い」
今しがた、不機嫌になっていた男が、いたずら気に顔を覗き込んでくるので、低く唸ってしまう。口にするんじゃなかった。
路地裏を飛び出した二人は町中を走る。
わざと捕まり、敵の数を把握していたユンジェに対し、ティエンは町の地形を把握していた。この時のために町人にでも聞き込みをしたのだろう。
今日来たばかりとは思えない足取りで、彼は先導に立つ。
それだけではない。ティエンは少しでも時間を稼ぐため、とりわけ小道と周囲の環境を熟知していた。
目つぶしを食らったにも関わらず、距離を詰めて来るカグムとハオの行く手を塞ぐため、小道に入るや、酒を造るために用意されていた空の樽を引き倒して蹴飛ばす。
「おいおい。ピンインさまって、おとなしい王子さまって聞いてたんだけどっ」
かろうじて避けたハオに狙いを定め、ティエンは頭陀袋から投てきを取り出して、それを振り回して輩の足元に放った。
布紐を繋ぎ合わせたお手製の投てきは、先端に石の錘がついており、足に絡むと相手の体勢を崩すことができる。
ハオは見事にずっこけていた。素っ頓狂な声を出し、両の足に絡まった投てきを外しにかかっている。
彼の代わりに、カグムが距離を詰めてくる。
ティエンは短剣を抜いて横一線に振った。
反射的に後ろへ飛躍する彼を追い、もう一度、短剣を振ったティエンは努めて冷静であった。彼は憎しみを込めて、カグムを追っていたのではない。隙を作るために距離を詰めたのだ。
それに気付いたカグムが、「くそっ」と舌打ちをし、視線を下げる。そこには懐剣を構えたユンジェが潜り込んでいた。
「ティエンはもう、お前の知っている弱い王子じゃないぜ。カグム」
口角をゆるりと持ち上げ、懐剣を突き刺す。
寸前のところで、カグムが太極刀を軽く抜き、それを受け止める。刃は届かずに終わった。本気で刺せなかったのは、心のどこかで、彼に世話を焼いてもらった恩義を抱いているからだろう。
すかさず、ティエンが輩の体を蹴り押す。
よろめいた隙に、二人は走った。小道の奥へ進み、今度は積み上げられた箱荷を押した。それは道具の入った箱で、輩達が来る前に崩れてしまう。
塞がった道の向こうで、王子の名を呼ぶ声が聞こえた。ティエンはそれに応える。
「私は私の意思で生きる道を決める。貴様等の言いなりなんぞ、まっぴらごめんだ」
言い切る彼は誇らしげであった。
「はあっ……やってくれますね、ピンインさま。ユンジェの影響で、すっかりやんちゃになられて。おいハオ、いつまで遊んでいるんだ。まだ取れないのか、それ」
「うるせぇな! いま、短剣で切るつもりだよ!」
遠回りを強いられる追っ手は、指笛の不規則な音を鳴らした。
町中に聞こえるような、その高い音は、離れている仲間に何か合図を送っているのだろう。
それを耳にしたティエンは、勝手に人の家の敷地に入ると、身を屈めて石壁に身を潜める。
程なくして、王子の行方を探す声が二つ聞こえた。ティエンが小石を拾い、追っ手を確認して向こうへ放る。
足音が遠ざると、彼は急いで反対側の石壁へ走り、これを乗り越えると告げた。
「この家の先に商人用の門口がある。そこは多くの商品を運ぶための門だ。そこまで行けば、見張りの目を掻い潜って外に出られる」
すでに彼の息はあがっていたが、音を上げる様子はない。
おうとつの激しい石壁を、ユンジェの手を借りながらのぼり切ると、休む間もなく門口まで誘導してくれる。
ユンジェは逞しくなったティエンの背中を見つめ、人知れず頬を緩めた。
(ティエンが助けてくれると分かっていたから、わざと捕まったんだけど……本当にお前は頼もしくなったな。正直、ここまでとは思わなかったよ)
過去のティエンのことなど、ユンジェは何一つ知らない。
彼がどのように孤独であったのか、さみしい思いをしていたのか、つらい境遇に立たされていたのか、この目で見たわけではない。
想像するに昔の彼は本当に弱々しかったのあろう。
そして、それを見守っていたカグムは、王子は弱く守られる存在である、と頭に刷り込まれていたのだろう。
だから油断をしていたに違いない。何もできない王子だと思い込んでいたに違いない。
誰が想像しようか。
非力な王子が屋根から奇襲を掛けてくる、など。小道を把握し、それを利用して撒こうとする、など。
追い詰められれば、道具や武器を使い、力強い抵抗を示す。
これのどこが弱い王子であろうか。
今のティエンは生きることに貪欲だ。
周りから死と望まれようが、利用されるために求められようが、己の力で生きる意志は固い。自由に生きるため、少しでもその可能性に縋ろうと、ユンジェと共に旅を続ける。
いつかまた、知らない土地で作物を育て、静かに暮らすことを夢見ている。
ああ、目の前のティエンはとても強い男だ。ユンジェは自信を持って叫びたい。
「ユンジェ。何を笑っているんだ?」
振り返るティエンが、不思議そうな顔で見つめてくる。ユンジェは小さく噴き出し、右の手を出した。
「ティエンに助けてもらったことが、すごく嬉しくなったんだよ。ありがとうな」
「何を突然。ユンジェはいつも、私を助けてくれているだろう? 礼を言われるほどでもないんだが」
「いいから受け取っておけって。俺は助けられて、すごく嬉しいんだから」
ますます不思議な顔を作るティエンだが、差し出された手の意味は察したのだろう。軽く手を振り上げると、差し出したその手を叩いた。
乾いた音が心地良くて、ユンジェはまた一つ笑ってしまった。
◆◆
商人用の門口には、複数の荷馬車の姿が見えた。
それには野菜や穀物、鉄鉱石などが見受けられる。どれも他の町から運搬されてきたようで、商人達は受付に許可書を出していた。
無論、他の町へ向けて運ぶ荷馬車も見受けられる。
ティエンはあの荷馬車のどれかにまぎれて、町を出ようと考えているらしい。
本当は馬宿からカグム達の馬を盗もうと目論んでいたようだが、日が高いのと、人目の多さに諦めたという。
それは正しい判断だろう。
騒がれてしまえば、町を守る傭兵達がすっ飛んでくる。せっかくユンジェが身を張ってまで敵を減らしたのに、また敵を増やしてしまうことになるのだから。
二人は織物が収められた、木造の倉庫の陰に身を隠し、どの荷馬車に乗り込もうか、と話し合った。
無断で荷馬車に乗るのだから、商人達に見つかってしまうのまずい。
下ろされるだけならまだしも、盗人だと声を上げられるやもしれない。慎重に選びたいところだ。
「はやく決めないと、カグム達が来る。ティエン、どうする?」
しきりに周囲を警戒するユンジェに対し、彼は荷馬車を見定めていた。
「穀物の荷馬車が妥当かもしれないな。ユンジェ、見てみろ。あそこに麻袋が積んである」
ティエンが前方を指さす。そこには荷台の上に麻袋の山ができていた。
確かに、あれに入って荷馬車にまぎれることができれば、町を出られるやもしれない。袋口さえ閉じることができれば、の話だが。
しかもだ。
「あれに入って移動することは難しいぜ? 荷馬車の上じゃないと」
「入っているところを見られる可能性があるな。せめて、樽を運ぶ商人がいてくれたら」
二人して麻袋を睨んでいると、門口にカグムが現れる。
予想以上に早い登場だ。二人が通常の出入り口からは逃げないだろうと、考えを読んだのだろう。
しつこい男だ。天士ホウレイは、よほどピンイン王子を欲しているらしい。
ユンジェとティエンが目を合わせ、小さな吐息を零す。
その時であった。
突然、二人の肩に手が伸び、それが叩いてくる。驚きの声を上げそうになった。見つかったのだろうか。各々懐剣と短剣を抜き、身構える。
けれども、振り向いた瞬間、その人間は口元で人差し指を立てた。
「静かにおし。見つかっちまうよ――元気そうでなによりだねぇ。ユンジェ、ティエン」
恰幅の良い女性が優しい目で笑ってくる。
驚愕してしまった。
彼女は二人の顔なじみであり、ユンジェ達といつも物々交換の取引に応じてくれた。
何かと自分達に気に掛けてくれる、その女性の名はトーリャ。
八人家族の母であり、ユンジェと同じ農民。将軍タオシュンの起こした大火事件の被害者であった。
「トーリャおばさん。おばさんなの?」
夢でも見ているのではなだろうか。こんなところでトーリャに会えるだなんて。
「話は後だよ。私についておいで」
先導する彼女の後について行く。
織物倉庫の裏にも、古びた荷馬車が留めてあった。彼女は物を退かせると、二人に寝転がるよう告げ、織物や絹を覆いかぶせてくる。
「私が良いって言うまで、動いちゃだめだからね」
視界が見えなくなり、トーリャの気配が遠ざかる。荷馬車が揺れ始めた。何度も底板に頭をぶつけてしまうが、じっと息を潜め続ける。
やがて商人達の声が小さくなり、風の音や車輪の音、蹄の音がよく聞こえるようになる。それでも二人は合図を待った。
どれほど息を潜めていただろう。
ふと荷馬車が止まり、それは左右に揺れる。
織物が取られた。辺りはすっかり暗くなっていたが、もう大丈夫だと微笑んでくる彼女の表情は目視できた。握られている燭台のおかげだろう。
トーリャは織物を奥に寄せると、燭台を置き、手前にいたユンジェを抱擁した。
「ずっと、心配していたんだよ。あの大火の中、よく生き残れたねぇ」
「おばさんこそ。まさか織ノ町にいると思わなかったよ……家は」
「焼かれちまったよ。突然だった。兵士が来たと思ったら、ピンイン王子を匿っただのなんだの言われて。でも家族はみんな無事さ。知り合いの多くは死んじまったけどねぇ」
謀反人扱いされたのだと苦笑するトーリャに、ユンジェは言葉を失ってしまう。
ぎこちなく視線を投げれば、青ざめているティエンが握りこぶしを作っていた。
あの大火事件は彼のせいではない。けれど、要因は彼にある。
罪悪感に襲われているティエンに、掛ける言葉が見つからない。どんな言葉を投げたところで、慰めにはならないだろう。
すると。トーリャがティエンに近寄り、そっと両肩に手を置いた。
「ティエン。お前さんも無事で良かった」
彼は声が出ないのか、青い顔のまま首を横に振った。気持ちが受け取れないのだろう。そんなティエンに微笑し、トーリャはそっと尋ねる。
「ピンイン王子ってのは、お前さんのことなんだろう?」
彼女はティエンの正体に気付いていた。
曰く、町で騒ぎになっていた時、たまたまピンイン王子の容姿を耳にしたという。
女のように美しい男、などティエンしかいない。正体に気付いたトーリャは大きな感情を抱いた。それは今も変わらない、ひとつの感情。
「ずっと、ずっと、あんたを心配していたんだ。ティエン、ユンジェと一緒によく生きていてくれたねぇ」
ティエンは驚愕していた。
彼女から恨まれる覚えはあっても、心配される覚えなどない。
なのに、トーリャはティエンを心配していたと言う。生きていて嬉しいと言う。
彼は声を振り絞るように、なぜ、と問うた。
自分のせいで家も仕事も故郷も奪ったのに、なぜ、と問いを重ねる。呪われた王子であることや、王族であることを話しても、トーリャの表情は変わらない。
ただただ、笑って頷くばかり。
「お前さん、しゃべれるようになったんだね。良かった」
責め立てる代わりに、トーリャは喜ぶ。口が利けるようになったのなら、今度こそ親しくなれそうだ、と彼女はおどけた。
「農民の私には、王族とか、呪いとか、難しい話はよく分からないけれど。あんた自身のことは知っているよ。ティエン、あんたはいつも仕事に一生懸命な男さ。人見知りは強いけれど、ユンジェの仕事をよく手伝っていた。ユンジェと仲良くもしていた。私はそんなお前さんの姿を知っている」
トーリャにはピンイン王子が、どのような悪人で、なぜ兵達に追われているかなど分からない。
それでも、己の目で見たピンイン王子とやら、人見知りで、仕事に熱意があって、ユンジェと家族のように親しくしていた。
微笑ましいところを何度も目にしているトーリャだからこそ、ティエンに強く言えるのだ。お前さんが生きていて嬉しい、と。
「頭の良いユンジェが、お前さんを傍に置くんだ。ティエンが悪人だとは、私には到底思えないねぇ。あの大火事件が、お前さんを苦しめているようだけど、あれは火を放った兵達のせいさ。あんたがしたわけじゃない。もし、あんたのせいだとしても、私はティエンを責めやしないよ」
ああでも、じつは言いたいことがひとつだけある。
トーリャはティエンの横っ腹を軽く叩き、「あんた。細すぎるよ。女みたいじゃないか」と、大笑いした。
「もっと食べて、太くなりなさい。あたしの方が強そうに見えるよっ!」
ティエンは震える唇を噛みしめる。我慢ができなくなったのだろう。なりふり構わず、自分からトーリャと抱擁を交わし、肩口に顔を埋めた。
そんな彼の背中を叩き、トーリャは子どものようにあやす。
「良かったよ。あんたとユンジェが生きてくれて、本当に良かった」
顔を上げたティエンが、上擦った声で返した。
「私もです。トーリャ、わたしもっ、貴方が無事で嬉しい。とても、とてもっ」
「美人さんに言われると、なんだか照れるねぇ」
見守っていたユンジェの方が、なんだか泣きたい気持ちに駆られた。
ティエンにとって初めて、ユンジェ以外の人間に心配を寄せられ、生きていることを喜ばれたのだ。
彼は救われる想いを噛み締めていることだろう。溢れんばかりの幸せを胸に秘めていることだろう。声を上げて泣きたいほど嬉しいことだろう。
でも、これはティエン自身の行いが引き寄せた結果でもあるのだ。
生まれながらに呪いを謳われていた彼が、ユンジェと暮らす一年を誠実に生きていたからこそ、トーリャは彼の身を真摯に心配していたと言える。
(ティエン。トーリャはお前自身を認めているんだぜ。呪われた王子じゃなくて、お前自身を……良かったな。『ピンイン王子』は死を望まれていても、『ティエン』はそうじゃないって証明されたんだ。本当に良かったな)
トーリャに心開いた彼は額を重ねてくる彼女に甘え、慰められていた。嬉しそうに泣き笑いを浮かべ、いつまでも慰められていた。