「実を受け止めるのは、二人でいいよ。一人は俺の手伝いをしてほしいんだけど」
地上にいる大人達に声を掛けると、豆粒に見えるハオが大声で叫んだ。
「ばっきゃろう! そんな高い所、命綱なしでのぼれるか! てめえは猿か、野人か!」
ユンジェはきょとんとした顔で地上を見下ろす。これでも、低いジャグムの木を選んだつもりなのだが。
取りあえず、猿だの、野人だの、散々な言われようには思うことがある。
ユンジェはジャグムの実を掴むと、ハオ目掛けてその身を投げつけた。間もなく、悲鳴と怒声が耳に飛び込んでくるが、舌を出して、もう一個投げつけておいた。
ジャグムの木から降りると、硬い実の皮むきを大人達に任せて、ひとり川の上流へ向かった。
相変わらず、連日の雨で勢いが強い。浅瀬でも、足を取られてしまいかねない勢いだ。慎重にならなければ、あっという間に流されてしまう。
けれど、川の流れが通常よりも速いということは、そこに棲む生き物も、思うようには動けないということ。
ユンジェは靴を脱ぐと、手頃な太い枝を取って、その先端を鋭く削る。あとは浅瀬や岸を歩き回り、岩の下や流木を退かして、生き物の避難所を見つけ出すだけだ。
「ただいま。どう、ジャグムの実は剥けたか?」
「おかえりユンジェ。いま、小分けして湯がいているところだよ」
日暮れと共にたき火の場所に戻ると、ティエンが片手鍋を木匙で掻きまわし、ジャグムの実の様子を見ていた。
カグムとハオはまだ刃物で皮を剥いている。なんだか覚束ない手つきだ。昔のティエンを思い出す。
「ユンジェの方は大漁だな」
「へへっ。川が荒れていたおかげで、魚やカエルの隠れ場所が見つかりやすかったんだ」
布紐に纏めていた獲物を見せると、ティエンにジャグムの実を湯がいたら、今日食べる分以外は葉に包んで火の側に置いておくように指示した。晩飯は二個あれば、十分だろう。
皮を剥いている二人の向かい側で、手際よく細い枝を削り、魚は塩もみに。枝で串刺しにすると、葉の上に置いて調理の下ごしらえをする。
四頭のカエルは捌き終えると、大量に塩をまぶし、しっかりと葉に包んでおく。これは明日の食糧だ。
「ティエン。ジャグムの皮はとってある?」
「ああ。後で煮詰めて絞ると思ってな。捨てずに取っているよ」
その通りだ。ジャグムの実は皮も美味しく食べられる上に、実より栄養が高い。美味しいところは実であるが、体調を整えたい時は皮をかじるといい。油があるから、素揚げしておこう。
休む間もなく、ティエンが湯がいてくれたジャグムの実を布紐で纏め、連なる形で縛る。
後は手ごろな木の枝に吊るし、干し果物の下ごしらえを整えていく。布紐が無くなると、そこらへんの草を刈り、束ねて草紐を編んで代用する。
夢中になっていたせいか、隣で作業を見守るカグムに気付かなかった。
「お前は本当に器用だな。物作りも、食糧調達も、難なくこなせるなんて」
声を掛けられ、ようやくユンジェは顔を上げて、彼に目を配る。
「今度は何をしているんだ? ユンジェ」
面白そうに見守るカグムの問い掛けに、保存食を作っていると簡単に答えた。たくさん作っておけば、しばらくは食糧の心配もなくなるだろう。
でも、じつはどれだけ作れば良いのか分からないのだと苦笑した。
飢えたくない一心で作っているものの、大量に作るとなると、それだけ食糧が必要になる。
二人分なら、なんとなくの感覚で作れるが、四人分となると頭が混乱すると肩を竦めた。
「そういう時は逆算だ。俺が計算してやる」
「ぎゃく、さん?」
それはなんだ。
ユンジェが首を傾げると、カグムが木の枝をとって図を描き始めた。
「計算を逆からやってみることだよ。そうだな、七日目で町に着いたと仮定して。この間の食事を数えていく。そうすると、四人が六日間でどれだけ、食事を取ったか、明確な数字が出る」
感覚も大切だが、具体的な数字を出して、把握することも大切だとカグムは棒で地面を叩いた。
ユンジェは難しそうだな、と零す。自分には到底使いこなせそうにない。
けれども。カグムは難しくないと、真っ向から否定してくる。
「逆算は何も計算だけじゃない。日常でも無意識に使っている。たとえば、明日、早起きをするために、早寝をする。これも逆算して、自分の目覚めを早めようとしているだろう?」
確かに。ユンジェは一つ頷いた。
「ユンジェはよく、相手の立場で考えるだろう? これも一種の逆算だ。逆の視点から物事を見て、相手の思惑を見抜き、行動を起こす。逆算はお前が得意としている分野だ」
そこまで言った時、カグムは頬を緩め、こんな案を出してくる。
「ユンジェ。これから食糧の管理と配分はお前に任せるよ」
「俺に?」
「ああ。俺達、四人の食糧はお前が面倒看てくれ。ユンジェが計算に苦労していたら、手伝ってやるからさ。お前は逆算の思考を、少しでも鍛えろ」
食糧の管理をすることで、毎日のようにユンジェは逆算することだろう。
もちろん野宿をしていれば、食糧の逆算は重要となってくる。四人分ともなれば、なんとなくの感覚では済まされない。責任だって問われる。
これを機にもっと数字に慣れ親しめ、とカグムは命じた。
「数の足し引きをこなすだけじゃ、そこらの兵と同格だ。ユンジェはもっと先へ進め。逆算は兵を動かす指揮でも、大いに役立つ。考える力をもっと身につけろ。ティエンさまを守ることにだって役立つはずだ」
それがユンジェの成長にも繋がる。カグムに言われ、大きく心が揺れ動く。
(考える力で守れる、のかな?)
ユンジェはユンジェ自身の才能がよく分かっていない。
けれど、それを推してくれる人間がいるのであれば、少しだけ新しい自分を見出してみたいと思った。
せっかくの機会だ。隊に入る云々は置いておいて、これがティエンを守ることに繋がるのであればやってみたい。
「カグム。俺、やるよ。もっと考えられる人間になりたい。懐剣を抜かなくても、ティエンを守れる人間になりたい」
少し離れたところでは、ハオが冷汗を流しながらたき火に枝を放っていた。そういう会話は、せめて周りに聞こえないようにしてくれ、と切に思う。
下心をもって成長を促すカグムに対して、心底腹を立てる男がいるのだから。
ちらりと視線を流したハオは、がっくりと項垂れる。
こめかみに青筋を立てている王子が、向こうで仁王立ちしているではないか。
本当は今すぐにでも怒鳴り散らしたいのだろうが、ユンジェがティエンをそれで守りたいと言うものだから、止めるに止められないのだろう。
しかし、このままでは、近くにいる自分が八つ当たりされかねない。そこでハオは我が身可愛さに提案をした。
「カグムがクソガキに教えるなら、俺もティエンさまに何か教えましょうか? まあ、俺が教えられることなんて手当てや薬草の知識程度ですけど」
睨みが飛んでくるかと思いきや、ティエンは目を丸くして、「教えてくれるのか?」と、言って隣に座った。
不機嫌は崩せたが、これはこれで面倒になる予感がする。
どう足掻いても、自分は苦労する立ち位置だと内心、ため息をつき、やる気があるなら教えると返した。
「ティエンさまがお一人で、手当てが出来るようになれば、俺がいなくとも安心っ……ち、近いんですけど」
美しい顔がずいっと迫ってくる。
間近で見ると、本当におなごのような顔立ちだ。気を抜くと、同性であることを忘れてしまいそうである。できることなら、今すぐ離れてほしい。
そんなハオの心情など露知らないティエンは、ハオに詰め寄ってやると返事した。それでユンジェの怪我を癒せるなら、なんだって覚えると言ってくる。まなこはやる気に満ちあふれていた。
(おいおい。本当に面倒なことになりそうなんだけど……そういや、初めてかもな。ティエンさまと二人で話すの)
王族にいつも畏まっていたものだから、ティエンと二人きりで話す機会などなかった。そんな時間を設けようとも思わなかった。疲れるだけだと思い込み、極力彼を避けていた。向こうも兵だからと、近寄ろうとしなかった。
なのに。ああ、どうして余計なことを言ってしまったのか。それも、これも、カグムのせいだ。あの男がガキに下心を持って教えようとするから。
「あれ? ティエン、ハオ。くっ付いて何してるんだ?」
「おい、ハオ。いくら女気のない旅だからって、ティエンさまは王子だぜ? 美しい方なのは認めるが、身分を弁えろって」
こういう時に限って、二人がたき火に戻ってくるのだから、本当にハオの気遣いは報われない。
短い堪忍袋の緒が切れたハオは、早々に双剣を抜くや、カグムに斬りかかった。
間の抜けた声を出して、それを回避する彼が何をするのだと非難するも、ハオの低い沸点はすでに頂点に達している。青筋を立て、戯け者を見据えた。
「カグムてめえ。今すぐ俺に詫びろ。斬られて詫びろ。二度と、その面を見せるな」
「俺が何かしたかよ。訳の分からん奴っ、ハオお前! 本気だろ、今の一振り!」
双剣を避けて飛躍するカグムと、猪突猛進に斬りかかるハオの追いかけっこはしばらく続きそうだ。
(何が遭ったんだろう? ま、二人なら大丈夫だろ。魚でも焼こうかな)
ユンジェは葉の上に置いていた魚を手に取ると、たき火の前に突き刺した。
「ティエン。ハオと何していたんだ?」
「あいつが、私に手当てや薬草の知識を教えてくれると言ったんだが……なぜ、あんなことになったかは分からない」
しかし。ティエンの気持ちは、そこにあらず。
「ユンジェ、待っていておくれ。ハオから知識を得たら、私が手当てしてやるからな」
「へえ。ハオが手当てを教えてくれるのか。そっか、ティエンならできるよ。お前はやればできるって知っているし」
「ふふっ。できるようになったら、たくさん褒めておくれ」
額を頭に押し付けてくるティエンに、くすぐったいと笑い、ユンジェは楽しみにしていると返事した。
心休まる時間は、何にも勝る、代えられない幸せだった。
◆◆
麟ノ国第二王子セイウは南の紅州より、ここ東の青州宮殿に戻って早々応接に追われていた。
その手には竹簡が握られており、連なる紐が切れている。これはセイウが故意的に引き千切ったものであった。
回廊を歩く彼は、それを持つのも疎ましくなり、さっさと端へ投げ捨てる。
後ろを歩く従僕らが慌てたように竹簡を拾うも、セイウはそれを燃やすよう命じた。美しい宮殿に汚らしい竹簡を置くなど我慢できないと言い放つ。
「チャオヤン。あれはもう、応接室にいるのですか?」
後ろを歩く近衛兵のチャオヤンは、苦い顔で頷いた。
「許可なくお通しできないと申し上げたところ、宮殿を戦の地にしたいのかと、強く返されまして。申し訳ございません」
「お前のせいではありませんよ。あれが人の話を聞く男であれば、私も苦労なんぞしていません。宮殿を汚されるのは、癪ですからね。あれが私の兄なんておぞましい限り」
とはいえ、あれの行動力には目を瞠るものがある。
噂を聞きつけ、使いを寄越すとは思っていたが、まさか本人直々に乗り込んでくるとは。
相変わらず、怖いもの知らずの無骨男だ。
よほど先を越されたことに、思うことがあるらしい。知ったことか。麒麟の使いは早い者勝ちだ。
たとえ、すでに所有者がいたとしても、あれはセイウが物にした。そう――あの子どもとセイウは、天の儀を終えた主従関係なのだから。
形の良い唇を持ち上げ、セイウは応接室の大扉を通る。
従僕や侍女、そして兵が頭を下げてきた。そんなものには目もくれず、最高級の金銀糸を使った織物の上で寛ぐ男、麟ノ国第一王子リャンテに冷たい眼を送る。
その男は眉目秀麗な容姿をしており、長い赤茶の髪はセイウと同じように一まとめにして、簪で留めている。
切れ目は鋭く、向けてくる眼光は血気が盛んなことがすぐに分かる。
臙脂の絹衣に身を包むそれは、無遠慮に胡坐を掻き、持参している果実を丸かじりしていた。
なんて美しくない、野蛮な食べ方だろうか。セイウは袖で口を隠し、軽蔑してしまう。
「よお。セイウ。相変わらず潔癖症だな」
不敵に笑うリャンテは、二言目に従僕や侍女、兵を下がらせろと命じた。応接室に置くのは近衛兵だけで十分だろうとのこと。
「誰に向かって命じているのです。偉そうに」
セイウは冷たく返すと、手を叩き、従僕らを下がらせる。残ったのは各々王子を守護する近衛兵の二人と、セイウとリャンテのみ。
向かい側に座り、片膝を立てるセイウはリャンテの前に置かれている茶を一瞥すると、飲んだらどうだ、とすすめる。
それは紅州産地の最高級の玄米茶。味は保証する、と微笑む。
リャンテが小さく噴き出した。彼は挑発的に鼻を鳴らすと、果実の芯を後ろへ投げ捨てる。
「貴様の宮殿にある物を、誰が口にすると思う? 命を捨てるようなもんだぜ。小細工ばっか仕掛けやがって。ここに来る度に面白いことしやがる」
しごく残念に思う。
それは番茶、玄米と共にドクダケを煮詰めた、最高級の茶なので、飲ませれば、簡単に天上させられるのだが。
(毒蛇も見抜かれたか。ま、そんなもので仕留められる男ではないだろうが)
セイウはリャンテの傍で頭と胴を切り離されている毒蛇を見やり、落胆したように肩を落とした。
「何の用です。私は貴方と茶を交わす仲ではなかったはずですが。竹簡を寄越し、訪問の予告を受け取って半日もせずに、リャンテが来るとは思いませんでしたよ」
しらばっくれるセイウに、リャンテが目を細めて口角を持ち上げる。
「面倒な読み合いはやめようぜ。麒麟の使いに選ばれたセイウさまよぉ」
「負け惜しみを言いに来たのなら、喜んで受け取りますが?」
交わす視線の凍てつく空気に、両側の近衛兵達が身を硬くした。
周囲のことなんぞ、気にも留めず、リャンテは赤い舌で上唇を舐めると、膝の上で頬杖をついた。
「話は聞いてるぜ。愚図の懐剣を抜いたガキが、貴様の懐剣も抜いたって話。しかも一戦交えたそうじゃねえか」
愚図とは第三王子ピンインのことだ。セイウが愚弟と呼ぶのに対し、リャンテはそれの呼び名を愚図と固定している。
「俺だけ蚊帳の外に出すなんざ、貴様らいい度胸だな。一戦交えるなら、俺にも声を掛けろよ。つれねえな」
まこと血気盛んな男だ。
「一戦交えたつもりはないんですけどねぇ。愚弟の力なんぞ、高が知れています」
「の、わりに謀反兵が連れ去ったそうじゃねえか。あの愚図から、使いを奪われたんだろう。情けねえな」
それを聞いた時は腹を抱えて笑ったとリャンテ。
内心、舌打ちをするセイウは、本当に腹立たしい男だと思ってならない。二王子の懐剣が抜かれたにも関わらず、その余裕。腹の底は見えないが、表向きは気にしている様子すらない。
と、リャンテが本題を切り出してくる。
「俺の下に勅令が届いた。我らが君主、クンル王は貴様から麒麟の使いを取り上げたいようだぜ」
懐から竹簡を取り出し、乱雑に紐解いて、セイウの前に広げる。
そこにはリャンテ宛に、麟ノ国第二王子セイウの動きを監視と、麒麟の使いの調査が事細かく記されていた。
王印が本物であることを確認すると、セイウは肩を竦め、軽く手を振った。
「ずいぶん父上に警戒されていますねぇ。麒麟の使いを見つけ次第、王都に連れて来るよう貴方に命じているじゃあないですか」
「謀反を恐れているんじゃねえか。天士ホウレイの一件もあるしな」
麒麟の使いが現れるということは、この時代の終焉が近いということ。
麟ノ国第三王子ピンインの懐剣に宿ったことで、父王は己の時代が終わることを危惧し、血眼になってピンインの行方を追っている。
その矢先、麟ノ国第二王子セイウの知らせが届いた。あれは恐れているのだろう。二人の息子が『黎明皇』になるやもしれない、その未来を。
「愚図はともかく、貴様の監視は容易くない。だから俺が来た。くくっ、まあ、貴様の相手は俺が適任だろうからな」
まったくもって食えない男だ。セイウは笑みを深めると、立てた膝に腕を置き、美しいかんばせをリャンテに向ける。
「わざわざ、これを私に知らせる理由は?」
「兄心だ。兄心」
虫唾の湧く言葉だ。発疹が出る。
「その御心があるのであれば、今すぐ、そこの茶を口にして欲しいもの。私に知らせることで、貴方は父上の勅令に背いたことになりますが?」
くつりと喉を鳴らして笑うリャンテは、「その方が面白れぇだろう?」と、楽しげに返事した。
「あの狸親父は、俺と貴様の不仲を知っている。そして貴様と愚図が一戦交えたことも知っている。三者をいがみ合わせておけば、自分は楽に動ける。最悪、息子らを潰し合わせて、自分が麒麟の使いの所有者となることもできるってわけだ」
語り部に立つリャンテは、自分で話しているにも関わらず、腹を抱えて笑い始めた。
男は嘲笑する。父王もめでたい頭になったものだ。見え見えの下心に、自分が気づかないとでも思ったのだろうか。
だったら、あれは本当に老いた。まんまと引っ掛かるほど、自分も愚かではない。
リャンテは不敵に笑い、だからセイウに知らせたと言い放つ。あれの言いなりになるなんぞ、馬鹿のすることだとリャンテ。
「私が父上に告げ口をする可能性は考えなかったのですか?」
「はっ。つま先もねえな。あれに告げ口したところで、麒麟の使いは取り上げられる。貴様には堪えがたい話だろうが。リーミンだったか? 貴様の懐剣を抜いたガキ」
リャンテは子どもの名前を知っていた。おおかた町に寄った時、立て札を読んだのだろう。
「ええ。美しい名前でしょう? 私が名づけたのですよ」
そして、あれはその名に相応しい姿でお役を果たそうとした。心を捨て、人間を捨て、懐剣として冷然と人間達を切り捨てた。
ああ、いつ思い出してもあれは美しい。思い出す度に背筋がわななく。鳥肌が止まらない。気持ちが高揚する。
はやくあれを取り戻し、宮殿に飾らなければ。
それだけでは足りない。飽きるまで、お役を果たす姿を見せてもらわなければ。国のどこを探しても、あんな懐剣はお目に掛かれない。セイウは強い欲望に駆られた。
だからこそ。
「父上になんぞにくれてやるものですか。あれは私の懐剣だ」
ぎらついた眼でリャンテを見据え、赤い舌を出す。男は面白そうに目を細めた。
「待ってろ。すぐ麒麟の使い争いに、俺も参戦してやっから」
「ほう。自分に器があると?」
「ははっ! 同じガキが別々の王族の懐剣を抜いたんだ。リャンテの懐剣だって抜けるに決まっている」
これは強がりでもなんでもない。確信だ。
「ガキは王位継承権を持つ、王族の懐剣を二つも抜いている。だったら、俺にも資格があるだろうさ。見つけ次第、主従の儀を受けさせてやる」
「青州の地に留まるつもりですか。私が許すとでも?」
「そこで交渉だ。貴様に兵の駐屯竹簡を出してもらいたい。いくら第一王子とはいえ、青州は貴様が任された地。俺が好き勝手できることじゃあねえ」
言ってくれる。竹簡の返事を待たず、此処に来たくせに。
「表向き、俺は貴様の監視を任されているが、返事次第では黙認してやる。貴様も嫌だろう? 下手に狸親父を刺激するのは。あれは短気だ。面倒事になっちまうぜ? 俺の知らせ次第じゃあ、貴様は親父の怒りを買う」
偉そうに。恩を売る気か、この男。
セイウは一思案を巡らせると、冷たい笑みを深めた。
「いいでしょう。明日の朝には、貴方の手元に竹簡が届くよう手配します」
あっさりと承諾するセイウの肚の内をどう読んだのか、リャンテも挑発的に笑みを深めて、毒の茶が入った湯飲みを持つと、それを逆さにする。
「お互い親父の意向に背いた。同じ穴の狢ってわけだ」
零れた茶はセイウとリャンテの間で水たまりとなった。
「宜しかったのでしょうか、セイウさま。リャンテさまに竹簡を出して」
リャンテの応接を終えたセイウは、真っ先に湯殿に入り、その身と髪を清めていた。
着ていた衣は従僕らに処分しておくよう命じ、新しい衣を用意するよう言いつける。ああもう、あの男と会うと、何もかもが汚らしく思えてならない。
二の腕や足を洗う従僕達を一瞥した後、セイウは湯殿の出入り口で見張っている近衛兵の疑問に返事した。
「ええ。どうせ、許可するまで帰らなかったでしょうからね」
「リャンテさまの兵が青州の地をうろつかれると、たいへん目障りになりますね。向こうの兵は気性が荒いので。私は白州の兵と気が合いません」
声が不快帯びている。気持ちはとても分かるので、セイウは苦笑した。
「母上にお願いして、こちらの手数を増やしてもらいますよ。許可こそ出しますが、そう簡単に自由は利かせません。お前は気にせず、リーミンを探すよう将軍や兵達に伝えなさい」
「僭越ながら、このチャオヤン。主君の貴方様にお願い事がございます。向こうが問題を起こしたら――身分問わず斬って構いませんか?」
セイウはきゅっと口角をつり上げる。
「無論。好きにしなさい。どんなことがあろうと、私が揉み消して差し上げますよ」
「身に余るご厚意、感謝いたします」
「しかし。お前の願い事は、いつも謙虚なものばかりですね。たまには物をねだったらどうです? チャオヤンの願いであれば聞きますよ」
「物、ですか?」
途端にチャオヤンが困った声を出す。宝石でも、黄金でも、織物でも、好きな物をねだればいい。助言してやると、彼は唸った。
「それらはセイウさまをお守りできませんので、私には必要ないかと……ああ、靴底がすり減ってきたので、もしもねだって宜しいのであれば、靴をお願いしたいです。底がすり減っていては、もし貴方様に何か遭った時、速く走ることができませんので」
セイウは目尻を和らげた。
「お前のそういうところは嫌いではありませんよ。その忠誠心は、いつ見ても美しい」
「美しくも何もございません。私は当たり前のことを申し上げているだけですよ。このチャオヤンの主君はセイウさま、ただ一人ですので」
どこまでも堅物で、謙虚な男である。だから、セイウはチャオヤンを近衛兵として置いているのだ。
石の大浴場の縁に寄り掛かり、濡れた髪を指に絡ませながら、セイウは言った。
「チャオヤン。私の近衛兵である以上、常に美しくありなさい。いいですね、少しの汚れも許されませんよ」
汚れていい時は、剣を振るっている時のみ。
「私は汚い物など見たくないのです。傍にいる置く者は誰も彼も美しくなければ。懐剣のリーミンも然り。近衛兵を務めるチャオヤン、お前も美しくおありなさい」
間髪容れず、チャオヤンは答えた。
「仰せのままに。我が主君」
ああ、なんてことだろう。
五日掛けて町に到着したユンジェは、満目一杯に広がる光景に言葉を失ってしまう。
そこは椿ノ油小町。
名の通り、椿油を売りにしている町であった。とても小さな町であった。
けれども、ひしめき合っている石造の家屋を見ると、それなりに人がいる所であった。『人』がいれば、きっと活気づいた町がお目に掛かれたのだろう。
「町が亡んでいる」
亡んだ町を前にユンジェは、なんと感想を述べればいいのか分からなかった。
その町はとてもくすんでいる。
倒壊している家屋や、穴の開いた外壁。道に転がっている空樽に、車輪が取れた荷台。
一軒の家屋に立つと、油にするための椿の種が奥まで散らばっている。それらを目に留めたせいで、町は灰色に見えた。人の気配はまるでない。
カグムは地図を頭陀袋に仕舞い、頭からかぶっていた布を取って、町をぐるりと見渡す。
「亡んで、随分と時間が経っているようだな。賊の集団にでも襲われたのか、それとも運悪く、戦の場になってしまったのか。どんな理由にしろ、この町は人間から、そして国から見捨てられたようだな」
復興の形跡がないと彼は目を細めた。
ユンジェは、一軒の家屋を突き上げ戸から覗き込む。
寝台の下で衣を着た人間が倒れていた。
うつ伏せで倒れているそれは、足の不自由な老人だったのだろう。白髪と杖が見えた。ハエが集っているので、事切れていることが窺える。
軽く頭を小突かれた。振り返れば、ハオが顎で向こうをしゃくってくる。行くぞ、と態度で示してくる。その際、彼から注意を受けた。
「亡骸を見つけても、下手に近付くな。腐敗の進んでいる亡骸は、どんな菌を持っているか分からねえからな。見つけても、祈りを捧げるだけにしろ」
やけに熱を入れて語られた。思うことがあるのだろう。ユンジェは小さく頷き、先を歩く大人達の後に続いた。
亡んだ町には何も残っていなかった。
家屋も、出店も、倒れている人間も空っぽであった。事切れる人間らを見掛ける度に、とても胸が締め付けられる。
とりわけ、胸が痛くなったのは曲がり角の外壁前で事切れている子ども二人であった。
兄妹だったのだろう。兄らしき子どもが、妹らしき子どもを抱き、それらは身を寄せ合って息を引き取っていた。
「さすがにつらいな」
カグムの言う通り、本当につらい。妹の手には木の皮が握られている。
かじった跡があるので、きっとこの兄妹は町が亡んでも、しばらく此処で生きていたのだろう。兄妹は飢え死にしたのだろうか。弱者の末路を目の当たりにした気分である。
「運がなかったんだな」
ティエンが哀れみの気持ちを寄せた。ユンジェは同調しつつ、称賛するべきだ、と返事した。
「あいつらは、自分達の力だけで生きようとしたんだ。それはきっと、褒められることだと思う。俺なら褒められたいよ。身寄りがいなくても、頑張って生きようとしたんだから」
二人で生きようとして、それでも生きられなかった。
それは仕方がないことだろう。兄妹には生きるだけの力がなかった。力がないなら、死ぬしかないのだ。冷たい言い方かもしれないが、これが世の理だ。
「俺も運が悪かったら、お前達と同じ道を辿っていたのかな」
近付くなと注意を受けていたにも関わらず、ユンジェは兄妹に歩むと、二人の前に干したジャグムの実を二つ供えた。
「俺は少しだけ、お前達が羨ましいよ。身寄りを失っても、死ぬまで独りにはならなかったんだから。独りのさみしさを味わわなくて良かったな」
あれは本当につらいもの。それは天の上で食べて欲しい。
言葉を残し、ユンジェは踵返して戻った。ティエンが無言で右の手を差し出してきたので、迷うことなく、その手を握った。
それからしばらく、誰も口を開かなくなる。各々思うことはあれど、それを表に出すことはない。無言で椿ノ油小町を抜けるため出口を目指す。
「国が町を見捨てなかったら、ここはまだ生きていたのかな」
前を歩くカグムとハオの背を見つめながら、ユンジェは重い口を開く。誰かに投げかけた疑問ではなかったのだが、それは前方を歩くカグムが答えてくれた。
「どうだろうな。国は人なんぞ救わないだろうからな」
「どういうこと? 国は人を救わないの?」
「少なくとも、俺はそう思っているよ。国は人を統制しても、それを救うことはしない。国にとって人は資材にしか過ぎないんだ」
国は人びとによって支えられ、保たれている。
多くの民を持てば持つほど、資材は増え、国は豊かになっていく。暮らしが楽になっていく。
ゆえに国はたくさんの民を持ちたがる。力のある民には、それなりに報酬を与え、より国に貢献していくよう促す。
「その恩恵にあやかっているのが貴族や王族だな。平民より、良い暮らしを送っている」
反対に力のない民は見切られることが多い。国はこう見解している。貧困に苦しむ者、弱い者達にお前達は怠慢な人間だと。
とりわけ、それの対象になっているのが農民だ。
「怠けていないよ。農民はみんな必死こいて働いているよ」
「分かっているさ。でも国ってのは薄情なんだよ。国に都合の良い税とか、必要な兵力とか、国の問題に関しては積極的に声を掛けてくるくせに、民の問題になると、すぐに冷たくなる。仕舞いには自分達で何とかしろとか言い腐る」
どうしようもないから、と国に頼ったところで、怠慢だの努力不足だの言い放つばかり。だから国は人を救わない。カグムは断言した。
「国が人のために何かするときは、人のためじゃなく、国のためだ。見捨てられた町は、国にとって、救済に値する資材にならなかったんだろう」
ユンジェは悲しい気持ちになる。そんな基準で救うかどうかを決められるなんて。
「これが今の麟ノ国だ。王が変われば、国も変わってくるだろうが……クンル王の時代は希望が持てないと思うぜ。平民の多くがクンル王に不満を抱いているしな」
そのために、麒麟の使いが今の時代に現れたのだろうか。
セイウの言葉を思い出す。
彼は言っていた。
使いの出現は、新たな時代の兆し。それは時代を終わらせる者とも、流れを変えるための者とも、国を決壊させる者とも云われている。
国を亡ぼすのか、それとも国を変えるのか、はたまた国を創るのか。それは選ばれた王族次第。
麒麟の使いのユンジェはいずれ、次の王となる王族に仕えるだろう。
そして、その王族を王座に導くことになるだろう。黎明期に君臨する王。王の中の王となるそれを――黎明皇と呼ぶ。
大それた話を思い返し、半信半疑になってしまう。あれは本当だろうか。
(けど俺、王座の導き方なんて分かんないぜ。仮にそれが本当の使命だとしても、ティエンを黎明皇にするわけにもいかないし。かといってセイウを王座に導くのは癪だし)
隣を盗み見ると、見事にティエンと視線がぶつかった。
慌てて逸らすも、「ユンジェ?」と、声を掛けてくる。まずい。こういう時の彼は本当に察しが良いので、ユンジェの気持ちをなんとなく察してくる。
「なんでもないよ」
握ってくる手が強くなったので、ユンジェは心苦しくなる。追いつめられている気分だ。
次の瞬間のこと。
全身に強い衝撃が走り、動かしていた足が石のように固まってしまう。鼓動が高鳴った。嫌な汗が噴き出す。危うく、ティエンの手を握り潰しそうになった。
来る。何かがこっちに来る。所有者に災いが降りかかる。
「カグム、ハオ。そっちは駄目だ!」
その一声は亡んだ町に響き渡った。足を止めて振り返るカグムとハオに、三度駄目だと伝え、ティエンの手を引いて踵返す。
本能が警鐘を鳴らしている。何が、何が来るのだ。王族の兵か。
「うそだろ。こっちからも何か来る」
来た道を戻っていると、向こうからも嫌なものを感じた。たたらを踏み、体をつんのめらせるユンジェは、その災いの大きさと恐ろしさに、思わず後退してしまった。
「なんだ。向こうから来るあれ。前から来るやつよりも、すごく怖い。なによりっ、声が聞こえる。俺っ、誰かに呼ばれている」
この感覚はそう、セイウの懐剣と似たものを感じる。ユンジェが悲鳴交じりの声を出したことで、周囲の表情が強張った。
ハオが息を呑み、確認を取ってくる。
「お、おいおい。それってまさか。懐剣を持つ王族が近くにいるってことかよ。セイウさまか?」
「分からないよ。でも、すごく嫌な感じがする。陶ノ都の時と、とても似ているんだ」
来た道を戻ることも、町を抜けるために向かっていた出入り口に向かうことも、ユンジェは嫌がった。
両方選べないほど、どちらも危険だと訴えると、カグムが一つ頷き、こっちだと先導を切った。
彼は石造りの家屋を観察し、比較的小さな家屋に目を付けると、無遠慮に戸を蹴り飛ばして中に入った。
中は荒れ放題であったが、そんなことお構いなしに奥の部屋に入ると、カグムはユンジェとティエンを木窓の四隅に追いやった。
そして。ユンジェを角に座らせ、その前にティエンを置く。
ユンジェは驚いてしまった。
位置が反対ではないだろうか。これではティエンを守れない。そう訴えるも、カグムは言うことを聞けと強く命じる。
「ユンジェが王族を討てないのは、セイウさまの一件で分かっている。もし、ここに来る相手がセイウさまだったら、下僕のお前は飛び出すかもしれない」
次、ユンジェを奪われても、この人数では歯が立たないとカグム。
最悪の事態を回避するため、所有者のティエンに壁となってもらうとのこと。
ユンジェは反論したい気持ちを必死に嚥下する。正直、王族相手だと成す術がない。それで痛い目に遭っている。
対照的にティエンは、納得している様子。深く布をかぶると、ユンジェの頭にも布をかぶらせ、肩に掛けている短弓を手に持った。
「お前を誰にも渡してなるものか。血は繋がってなくとも、私にとって、ユンジェはたった一人の兄弟。守り抜くよ」
「ティエン……」
「爺さまの分まで、私が傍にいる。だから安心しなさい。ユンジェはもう独りにならないよ。今日も明日もこれからも、それこそ墓まで一緒にいるよ」
あっけらかんと笑うティエンに面喰ったユンジェは、「俺より弱い癖に」と、口を尖らせてそっぽを向いてしまう。見え見えの照れ隠しであった。
その隣でカグムとハオが、神妙な面持ちを作っている。
「カグム。今のティエンさまの言葉、訂正してやるべきじゃねーかな。すごいこと言っているぞ。墓まで一緒って……意味分かってるのか?」
「ティエンさまのあれは純粋なものだ。あの方は女性と接したことはあれど、恋慕とは無縁の生活を送られていたからな」
「いやでも、墓まで一緒って。無知のままにしておくのも、ちょっとまずいんじゃねえか? 麟ノ国の王子だぜ?」
「……はあっ、教えてやるべきかなぁ」
墓まで一緒には、深い意味があるらしい。
ユンジェにはその意味が分からなかったが、ティエンの気持ちは嬉しかったので、自分も墓まで一緒にいると返事しておいた。
ティエンは大喜びで頷いたが、カグムとハオは始終、物言いたげな顔をしていた。聞かぬが花だろう。ユンジェは敢えて、何も触れなかった。
かすかに音が聞こえてくる。
亡びた町に響く音は馬の蹄であった。恐れる災いはもう近くまで迫っているのだろう。
音を聞き、カグムとハオが木窓の両側について、片膝をついた。
腰に差している剣に手を掛けつつも極力、身を隠してやり過ごすとのこと。
狭い家屋を選んだのも、見つかりにくい点と、剣を思いきり振り回せない点があるためだとか。
確かにユンジェ達のいる部屋は狭いので、槍や刃の長い剣を振り回すと、壁に当たって動きにくそうだ。
ユンジェも懐剣の柄を握り、もしもの時に備える。少しずつ呼ぶ声も強くなった。声なき声がユンジェを求めているので、セイウの顔が脳裏に過ぎる。主君の彼だけは来てほしくない。
「ティエン。俺の名前、ユンジェで合っている?」
不安になったので、ティエンに名前を確かめる。彼は優しい目で頷いた。
「ユンジェは、とても気品溢れた名だ。リーミンよりも、ずっと、ずっとな」
「そっか、なら良かった。ユンジェって名前は、死んだ父と母が付けてくれてさ。顔も声も知らないから、名前を形見にしているんだ。笑うか?」
「ああ。微笑ましくて、ほっこりと笑ってしまうよ。形見なら大切にしないとな。忘れそうになったら、いつでも聞きなさい。その度にユンジェの名前を呼ぶから」
それから、どれほど息を潜めていただろうか。
身を強張らせ、その時を待っていると、雄叫びが聞こえてくる。
やがて声は声を呼び、怒号がまじり、悲鳴と断末魔が加わる。家屋にいるにも関わらず、地響きを感じた。
それだけではない。
鼓膜を破るような、恐ろしい音がユンジェ達を襲う。その音と外の様子を見たハオが血相を変え、全員に伏せろと指示した。
間もなく半開きの木窓の向こうから、凄まじい音が聞こえ、木窓から火花や石、木の破片が飛んでくる。
頭を抱え、身を伏せていたユンジェは、その威力に息を呑みつつ、傍にいるティエンに声を掛ける。
「ティエン大丈夫か? 怪我していないか?」
彼は何度も頷いた。
「私は大丈夫だ。しかし、恐ろしい音と風だったな。まるで、天の怒りに触れたような荒さを感じたよ」
近くにいたカグムとハオに無事であるかを尋ねるも、二人から返事はない。その代わりに素早く身を起こして、外の様子を見ていた。負傷は逃れたようだ。
ハオが力を込めて舌打ちを鳴らす。いつも寄せている眉間の皺が、一段と深く刻まれていた。
「今のは火薬筒じゃねえか。くそっ、戦でも始まったのか? しかも、あの兵色は青州と白州の王族兵。なんで白州の兵が青州にいるんだ。また来るぞっ!」
合図と共にユンジェとティエンは頭を下げ、カグムとハオは木窓から離れて伏せた。恐ろしい音が小さな家屋を見たし、そこを震わした。
今まで火に囲まれたり、崖から落ちたり、色んな恐怖を味わってきたが、これはまったく新しい形の恐ろしさであった。
廊下側から音が聞こえた。
兵が入って来たのだろう。物を倒す音や、金属音のぶつかる音から判断するに、兵どもはこの家屋を戦う場にしたようだ。
狭さなどお構いなしのようで、兵は扉を蹴破るや、そこへ逃げて体勢を立て直す。
ユンジェ達に目もくれない兵は、すぐ後を追って来る兵と剣をぶつけ合い、死闘を繰り広げた。
「外に出ろっ! 巻き込まれるぞ!」
カグムの一声により、ユンジェはみなと共に壊れた木窓から外へ出る。
室内から悲鳴が聞こえた。
振り返ると、利き手を切り落とされた人間の姿。血まみれになっても、なお残った手で剣を持っていた。
己の死など顧みず、敵に突っ込んでいる姿から、あの兵は相討ちに持っていくつもりなのだろう。その姿が痛々しかった。
外はきな臭かった。
細かな砂埃が待っているので、なるべく布を深くかぶって目を守る。塀に身を隠して、敷地の外を窺うが、どこもかしこも兵士ばかりだ。
四方から怒号が飛び交う。
「第一王子リャンテを討て。あれは我が捜索の兵らをつけ回した挙句、奇襲して壊滅させた。妨害をした。王族であろうと、問題を起こすものであれば斬って構わないとのことだ」
八方から命令も飛び交う。
「リャンテさまを守り、青州の兵らを討て。第一王子リャンテさまに剣を向けるなど、無礼講にもほどがある。第二王子セイウの兵など恐れるべからず」
大人達の顔色が強張る。第一王子リャンテがこの戦にいる、ということが、信じられないようだ。
「うそ、だろ。リャンテさまの噂は聞いていたが、まさか本当に自ら戦に出向く方だとは。ここ、青州だぜ? 不仲なセイウさまが任された土地だぜ? なのに、戦に身を投じるのかよ」
なんて獰猛な王子だ。ハオが恐れおののく。
「さらにリャンテさまは、白州の兵に引けを取らない剣の腕前らしい。なんでも将軍並みだとか。鉢合わせたら厄介だぞ」
カグムが小さく唸る。
「リャンテ兄上は、父クンル王の性格に酷似している。その気性の荒さは王族一とも言われ、王族内でも恐れられている。覚悟はしていたが、早く再会する日がくるなんて」
ティエンの苦言が、火薬筒の破裂音によって掻き消された。近くでそれが使用されたのだろう。肌に空気の震えが伝わってくる。
ここにいては、またいつ火薬筒が投げられるか分からない。
かと言って、通りの広い場は混戦となっていることだろう。
カグムは家屋の裏に回り、狭い道から別の家屋に移ると指示した。
火薬筒が使用されている以上、無暗に外を出歩かない方が良い。下手すれば、破裂に巻き込まれ、深い火傷を負いかねないとのこと。
先頭に回るカグムはハオに最後尾を任せ、塀細心の注意を払いながら塀伝いに別の家屋を目指す。
その際、各々深く布をかぶって顔を隠した。兵士らに顔を見られては面倒事になる。