「なあ、ティエン。思い切って懐剣をおっ、いひゃい!」

 ふたたび懐剣を折る提案を出そうとしたら、台から身を乗り出したティエンが両手で頬を勢いよく挟んでくる。痛い!

「ユンジェ。次、その案を口にしたら、本気で怒ると忠告したはずだぞ。お前も言っただろう。二度とそれは言わないと」

「だ、だってさぁ」

 微かに赤くなった両頬をさする。麒麟の使いが宿る懐剣を折ってしまえば、彼は王座を拒否したと見なされ、王にならなくとも済むやもしれないのに。

「お前が嫌がっている道に、俺が導いているかもしれねーんだぞ。折るべきじゃねーかな」

「ユンジェがリーミンになるやもしれないではないか! お前がどうなるか分からないのに、折るなんて言語道断。私は絶対に折らぬぞ」

 柳眉をつり上げるティエンが腕を組み、笑顔でこちらを睨んでくる。怖い。

「そんなに怒るなよ」

「私はちゃんと忠告したよ。それをユンジェが破ったのだから、本気で怒る。しごく当たり前の態度だろう? 兄上らにお前は渡さないからな」

「でもさ」

「でもじゃない」

 ティエンがあさっての方を向いてしまう。子どもか。

「俺の話を聞けよ」

「嫌だ。私は話を聞かない」

 ユンジェが体を傾け、視線を合わせようとすると、彼は反対側を向いてしまった。ああもう、その態度は子どもじゃない。ガキである。


「ティエンってば」

「私はティエンだが、ユンジェの言うことは聞かない」


「……ガキじゃねーんだから」

「私は十九のガキだ」


 ああ言えばこう言う。


 ユンジェは不機嫌になったティエンにため息をつき、ぶすくれている齢十九の王子を遠目で見つめる。
 理不尽なことが遭っても辛抱強く耐えるユンジェに対し、彼は少しでも嫌なことがあるとすぐ感情的になる。これではどちらが年上なのか分かったものではない。

(俺より五つも年上のくせに)

 へそを曲げているティエンの機嫌を取るため、ユンジェはこんな提案を出す。

「悪かったって。後で俺の髪を弄って良いから機嫌直せよ」

 ティエンは髪を弄ることが好きだ。短髪であろうと、長髪であろうと、楽しく自分の髪を弄っている。

 最近では、やたらユンジェの髪を弄ろうとする。セイウのところで小綺麗になった姿を目にして、自分も髪を弄って綺麗にしたいと思うようになったらしい。

 弄る手が鬱陶しいと思うユンジェは、気が向いた時しか弄らせてなかったのだが、今晩はティエンの気が済むまで弄って良いと提案する。

 それを聞くや彼はころっと表情を変え、仕方がないから許すと言った。どこまでも偉そうであった。さすがは王族の人間である。
    

「水のおかわりは要りませんか?」


 声を掛けられたことで、会話が打ち切られる。顔を上げると、若い娘が二人立っていた。
 利用客に水のおかわりを尋ねまわっているのだろう。その手には錫の水差しが握られている。おおよそ二人は宿屋の娘で姉妹なのだろう。顔立ちがよく似ていた。

(なるほど。ティエン狙いか)

 ユンジェは可愛らしい顔をしている娘達の熱い視線に気付き、美しい男は人気だなぁと肩を竦める。
 ティエンはおなごのような顔立ちながらも、声を聞けば男だと分かる。綺麗とは得をする生き物だ。

 とはいえ、ティエンがその意図に気付けるかどうか。下手すると、警戒心を剥き出しにして、一切口を開かなくなる可能性もある。

(こいつ、心を開くまでに時間が掛かるんだよな)

 ティエンは兵士不信に加え、見知らぬ人間と喋ることを得意としていない。物々交換の交渉だって、いつもユンジェがしていた。つらい生い立ちが内気を拗らせているのだろう。

 思った傍から、ティエンが口を閉じて、娘達の視線から顔を背けてしまう。勿体ない。せっかく娘達がティエンに興味を示してくれているのに。

「水は十分だよ。ありがとう」

 代わりにユンジェが受け答えする。これで仕舞いになれば良いのだが、なんと娘達は世間話を振ってきた。


「旅のお方ですよね。どちらから来られたんですか?」


 娘の一人が尋ねてくる。
 紅州と答えると、もう一人の娘が手を叩き、お茶で有名な土地ですよね、と楽しげに笑った。ユンジェは己の土地の名物など、つま先も知らないが、ティエンが軽く頷いたので、その通りだと返事する。

 すると娘達が口を揃え、今の機会に青州に来るのは、少しばかりまずかったかもしれない、と興味深い話を出してきた。理由を尋ねると、彼女らはこのように答える。

「近頃の青州は物騒なんですよ。戦の噂が絶えず、ここを利用するお客様の中には暗い顔する方も多くて。とりわけ将軍グンヘイという方が、各地の町や村を焼き払っているのだとか」

 宿屋の娘達は旅の人間から、色んな話を聞いているのだろう。国や王族については詳しくないようだが、人伝に耳にしたことを話してくれる。

「どうやら、グンヘイや国に逆らう人間達がいるそうですよ。最近、耳にしたのは椿ノ油小町の戦でしょうか。なんでも、椿ノ油小町の人間が国の大切にしている、天降(あまり)ノ泉を独占していたとか」

 ティエンの眉がぎゅっと顰められる。聞き覚えがあるのだろう。

 しかし、彼に聞くまでもなく、娘達が天降ノ泉について事細かに話してくれる。

    

 曰く、天降ノ泉は川多き青州の水の源と云われており、天上におわす麒麟の憩いの場だとか。
 それは天を翔け、地上を見守る麒麟が一休みするため、一粒の涙を落として出来た泉。やがて枝分かれし、数多の川となって海に繋がったと伝えられている。

 瑞獣の麒麟とゆかりがあるので、国は天降(あまり)ノ泉を大切にしているのだそうだ。それを椿ノ油小町の人間が独占したので、将軍グンヘイが制裁を下したという。

 けれども。噂を耳にした青州の人間達は、一抹もそれを信じていない。
 なぜなら、本当に天降ノ泉を独占しようとしているのは、将軍グンヘイだと誰もが分かっているからだ。

「将軍グンヘイが青州の守護を任されてから、何かと問題が生じているそうですよ。悪評ばかり目立つのに、なぜ青州を任されている王族は放っておくのだろう、と青州の民は思っているらしくて」

 よほど将軍グンヘイは酷い人物らしい。彼と対面したことのあるティエンが、険しい顔で身震いをしている。

「これから先の旅路、どうか用心して下さいね。グンヘイという方も、国に逆らう人間も、とても乱暴だと聞きますので。ね、姉さん」

「ええ。本当に。グンヘイは勿論のこと、国に逆らう人間なんて、セイウ王子が大切にしている子どもを誘拐したそうですよ! お可哀想そうに。噂によれば、セイウ王子は子どもをとても可愛がっていたとか」

 可愛がるどころか、人を物として扱った挙句、ユンジェを下僕にしたのだが。麒麟の使いを宮殿に飾ろうと目論む、とんでもない男なのだが。噂って怖い。

「セイウ王子は心を痛めているでしょうね。はやく子どもが見つかれば宜しいのですが。そういえば、お名前が出ていたような……」

「出ていたわ、姉さん。前にここを寄った旅のお方が、子どもを取り返して、報酬を得るとか意気込んでいましたから。確か、リ……りぃ」


「ユンジェ。追加で胡麻団子を頼もう。私と半分にしような」


 これ以上、セイウの話を聞きたくないティエンが、貴重な笑顔を浮かべ、胡麻団子を追加で注文する。娘達の会話を断ちたい目的もあるのだろう。ユンジェには作り笑顔だとすぐに分かったが、何も言うまい。

 頬を上気させる姉妹が、嬉しそうに注文を受け取って踵返す。

「おっと」

 姉の方が人とぶつかった。慌てて、謝罪する娘の顔が呆けた。好青年の兵士が娘の体を受け止めている。


「お嬢さん、怪我はないか?」


 その声は。
    

 顔を上げれば、柔らかな笑みを浮かべて娘の体を受け止めているカグムと、不機嫌に眉を寄せているハオの姿。おおかた夕餉に連れ出すため、部屋を訪問したのだろう。が、ユンジェ達がいないので、探し回っていた様子。

 いや、問題はそこではない。

 カグムに受け止められた娘が、見る見る顔を真っ赤に染めていく。何度もぶつかったことを謝ると、彼は気にしないで欲しいと笑顔を作った。
 それどころか、こちらこそ通り道を阻んで申し訳ないと謝罪する。

 するとどうだ。見る見る姉妹達の顔が蕩けたではないか!

 ユンジェは思った。

 なるほど。カグムは女性の人気を集める性格をしているらしい。顔も格好良い方だし、体躯も強く見える。
 なにより、癖のない笑顔で娘と接している。お嫁さんになりたい女性も多いことだろう。

「はっ、これだから女って奴は」

 悪態をつく男は、カグムとは対照的である。ユンジェは遠い目で、背後に立つハオを見つめた。


「おい、クソガキ。なんだ、その人を憐れむような目は」

「ううん。女は厳しいなって思っただけ。眉間の皺が怖く見えるのかなぁ」


 それだけで、何が言いたいのか理解したのだろう。

 ハオはこめかみに青筋を立て、頭に拳骨を入れてきた。痛い、殴らなくとも良いではないか! そういうところが、女の心を掴めない原因なのだ。


 ユンジェはひりつく頭部を擦り、恨めしくハオを睨んだ。



 その晩。穏やかな時間を過ごしたユンジェは、夢の中で麒麟と再会する。

 一面広がる水の上に立ち、巨体を持つ麒麟と、いつまでも向かい合った。美しい黄金色のたてがみ、鮮やかな鱗、三つの立派な角はいつ見ても呆気に取られる。

 澄んだ目に見つめられるユンジェは、麒麟の声なき声を聞いた。
 それは神託であった。使いとして、その御言葉を所有者に届けろと、次なる王へ届けろと言われているような気がした。

 一方的に伝えられるので、ユンジェは麒麟に聞くに聞けなかった。

 どうして、自分はティエン以外の懐剣を抜けるのだと。彼を守るために使命を与えたのではないのかと。麒麟はティエンを王にしたいのかと。



 たくさん聞きたいことがあるのに、声はまったく出なかった。






「ユンジェ? ……ユンジェ! 良かった、目を覚ましたのだな!」


 ゆるりと瞼を持ち上げると、ユンジェは血相を変えたティエンに縋られた。

 何事だろうか。ぼんやりとした意識で上体を起こす。
 ユンジェは宿屋の寝台に寝ていた。驚くことに、寝台の周りにはカグムやハオもいる。もう朝なのだろうか。寝坊したのだろうか。

「馬鹿野郎。もう夜だ。てめえ、丸一日寝ていたんだぞ」

 名前を呼んでも、揺すっても、頬を叩いても、まるで起きなかったのだとハオ。医者を呼ぶかどうか話し合うほど、深い眠りに就いていたそうだ。

「ユンジェ。気分はどうだ? 医者はいるか?」

 カグムが膝を折り、視線を合わせてきた。

 瞬きを繰り返すユンジェは、軽くこめかみをさすって首を横に振ると、所有者に賜った神託を告げる。

「ティエン、天降(あまり)ノ泉へ行こう。麒麟がそこで、お前の、セイウの、リャンテの……次なる王の訪れを待っている」




 麟ノ国第二王子セイウはその日、まこと不思議な胸騒ぎを覚えていた。


 それは起床し、朝餉や湯殿を済ませても拭うことができず、昼餉の刻になると、胸騒ぎは強くなった。

 何かの前兆であろうか。今宵は己を溺愛する母が宮殿に来るので、それの応接をしなければならないのだが。

 あまりにも胸騒ぎが拭えないため、セイウは近衛兵のチャオヤンに使いを頼み、顔なじみの姥呪術師を呼びつける。

 もしかすると、この胸騒ぎは己の体調による異変や、身の回りの不幸事の前触れやもしれない。
 せっかく麒麟の使いを見つけ出し、これからという時に、病や不幸事に巻き込まれたくはなかった。セイウは一刻も早く懐剣を我が物にし、宮殿に飾りたいのである。

 事情を聴いた呪術師は一室に御香を焚くと、敷布の上にセイウを座らせた。
 そして、彼の前に獣の歯や爪、折れ曲がった鉄棒。石同士がくっ付き、時に反発し合う磁石(じせき)などを置いて占術を始める。

 鼻につく御香に顔を顰めながら呪術師の返答を待っていると、姥はひとつ頷き、このようなことを言ってくる。

「セイウさま。貴方様の胸騒ぎは、おおよそセイウさまと、麒麟の使いが関わっているものと思われます」

「使いが関わっている? リーミンが近くにいるのでしょうか?」

「いいえ。おそらくは使いが麒麟より神託を賜り、主君である貴方様に進言しているのか。もしくは導こうとしているのではないかと。麒麟の使いは、主君を守る者。そして次なる王座へ導く者。たとえ主君と離れていようとも、そのお役は果たすことでしょう」

 それが胸騒ぎの正体だと姥は言う。

「セイウさま。磁石(じせき)を右の手にお持ちくださいませ」

 萎れた手が磁石を差し出す。言われるがまま、それを右手で握ると、目を閉じるよう指示された。良いと言うまで、目を開けてはならないとのこと。

「この老婆の声に、まっさらな御心で耳を傾けて下さいませ」

 御香の匂いが強くなる。新たに焚かれたのだろうか。また、ジジッと顔の近くで火の音も聞こえた。それは燭台に刺さった蝋燭のものだと分かる。

「麒麟の使いはセイウさまの下僕。主君である貴方様を導くため、声なき声を届けておられまする。さあ、まっさらな御心でお聞きくださいませ。いま、貴方様の御心には映っておりますか?」

 呪術師が鈴を鳴らし、目を開けて良いと告げる。

 そろりと、瞼を持ち上げたセイウの頭に一つの情景が浮かんだ。前触れもなかった。しかしながら、それは強い思いとして心に反映する。


天降(あまり)ノ泉。リーミンは、そこに必ずや姿を現す」


 腰を上げたセイウは興奮する。
 これは出たらめではなく、確信であった。血眼になって探している懐剣の居所が、こうも簡単に割り出せるとは思いもしなかった。主従の関係だからこそできる芸当なのだろう。

「さすがですね。青州一の呪術師と謳われるだけあります」

 恭しく頭を下げる呪術師は、セイウに物事が上手くいくよう、こんな助言をした。

「セイウさま。凶星が二つ、貴方様に迫っておりますのでお気を付けくださいませ。それは謂わずも、御兄弟でございましょう。とりわけ赤き凶星は、闇に見え隠れしております」

 赤き凶星。おおよそリャンテのことだろう。
 少しばかり冷静を取り戻したセイウは、腰を下ろすと、傍にいるチャオヤンに視線を投げた。

「あれは、青州で度々戦をしているようですね」

「はい。リャンテさまは、リーミンの捜索兵を尾行し、虎視眈々と強奪の機会を狙っているようです。とはいえ、そろそろ目立つ行動は控えることでしょう」

 チャオヤンの言う通りだ。
 戦はクンル王の耳に入るため、傍若無人に戦をすれば、その行動を怪しみ始めることだろう。父王はあれにセイウの監視を命じているのだから。

 また、我が母にも戦の件は耳に入る。
    
 あまり酷いようであれば、正妃に留意の竹簡を出すはずだ。正妃にも面子があるので、事を聞けば直ちに白州へ帰還するよう命じるはず。リャンテがそれを聞くかどうかは、別の話であるが。

「いま、リャンテは何処(いずこ)に?」

「一部の白州兵を青州に置き、自身は蓮ノ都で休まれているそうです。表向きは」

 語尾を強調するチャオヤンに笑いそうになる。なるほど、裏では活発的に動いているのか。

「首を討てずに、申し訳なく思います。セイウさま」

「良いのですチャオヤン。あの蛮人を簡単に討てるのであれば、私も苦労はしていませんよ。さて、どうしましょうか」

 天降(あまり)ノ泉は将軍グンヘイに任せている地。
 竹簡を出せば、すぐに兵を手配することだろう。否、愚者なグンヘイがそのような気遣いを見せるはずがない。どうせ、振りをして終わることだろう。

 あれの悪評はよく耳にしている。
 青州に至らん戦を起こして損害を出している男だということも、傍にいるチャオヤンを筆頭に、兵達から忌み嫌われている将軍であることも、十二分に把握している。

 それでも、セイウは天降(あまり)ノ泉をグンヘイに任せている。
 無論、それは腕を認めているわけではない。父親が優れた将軍だったから、というわけでもない。

 『愚か者』だから天降(あまり)ノ泉にグンヘイを置いているのだ。あれが優れた者であれば、とっくに己の側に置いている。

(グンヘイがリーミンを捕らえたところで、私のところに連れて来るかどうか)

 一思案したセイウは、きゅっと口角をつり上げると、チャオヤンに命じた。


「将軍グンヘイに竹簡を出します。早馬の準備を」





 麟ノ国第一王子リャンテは馬に跨り、少数の兵を率いて蓮ノ都を発っていた。

 その格好は色褪せた麻衣と身軽、どこからどう見ても王族には見えない。下手をすれば平民以下の賊を彷彿させる格好であった。

 ゆえに率いる兵達はリャンテの格好を気遣い、もっと良い衣を着てくれるよう懇願した。
 正妃の子息が平民の格好どころか、賊のような格好をするなんて、リャンテ自身の面子に関わる。そう言いたげな顔をしている。

「王子、せめて鎧だけでも」

 進言してくる兵達を疎ましそうに見やり、リャンテはこれで良いのだと鼻を鳴らした。

「セイウの野郎が俺達の動きを見張っているんだ。これくれぇしねーとな」

 表向き、派手に戦をしたのだ。あれは注意深くリャンテの動きを見張ることだろう。
 それだけではない。父王も、水面下で監視をしろと命じたのに、なぜ派手に戦をしているのか、疑問を抱いているはずだ。

 注意深くなる人間達ほど、視野が狭くなる。これは絶好の機会であった。
 誰が想像しようか、第一王子が小汚い賊に成り済ますなど。

(本当は椿ノ油小町で、懐剣の足取りを追う予定だったんだが)

 青州兵は、なかなか骨のある者達ばかり集っていた。それゆえ、戦に熱中してしまい、懐剣の子どもを見逃してしまったのである。
 惜しいことをしたと思う反面、また奪う機会はいくらでもあるだろう。リャンテは楽観的なことを考える。

「これからどこへ?」

 隣を走る近衛兵のソウハに尋ねられ、リャンテは口端を赤い舌で舐めた。


「麒麟の使いと言えば麒麟だ。俺は青州で最も麒麟とゆかりある土地に、竹簡を出しておいた。今から、そこを任されている将軍の下へ向かう。なんとなく、そこへ行けば懐剣の手掛かりが掴めそうな気がしてな」


 そう。十瑞将軍の愚息。虎の威を借る、ろくでなし将軍グンヘイの下へ。




 ◆◆



 かつて、ここまで頭を悩ませる事態があっただろうか。


 ユンジェは四人分の皮袋に、冷たい川の水を入れると、駆け足でみなの下へ戻る。

 本日の野宿場所は雨風凌げる岩穴。
 そこは硬い石や砂利、蛇なんかが多いため、あまり寝床に適しておらず、雨の日以外は利用しない所なのだが、今日は晴れても岩穴でなければならない理由があった。

 まだ真上にある太陽を浴びながら、岩穴に戻ったユンジェはたき火の加減を確かめた後、寝込んでいるティエンに声を掛けた。

「ティエン。水を汲んできたぞ。飲めそうか?」

 両膝をついて、顔を覗き込むと、真っ赤な顔をしたティエンが乾いた唇を動かした。
 耳を近付けると、水が欲しいと返事している。皮袋を口元に運んでやると、力を振り絞ってそれを飲んだ。ティエンはいま、高熱に魘されている。

 それだけならまだ良い。問題はもう二人、病人がいることだ。

「カグム。水、飲めそうか?」

「ああ、なんとか。そこに置いててくれ。自分で飲むよ」

 体を起こそうとするカグムが、まったく動けていないので、優しく手を貸してやる。
 彼は申し訳なさそうに眉を下げ、皮袋の水を飲んでいた。始終、気だるそうであった。

「ハオ。水は?」

「声掛けてくんじゃねーよ。頭いてぇ」

 気が立っているハオにため息をつき、黙って皮袋の飲み口を差し出す。
 何も要らないと意地を張る彼だが、そう時間も置かず、観念してユンジェに世話された。動けないのは明白であった。

「はあ。参ったなぁ。ティエンさまだけでなく、俺やハオまで高熱を出すなんて」

 カグムのぐったりとした声が、昼間の岩穴に響く。

 勿論、その台詞を言いたいのは誰でもないユンジェである。
 まさか、だいの大人が揃いも揃って高熱で倒れるだなんて、ああ、夢にも思わなかった。ティエンはともかく、兵士のカグムやハオは体躯も良く、剣の腕もあるので、ちょっとやそっとじゃ倒れないと思っていたのに。

 おかげでユンジェは、今朝から水汲みだの、薪集めだの、病人食だの、てんてこ舞いである。

 ちなみに、これの原因はすでに分かっている。

天降(あまり)ノ泉。行くべきじゃねーかな。みんなの熱、麒麟のせいだと思うんだ」

 ユンジェは片手鍋の中で沸騰している粥を覗き込み、木の匙で中身をよくかき混ぜる。うん、程よく蕩けている。食べごろだろう。
         
「ここ数日。雨が続いたり、土砂で道が塞がったり、やたら賊に襲われたり……散々な目に遭ったのも麒麟の導きによるものだと思うんだけど」

 粥に一つまみの塩を入れて、病人達に粥ができたことを知らせる。誰ひとり、食べたいと言わなかったので、ユンジェの分のみ昼餉を用意する。


 話は麒麟の夢を見た日まで遡る。

 神託を賜ったユンジェは、所有者に天降(あまり)ノ泉で麒麟が待っていることを伝え、直ちにその場所へ向かおうと意見した。
 これまでも麒麟が夢に現れ、ユンジェに何かしらのことを伝えてきたので、今回もそれに従うべきだと考えたのである。

 けれども。ティエンを筆頭に、みなから天降(あまり)ノ泉へ行くことを反対されてしまう。
 なぜなら最近、天降(あまり)ノ泉をめぐり、将軍グンヘイが兵を動かしたと宿屋の娘から話を得ている。今行けば、きっと将軍グンヘイや周りの兵に会うに違いない。

 そうでなくとも天降(あまり)ノ泉は、王族と深く関わる土地。
 赴けば、必然的に青州兵と鉢合わせになり、セイウ王子らに捕らえられてしまう。天降(あまり)ノ泉に行くのは危険だと、みながみな口を揃えた。

 その時のユンジェは、反対されてしまったのでは、どうしようもないな、で終わっていた。自分は神託を賜っただけの身分。旅路の変更を貫き通す立場ではない。指揮を取っているカグムが駄目と言えば、引き下がるしかないのである。

 片隅で麒麟の言うことを聞かなくても良いのだろうか、と懸念を抱いたが、みなの意見に従った。

 するとどうだ。
 宿を発ってから、やたら不幸な目に遭う。

 最初は土砂降りの雨に襲われた。通り雨ならまだしも、数日も雨が降ったので、岩場で野宿する羽目になった。
 その次は雨による土砂崩れだ。通りたい細道が、土砂で塞がれてしまい、大回りする羽目になった。

 その頃からティエンの体調が崩れ、発熱してしまう。誰もが雨によるものだと思っていたのだが、間もなくハオの体調も崩れ始めた。

 揃いも揃って風邪だろうか。

 心配していた矢先、賊に襲われ、一行は逃げ回る羽目になる。追い詰められた際は、どうにかカグムが剣を振るって、それらを斬り倒したものの、ユンジェは彼の蒼白な顔色に気付き、急いで休めそうな場所を探し回った。

 それがこの岩穴だ。

 此処はある程度平らで、蛇や毒虫がおらず、風通しが良いのでたき火も焚ける。さらに場所が『岩穴』なので、獣や敵襲を受ける場所が限定できる。病人らを休ませるには最適の場所であった。
    

 ただ、カグムに場所を見つけたと知らせる頃には、彼も倒れてしまったので、ユンジェは一人で大人を運ばなければならなくなった。あの時は泣きそうであった。
 粥を口に入れていると、ハオが呻いた。

「こんなにしんどい熱は、ガキの頃以来だぜ。死にそう」

「俺もだ。戦でさえ、こんなに苦しい思いをした覚えはないぞ」

 動けなくなるほどの熱に悩まされるなんて。カグムは嘆いた。

「カヅミ草の煮汁を飲んでも駄目か?」

 以前、ユンジェが高熱を出した時に、ティエンが摘んでくれたカヅミ草の煮汁を三人に飲ませている。
 あれのおかげで命拾いしているので、てっきり熱を下げてくれると思ったのだが。

「飲んですぐに効くもんじゃねーよ。くそ、なんでお前だけ、元気なんだ」

 じろっとハオが睨んでくる。八つ当たりも良いところだ。

「たぶん、俺にはお役があるからだと思うよ。天降(あまり)ノ泉に、所有者を連れて行くお役がさ」

 あっという間に粥を平らげたユンジェは、ティエンの枕元に移動すると、うんうんと唸っている彼の腹を叩いてやる。
 これをしてやると、彼は落ち着きを取り戻すことが多い。

(みんなの言いたいことは分かっている。俺だって危ないことはしたくない。でも、麒麟は、確かに天降ノ泉で待っていると俺に伝えてきた。それを無視することが、俺にはできない)

 これも麒麟の使いだから、だろうか。

(ティエンは王座を拒んでいるのに。俺もそれは分かっているのに)

 ぬるくなった布をふたたび濡らし、かたく絞ってティエンの汗ばんだ額を拭ってやる。麒麟の神託は、天の意思。これに逆らうことは、きっと許されない。

(次なる王の訪れを……王位継承権を持つ王族らの訪れを、麒麟は待っている)

 第一王子リャンテや第二王子セイウの顔が脳裏に過ぎる。前者はともかく、後者には顔が割られている。再会すれば、ユンジェは下僕としてセイウに平伏するだろう。


「ゆん、じぇ」

「どうしたティエン。水か?」


 熱い吐息をつくティエンは、手を握ってほしいと頼んできた。

 体が弱ると、心寂しくなるのだろう。その気持ちは痛いほどわかるので、ユンジェはいいよ、と言って、柔らかな手を握った。

「所詮、人間は天の生き物に逆らえないわけか。天降(あまり)ノ泉、行くしかないかもな」

 指揮を取るカグムが、重いため息をついた。大人が三人とも高熱を出すなんて、麒麟の怒りに触れたとしか考えられないとのこと。


「もしくは、呪われた王子の呪いかもしれねーな。あーあ、笑えねえ」

「その本人も熱に魘されているだろうが……勘弁してくれよ」


 ハオが泣き言を連ねる。とても、つらい熱なのだろう。
    
 野宿時の熱は本当に苦しいと知っているユンジェは、つい哀れみの気持ちを抱いてしまう。何もしてやれない自分が歯がゆい。


(三人の熱が下がるまで、何事もないと良いけど)


 ユンジェはティエンの頭を撫でやり、彼が寝つくまで腹を叩いてやった。



 願いは届かず、事件は明け方に起きる。

 それは川で洗い物をしていた時のことだ。夜通し大人達の看病をしていたユンジェは、汚れた水と布を洗うべく、ひとり川のほとりにいた。
 三人の熱は下がらず、依然寝込んだままであるが、昨日の昼に比べ、落ち着きを取り戻している。

 この調子であれば、明日には微熱になっていることだろう。
 今は三人とも、岩穴で深い眠りに就いているので、ユンジェもこれが終わり次第、仮眠を取るつもりであった。

 なのに。ぞわり、ぞわりと悪寒を感じたことで、欠伸をしていたユンジェの表情がこわばってしまう。

 心臓を鷲掴みするような恐怖を感じる。
 本能が警鐘を鳴らすので、絞っていた布を握り締め、周囲を見渡した。この感覚は所有者に危機迫る時のもの。何が来るのだ。何が。

 状況を把握する間もなく、背後の藪から人間が飛び出す。それらは逃げ惑う悪漢(あっかん)どものようだ。

 藪の向こうから賊を探す声が聞こえてくる。

 寸時、藪から馬が飛び出すや、それらを青龍刀が斬りつけた。瞬きをする間もなかった。


「なんだ。歯ごたえのねえ野郎どもだな」


 乗り手が退屈そうに欠伸を噛みしめ、青龍刀に付着した血を布で拭う。

 ユンジェは息を詰めた。

 みすぼらしい格好をした乗り手は、一見卑賤の身分に思えるが、この目は誤魔化せない。簪で留めた赤茶の長髪、広い肩幅、眉目秀麗な容姿。なにより、好戦的な切れ長の眼はユンジェを畏れさせる。


(なんで、こんなところにいるんだ)


 麟ノ国第一王子リャンテ。

 悪漢どもは彼の手により、慈悲もなく事切れてしまう。弱かったことが非常に不満だったようで、「そっちから仕掛けてきたくせに」と、彼は舌打ちを鳴らした。

 リャンテと目が合う。
 体を強張らせるユンジェとは対照的に、彼は面白そうな玩具を見つけたと目を細める。一層、身を小さくしてしまった。リャンテには顔を知られていないものの、下手に関わりたくない。

「ガキ、とんだところを見ちまったな。命惜しけりゃ金目の物を置いて行けよ」

 一気に恐怖が混乱に変わる。なぜ王族の男が、追い剥ぎのような振る舞いをしているのだろうか。路銀が足りなくなったわけでもあるまいし。

 落ち着け。よく考えろ。見たところ、相手はきっと暇つぶしをしたいのだろう。
    
 こういう型は、自分の想像を上回る展開を望むことが多い。本当に金目の物を狙っているのならば、有無言わさず青龍刀を振り下ろしている。子ども相手に、わざわざ言ってきたということは、ユンジェという子どもを弄び、玩具にしたいのだ。

 仮に相手の要求を呑んで、金目の物を置いたとしても、思い通りに終わって不満足となり、ユンジェに青龍刀を振り下ろすことだろう。

 そこで、しごく無知な振る舞いでリャンテに尋ねた。

「あんた。賊じゃないのに、どうして金目の物を狙うの? お金には困っていないだろ?」

 それとは違うだろう、と事切れている悪漢どもを指さす。

「ほお。なぜ、俺が賊じゃないと思う?」

 予想外の展開が好きなのだろう。彼は楽しげに問うた。
 それはリャンテが王族の人間だから、なんぞと言えば、一気に相手は冷めてしまうことだろう。みすぼらしい格好をしているのだから、王族の身分は触れられたくないと思われる。

 だからこそ、口調は小生意気なもので振る舞う。ここで恭しい態度を取れば、ユンジェが王族であることを気付いていることがばれてしまう。

 ユンジェはまじまじとリャンテを見つめ、そっと纏っている外衣を指さす。

「その外衣、追い剥ぎが着るにはとても目立つよ」

 生成色(きなりいろ)の外衣は、ユンジェが纏っている鶯色(うぐいすいろ)の外衣より明るい。旅人ならまだしも、賊であれば、そのような目立つ色は避けたいところ。とりわけ追い剥ぎをするのであれば、闇夜にまぎれた色を選ぶはずだ。

 また、リャンテの頭を指さし、象の簪は贅沢品の象徴だと教える。それを髪に挿せるのは、商人や薬師、地主といった金持ちばかり。金のない者達は、せいぜい木の簪に留まると主張する。

「あんた、一見みすぼらしい格好をしているけど、本当はお金持ちなんだろう? 簪だけじゃない。掛けている刺繍の頭陀袋や、つぎはぎ、穴のない麻衣。擦り切れていない上等な革靴は、平民じゃないことを教えてくれているよ」

 どれも平民が纏うにしては綺麗すぎる。もっと、ぼろぼろになっていてもおかしくないのに。

 革靴や刺繍の頭陀袋など、揃えることすら平民は苦労する。

 それをやってのけているリャンテは金持ちだと告げた。奇襲を当然としている賊にしては目立つ格好をしているので、お金持ちが正体を隠しているように思えると、ユンジェは答える。

「なにより、本当の賊は今すぐ俺を斬り捨てるか、もしくは売るために捕まえるはずだよ。ここらへんの賊は、食い物を得るために襲う奴等が殆どだから」

 数日の間、何度も賊に襲われたユンジェなので、ここの賊の特色は心得ているつもりである。
    


 奇襲を仕掛けてくる賊の殆どは悪意がある、というより、生きるために襲う者達ばかり。リャンテはそれに当てはまらないので、賊には見えない。

 努めて冷静に返事すると、リャンテが興味あり気にユンジェを見つめ、意味深長に笑った。

「ガキ、身分は?」

「農民。でも、今は持ち家も畑もないから、農民とは言えないや。なんて言うだろう」

 田畑も畑仕事もしていない農民を農民と言えるわけもない。
 ユンジェは改めて今の自分の身分は何だろう、と考える。如いて言えば、旅人だろうか。旅人は身分に入るものなのだろうか。知識の乏しいユンジェは、うんっと首を傾げてしまう。

 結局、よく分からないと答えた。農民だが畑仕事も何もしていない旨を伝え、今は家なしであることをリャンテに伝える。

 すると。彼は面白おかしそうに口角を持ち上げて、上等な頭陀袋に手を入れた。間もなくユンジェに向かって、一枚の硬貨を投げられる。

「農民のくせにひと目、身なりを目にしただけで、俺の身分をそこまで見ることができるなんざ、貴様はとても面白い目を持っているな。俺は貴様みてぇな、頭の回るガキは嫌いじゃねえ」

 反射的に硬貨を受け取ったユンジェは、両手の平を広げ、目を瞠ってしまう。
 そこには金色に輝く硬貨。金貨だ。大金だ。これ一枚で一ヶ月分の食事は賄える。いや、もっとかもしれない。


「俺を満足させた褒美だ。受け取っておけ」


 草深い藪から数匹の馬が現れる。

 どうやらリャンテの付き人らのようで、手綱を引くや、リャンテの無事を確認してきた。おおよそ白州兵であろう、その者達は事切れている悪漢どもを一瞥すると、リャンテに先へ急ごうと進言している。目と鼻の先に、青州兵がいるらしい。

「リャンテさま。青州兵が我々の動きを嗅ぎまわっているようです」

 直ちに退散しなければ厄介事になる。付き人のソウハが険しい顔を作った。ユンジェに目もくれないのは余裕がない証拠だろう。

「ほう。セイウの野郎、宮殿に引きこもっているわりに視野が広いな。もう、俺達の動きを掴みやがったか。わざわざ、みすぼらしい格好をしたっつーのに。ちと、あいつを見くびっていたな」

 リャンテは敵数を尋ね、隙あらば『賊』として返り討ちにしてやろうと笑みを深める。たいへん好戦的な男は、少しでも長く剣を振るいたいようだ。

 しかし。ソウハに目的を忘れないように、と注意されたことで、王子の機嫌が下がってしまう。どうやら自分の思ったように動きたい、我儘男らしく、口煩く言われたくない性格のようだ。
    
 とはいえ、癇癪を起こすほど愚かな男でもないらしい。舌打ちを鳴らすと、馬の手綱を引いて方向転換する。その態度が進言を受け入れたと示していた。

(いや、ちょっと待て。いま、青州兵って言ったか? まずいじゃんか!)

 金貨を握ったまま、ユンジェは見る見る青ざめていく。
 青州兵が近くにいる? 冗談ではない。いま、大人達は揃いも揃って高熱に魘されているのだ。見つかれば最後、ティエンらは捕まり牢獄行き。ユンジェはセイウの宮殿行き。飾られてしまう!

 藪の向こうから()けりが上がる。
 進めと、囲めと、挟めと聞こえてくる声は、本当に近い。リャンテが馬の腹を蹴り、兵に号令を掛けるのと、追っ手兵の襲撃はほぼ同時であった。

 ああ、朝っぱらから、とんでもないことになった。なんてものを引き連れてくるのだ。

 ユンジェは青州の騎馬兵を目にするや、洗ったばかりの布に手を伸ばし、ふたたび川の水に浸した。

 今のユンジェの持ち物は、リャンテに貰った金貨と、帯に差した懐剣と、病人達に使用した布のみ。道具の大部分は岩穴の中だ。岩穴には病人の大人達がいるので、下手に戻ることはできない。

 さらに言えば、懐剣を使うことも選ばなければ。リャンテらにティエンの懐剣であることがばれてしまえば、それこそ騒動だ。


(いや、ばれるのも時間の問題か)


 騎馬兵がユンジェの顔を知っていれば、一巻の終わりだ。どうか、自分の顔を知らない兵達でありますように。

 リャンテの仲間だと思われたのだろう。ユンジェの背中目掛け、騎馬兵の剣が振り下ろされる。

 かろうじて、その場を退いたユンジェは、濡れた布を川から引き上げ、力の限り、兵の小手を叩く。濡れた布は乾いた布で叩くより、数増しの威力を持つ。りっぱな(むち)となる。

 叩かれた痛みに耐え兼ね、兵が剣を落とした。
 急いでユンジェはそれを掴み、他方から向かってくる騎馬兵に向かってぶん投げると、大きく息を吸い、川に身を投げた。

 命綱もなしに流れのある川に飛び込む行為は、とても危険だ。川の急流や藻に足を取られることもあれば、その水位の深さに溺れ死んでしまうこともある。

 それでもユンジェは、そこへ飛び込むことを選んだ。少しで周囲の目から姿を晦ましたかった。

 故意に頭まで深く潜り川に流される。
 たくさんの水を飲みながら、どうにか岸に這いあがると、遠くにリャンテらと青州兵らが見えた。撒けただろうか。

 と、青州兵らが指笛を吹き合い、数人がリャンテ達から身を引いた。
 それらは追うべき相手に背を向けると一斉に方向を変え、川の流れに沿って馬を走らせる。慌ただしい空気は考えるまでもない。ばれたのだ。