(ユンジェ……)


 ほんの寸時に見せた、あの目を思い出すだけで胸が熱くなる。
 ユンジェはまだ、完全なリーミンになっていない。あの子の心はちゃんと残っている。どのような仕打ちを受けようと、辱めを受けようと、あの子はあの子なりに自我を保とうとしている。

 だったら、自分のすることはひとつ。

 ティエンらは家屋と家屋の合間を縫うように走り抜けていく。前方に回ってきた兵士らに気づくと、ティエンは迷わず足を止めて矢筒から矢を引き抜いた。

「退けっ! 貴様ら、道を開けろっ!」

 弓づるを千切れんばかりに引き、道を塞ぐ兵士らの顔面目掛けて放つ。
 鉄鏃のついた重たい矢は、向かって来る兵士の柔らかな眼球を貫いた。

 それによって、里を轟かせる断末魔のような悲鳴が上がるものの、ティエンの眼中にはすでに映らない。手早く矢を抜いては引き、兵士らの目を正確に狙った。
 卑怯と罵られようがなんだろうが構わない。いまは生き延びるために必死だった。


「カグム。走れ。援護する」


 とても短い命令だったにも関わらず、カグムはティエンを置いて先を走る。
    
 自分の考えを読んだのだろう。

 兵士らの前に立つと、太極刀でそれらの剣を弾いた。隙ができたところで、兵士らの目や頬、喉を狙って矢を放つ。

 追って来る兵士らの方から悲鳴が聞こえてくる。
 ハオが双剣で兵士らを斬り捨てたのだろうか。矢を構えたまま振り返ると、ハオとサンチェも背後を振り返っていた。彼らは驚愕していた。ティエンも目を見開いてしまう。追って来る兵士と剣を交えているのは、平民を装った王族。

「まさか」

 外衣をかぶって顔を隠しているが、あれは麟ノ国第一王子リャンテで間違いない。
 兵士らを薙いでいる青龍刀は、第一王子がこよなく大切にしている愛刀なのだから。



「行け愚図。貴様はまだ、ここで死んで良い人間じゃあねえ。俺がつまらなくなる」



 逃げる手助けをしてくれるリャンテも、広場の見えるどこかで、麒麟の使いを見ていたのだろう。あれも麒麟の使いを狙う者。隙あらば第二王子から奪おうと目論みを立てているに違いない。

 そんな男がティエンを助けるなんぞ、おおよそ、くだらない理由があってのことだろうが、今は輩の行為に甘んじる他ない。

 ユンジェを助けるためにも、ティエンはここを乗り切って生き延びなければいけないのだから。


「こっちです。ティエンさま」


 先を走るカグムが通りを指さし、ティエンらを誘導する。
    
 また、彼は家屋の前に繋いである大きな荷馬車に目を付けると、馬の手入れをしている里の人間に刃を突きつけた。
 ひえっ、と悲鳴を上げて腰を抜かす男を尻目に、二頭の馬を奪うとカグムは各々に乗るよう指示する。


 こうして速い足を手に入れたティエンらは、兵士らを撒くために馬を走らせた。


 すでに包囲網が張られているであろう里の外へ逃げるのは諦め、身を隠せそうな場所を必死で探した。里の人間にも、将軍グンヘイの兵士らにも、簡単には見つからない場所を。

 その結果、ティエンらは里の中央部にあるうっそうとした森に目を付けた。架け橋を駆け抜け、警備兵を飛び越えると、厳かな空気が流れる森の奥へ奥へと進む。

「もう良いだろう」

 ここまでは追ってこないはずだ。そう判断したカグムが手綱を引き、馬の足を止めた。後ろを走るハオも、それに倣って手綱を引く。
 ざっと周りを見渡しても、見えるのは木々や小川ばかり。追っ手は見る影もない。

「さてと。撒けたのは良いが……これからどうしたもんかな。ユンジェが完全にリーミンになったいま、下手に手を出すのは難しいぞ」

 吐息をつくカグムを流し目にすると、ティエンは馬から勢いよく飛び下りた。

「どこへ行くのです。勝手な行動は慎んで下さい」

「案ずるな。お前の目の届く範囲にいる。ただ、少しひとりにしてくれ。気持ちの整理がしたい」

 その言葉の後、ティエンは声を窄める。


「カグム。先ほどの話だが……私の判断は、あの子を傷つける結果だったのやもしれんな。ユンジェには主従の儀を受けさせた方が、あの子のためだったやもしれん」


 もしも。もしもの話。

 ユンジェに主従の儀を受けさせていれば、このような事態にはならなかったのだろうか。
 あの子はティエンの下僕として、セイウの命令に抗うことができたのだろうか。己の判断は偽善で愚かだったのだろうか。


 疑問を置いて馬から離れる。


 返事は聞こえてこなかった。


 すぐ側を流れる小川の前に座り込む。
 そっと小川を覗くと、そこは木陰になっているため、はっきりと己の顔は映らなかった。

 しかし、流れる小川の水はとても澄んでいることが分かった。右の手で水を掬う。肌が粟立つほど、小川の水は冷たかった。

(ユンジェの心はまだ残っている。私はあの子を救ってみせる。決して、あの子のことを諦めるものか)

 だが。


(私とあの子の関係を……少し考えなければいけないのかもしれない。私はユンジェと家族であり続けたい。しかし、あの子がセイウ兄上と主従の儀で繋がっている以上、ユンジェは第二王子に逆らえない。それだけではない。もしもリャンテ兄上まで、あの子と主従の儀を交わしてしまったら。麒麟の使いがリャンテ兄上の懐剣を抜いてしまったら)


 おおよそ、麒麟は『黎明皇(れいめいおう)』を見極めるために、麒麟の使いを王族に寄越している。

    
    


 だとしたら、優先的にユンジェは主従の儀を交わした王族に従うことだろう。血で繋がった儀は、培った見えない絆よりも、ずっと、ずっと重い関係なのやもしれない。


 だったら、ティエンもいずれ主従の儀をユンジェと交わすべきなのだろうか。あの子を守るために、ユンジェを下僕にするべきなのだろうか。


(あの子は私と関わることで、どんどんと不幸になっていく気がしてならない。これも私の呪いのせいなのだろうか)


 もう何が正しい判断なのか、ティエンには分からない。

 ふと隣の草花が揺れた。そっと目を動かすと、サンチェが胡坐を掻き、持っていた水袋をティエンに差し出す。


「水。飲みなよ。落ち着くと思うぜ」


 半ば水袋を押し付けられる。

 困惑していると、「助けてくれてありがとう」と、前触れもなしにお礼を言われた。先ほど、ユンジェに襲われた時のことを言っているのだろう。ティエンはかぶりを横に振った。

「サンチェ。お前には謝らなければならない。ユンジェが……私の弟が、ひどいことをしたな。本当にすまない。あの子の分まで謝らせておくれ。サンチェには怖い思いをさせてしまった」

「べつに気にしてねーよ。ユンジェが正気でなかったことくらい、ガキの俺でも分かったし」


 それよりも。
 子どもはティエンをそっと見上げた。


「あんたは大丈夫なの? ユンジェのこと、矢で射ただろう? ……俺のせいだよな。ごめん」

「お前が謝ることじゃないさ。ああでもしないと、ユンジェを止められなかったからな」


 あの時、ユンジェがサンチェを刺してしまえば、あの子はいつまでも罪悪感を背負うことになる。以前、自分のことを『人殺し』だと言っていた子どもだ。その心の負担は想像もつかない。

「サンチェ。どうか、ユンジェのことを嫌いにならないでおくれ。あの子がああなってしまったのは、すべて王族のせいであり、私のせいなのだ。本当は心優しく賢い子なんだ」

 するとサンチェは軽く笑声をもらし、「どうして嫌うんだよ」と、軽くティエンの脇腹を小突いた。

「俺だって初対面のユンジェにひどいことをしたんだ。あいつの身ぐるみを剥がそうとした。そんでも、ユンジェは俺や俺の家族を守ってくれた。俺らのことをあんま責めることもなかった。優しい奴だってことはとっくに知っているさ」

 そんなユンジェを、サンチェは友達だと思っていると、つよく謳う。


「俺さ。ユンジェに言ったんだ。兄さんと再会できたら、兄さんも一緒に俺らと暮らさないか? って。俺らの家族ってガキばっかだから、まとめられる人間がほしくてさ」


 いや。こんなの建前だ。
    
 本音はもっと、もっと、ユンジェのことを知りたい。繋がっていたい、と思う自分がいる。
 あれはとても賢く知恵がある。その一面を見る度に、悔しかったり、すごいと思ったり、対抗心を燃やす自分がいたり。一喜一憂してしまうのだと、サンチェは語った。


「だから、さっきのユンジェを見て……悲しくなった。元のユンジェに戻ってほしくて先走った行動をしちまった。ごめんな。俺が走らなきゃ、あんたは矢を放たなくて良かったのに」


「サンチェ」


「安心してよ。俺はユンジェに対する気持ちは、なに一つ変わっていないから。あんたこそ、ユンジェに対する気持ちを変えないようにしてくれよ。俺にはあんた達の難しい事情とか、そんなの分からないけど……きっとあんたの想いは間違っていないと思うんだ」

 下僕より家族の想いを取ったティエンは、なに一つ間違っていない。サンチェはハッキリとティエンに伝えた。


「俺だって、チビ達を下僕にするなんて、そんなの……建前でも出来ないや。下僕にすることで守ることができたとしても、俺は俺が嫌いになりそう。もっと別のやり方で守れたんじゃないかって。ティエン、まだユンジェを下僕にするべきかどうか、結論を出すのは早いと思うぜ。それが正しい答えかどうかなんて分かんないじゃん」

    


 まずは死に物狂いで手段を探すべきだ。それこそ自分が納得するまで。

 ティエンはまだそれをしていない。他人の意見に流されそうになっているだけ。それではきっと、ティエン自身も納得せず、自己嫌悪に襲われ、それを見たユンジェも自己嫌悪してしまうことだろう。

「諦めるなよ。俺はあんたの考えに賛成するからさ」

 サンチェは子どもらしい笑顔を見せた。
 屈託のない笑みは、ティエンの不安を溶かしていく。

 何一つ解決などしていないのに、己の考えに自信が湧いてきた。

 そうだ、自分は納得も何もしていない。簡単にしか足掻いていないのに、何をもう諦めているのだ。よく考えてもいないくせに、主従の儀をせざるを得ない、なんぞと諦めるにはまだ早いではないか。

「サンチェ、ありがとう。私は気づかない内に、心が折れかかっていたようだ。目が覚めたよ。そうだな、お前の言う通り、諦めるにはまだ早い」

 うん、サンチェは満足気に頷く。

「大丈夫。あんたならユンジェを元通りできるよ。俺はそう信じているから。主従の儀とかなんとか、小難しいことは分かんねーけど、ティエンもそれっぽい儀を交わしたら良いかもしれないぞ。家族の儀とか」

 可愛い提案に噴き出してしまう。

「ふふっ、それは名案だな。家族の儀か。ぜひ、交わしたくなる儀だ」

 ふと、そこまで話した時、ティエンの脳裏に懐かしい思い出がよみがえる。


 儀。

 そういえば、ユンジェに自分の懐剣を預ける際、あの子と儀を交わしたような記憶がある。あれは確か、ユンジェが使命を賜った際の立派な言葉を使ってみたいと、駄々を捏ねて――パキッ。枝の折れる音が聞こえ、ティエンとサンチェは素早く立ち上がった。追っ手か。

「サンチェ。私の近くに」

 警戒心を高め、サンチェの身を引き寄せた時であった。
 小川を挟んだ向こうから、柳葉刀(りゅうようとう)を持った男が姿を現す。

 数は五人、いや六人。身軽な麻衣姿は、王族兵ではなさそうだが、どいつもこいつも体躯は太く逞しい。武器を片手に歩いているのだから、物騒な連中には違いない。

 向こうもティエンらを見つけるや、顔が険しくなり、目つきが鋭くなった。やはり敵のようだ。

「ティエンさまっ!」

 異変に気づいたカグムが馬の腹を蹴り、こちらへ駆けてくる。しかし、それよりも先に、駆け出す者がいた。


「サンチェお兄ちゃんっ? やっぱりお兄ちゃんだっ!」


 それは男らの大きな体の陰に隠れていた。サンチェの姿を見るや、泣きそうな声を上げて、穏やかな小川に渡る。小さな男の子であった。しかも、その子どもは、ジェチと逸れた幼子であった。

「ヒョヌ! お前っ、ヒョヌじゃないかっ!」

 サンチェも小川に入ると、早足で幼子の下へ向かい、ヒョヌを力強く抱きしめる。
 緊張の糸が切れたのだろう。幼子は怖かったと、さみしかったと、か細い声を振り絞り、サンチェの体に顔を押し付けた。その姿にサンチェは心底安堵する。

「良かった、兵士に捕まっていなかったんだな。ジェチがお前のことを心配していたぞ。ひとりで、よくがんばったぞ」

 すると。ヒョヌが嗚咽を噛み締めながら後ろを指さした。

「あの人たちが、たすけてくれたの……でもね、あの人たちも、兵士さんだって」

「兵士?」

「うん。兵士さんだけど、兵士さんじゃない……兵士さんだって。たすけてくれた時に、お話してくれた」

 眉を寄せるサンチェの背後で様子を見守っていたカグムが、抜きかけの太極刀を鞘に収めた。


「お前ら、グンヘイの謀反兵か」


    


 麟ノ国十瑞将軍グンヘイの屋敷にて。

 麟ノ国第二王子セイウの近衛兵を務めるチャオヤンは、主君に対して深いため息をついていた。腰掛に座り、真剣に絹衣や簪、宝石の品定めをしているセイウを一瞥しては、口からため息が零れそうになる。

 なるべく主君に聞こえないよう、思いのこもった息を呑んでいると、「リーミンはまだですか」と、能天気な疑問が飛んできた。
 曰く、早いところ、これらを使って着飾ってやりたい。少しばかり、客間の窓辺に飾って眺めておきたい、とのこと。

 連れて来たいのは山々だが、少しばかり難しい命令だ。チャオヤンはつい唸ってしまう。

「セイウさま。いまのリーミンは傷を縫い、身体を休めている最中です。傷が深かったことを、もうお忘れですか?」

 すっかり忘れていたようで、「そういえばそうでしたね」と、上機嫌に返事する。
 意思にそぐわない進言をしても、ご機嫌のセイウは右から左に流すばかり。その顔は底知れぬ欲が満たされ、ご満悦、といったところ。誰のせいで傷を縫っているのか、もう忘れている。

「僭越ながらセイウさま。なぜ、リーミンに無茶をさせたのです。あれは貴殿を守る剣であって、敵を滅する剣ではございませんよ。傷を負わせれば、それだけセイウさまを守る力が損なわれてしまいます」

「リーミンの力を、どうしても見たかったのですよ。ふふっ、うつくしかった。やはり、麒麟の使命を賜った懐剣は、どの剣よりもうつくしい。それが私の手元にあると思うだけで心が踊りますね」

 セイウは新調したばかりの絹衣を手に取る。それは白を基調とした、絹衣であった。

「あのうつくしさを引き立たせるには、もう少し、衣を鮮やかな色にするべきでしょうか。いや、動きやすいものでなければ、剣を振るう姿も鈍ってしまうでしょうし」

 チャオヤンは苦い顔をする。
 こうなったら最後、セイウに何を言っても聞き流されるだけだろう。昔からそうだ。喉から手が出るほど欲しい物を手に入れた後は、己が満足するまで、それを磨き、輝かせ、うつくしくする。


 今のセイウは、懐剣の子どもをどう着飾ってやろうか、それで頭がいっぱいなのだろう。とはいえ、浮足立っているセイウに釘を刺しておかなければならない。それも近衛兵の役目だ。


「セイウさま。リーミンを、しかと手放さぬようにして下さいませ。里には第一王子リャンテさまと、第三王子ピンインさまが確認されております。とくに後者は、リーミンと剣を交えております」


 傷を負わせても、取り戻す覚悟だったに違いない。

 チャオヤンは当時の兵士の話を思い返し、険しい顔で腕を組んだ。あの子どもがセイウの乗る馬から飛び下り、走り出したのは突然のことだった。誰もが逃げ出したと思い、急いで後を追った。

 そしたらどうだ。子どもは第三王子らと剣を交えているではないか。
 話を聞いた最初こそ、第三王子が仕組んだ猿芝居かと思っていたが、よくよく聞いてみると、懐剣の子どもが一方的に斬りかかったとのこと。

(つまり、それはセイウさまの災いとなる対象だったのだろう)

 しかし。子どもは賜ったお役により、決して王族を討つことができない。それゆえ、第三王子の取り巻きに懐剣を向け、少しでも災いを滅そうと体を張った。使命を果たそうとした。

 こちら側にとって好都合な展開だが、一方で恐ろしくも思う。
 あれは既に深い傷を負っていた。なのに、災いを滅するまで戦をやめなかった。兵士が止めなければ、今も懐剣を振っていたに違いない。

(少なからず、リーミンは自分の意思とは関係なしに、懐剣を振るっている)

 あの子どもは第三王子とたいへん親しい関係だと耳にしている。
 子どもは第三王子を兄のように慕い、第三王子もまた本当の弟のように接している。そんな第三王子に見向きもせず、セイウを守り抜こうとする姿勢は、決して自分の意思だとは言い難い。

(守りたい相手を選べず、己の意思すら持てない。少々哀れだな)

 物思いに耽っていると、今度はセイウの方から話を投げた。それまで上機嫌だった顔が崩れ、やや含みある眼を向けてくる。

「私とリーミンが離れている間、屋敷で動きはありましたか?」

 チャオヤンは目を細め「いいえ」と、短く答えた。

 その答えに一思案した後、セイウは扉を指さして、絹衣に目を戻した。チャオヤンは深く主君に一礼すると、早足で客間を出て行く。

 回廊を進むと、従僕や侍女らが恭しく頭を下げてきた。それに目を向けることもなく、懐剣の子どもが身体を休めている部屋へ足を伸ばす。


「なにも変わりはないか?」

 見張り兵らに尋ねる。首を横に振ったことを確認した後、チャオヤンは扉を押して中へ入った。

 すると。寝台で体を休めているはずの懐剣の子どもが、寝衣姿のまま大きな飾壷(かざりつぼ)の中を覗き込んでいる。
 よほど中が気になっているのか、身を乗り出し、半身を壷に入れていた。深い傷を負っているはずなのに、子どもは強靭(タフ)なのだろうか。

「リーミン」
「うわっ!」

 やや強めに名前を呼べば、子どもが間の抜けた驚きの声を上げた。
 しかし、身を起こす様子はない。いや、身を起こせないようだ。足をばたばたさせている子どもに、チャオヤンは無言で歩み寄り、脇の下に手を入れた。

「壷を覗き込んで何をしている」

 体を持ち上げると、子どもは「落っこちなくて良かった」と言って、ホッと胸を撫で下ろした。念のために飾壷の中を確認する。底の深い壷には一見、何も入っていないように思える。

 ユンジェを下ろす。
 再三再四、何をしていたのか、と詰問すると、子どもはきょとんとした顔で壷を覗き込んでいたと答えた。それは分かっている。問題はその後だ。

「リーミン、お前はセイウさまの命で、部屋で身体を休めるよう言われていたはずだ。なのに、命に背いて部屋をうろついていた。それは、とてもいけないことだ。セイウさまがいつ、うろついて良いと言った?」

 チャオヤンは片膝をついて、子どもと目線を合わせる。
 しかし、叱りつけてもなんのその。ユンジェは口笛を吹き、「べつに部屋からは出ていないよ」と、小生意気に反論した。

「確かに部屋で休め、とは命じられたけど、部屋の中をうろついちゃあいけない、なんて命令は受けていないよ。俺はちゃんと部屋から出ずに、ここで身体を休めていた。うん、命に背いたも何もないじゃん」

 叱られる理由なんぞ、これっぽっちもない。ユンジェは悪びれた様子もなく舌を出した。

 チャオヤンは子どもの小生意気さに心中で吐息をつく。
 どうも、この子どもは主君の傍から離れると、己の心を取り戻すようだ。セイウの傍にいる時のユンジェは王族の下僕として、まるで犬畜生のようにおとなしく従順になるというのに。

 きっとそれは主君のセイウが、その姿を望んでいるからだろう。

(この姿こそ、本来のリーミンの姿)

 こうして顔を合わせて、はじめて分かる。
 ユンジェは麒麟の使いなんぞと、大それた肩書きを持っているが、大人のチャオヤンから見れば「ただの子ども」だ。それ以上も以下もない。

(なのに。一たび懐剣を抜けば、主を守る麒麟の使いとなる。持ち主によっては心を失い、大人も恐れる戦狂いになる……物は持ち主によって物の寿命が変わる。同じようにリーミンは性格が変わってしまう。本当に物のようだな)

 哀れみを抱いていると、ユンジェが飾壷(かざりつぼ)を指さす。

「なあ。どうして部屋に空っぽの壷を置くの? 普通、壷って物を入れるよな? 俺、いつも壷を使って塩漬けを作っていたよ。油や水を入れていたこともあった。なのに、この部屋の壷は空っぽだ。それって何か意味があるの?」

 なるほど。子どもは元々農民の子。壷の中に何か入っているのでは、と好奇心をくすぐられ、壷の底を覗いていたようだ。

「あれは飾壷といってな。部屋の見栄えを良くするために置くんだ。普通の壷より、鮮やかな細工がされているだろう? あれは目で見て楽しむものなんだ」

「物はいれないの?」

「あれは飾るためのもの。普段から何も入れないよ」

「ふうん。じゃあ、そっと物を入れてもばれないね」

 だって、みんな、飾壷には何も入れないものとして見ているのだから。

 ユンジェは意味深長に肩を竦める。
 続け様、子どもは飾壷を見つめて、あの大きさなら、手に持つ大きさの物なら容易に隠せるだろう、と推測を立てた。小さい刃物や書物、小道具は勿論、それこそ油を薄く張っていても簡単に見抜くことは難しいのでは。

 あれこれ物を言うユンジェは、チャオヤンにこんなことを尋ねた。


「賊が椿油を仕掛けた、あの騒動の後、飾壷の中身は調べた?」

「ああ、もちろんだ。壷の中身はすべてひっくり返して調べているよ」

「その時は何か出てきた?」

「いくつかの部屋に椿油の入った壷が出てきたよ」

 賊は用意周到であった。
 王族が何処へ行っても狙えるよう、椿油を飾壷や水瓶に忍ばせていたのだから。きっと第二王子がこの部屋を使用すると確信を得た後で、床に椿油を張るつもりだったのだろう。

 チャオヤンはあの騒動の首謀者は、将軍グンヘイなのでは、と怪しんでいる。
 
 やたら麒麟の使いを怪しみ、我が手で預かると進言する、あの態度が妙に鼻につく。表向きはセイウに忠誠を誓っているが、あの忠誠心の薄さは一目で見抜けるもの。

「それは毎日、ちゃんと調べているの?」

 子どもの問いによって、思案に耽っていたチャオヤンは我を取り戻す。

「もしも一回っきりだとしたら、警戒心が足りないよ。この屋敷にいる間は毎日調べなきゃ。ここはセイウさまの屋敷じゃあない、将軍グンヘイの屋敷なんだから。俺が狡い賊なら、調べ切った頃合いを見計らって、飾壷に物を隠したり、油を仕込むよ。屋敷の構造をよく知っている賊なら、王族の目を盗んで仕込むことも簡単だろうしさ」

 なにより、こう思うのではないだろうか。

 あのような大騒動を起こした後なのだから、みんな二度も同じことは起こせないと信じているに違いない。

 王族や見張り兵の目もあるし、一度は屋敷中を隈なく調べたのだから、もう大丈夫だろうと安心していることだろう。隙を突くなら、そこしかない、と。

 意気揚々と語るユンジェは、さっそく確かめに行こうと言って、チャオヤンの脇をすり抜けた。急いで子どもの手首を掴み、どこへ行くのかと語気を強めれば、ユンジェがきょとんとした顔で首をかしげた。

「もちろん、飾壷が置いてある部屋だよ。よく見ておきたいのは、王族が過ごす部屋だけど、念のため飾壷が置いてある部屋は全部確かめておこうと思って」

「リーミン。それは兵士の仕事だ。お前がすることじゃあない。後で頼んでおくから」

「チャオヤンが確かめるわけでもないんだろう? だめだよ。ちゃんと自分の目で確かめないと。それに、飾壷を確かめるってことは屋敷を歩き回るってこと。つまり、構造が知れるってことじゃん」

 それこそ屋敷の回廊から、屋敷内の部屋の数から、個々の部屋の構造まで知ることができる。王族を襲った賊と同じ知識を得られる。こんなにも好条件が揃っているのだから、自分で調べない手はない。

 きっぱりと言い切るユンジェは、呆気に取られるチャオヤンの衣を引いた。


「チャオヤン、さっそく行こう。どうせ、俺ひとりじゃ部屋から出してもらえないんだろう? 一緒に来てよ」



 ◆◆


 うまくいった。

 まずユンジェが思ったことは、これであった。

  真横に見張りの近衛兵はいるものの、無事部屋から出られたことにホッと胸を撫で下ろす。もしも、チャオヤンを言い包められなかったら、べつの手で部屋から出る方法を考えなければいけなかったので、とても安心している。

(本当はひとりで屋敷を歩き回りたかったんだけど、さすがにそれは許してもらえないだろうな。どっちにしろ、今の俺があれから逃げ出せるわけもないけどさ)

 物騒なことを考えているユンジェは、いつものユンジェであった。
 未だに己の本当の名前が思い出せずにいるものの、幾分正気を取り戻している。ゆえに主君を軽率に「あれ」呼ばわりすることもできた。あくまで心の中で。

 しかし。セイウが傍にいると、それすらできなくなるので、あまり彼の傍にはいたくない。セイウの傍にいるだけで、ユンジェは培ったすべてを奪われてしまうのだ。名前は当然、身分のことも、今まで知り合った人間のことも、思い出すらも。

(それでも俺は、セイウと離れることで心を取り戻すことができる)

 それはセイウの懐剣に飾られた黄玉(トパーズ)が原因だろう。
 今のユンジェはセイウの懐剣を抜き、紐で縛られたティエンの懐剣を帯にたばさんでいる。二本の懐剣に殆ど違いはない。あるとすれば、鞘に飾られた黄玉(トパーズ)の形と、ヒビの有無がある点くらいだ。

 けれども。これがユンジェの命運を分けた。

 セイウの懐剣に飾られている黄玉(トパーズ)は以前、ティエンの放った矢によってヒビが入っている。麒麟の心魂が宿ると謂われている黄玉(トパーズ)にヒビが入っているおかげで、ユンジェはすべての心をセイウに奪われずにいるのだ。

 これも、ひとえにティエンのおかげだ。
 離れ離れになっても、ティエンが自分を守ってくれる。リーミンになったユンジェを取り戻してくれるのだから。

(せっかくティエン達に会えたのに。サンチェには悪いことしちまったな)

 ほんとうに悪いことをしてしまった。

 それはティエン達に限ったことではない。あの広場で命を散らした罪人らにも、ああ、悪いことをしてしまった。

 罪を犯した人間にそのような想いを向けずとも良いのかもしれないが、少なくともユンジェには吐きそうなほど重い罪悪感が募った。

 あの時、自分が負けてやれば、あの者達は生きていたのやもしれないのに。偽りの希望を持たされた罪人らを想うと心が痛む。


 その一方で、ティエンに想いを寄せた。

 今ごろ彼は悲しい思いをしているに違いない。
 あれはとても優しい男。ユンジェの行いを背負い、自分のせいだと責めているのではないだろうか。

 とくに左肩を射たことは悔やんでも悔やみきれないのではないだろうか? だったら違うと声を大にして言いたい。むしろ、ユンジェは彼に感謝したい。

(ティエン……俺を止めてくれてありがとうな。無事に逃げてくれよ)

 聡い彼はすでに気づいている頃だろう。ユンジェは心を取り戻す機会があるのだと。

 現にユンジェは矢で射られた瞬間、心を取り戻し、わざと左肩に刺さった矢を抜いて血を出した。
 そうすれば、後を追って来た兵士らが顔色を変えて止血をすることになる。セイウが大切にしている懐剣なのだ。第二王子から懐剣を失わせないよう必死になると、ユンジェは知っていた。

 あれで少しでも、逃げるティエンらの足止めになれば、ユンジェの思いも報われる。

「リーミン」

 厳かな声がユンジェを我に返らせた。
 目だけ横に流すと、探るような視線とぶつかる。さっそく心を見透かそうとしてくる。チャオヤンという男は本当に厄介な男だ。カグムが相手をしたくない、と嘆く気持ちも分かる。

(ティエン達のことを考えるのは後だな)

 今は少しでも、自分のいる場所を知っておかなければ。知識は必ず力となる。ユンジェはそれを知っている。
 そのために、チャオヤンを言い包めて部屋を出たのだから。


(ちゃんと壷の中を覗かないと、怪しまれる。慎重に動かないと)


 ユンジェは平伏してくる従僕や侍女に声を掛け、近場の部屋に入る旨を伝えた。
 突然の申し出に、みながみな、呆けた顔を作っていたが、一言断ったのでユンジェは無遠慮に部屋の扉を開けて飾壷の底を覗いた。
 あれば頭から突っ込み、壷底に何かないか。なければ、部屋の構造と場所を頭に叩き込んだ。

「んっ?」

 八つ目の部屋で探索をしていた時だった。ユンジェは珍しいものを見つけた。

「チャオヤン。チャオヤン。この石はなんだろう?」
「石?」

 その部屋は穀物や酒を貯蓄している倉庫であった。
 飾壷なんて到底ありっこないだろうが、つい好奇心が優ってその部屋に足を踏み入れた。そして、なんとなしに麻袋の中を覗いていた時に石の詰まった袋を見つけたのだ。

「ここって食い物部屋だよな? ……石って食べられるのか?」

 だったら、とてもまずそうだ。
 顔を顰めるユンジェをよそに、チャオヤンは石を一つ手に取った。

「岩塩……か?」
「がんえん? それはなに?」

「岩の塊をした塩のことだ。麟ノ国では、あまりお目にかかれない。きっとこれは舶来品だろう。ここ青州に入ってくることがあるからな」

「塩ってことは、食べられるの?」

「ああ。これを削れば、立派な塩になる」

 岩の塩。想像もつかない。
 首を傾げるユンジェは、チャオヤンの目を盗んで懐にそれをしまった。食べられる岩なら、旅で役立つかもしれない。(じじ)の教えで盗みは悪いと知っているものの、今は生きる方が先決だ。大切に取っておこう。

 また、しばらく屋敷を探索していると、飾壷の中から妙なものを見つけた。
 その部屋は、衣を仕舞っている部屋で、とくに目新しいものはない。あるのは衣を仕舞っている箪笥や簪といった装飾品ばかり。飾壷もあったが、他の部屋に比べて大きなものではなかった。せいぜい花瓶ほどの大きさであった。

 ユンジェは小さな飾壷を覗き、きゅっと眉を潜めた。無造作にひっくり返すと、そこから、さらさらとした黒い粉が落ちてくる。

 はて、これは何だろう? 砂にしては黒すぎる。

「チャオヤン。これは何だと思う」

 両手ですくい上げ、チャオヤンに見せる。彼はそれをつまんで、指の腹で擦りつけた。

「木炭を粉にしたものか……まさか、さっきの石は岩塩じゃなく……」

 ユンジェに黒い粉を手放させると、チャオヤンは険しい顔のまま兵士を呼びつけた。

「今すぐ屋敷内の飾壷をひっくり返せ。いいか、すべてひっくり返せ」

 どうやら大層な物を見つけてしまったらしい。もう少し、屋敷内を歩き回りたかったのに。

(まさか、本当に壷底から物が見つかるなんて。様子から察するに、セイウの身に危険を及ばせるものみたいだけど……ティエン同様、セイウも命を狙われやすいのか?)

 ユンジェは両手に付着した黒い粉を払う。

 手が真っ黒になってしまったので、衣でそれを拭うと、おもむろに飾壷を掴んで床に叩きつけた。衝撃で割れる飾壷の音で、傍らにいた従僕や侍女の顔色が変わるが、ユンジェはお構いなしに言うのだ。

「いっそ壊した方が早いかもしれないよ」

 そうすれば、飾壷に物を隠される物騒沙汰も繰り返されることはないのでは?

 ユンジェの素朴且つ大胆不敵な意見は、屋敷内に大騒動を巻き起こす。

 チャオヤンの指示の下、兵士らが本当に飾壷を壊し始めたのだ。まさか己の意見が通ると思わず、ユンジェの方が驚いてしまう。屋敷の主である将軍グンヘイも、この騒動を聞きつけ、何をしているのか、と怒鳴り散らしていた。私物を壊されるのは心外なのだろう。

 だが、チャオヤンは徹底していた。飾壷を壊し、その中身を調べるよう兵士に声を張っていた。主君を守る、その一心だった。

 やがて騒動はセイウの耳にも届く。彼は一連の知らせを聞き、迷わずチャオヤンに命じた。


「見つけた木炭の粉には水を撒き、石はすべて回収しなさい。そして、リーミンを私の傍へ連れて来なさい。あれは王族が傍にいなければ、懐剣を抜いてもただの子ども。力を引き出せる私の傍に置きなさい」


 こうして、ユンジェはセイウの下へ連れて行かれる。束の間の自由であった。もっと、この足で屋敷をうろつき回り、隈なく構造を目に焼き付けておきたかった。

 けれども。少しでも嫌がる素振りを見せれば、今後の行動を狭めてしまいかねない。
 ここは従順になるべきだろう。いや、どちらにしろ、今のユンジェに逆らう術はない。その証拠に客間に入るや、足が勝手に主君の下へと向かってしまった。どこまでも犬畜生のような姿だと、心のどこかで嫌悪する己がいた。

 さりとて。まだユンジェの心は残っていた。だからこそ、従順になる己の姿に嫌悪する自分がいるのだろう。

「セイウさま。やはり、あの石は硝石(しょうせき)でございました」

 主君の足元に座ろうとしたユンジェの前に、わらわらと侍女らがやって来る。
 彼女らは、身を汚してはいけません、と言って手早く織細やかな敷物を引いた。その上に座ったところで、すらっとした腕が伸びてくる。視線を持ち上げると、セイウがヒトの髪を指先で巻いて軽く弄っている。その美しいかんばせはとても険しい。瑠璃の眼はチャオヤンの差し出した石を鋭く睨んでいる。

 そんなに物騒な代物なのだろうか。
 ユンジェは興味津々に硝石(しょうせき)を見つめる。

「硝石は貯蔵庫のみ。岩塩と混ざったかたちで見つかりました。木炭の粉末は、いくつかの飾壷の中から握りこぶし程度の量が見つかっております。リーミンの機転がなければ、我々は間近の危険すら気づけなかったことでしょう」

 自分の手柄にしてしまえば良いのに、チャオヤンはユンジェの手柄だとセイウに知らせた。
 子どもながら見るべき目を持っている、と言って褒めてくれる。その一方、チャオヤンは青褪めた顔で片膝をついている将軍グンヘイを横目で見やった。その目はどこまでも冷たく、一切の信用を宿していない。

「まこと不思議な話ですね、将軍グンヘイ。屋敷に硝石(しょうせき)があるとは。また、飾壷の中に木炭の粉があるとは奇怪なこと極まりない」

「貴様。一端の近衛兵の分際で、私に言い掛かりをつける気か!」

「ここは貴殿の屋敷でございましょうに」

 やれやれ。大げさに肩を竦めるチャオヤンの態度が気に食わなかったのか、グンヘイの顔色が見る見る赤くなっていく。誰がどう見てもグンヘイは怒れている様子であった。王子の御前でなければ、鞘に収めている剣を抜いていたやもしれない。男の手が何度も柄を触っている。

 未だ硝石(しょうせき)が何なのか分からず、首を傾げていると、グンヘイと目が合った。

「また貴様か、懐剣の小僧! (くだん)の騒動を起こしたのは! 手柄欲しさに私を嵌めたいのか。貯蔵庫から硝石を見つかるなんぞ、天地がひっくり返ってもあり得ない話。どこから忍ばせた!」

 癇癪を起こす将軍の言葉が、まったく響いてこない。一体何を言っているのだ、この男。

(またとんちんかんなこと言ってきやがった。頭悪いから、グンヘイとは喋りたくないんだけど)

 息巻くグンヘイが鼻の穴を膨らませて、こちらを見据えている。見ているだけで、なんだか気分が悪い。

「リーミン。この石が何なのか、分かりますか?」

 セイウが問うたので、ユンジェは寸の間も入れず、「いいえ」と答えた。
 グンヘイから「うそをつけ」と怒鳴られてしまうが、本当に何も知らないのだ。詰問されたところで、同じ返答しかできない。

 すると。セイウが侍女に声を掛け、グンヘイとユンジェに硝石を渡すよう指示した。そして、二人にはそれを舐めてみろ、と命じる。途端にグンヘイは零れんばかりに目を見開き、セイウを凝視した。正気か、と言わんばかりの顔である。

(そんなに怖い石なのか? もしかして、これは毒石?)

 硝石を受け取ったユンジェは、それを天に翳したり、手の平で転がしたり、あらゆる角度から石を観察する。
 半透明な白石にしか見えないのだが、これに毒が含まれているのだろうか?

(まっ。腹痛(はらいた)を起こしたら、その時はその時だな)

 迷うことなく硝石を舐めてみる。それは驚くほど冷たく塩気があった。石に味があるとは珍しい。もしやこれは先ほど、チャオヤンが言っていた「岩塩」とやらでは?

「リーミン。その石は山草、人間や家畜の糞尿などをまぜた土から作られています」

 ユンジェはむせ返ってしまう。なんというものを舐めせてくれるのだ、この王子!
 目を白黒にして硝石を見つめるユンジェを余所に、セイウはふむ、と一つ頷いて、グンヘイに言った。

「将軍グンヘイ。貴殿はこれを舐めろ、と命じられ、すぐにそれができませんでしたね。それは硝石がどのような過程で作られているのか、それを知っているからこその態度でしょう。もし、何も知らなければリーミンのように躊躇いなく舐めていました。これはリーミンが硝石を知らない証拠他ありません」

「お言葉ですが、セイウさま。作り方を知らないだけ、では」

「生産地を知らなければ、硝石は手に入らない。仮に商人から買ったものだとしても、それは高値で取引されているもの。屋敷から見つかった硝石の数は十や二十ではありません。常に小汚い格好をしていたリーミンが買えるとは思えませんが」

「それは……」

 グンヘイが口ごもったところで、セイウが一人の侍女を手招く。その侍女は、若くやや幼さが垣間見えるおなごであった。

 セイウは侍女に出入り口の前で立つよう命じた。

 そして彼女に飾壷と蝋燭の火がともった燭台を持たせ、あれには少量の硝石と木炭と硫黄の粉末が入っていることをユンジェに説明する。
 なぜであろう。グンヘイやチャオヤン、兵士らは、侍女からやたら距離を取った。

「燭台を飾壷の中へ」

 侍女が飾壷に燭台を入れる。目の眩むような閃光と、耳のつんざくような破裂音、女性とは思えない野太い悲鳴が一室を満たした。

 ユンジェは恐ろしい光景に身を引きつらせてしまう。飾壷が破裂したのである。

 壷を持っていた侍女はその場に転がり、熱い、痛い、苦しい、と悲鳴を上げながら、のたうち回っていた。寸前まで見せていた幼さを残す顔はそこになく、火傷で腫れあがった顔が涙を流して救いを求めている。
 

 なのに。セイウは耳障りだと言って、兵士らに侍女を連れ出すよう命じた。これではろくに話もできない、と言って。

「な。なにが起きて」

「ふふっ、リーミン。硝石は火薬の原料なのですよ。じつに、うつくしい火花でしたね。少しの火や衝撃で、あんなにも爆ぜるなんて」

 ユンジェの髪を弄りながら、セイウがご機嫌に笑う。

(冷たい男だとは知っていたけれど。まさか、ここまでだなんて……)

 当たり前のように、仕えている人間を危険な目に遭わせて、硝石の正体を教えるセイウが恐ろしくてたまらない。セイウは王族以下の人間をみな、畜生だと思っているのではないだろうか。自分は今、こんな男の懐剣になっているのか。火薬を平然と使わせる男の懐剣に、平然……ふと。ユンジェは顎に指を当て思考を回す。

「将軍グンヘイ。あの侍女の身分を聞いても?」

「小僧、何を唐突に」

 セイウが視線を送ると、グンヘイがしぶしぶ里の人間だと返事した。その身分は、貧しい鍛冶屋の娘だそうだ。なるほど、ユンジェはうんっと頷く。

「だったら、貯蔵庫に硝石を運んだのは侍女か、従僕なんじゃないかな」

「なに?」

 グンヘイが室内にいる侍女や従僕らを睨む。みながみな背筋を伸ばし、深くこうべを垂らして、身の潔白を訴えた。
 すかさず、ユンジェは話を続ける。

「ただし。侍女達は貯蔵庫に運んだだけに過ぎない」

 おおよそ、侍女や従僕は硝石を岩塩だと思って運んでいた。
 舐めればしょっぱいのだ。ユンジェのように無知であれば、硝石が岩塩だと言われても、何一つ疑わない。またセイウは硝石を火薬の原料だと言った。

 となれば、戦に赴いたことがない者であれば、やはり岩塩だと信じてしまうことだろう。

 そう、みな硝石を知らない。

 今しがた、火薬の犠牲となってしまった侍女もそう。火薬の存在すら知らなかったのだろう。だから平然と燭台を飾壷に入れることができた。
 反面、兵の身分に置いている者はみな、侍女から距離を取った。それは火薬の脅威を知っているからだ。

「硝石を運ばせた人間こそ、俺は犯人だと思うよ」

 それも火薬の知識を持つ人間ではないか、とユンジェは意見した。

「セイウさまが襲われた、あの事件の時には、もう既に準備が整っていたのかもしれない」

 火薬の威力なんぞユンジェには露ひとつ想像ができないが、下手をすれば、この屋敷が燃え上がっていたのでは? 火薬は少しの衝撃や火の気で爆ぜるそうだし、なんせ王族を狙った輩だ。王子の首を討ち、なおかつ王族の配下にいる将軍の屋敷を吹き飛ばせれば、一石二鳥だろう。

「なるほど。岩塩と混ぜれば、確かに屋敷の中に運びやすくなる。人目はあるでしょうが、何せ食い物の貯蔵庫です。入るのは侍女や従僕ばかりでしょう」

 セイウが興味津々に耳を傾けてくる。その目は実に楽しそうだ。
 グンヘイは未だに、顔を真っ赤にしている。彼こそ怒りで爆ぜるのでは? ユンジェは皮肉を思った。

「セイウさま。明日にでも、ここを発ちましょう。リーミンも手に入ったことです。この里に滞在する必要は、どこにもございません」

 遠回し、ここは危険だと、チャオヤンは進言する。グンヘイの睨みがチャオヤンへ行ったが、彼はセイウの身の安全を第一に考えた。
 近くには第一王子と第三王子もいる。いつ、セイウが狙われるか分からない。麒麟の使いを連れて帰るべきだ、と訴えた。

 その瞬間、ユンジェは強い使命感に駆られた。自然と言葉が口から零れる。

「セイウさまは天降ノ泉へ行かねばならない、大切なご使命がございます」

 第二王子だけではない。第一王子、第二王子もそう。選ばれた三人の王子は、天降ノ泉へ行かねばならない。そこで麒麟が次の王を待っているのだから。
 だから、ああ、だからどうか。ユンジェはセイウの前で平伏し、天降ノ泉へ行くよう願い申し出た。
 いま宮殿に帰るということは、王座を拒否するのも同じ。麒麟の使いである自分は、黎明皇となる者の懐剣となり、所有者を守る使命がある。セイウが麒麟を無視して宮殿に帰るのであれば、ユンジェはこの懐剣を彼に返さなければならない。

 たとえ、主君がセイウであっても、こればかりは譲れない。

「ならば。迷わず私を導きなさい。リーミン」

 そっと顔を上げる。そこには底知れぬ欲と、優越感に浸っている男の顔があった。

「私は国に一つしかない懐剣を、誰にも渡さない。父にも義兄弟にも」

 麒麟が自分を待っているのであれば、瑞獣の意思に従い、天降ノ泉へ行こう。そこで麒麟が手に入るやしれない。おっと、うっかり口が滑った。
 セイウは口端を緩めた。足を組み直すと、ユンジェの顎を右足の甲で掬う。

「お前はよく考え、答えを導き出す子ども。それを人は賢い、と呼ぶのでしょう。だったら、その賢さを私に捧げなさい。その心は常にセイウを想い、その身はセイウのために尽くしなさい。リーミン、他の誰かと迷うことは許されない。お前の体にはセイウの血が流れていることを忘れてはいけませんよ」

 セイウが笑みを深める。やはり、この男には敵わない。どんどん己が奪われていく。

(俺の名前、もう一生思い出せないかもしれない)

 いや、そんなことはない。きっと大丈夫。ティエンがきっと、名前を思い出させてくれる。そう彼は自分に約束してくれた。だからそれまでの辛抱、ティエンがくるまでの辛抱なのだ。

「セイウさま、どうかリーミンめと共に天降ノ泉へ」

 ユンジェはそっと彼の右足を両手で包み、足の甲に額を当てた。