チャオヤンが強く感情を込めると、馬の腹を蹴ってカグムの脇をすり抜けた。猪突猛進に突っ込むので、固まっていたユンジェ達は散り散りとなった。

「しまった。ユンジェっ!」

 突然のことだったので、頭を押さえていたユンジェは横に逃げるティエンについていけず、身を伏せて回避するしかない。
 チャオヤンの狙いはそれだったようで、集まりをばらけさせると、馬を走らせたまま、身を起こしたユンジェに手を伸ばす。

「させるか。俺を舐めるなよ、チャオヤン!」

 地を蹴ったカグムが瞬く間に、ユンジェの前に滑り込むと太極刀を振るう。ふたたび直刀がぶつかるが、彼はそれを弾き、ユンジェの身を抱えて転がった。

「か、カグム。ごめん。俺がぼさっとしていたから」

 起き上がると、彼が片目を瞑ってくる。

「たまには、おとなしく守られてろ」

「えっ?」

「懐剣のお役ばっかり押し付けられちゃあ、お前も疲れるだろう。たまには、ただの十四のガキに戻ってろよ。人間、休息ってのも必要だぜ」

 人間であることを忘れてくれるな。

 優しい目で笑ってくるカグムが、ユンジェの背中を強く突き飛ばした。
 ティエンの下へ行けと大声を出す彼は、チャオヤンの足止めを買い、振り下ろされる直刀を太極刀で受け止める。

「お前の相手は俺だ。久々に一対一の手合わせを頼むぜ、チャオヤン。馬から降りろ」

「生憎、貴様の相手をしているほど暇ではない。リーミンはセイウさまの懐剣、返してもらうぞ」

 弾き合う刃の甲高い音に、ユンジェは戸惑い、カグムに加勢するべきかと思い悩む。
 しかし、答えを導き出す前に「走れ!」と、怒鳴られ、ユンジェは無我夢中で足を動かし、彼らから離れた。

 たくさんの蹄の音が近づいてくる。

 振り返れば、チャオヤンを素通りした騎馬兵らが、獲物であるユンジェを囲み始めているではないか。

 これでは向こうにいるティエンやハオ達の下に近付けない。
 寧ろ、騎馬兵から逃げれば逃げるほど、彼らから遠ざかってしまう。ティエンがこっちだと誘導してくれるが、どうしても距離が開いてしまう。馬の足は本当に速い。

「リーミンを疵つけるな。美しいまま捕らえろ。ひとつの疵も許されないぞ。あれは平民ではない。王族の私物であり、平民より高い身分の者だ」

 人を物のように言ってくれる。

(なにが平民より高い身分の者だよ。俺は農民だっつーの)

 捕まれば、今度こそ宮殿に飾られるに違いない。そんなの絶対にごめんだ。

(みんな、俺を追って来る。ティエン達なんて見向きもしない)

 いつもティエンを守ることに徹底していたユンジェなので、こんな事態は初めてであった。

 誰も彼もが自分を狙い、脅し程度に武器を向けてくる。見据えてくる無数の目は恐怖でしかない。

 ああ、常日頃から命を狙われているティエンは、このような恐ろしさを噛み締めていたのか。

(頭がっ、まだがんがんする。馬鹿みたいに、がんがんする)

 三頭の馬が前方の道を塞いだので、急いで踵返す。背後にも三頭の馬が構えていた。
 身を守るために懐剣を抜くが、麒麟の心魂は感じられない。

 当たり前だ。これはティエンを守るための懐剣であって、己の護身用ではない。

 懐剣の力が発揮されないユンジェなど、ただの十四の子どもである。王族の兵士相手に勝ち目などあるわけがない。

 前後に目を配り身構えるものの、距離を詰めて槍を投げる兵にすら気付けず、ユンジェの衣はその槍に貫かれた。

 袖が槍頭と共に地面に食い込み、その場に倒れる。
 慌てて袖を引くが、しかと食い込んで抜くことが叶わない。破ろうと躍起になる間にも、騎馬兵に囲まれた。


「ユンジェっ! 立てっ、走れ!」


 ティエンが己を救おうと短弓を放つ。ハオ達が走って来る。それも他の騎馬兵に阻止されて終わる。

 ユンジェが囲まれたことで、ピンイン王子を討てとの声が聞こえた。ユンジェの中で強い使命に駆られる。所有者を守らなければ。


「リーミン。主君の声を聞きなさい」


 冷たく美しい男が馬に乗り、騎馬兵に守られながらやって来る。彼は手綱を引き、馬の足を止めるとユンジェに命じた。

「お役を惑わせる心なんぞ捨てなさい。貴方に必要なのは、麒麟に授かった使命のみ。所有者と懐剣の関係を成立させたのは、誰なのか、思い出しなさい」

 強い服従がユンジェを支配していく。そうだ。セイウはユンジェの主君、決して逆らってはいけない存在。従わなければ。


(ま、守らないと。し、従わないと。ティエンを、セイウを。俺はどっちの懐剣なんだ)


 使命と服従。

 二つが強く衝突し合った時、ユンジェは頭を抱え、天に向かって咆哮した。

 喉から血が出る勢いで迸った声は夜空を裂き、割れ目を作って、天の上にいる瑞獣(ずいじゅう)を呼ぶ。

 ユンジェを軸に風が吹きすさぶので、囲んでいる馬が怯えを見せ、兵を乗せたまま走った。
 騒ぎ立てる風と、巻き起こる砂埃のせいで、岩場の石が転がった。高い所では岩が崩れる。その地は荒れていく。

 暴れる馬から降りたセイウは、頬を上気させ興奮する。

「おおっ。これはっ、もしや」

 少しでもユンジェに近付きたいティエンは、その光景に言葉を失う。

「くるっ。麒麟が、くるっ」

 天を見上げるユンジェは、袖を突き刺している槍を払い、降りてくる瑞獣の隣に立って懐剣を握り締める。
    

 この世とは思えない、美しい体毛を持った麒麟はこの場にいる者達の目にしかと映っているようで、人間らは畏れの声を漏らしていた。

 そんな麒麟と共に、ユンジェは走り出す。
 向かった先はティエンを囲もうとしている愚かな兵達の下。

 所有者を傷付けることは、懐剣であるユンジェが、なんびともたりとも許さない。

 馬に飛び乗ると、恐怖に引き攣る乗り手に冷笑し、懐剣を逆手に持って容赦なく首を斬りつける。

 返り血を浴びたところで、次の馬に飛び移り、顔面に向けてそれを突き刺した。

 落ちていく人間を一瞥することもなく麒麟の隣に戻ったユンジェは、ティエンの周りに兵がいなくてなっても、なお敵を探しては走る。

 大慌てでティエンがユンジェの体に縋り、もういいと訴えても、子どもは恍惚な眼を作り、口角を持ち上げて主張する。

「リーミンは所有者を守るために存在する者。次なる時代の王を導く者。懐剣となった者。そのお役を果たすため、下僕めは王の災いを払いましょう」

 ああ、でも困ったことに、目の前のピンイン王子は主君ではない。所有者なのに主君ではない。

 かといって、セイウは主君なのに所有者ではない。これでは懐剣としてお役を果たせない。

 そこでユンジェは、空っぽの心で尋ねた。まこと懐剣の主は、自分の主君は誰なのか、と。

「麒麟の使いリーミンは、その者に従いましょう。導きましょう。守りましょう。麒麟と共に」

 青褪めたティエンが、気をしっかり持つよう訴える。お前はリーミンではない。農民の子ユンジェだ。自分の家族であり弟だ。下僕ではない、と。

 だが、今のユンジェに意思などない。心もない。命じられるまま動く、ただの下僕であった。主君の命令にたいへん忠実であった。ゆえに心を捨てた懐剣と成り下がっていた。

 セイウの嘲笑が夜に響き渡る。

「弟! あははっ、弟! ピンイン、それを弟なんぞと、クダラナイもので縛っているのですか! だからリーミンは、まことのお役を果たすことも、真の力を発揮することもできないのですよ!」

 命じ、従え、王族の下僕にする。
 それが正しい麒麟の使いの在り方だと謳うセイウは、ユンジェを呼びつけた。

 己こそが主君だと言えば、子どもはそちらへ体を向ける。ティエンは必死にユンジェの体を押さえつけた。

「可哀想なリーミン。愚弟のせいで、お役の半分も果たせていないだなんて」

 セイウは言う。
 麒麟の使いは、『王族』の隷属であり懐剣。

 ティエンが心を持たせるばかりに、情に流され、それは所有者を守るだけに留まる。本来の麒麟の使いは『王族』を、新たな時代の王とするべく、王座に導く者だというのに。

 
 あまりにも哀れだ。

 お役を果たせず、守護の懐剣に留まらせるなど、宝の持ち腐れだ。


 なにより、心を持つ懐剣ほど醜いものはない。美と華を持たせるのであれば、懐剣の姿に飾ってやるべきだ。

「恐怖も、自分も、心も捨てた、懐剣のリーミンこそ美しい。それを服従できるだなんて、想像するだけで興奮すると思いませんか。呪われし麟ノ国第三王子ピンイン。我が愚弟」

 ティエンの腕から、麒麟の使いが飛び出す。
 隣を走る麒麟共々セイウの下へ向かう、あれらはきっと主君となるべき男に従おうとしているのだろう。

 脳裏に過ぎる敗北が、ティエンに大きな怒りと憎しみをもたらす。

 ふざけるなと思った。
 己は懐剣を抜いた子どもを、一度たりとも下僕にしたいと思ったことなど無い。一緒に生きたいと願った。それだけだ。

 懐剣を抜いたユンジェとて、自分に生きて欲しいから、それを抜いてくれたのに。

(王族の下僕になるために、あの子は懐剣となったわけじゃない)

 ああ、麒麟よ。なぜ、あの子に過酷な使命ばかりを追わせるのだ。そして、なぜ、自分を振り回すのだ。これすらも国のためなのか――だったら。

    

 短弓を構えたティエンは、新たに集まる兵になんぞ目もくれず、口から感情を迸らせる。


「聞け麒麟っ! 使いの者っ! 私が次の王となる者、この声を聞け!」


 その目を黄金色に光らせ、セイウに向かって矢を放つ。

 それは荒れ狂った風を呼び、闇夜を裂く道を作り、心手放そうとした麒麟の使いを目覚めさせる麒麟の声となった。

 矢は姿かたちを変え、幼き麒麟となるや、瞬く間にセイウの下へ届く。
 頭の鋭利ある角と一体になった鉄の鏃は第二王子の帯を突き抜け、彼の懐剣の鞘に直撃した。

 微かに聞こえたヒビ入る音を合図にティエンは、乗り手のいなくなった馬を指笛で呼ぶと、駆け寄って来たそれに跨り、馬の腹を蹴って走らせる。


「ユンジェ。お前はセイウの懐剣じゃない。ティエンの懐剣だ」


 足を止めて振り返るユンジェに手を伸ばす。

 おなごのように白い手を目にしたユンジェは、惹かれたようにその手を掴むと、足を動かしたまま馬と走った。
 華奢な腕が引き上げようとしてきたので、ユンジェから鞍を掴んで馬に飛び乗る。

「貴様らも馬に乗れ! 乗れ!」

 ティエンが指笛を鳴らすことで、乗り手を失った馬達が謀反兵らに駆け寄る。それを止めようと(おおゆみ)を構えた兵が馬に矢を放つが、もろともしなかった。

 隣を走る麒麟に目を向ける。恨みつらみを投げたい気持ちで一杯になったが、それを嚥下すると、瑞獣に願った。

(――どうか、我らを風と共に運びたまえ。兄セイウの手の届かない地まで、我らを運びたまえ)

 手数の多いセイウに、今の自分達が真っ向勝負をしても敵うはずがない。だから欲深い兄の魔の手が届かないところまで、どうか風と共に。

(いずれ討つ。セイウを討って、ユンジェに繋がれた下僕の鎖を断ってやる)

 その時を覚悟しておけ。ティエンは強い気持ちを抱いて、馬の手綱を握り締めた。






「おやおや残念。あと一歩のところだったというのに」

 夜のとばりに身を隠し、風と共に去ってしまった愚弟達を見逃したセイウは肩を竦め、帯にたばさんでいた懐剣を鞘ごと抜く。
 麒麟の加護が宿った黄玉(トパーズ)にヒビが入っている。先ほど放たれた矢の鏃が、これに直撃したせいだろう。

 血相を変えて駆け寄って来るチャオヤンを尻目に、セイウは美しい黄玉(トパーズ)が醜くなってしまったと鼻を鳴らす。

「骨肉の宣言を受けた上に、大切な黄玉(トパーズ)まで醜くされるとは。ピンインめ、やってくれますね」

 次会ったら、八つ裂きにした上で、生きたまま畜生の餌にでもしてやらねば気が済まない。このヒビは直るだろうか、セイウは眉間に皺を寄せる。

(ピンインの放った矢。一瞬、麒麟に見えたような……気のせいか?)

 まあ。不快なことばかりでもなかった。黄玉(トパーズ)を軽く舐めると、セイウは冷たい笑みを深める。

「リーミンは私を主君として見ている。主従の関係は成立している。あれは私の血を宿し、下僕としてお役を果たそうとしていた。ふふっ、健気な子ですねぇ。嫌いじゃないですよ、ああいうの」

 それを知れただけでも収穫だろう。

「愚弟の呪縛により、あれは懐剣となり切れていない。なんと哀れな。私が解放してやらねばなりませんね」

 そして、次こそセイウの懐剣を持たせるのだ。
 己の懐剣を持った、リーミンはきっと、どの剣よりも美しく、気高く、興奮する姿を見せるのだろう。

 国の誰も持っていない懐剣を持てるだなんて、これほど欲求が満たされることはない。

「黎明皇となるのは私か、ピンインか。それとも、噂を聞きつけるであろうリャンテか。はたまた、謀反を恐れている父上なのか。さて、天は誰を選ぶのでしょうね」

 けれどそんなことより、新たな時代の王を導く、麒麟の使いを早く宮殿に飾りたい。セイウは歪んだ欲を惜しみなく表に出し、チャオヤンと兵達に言い放った。

「どんな手を使ってでも、リーミンを探しなさい。ここ東の青州、麟ノ国第二王子セイウが任されている地。どの土地よりも捕まえやすいのですから」

 決して、他の土地に行かせてはならない。あれは誰にも渡さない。第三王子ピンインにも、第一王子リャンテにも、父にだって渡してなるものか。


 ティエンは険しい岩山の上で、昇る朝日を眺めていた。そのひざ元には疲弊した子どもが眠りについている。

 赤子のように腹を叩いても微動だにしないので、本当に疲れているのだろう。手を止める気にはなれなかった。

 背後では事切れている馬達を見下ろして、ため息をついている謀反兵達が話し合っている。
 それらは矢を受けて、致命傷を負っていたようだ。それでも麒麟と共に走ってくれたので、感謝してもし切れない。後で手厚く葬ってやらねば。

 幸い一頭は無事なようで、その馬を自分に託して欲しいと、ライソウが意見していた。

 どうやら、彼はひとり陶ノ都に戻り、合流予定の間諜らの下へ行くという。

 手を貸してくれた仲間が心配であることに加え、その者達と合流すれば、足となる馬を連れて来ることができる。一足先に青州の間諜らにだって、ピンイン王子のことを知らせることができる。

 ここは一つ、自分に任せて欲しいとのこと。

 簡単なように聞こえるが、それはたいへん危険な行為他ならない。引き返せば、セイウ率いる王族の兵に見つかるやもしれないのに。

 しかし。カグムは決断する。


「分かった。ライソウ、馬と仲間への知らせは頼んだぞ。俺達は身を隠しながら玄州に向かう。青州のどこかで落ち合おう。俺はお前の帰りを待っているからな」


 すると、シュントウも名乗り出た。
 ハオが先に名乗り出て、一緒に行くと言ったが、大切な王子の護衛は腕の立つ者がやるべきだと言って聞かない。

 結局、ハオが引きさがる形となる。
 本人は納得していないようだったが、カグムにまで引きさがるよう言われてしまえば、おとなしく引きさがるしかないだろう。

 ライソウとシュントウは、ティエンの前で片膝をつき、どうかご無事で、と言葉をおくった。
 自分が兵士不信だと分かっていながら、真摯に身の無事を祈ってくる。それが本音なのか、建前なのか、ティエンには分からないが、少しだけ心が動いた。

「ライソウ、シュントウ。貴方達に麒麟の加護がありますように」

 大層驚かれたが、これは別行動をする二人へおくる、ティエンの嘘偽りない気持ちであった。
 嫌々一緒に旅をしてきたものの、彼らと修羅場をくぐり抜けた時間があったことも確か。

 そのため、彼らの無事を祈る気持ちくらい寄せても良いと思えた。情が移ったのかもしれない。


 出発した二人を見送り、ティエンはふたたび、朝日に視線を戻した。太陽はもう、昇り切ろうとしている。

    
「ユンジェ。すまなかったな。私が無知だったばかりに、お前にまた要らん負担を掛けた」


 静かな寝息を立てる子どもから返事はない。
 いずれ子どもは目を覚ますだろう。ユンジェは、リーミンのままだろうか。それとも、元に戻っているだろうか。気になるところだ。

 大丈夫。ユンジェがリーミンと名乗っても、ティエンが思い出させてやればいい。そういう約束だ。

「このままではいけないな。とてもいけない」

 麒麟の使いをめぐる争いは、ティエンが想像していた以上であった。
 王族が欲する存在だと、なんとなく認識はしていたものの、ここまでとは思わなかった。

 欲深いセイウは言っていた。まこと懐剣のお役は、新たな時代の『王』を導くことだと。
 となれば、いずれ王位継承権を争うリャンテも参戦するだろう。

 セイウだけでも逃げることで一杯いっぱいだったのに、好戦的なリャンテまで相手だなんてとんでもない。兵を持たないティエンに勝ち目などない。ティエンはユンジェを守り切れないだろう。


(私は本当に無知だ。麒麟のことも、使いのことも、呪われた自分のことすらも)


 では、どうするか。決まっている。

    


「カグム。玄州までどれほど掛かる?」

 話を振られたカグムが、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、声はしごく驚いた様子であった。

「最低でも、ひと月は見ておくべきかと。馬がないので、なんとも言えません。徒歩で州を渡ったことなどないので。質問の意図を尋ねても?」

「一刻も早く、天士ホウレイの下に行きたいと思ってな」

 それはティエンが自ら謀反兵達と行動を共にする、という意思表明に他ならなかった。

 天士ホウレイの下へ行けば、王位簒奪(おういさんだつ)だの、弑逆(しいぎゃく)だの、厄介なことに巻き込まれるのは目に見えている。

 ティエンは嫌々ながら王座に就かざるを得なくなる。

 懐剣のユンジェだって、ホウレイに取り上げられるやもしれない。

 それでも、いま一番希望が持てる道は、謀反を目論むホウレイの下へ行くことだ。天士なら知っているはずだ。麒麟のことや、麒麟の使いのこと、懐剣となった人間のことを。

 瑞獣の神託を受けることができる、天士であれば、この運命に抗う術を知っているやもしれない。セイウを討たずとも、ユンジェを下僕の鎖から解放してやれるやもしれない。

 ティエンは諦めない。子どもと生きる道を、決して。

    
「こちらとしては願ってもないことですが、ひとつだけ。ティエンさま、ユンジェに少々気持ちを入れ過ぎなところがありますよ。もし、それが折れたらどうするんです」

「お、おい。カグム」

 ハオが慌てたように、間に割って入るが、カグムは辛辣に言う。

 この先、そのような場面があるやもしれない。懐剣のユンジェが折れてしまうことも、過酷な旅ではあるやもしれない。
 しかし、それは懐剣のお役を持っている以上、致し方がないこと。気持ちを寄せることは構わないが、入れ込むと人は脆くなる。

 それを知っておくべきだと謳うカグムは、再三再四尋ねる。ユンジェが折れてしまったら、どうするのだと。

「貴様は不思議な質問をするんだな」

 振り返り、ティエンは柔らかな微笑みを浮かべた。
 その表情を目の当たりにしたカグムは、ただただ言葉を詰まらせる。ティエンの気持ちを察したのだろう。

「ピンイン。お前」

 ティエンではなくピンインと呼んでくるのは、敬語を崩してくるのは、一兵士としてではなく、一個人として接している証拠だろう。

 そんな彼に肩を竦め、ティエンは子どもの腹を軽く叩いた。

「いまの私はこの子を生かすことで、頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないよ」

 ユンジェを失う未来など考えたこともない。
 たとえ危機が迫ろうとも、回避しようと躍起になり、悪足掻きをするだけ。
    
 みんな、そうやって生きているものなのではないだろうか。怯えながら生きる毎日なんて、つらいだけだ。

 ティエンはユンジェの寝顔を見つめ、小さく頬を緩めた

「それはきっとユンジェも一緒だろう。この子も、私を生かすことで頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないだろうさ」

 お互いに静かに、平和に、そして幸せに暮らしたい。それだけしか考えていない。

「この子がいない日々なんて、私には想像もつかないよ」

 荒々しく頭を掻くカグムは、もう何も言わなかった。
 煽る言葉すら見つからないらしい。なんだか誇らしい気持ちになった。言い負かした気分だ。

 ユンジェの重たい瞼が持ち上がる。
 瞳を覗き込むと、それは何度も瞬きをして、掠れた声を出した。力なく口角を持ち上げ、笑みを浮かべる。


「ティエン。おれのこと、助けてくれたんだな」


 子どもはリーミンではなく、ユンジェであった。胸を撫で下ろす。良かった、正気に戻っているようだ。

 ありがとうを口にする子どもは、思い出すことができたと一笑して語り部となる。

「途中で訳が分からなくなったけど、ティエンが呼んでくれたから、おれ、思い出せたよ。自分のこと。不思議なんだ。セイウに呼ばれた時は、心が空っぽになったのにさ。お前が呼んでくれた時は、すごく心満たされた」

 相槌を打つと、ユンジェは少しだけ涙声になって呟く。

「俺、人間のままでいたいな。懐剣としてお前を守ることは怖くないけど、人間でなくなるのは、少しだけ怖いや。なんにも感じなくなるし、頭だって真っ白になるし」

「辛抱するなと、私は教えなかったか?」

「性格悪いぞティエン。ちぇっ、すごく嫌だよ。人間でなくなるの。本音を言えば、お前を守れるかどうかも、ちょっと怖い」

 素直でよろしい。
 いたずら気に笑うティエンを見上げ、ユンジェは目を細めて笑った。


「俺が自分を忘れそうになったら、また思い出させてよ。ティエンが呼んでくれたら、何度忘れても思い出せるから。俺が誰を守りたいのか、きっと思い出せるから」


 そんなのお安い御用だ。
 声が嗄れるまで、呼び続けたって構わない。それでユンジェが心を取り戻してくれるのなら、ティエンは声を潰しても呼び続けるつもりだ。


「ユンジェ。お前はユンジェだよ。私にティエンの名前をつけてくれた、農民のユンジェだ」


 この声が失っても、ずっと。ずっと。



 少し離れた岩場に移動したカグムはハオと共に、王子と懐剣を見守り、神妙な顔を作っていた。

 口から零れるのは、重々しいため息だ。

 ティエンが玄州に行く決意を固めてくれたことは、こちらとしては有り難い。隙を見て逃げ出す、なんて馬鹿な行為が減ってくれる。余計な仕事もなくていい。

 だが。


(ピンイン。お前はとても気丈夫になった。強くなった。けどその分、脆くもなった)


 良くも悪くも人間くさくなった。
 それに喜べばいいのか、嘆けばいいのか、正直カグムには分からない。


「懐剣のガキ、折らないようにしねーとな。あれじゃ後追いしかねないぞ」

「頼むから、それを言ってくれるな。俺は頭が痛い」


 薄々と気付いてはいたが、ティエンの弱点はあまりにも脆く致命的だ。

 彼の大部分は懐剣のユンジェが占めている。
 生い立ちを考えれば、仕方のないことだろう。分かっている。それに追い撃ちを掛けたのは自分だ。全部分かっている。

 それでも、あれはあまりに脆すぎる。

 ハオの言う通り、失えばきっと。

「懐剣ってのは、者であって物なんだな」

 頭の後ろで腕を組んだハオが、こんなことを言ってくる。視線を投げると、彼は天を見上げた。

「なんっつーのかな。物ってのは、持ち主によってすぐに壊れたり、反対に長持ちしたりするだろう? 懐剣も同じなのかなぁって思ってよ」

 ティエンとセイウの懐剣のはざまで揺れたユンジェは、持ち主によって心を持ったし、心を捨てた。
 それがなんだか、哀れでならないとハオ。
    
 自分の意思で心の有無を決められないなんて、麒麟の使いは本当に酷な運命を背負っているものだ。

「俺なら一日で音を上げそうだぜ。どんだけ辛抱強いんだよ、あのガキ」

 毒のない悪態をつくハオから目を逸らし、カグムも天を仰いだ。やや薄い雲のかかった青空が自分達を見下ろしている。

「ユンジェは俺と違って、最後まで守り通す強い心を持っている。だから、どんな目に遭っても、懐剣をやめないんだろうさ。ほんと、王族の近衛兵だった俺より強ぇよ。あのガキ」

 苦々しく笑うカグムは、羨ましい心の持ち主だと言って吐息をついた。ハオは何も言わず、ただ聞き手に回り、青い空を見つめている。彼なりの優しさなのだろう。

「国がどんなに変わろうと、空だけはいつも平和だなハオ。俺達の立つ地上は、こんなに荒れているのに」


 天は見守る地上を、どう見ているのだろう。






 麟ノ国を吹き抜ける風は噂を運び運んで、人びとの耳に届ける。

 南の紅州にて麟ノ国第三王子ピンインの懐剣に、麒麟の使いが宿った。
 同じく紅州にて麟ノ国第二王子セイウの懐剣を抜いた少年が現れた。されど、それは謀反兵らによって東の青州へ連れて行かれたと騒がれる。

 二人の王子の懐剣を抜いた少年は同じ者。

 西の白州を任されている麟ノ国第一王子リャンテは、噂を聞くや、早馬に竹簡を持たせると、返事を待たず三日後に、兵を率いて発ったそうだ。


 彼は東の青州、麟ノ国第二王子セイウの下へ向かったという。



(第二幕:遁走の紅州/了)






第三幕:三つ巴の青州




 


 東の青州は、たいへん交易に優れた土地である。

 海や川に面した地域が多いため、船を伝って他州との交易を図っている。
 それだけではなく、他国を受け入れる貿易の窓口として成り立っているので、異国人の姿も多く見られる。麟ノ国五州の中で、最も経済に影響を与える土地が青州である。

 そんな青州は交易が盛んなこともあって、噂やお達しの広まりがはやい。

 町々、村々、都では、王族直下の立て札が立てられた。


『麟ノ国第二王子セイウ ヨリ 尋ネ人 謀反兵ニ攫ワレ少年ノ名 リーミン 又ハ ユンジェ』


 先方、王族に不満を持った謀反兵らが客亭(かくてい)に奇襲を掛け、第二王子セイウの下にいた少年を連れ攫ったそうだ。
 その少年はセイウの懐剣に選ばれし者、麒麟から使命を授かった者だという。

 ゆえに青州の兵士は、青州の人びとに知らせを呼び掛けた。リーミンを見つけ、宮殿に連れて来た者には報酬を与えると。

 事件に関わった謀反兵らを捕まえても、それなりの報酬が待っているそうで、とりわけ主犯となった元王族近衛兵のカグム。奇襲を目論んだ麟ノ国第三王子ピンインには、リーミンより劣るものの、大きな土地が買えるほどの報酬を支払われるのだという。

 ただし。立て札には、恐ろしい注意書きも記されていた。兵士がそれを読みあげる。

「リーミンさまに疵をつけてはならない。あれはセイウさまの懐剣であり、平民よりはるかに高い身分のお方。一滴の血を流すことも許されない。もし、疵をつければ、笞刑が待っている」

 くれぐれも、美しさを汚さぬように。こよなく美と財を愛する、第二王子セイウらしい警告であった。



 ここに王族兵の目から逃げ去るように小雨の下、町を出て行く男と子どもがいる。

 その二人組は買った油や塩、保存食を腕に抱えて、外れの竹藪に入った。
 高く伸びた青竹の合間を縫い、奥へ進む二人は、やがて人間から見捨てられた廃屋に辿り着く。

 中に入ると、まさしくお尋ね者になっているティエンとカグムが、首を長くして待っていた。

「町の様子はどうだった? ハオ」

「謀反兵は誘拐犯にされてたよ。すっかり俺達はお尋ね者だ。とくにクソガキの熱の入れようは半端ねえ。一部の人間にしか顔が割られていないとはいえ、次からはカグム達と待機していた方が得策だ」

 淡々と説明するハオの隣で、ユンジェは頭を抱えていた。
 叫ぶことが許されるのであれば、思いきり叫んでやりたかった。馬鹿野郎と怒鳴ってやりたかった。


「なにが美しいまま連れて来いだよ。セイウの奴っ、相変わらず人を物みたいに見やがって」


 ユンジェは懐剣という自覚こそあるものの、物という自覚は持ち合わせていない。
 それゆえに疵をつけるな、だの、美しいまま連れて来いだの、そんなことを言われると腹が立ってしまう。

 泥でもひっかぶってやろうか。地団太を踏むユンジェを指さし、ハオが目を細めてカグムに言った。

「クソガキ。平民より高い身分になってたぞ」

「ははっ。まあ、王族の懐剣なんだから、平民より高い身分に扱われても仕方がないだろうさ」

「なら、俺達もクソガキを丁重に扱うべきか? 今さらだとは思うが」

 途端にユンジェは血相を変え、ハオに縋って、それは嫌だと訴える。

「お願いだから、農民のユンジェで接してよ。クソガキって罵ってよ。王族に相応しくない身分だって怒ってくれよっ! 俺は高い身分になんかなりたくない」

 あれは地獄だ。生き地獄だ。自由もなければ、意思も持てない。何をするにも、誰かの手がなければ動けない。ああもう、思い出しただけでも肌が粟立つ。

 ユンジェはわなわなと身震いし、平民がいい。農民が一番いいと切に主張した。あまりにも切迫した顔だったのか、ハオが身を引きつつ好奇心を向けてくる。

「てめえ、セイウさまの下で何が遭ったんだよ。少しは贅沢ってのもできたんじゃねーの? 綺麗な格好だってできたわけだし」

「じゃあ、ハオは我慢できるか? 初対面の人間に、真っ裸にされて湯に何度も浸けられたり。自分の手で着替えることも、食べることも、許されなかったり。挙句、用を足すことすら、従僕がついてくる!」

    

 こんな屈辱あるだろうか。まだ服従を示した方がマシだ。

 ユンジェがそう言うと、ハオがあからさまに嫌そうな顔を作り、「それは苦痛だな」と零した。想像するだけで、たいへん恐ろしいものを感じるらしい。

 一方、話を聞いていたティエンはきょとんとした顔を作り、なんだ、と安心したように頬を崩した。

「セイウ兄上のことだから主従の儀以外にも、至らん苦痛を与えたのかと心配したが、ユンジェを丁寧に扱っているところもあったのだな。良かった」

 ティエンに悪気はない。離宮にいた頃は、そのような扱いを受けていたのだろう。彼に悪意など一切ない。しかし、だ。

 ユンジェは遠い目を作り、ティエンを満遍なく見て、ぽろっと呟く。

「ティエン。いまの俺とお前は、分かり合えないんだな」

「それはなぜだ?」

「いや、うん。いいんだ。育ちが違うから、分かり合えないのも無理はないよ。そういうことだってあると思う。気を悪くするな」

 大層、不思議な顔を作るティエンに空笑いを浮かべる。
 普段はちっとも気にならないが、ふとした時、彼は王族の人間だな、と思う。言えば彼が烈火の如く怒るので、黙っておくが。


 さて。ユンジェはティエンから、今後の予定について話を聞いている。


 彼から玄州に行くと決意の声を聞いた時は、我が耳を疑ったが、ユンジェは特に反対をしなかった。
 ティエンの強い意思を宿した目を見て、言ったところで無駄だと判断したからだ。

 それに加え、天士ホウレイに麒麟や使いのこと、そして呪われた王子について詳しく知りたいのだと言われた。
 ティエンは痛感したのだろう。己の知識に穴があることや、無知な点が多いところを。

 なにより。彼はユンジェを守るために、知識を得ようとしている。
 申し訳ない気持ちで一杯になるが、ユンジェ自身、王族相手になると太刀打ちができなくなる。

(もし、セイウと再会したら、俺はまた何も感じなくなるかもしれない。身も心も懐剣になるかもしれない)

 セイウと主従関係にあるユンジェは、第二王子との再会をなにより恐れた。あれに会わずに青州を抜けることができれば良いのだが。

 廃屋の突き上げ戸から外を眺める。
 本降りとなったので、今日はここで野宿だ。馬を失っているので、雨の日は雨宿りできるところで体力を温存しておかなければ。

(はあ。四人ってのがなぁ。微妙な空気だよ)

 ライソウとシュントウがいなくなったので、なんというか、空気の緩和が薄くなった。
    
 とりわけティエンとカグムが同じ空間にいると、その空気が冷たくなって仕方がない。陰でこっそりとハオが勘弁してくれ、と嘆いているのを耳にしている。

 廃屋にいる今なんて最高に最悪であった。空間が狭いので、より冷たい空気が肌を刺す。

 もっぱら拒絶を示しているのはティエンなので、それをどうにかしなければ。本当に息苦しいったらありゃしない。

 そこでユンジェは考えた。空気を壊すにはどうすればいいか。

 答えは簡単だ。
 ティエンの気を紛らわせばいい。どちらにしろ、準備をしようと思っていたのだ。

 ユンジェは口角を持ち上げると、四隅で腕を組み、突き上げ戸から外を眺めるティエンに声を掛けた。

「ティエン。頭陀袋の中身を出してくれ。矢の本数も確認したいから、床に並べてくれな」

 勿論、ユンジェの頭陀袋の中身もひっくり返す。

 悲しいことに、充実していたユンジェの持ち物は、セイウの下で着替えた時に、すべて取り上げられている。
 所持品には保存食や銭は勿論、糸や布縄なんかも入っていたというのに。

 おかげでユンジェの持ち物は手鏡や紅、燐寸(マッチ)、ハチミツ、櫛、本日買い足した油や塩など、あまりパッとしない。

 対照的にティエンの持ち物は、とても充実していた。