布に覆われ、紐で何重にもかたく結ばれている懐剣に目を落とす。刃物がない限り、これは解けそうにない。
「リーミンの支度はできたか。セイウさまが、首を長くしてお待ちしている」
仕上げとして丁寧に爪を磨かれていると、兵が迎えにきた。
セイウの近衛兵を任されているチャオヤンという男であった。
歳は二十後半から三十前半辺りだろうか。肩幅の広く、がっしりとした体躯をしている。背丈も竹のように高い。一対一になったら、まず勝ち目はないだろう。
近衛兵は従僕達より身分が高いようで、周囲の人間は深く頭を下げていた。さすがに膝はつけていなかったが。
チャオヤンはユンジェの身なりに、ひとつ頷いた。
「見違えたな。それならばどこに出しても恥ずかしくない。誰もお前を農民とは思わないだろう。さあ来なさい、リーミン。セイウさまが懐剣のお前を待っている」
ユンジェは内心、恨めしく嫌だと反抗した。誰がセイウの懐剣になるものか。
(それに俺はユンジェだってば。リーミンじゃねーよ)
あまりリーミン、リーミンと呼ばないでほしい。今は違和感で済んでいるその名が、己の中で馴染んできそうで怖くなる。そうなる前に逃げ出せれば良いが。
(ティエン。大丈夫かな……カグム達がついているから、ある程度は大丈夫と思うけど)
兵士不信が出てなければ、の話だが。
いやいや、今は自分の身の心配をするべきだろう。
ユンジェは不慣れな衣の裾を踏まないよう、細心の注意を払いながら、チャオヤンの後ろを歩く。四方は兵で固められているので、振り切って逃げることは不可能だ。
ここはおとなしくして、相手の警戒心を強めないようにするのが得策だろう。
石英の階段を上がり、四瑞が彫られた大扉を通る。
従僕と侍女が左右に分かれ、深く頭を下げて道を示す。その手には美しい刺繍の入った扇や、眩しいばかりの手持ち金銀灯籠が握られていた。
それらにどういう意味があるのか、ユンジェにはまったく理解ができないものの、力の象徴であることは察した。
ユンジェは見えてくる、美しくも冷たい男に顔を顰めたくなった。
織金の敷物の上で片膝を立て、口角を持ち上げて己を待つ姿が、とてもとても腹立たしい。なんで、自分はあの男に服従しなければいけないのだ。ああもう、このようにした麒麟に恨み言をぶつけてやりたい。
「ふふっ。これは驚きましたね。リーミン、貴方は本当に宝石の原石だったようで。まるで別人ですよ」
立ち止まったユンジェは、兵達と共に頭を下げ、心の中で繰り返す。自分はユンジェ、ユンジェ、ユンジェ、だと。
「それだけ貴方は汚れていたんでしょうね。泥まみれの子猿がよくぞまあ、ここまで美しくなったものです」
誰が泥まみれの子猿だ。
ユンジェは放っておいてくれ、と投げやりになる。
こちとら今日明日食べることで精一杯だったのだ。一々衣に金など掛けていられるか。それで腹が満たされるなら、喜んで衣に金を掛けている。
「まあ、ひとつ引っ掛かるといえば」
チャオヤンに背中を押され、ユンジェはセイウの前で両膝をついた。頭を下げる間もなく、顎を掬われ、視線を『所有者』に留められる。
「顔に華がないことでしょうか。いくら磨いても、貧相は拭えないのでしょう。遺憾ではありますが、こればかりはどうしようもない。従僕や侍女を責められませんね」
やかましい。セイウの顔に比べたら、誰だって貧相に見える。ユンジェは地団太を踏みたくなった。
(おとなしくしていれば好き勝手に言いやがって……お前より、ティエンの方が綺麗なんだからな。性格だってセイウより、ずっと優しくて、あったかいんだからな)
本当に嫌になってくる。これの懐剣になる、なんて。セイウのために走りたくない、守りたくない、怪我なんぞ負いたくない。
ユンジェは冷たい目から逃れるように、瞼を下ろして、きゅっと力を入れた。
「私がいつ、目を逸らして良いと許可をしましたか? リーミン」
目を瞑ることすら、自由が無いのか。
セイウに咎められ、ユンジェはそっと瞼を持ち上げた。愉快そうに己を見つめるセイウが、そこにはいた。すっかり所有者の顔である。
思わず、眼光を鋭くして相手を見つめ返す。怯えるとでも思ったか。
残念、ユンジェの心はまったく折れていない。敗北こそしてしまったものの、こんなことで屈するユンジェではない。
相手の目を見れば見るほど、気持ちが固まっていく。絶対に逃げ出してやる。
「リーミン、ここで服従を示しなさい。みなに私の懐剣であることを示しなさい」
嘲笑ってくるセイウに、ユンジェは衣を握り締めた。
(くそっ。こいつ、俺の心を読んでいるだろ)
煮えたぎる感情を噛み締めていると知りながら、兵や従僕、侍女の前で服従を示せ、とは。
本当に性格の悪い男である。半分でもティエンと同じ血が入っているなんて、にわかに信じられない。
しかし、今は黙って従うべきだ。感情で物を考えると、見出せる隙すら棒に振ってしまう。
「セイウさま。恥ずかしながら、俺は学びを受けたことがございません。どうか、やり方を教えて下さい」
さあユンジェ、賢い選択を取るために、ばかとなれ。
第二王子がなんだ。服従がなんだ。屈辱がなんだ。根競べなら負けたことなどない。自分の長所は辛抱強いところだ。
ユンジェはその場で平伏し、立ち上がるセイウに両手の甲を見せる。
男は右の足でそれらを踏む。
しかと踏まれていることを確認すると、足の甲に額を合わせた。どのようなことがあっても、自分は主君を裏切らない、主君に身を捧げると示すものらしい。
きっと、これは公でする行為ではないのだろう。屈辱極まりない行為なのだろう。尊厳を傷付けられる行為なのだろう。
ひしひしと感じる視線が、それを教えてくれる。
けれど、いいのだ。
「リーミンはセイウさまの懐剣です」
大丈夫なのだ。
「ユンジェの名を捨て、リーミンとして貴方様をお守りします」
何も変わらないのだ。
「どうか。この身朽ちるまで、貴方様のお傍に置いて下さいませ」
どんなに目に遭っても、ユンジェはいつだってそれに耐えてきた。今回も耐えるだけだ。
すべてが終わったら、綺麗に忘れたらいい。美味い物でも食べて、嫌なことは全部忘れてしまおう。その未来を勝ち取るためにも、今は我慢だ。
ユンジェの身柄は日の出と共に、東の青州へ移されるそうだ。
どうやらセイウは、一刻も早く懐剣を宮殿に飾りたいようで、出発の時間を早めるよう近衛兵のチャオヤンに命じていた。
第三王子ピンインの捜索は、兵を残して続行する模様。ピンインの首より、懐剣に気持ちが傾いているのだろう。
制限時間が定まった今、ユンジェは一刻も早く逃げ出す隙を見つけなければいけない。
(俺はまだ、正式な懐剣になったわけじゃない。逃げられるはずだ)
服従を示したユンジェは、宣言こそしたものの、まだ正式なセイウの懐剣ではない。鞘か完全に抜いて、それはまことのものと思っている。
ゆえにユンジェとセイウの関係は、ティエンとユンジェの関係に比べて薄く、いざとなったら後者の所有者のために走れるとユンジェは考えていた。
王族のセイウに剣こそ向けられないものの、きっと逃げ出すことくらいできるだろう。
(そのためにもまずは……この状況を乗り切らないと。もう勘弁してくれよ。服従を示すより、こっちの方がよっぽど地獄で屈辱的なんだけど)
ユンジェは疲労まじりのため息をついた。周りを見ては気が滅入っていた。
原因は従僕と侍女にある。夕餉が始まってから、これらがぴったりと張り付いて離れてくれないのだ。
それだけなら、落ち着かないの一言で済ませられるのだが。
ユンジェは遠い目で目前の料理を見つめた。そこには沢山の皿。織金の上に所狭しと置かれている。一週間分はあるのではないだろうか、この食事の量。
魚の切り身の咀嚼を終えて、お茶の入った器で喉を潤すと、傍にいた侍女が頃合いを見計らって、レンゲを口元に運んでくる。そこには白粥が掬われていた。
げんなりと肩を落とすと、他の侍女と入れ替わって、半分に割った焼売を箸で差し出してくる。後ろでは従僕達が果実茶を淹れていた。すごく忙しない。
(自分の手で食べたい)
ユンジェはひとりで食べられる手を持っているのだが、大人達はなぜか、箸を持つことを許してくれない。
箸を取ると「はしたない」と窘め、取り上げられてしまった。ゆえに、ユンジェに許される唯一の行為は、自分でお茶を飲む。それだけ。
(俺は赤子じゃねーんだぞ)
湯殿でも散々な目に遭ったというのに、夕餉でもこの仕打ち。
追い撃ちを掛けたのは、今しがた行った便所である。
なんと、従僕達がついて来たのだ。ユンジェはひとりで用を足すことすら許されないというのだろうか。
それとも、これが王族の常識? どちらにしろ、農民のユンジェにとって、ここは地獄であった。
あまりにもつらいので、ユンジェは平民である身分を告げ、世話を焼かれるような身分ではないと言った。遠回しに放っておいてくれ、と頼んだ。
返ってきたのは、明るい言葉であった。
「リーミン。確かに貴方の身分は平民でしょう。しかしながら、セイウさまの懐剣である以上、我らより高い身分にいる。どうぞ安心して下さい」
この返事に泣かなかったユンジェは、自分をとても強い人間だと褒めたくなる。ああ、身分を弁えろと言ってきた、謀反兵達の方が、ずっと優しいと思える。ユンジェは心の中で嘆いた。クソガキだと罵られていた、あの時間が恋しい。
隣を一瞥すると、真横でセイウが酒を口元に運んでいた。
至近距離にいるので、下手な行動は取れない。男は大層ご機嫌になっているが、酔い痴れているわけではない。
時折、ユンジェを観察して細く笑ってくる。目論見を抱えているのは一目瞭然である。肚の黒い男だ。
目が合う度に、へらりと馬鹿っぽく笑みは返しているが、はてさて先に食われるのはどっちか。
(やりにくい相手だな。浮かれているくせに、冷静な目を持っているんだから)
横から手が伸びてきた。目を向けると、髪を触られる。
「リーミン。とても美しくない髪ですよ。なぜ、短くしているのです」
そういえば、王族は髪を伸ばし、それを大切にする風習があるとティエンが言っていたっけ。ユンジェは思い出に浸りつつ、簡単に返事した。
「お金にしたからです。食べるものに困っていたので」
「愚かですね」
なぜ、そうなる。この男はユンジェに飢え死にしろというのか。
「人間の髪は麒麟がたてがみを切り、与えたものだと云われているのに。リーミン、私の許可なしに切ってはなりませんよ。美しくないものは手元に置きたくないので」
いっそ手放してくれないだろうか。
飾られるより、ずっとマシな生活ができそうだ。泥でも浴びて汚れてやろうか。ユンジェは内心、めいっぱい毒を吐き、表向きは素直に頷いた。
(……さっきから気になってたけど、妙にぴかぴかだな。この皿。鏡か?)
セイウの目を気にしつつ、ユンジェは、豚肉が盛られている皿を自分の方へ引き寄せた。侍女に叱られたが、どうしても好奇心が抑えられない。つい皿の裏側を確認してしまう。
「リーミン。それは銀で出来た皿です。王族はみな、これで食事をします。なぜだと思います?」
ユンジェは銀の皿をじっと見つめる。
単に美しいから、という理由だけなら、セイウはこんな質問を投げないだろう。きっと理由があって、銀を使用しているのだ。
周りをよく見渡せば、皿だけでなく、箸も銀であることに気づいた。となれば、銀でなければならない理由があるのだろう。
「口に入れる食べ物に腐ったものがないかどうか、銀で調べる? いやでも、王族は金持ちだし、腐ったものなんてまず買いそうになさそう……うーん」
「おや、良い線をいってますね。意外と頭は回る子でしょうか」
意外は余計である。ユンジェは鼻を鳴らしたくなった。
「銀の食器にしている理由は、料理に毒が入っていないかどうか確認するためです。入っていれば、皿は変色します」
「毒が入っていることがあるのですか?」
「王族の間で暗殺は日常茶飯事のこと。この身分を狙い、従者に化けた間諜が毒を忍ばせることも多々あります。今いる者達の中に、毒を入れる者もいるやもしれません」
不敵に笑うセイウと視線を合わせないよう、兵士や従者達が顔を背けた。王族に関しては、まるで知識がないので、ユンジェはつい相槌を打ってしまう。
「念のため、料理に毒が入っていないかどうか、毒見役もいるのですよ。食器だけですべてを見抜けると思いませんからね」
「じゃあ、その毒見の人が一番偉い存在なんですね」
「偉い?」
「だって毒見をする人が、良しといえば、その料理はセイウさまの口に運ばれるわけでしょう? それはとても責任があり、偉い存在に俺は思えます」
下手をすれば、毒見役が料理を食べる振りをして、毒を仕込むことだってできるのだ。そう思うと、やはり毒見役は偉いのだろう。ユンジェはしみじみ頷く。
すると、セイウは一思案し、近くにいる近衛兵のチャオヤンに命じた。
「後ほど毒見役の者達を集め、それの形態を私に伝えなさい。場合によっては、毒見役に付ける兵の数を増やします」
心配事があるのだろうか。
ユンジェは二人のやり取りを眺めていたが、ふとセイウの帯に目を向ける。そこには懐剣が差さっていた。まだ、ユンジェはそれを授かっていない。それを見る度、なんとなく呼ばれている気がする。
「気になりますか?」
探りを含んだ問いに、ユンジェは少し唸って首を傾げた。
「俺はこの都に着いた時から、いや着く前から、懐剣に呼ばれていました。それが、よく分からなくて。なんでだろうと思って。すでに別の方の懐剣でしたから」
これは純粋な疑問であった。
なぜ、ティエンの懐剣であるユンジェは、セイウの懐剣に呼ばれたのだろう。麒麟は己に、ティエンの守護剣となれと命じたのに。
「それは貴方が麒麟の使いだからですよ。リーミン、貴方は己の役目が何なのか知っていますか?」
「えっ。いや、所有者を守護して生かすため、としか」
ティエンは言っていた。
王族の所有する懐剣を抜いた者が、麒麟の使いとなり、所有者に関わる使命を背負う、と。
ユンジェは麒麟にティエンの守護を任されたので、こんにちまで懐剣を抜いていた。それに迷いはなく、彼を生かすためなら業も背負った。
正直に話すと、セイウは「無知は罪ですね」と言って冷笑する。少しだけ、眉を顰めてしまった。ティエンの悪口は聞きたくないのだが。
「麒麟の使いが何たるのか、まったく分かっていない。なんて、愚かな。宝の持ち腐れとはまさにこのことでしょう」
セイウが懐剣を静かに抜くと、それを垂直に立て、光り輝く刃を見つめた。
「麒麟の角を磨き上げ、刃にした麟ノ懐剣は、麟ノ国王族にしか抜けないもの。加護の宿った懐剣は、我らに国を守護する使命と地位を与える。我らは国のために生涯を捧げる」
それが、王族の定められた一生だとセイウ。
「しかしながら、麒麟はある時代に、王族と無関係な使いを寄越します。そう、リーミン。貴方のようにね」
使いの出現は、新たな時代の兆し。それは時代を終わらせる者とも、流れを変えるための者とも、国を決壊させる者とも云われている。
なぜか。麒麟の使いを持った王族こそ、国の命運を分ける者だからだ。
国を亡ぼすのか、それとも国を変えるのか、はたまた国を創るのか。それは選ばれた王族次第。
また麒麟の使いは王族の隷属。
その王族に仕え、身を挺して守り抜く。それを新たな時代の王とするために。その者を王座に導くために。今の時代を壊すため。
「使いに導かれた王は、黎明期の王として君臨します。我々王族の間では、麒麟と使いの者に見定められた、王の中の王と敬意を表し『黎明皇』と呼んでいます」
セイウは呆けるユンジェに、目を細めて笑う。
「リーミン。私が貴方に『黎明』と名づけたのは、そういう意味合いがあるからなんですよ。貴方の使命は、単に所有者を守るためではない。生かすためでもない。新たな時代の王を導くために、存在している」
一般的には懐剣を抜いた者は、所有者に関わる使命を持つ、と云われているが、真の姿は黎明期の王を導く者だ。
ちなみに、これは正当な王族のみが知っている伝承。
離宮に幽閉されていた愚弟が知らないのも無理はない。黎明皇のことなど、あれが知ったところで、王になれるわけがない。教えたところで時間の無駄だ。
「まあ、実際は愚弟の懐剣に使いが宿ってしまった。こればかりは、私でも理解しかねます」
そんな。ユンジェは途方に暮れてしまう。
では、自分が今までティエンを生かそうと身を挺したのは、彼を王とするため? 使命に駆られて走っていたのは、彼を王座に導くため? ティエンが王座を拒んでいることは、誰よりユンジェが知っているのに。
「うそだ。俺は王族も何も知らない農民だよ。王座に導くなんて、そんなの……」
敬語も使えないほど混乱するユンジェに、「本題です」と言って、セイウが垂直に持っていた懐剣の切っ先をこちらに向ける。
「貴方は愚弟の懐剣を抜いた者。その一方で、私の懐剣に導かれている。その答えはひとつ。私にも王の器があるからです。貴方は本能的に、迷っているのではないでしょうか? 守るべき所有者を」
そんなわけがない。ユンジェはティエンを精一杯守りたい。少なくとも、性格の悪いセイウよりかはティエンの方がずっとずっと良い。
「貴方は新たな時代の王を導く者。その使命は生涯を懸けても、果たしたいはずです」
「わ、分からないよ。俺は今まで守ることで一杯いっぱいで」
「人間でいようとするから、分からないのです。リーミン、貴方は懐剣。心は捨てなさい。人間のリーミンはとても美しくない」
セイウが欲に駆られたのは、懐剣として振る舞うユンジェである。
恐れも痛みも人間も忘れ、目の前の兵を向かっていく姿は、とても美しく、気高く、興奮する。あれは何度も拝みたい。毎日見たって、きっと飽きることなどないだろう。
セイウは繰り返す。目を白黒にするユンジェに向かって、人間の己は捨てろ、と。
「懐剣が心を持てば、主君を守れない。それは分かっているでしょう? 捨てなさい。人間の己を。さすれば、貴方の真の使命も見えてくるはずですよ」
「真の使命……」
「その様子だと、ピンインとの関係も成立させていないのでしょうね。いや、あれが成立させるやり方など知るはずもない、か」
近衛兵のチャオヤンを呼び付けるセイウは、彼に耳打ちをして、何かを指示する。チャオヤンは早足で銀の盆を持ってきた。その上には、金の杯がのっている。
「まこと所有者と懐剣の関係を成立させるには、三つの主従の儀が必要です」
そう言ってセイウは懐剣を鞘に収めると、ユンジェの前に置いた。
「さあ、リーミン。まずは懐剣を抜きなさい」
主従の儀一つめは、選ばれた使いが所有者の懐剣を抜くこと。
ユンジェは逆らえず、それから鞘をすべて抜いた。あっさりと抜けたので、思わず偽物ではないか、と疑ってしまう。
「次の儀は、すでに先ほど終えました」
主従の儀二つめは使いが服従を示すこと。
「最後がこれ」
セイウが懐剣をユンジェの手から取り上げると、右の人差し指に切っ先を当て、小さな傷を作る。
ぷっくりとにじみ出てきた血を確認し、彼は金の杯に三滴、血を落とした。
「三つめは所有者が使いに血の杯を与えること。これにより、主従の関係が成立します」
杯を手渡され、ユンジェは身を震わせた。これを飲んでしまえば、セイウとの関係が成り立ってしまう。飲んでしまえば、自分はどうなってしまうのだろう。
ユンジェは逃げ出したくなった。本能が警鐘を鳴らしている。これはとても、とても、まずい。
杯を手放そうとすると、背後に立っていたチャオヤンによって止められる。
彼は有無言わさず、「逆らってはいけない」と、ユンジェを咎めた。服従を示したからには、それ相応の態度を見せろとのこと。反論したい。あんなもの建前に決まっているではないか。
恐る恐る杯の中を覗き込む。透明な液体の中に、うっすらと赤い筋が浮かんでいた。
こんなものを飲んだら腹を壊しそうだ。嫌悪感が全身をめぐる。いくら好き嫌いのないユンジェでも、こればかりは飲めそうにない。
人の苦悩を楽しげに見守っているセイウが軽く指を鳴らす。悲鳴が聞こえた。前を向くと、ひとりの若い侍女が引き倒され、兵に柳葉刀を向けられていた。
「血の杯を飲むリーミンのために、華やかな芸を見せるのも一興でしょうか」
ひえ。柳葉刀を見た侍女が青ざめた顔で、ユンジェに助けを求めてくる。何から何まで腹立たしい男だ。血の杯を飲ませながら、血を見せる芸など、悪趣味にも程がある。
ユンジェは杯を握り締めると、セイウに芸を止めてくれるよう懇願した。彼は誠意を見せたら止めると言ったので、急いで杯に口をつける。
初めて酒は、喉や食道を焼き、思わずむせ返りそうになった。
それをぐっと堪え、一滴残らず飲み干すと、空であることを示すために杯を逆さにして置いた。それによって侍女に向けられていた柳葉刀が鞘に収められる。
「これで私とリーミンの関係が成立しました。あとは、リーミンから愚弟の懐剣を手放させるだけ」
麒麟の使いはひとつの懐剣しか持つことができない。あれを討たねば、己の懐剣を持たせられない。セイウは兵達に一刻も早く、第三王子ピンインを探し出すよう命じた。
「ふふっ。気分はどうです? リーミン」
最悪だと悪態をついてやりたいが、それすら答えることが難しい。
ユンジェは激しくむせていた。己の中で何かが荒れ狂っている。がんがん、がんがん、と音を立てている。これは一体。
「音が聞こえる。がんがん、がんがんって。なに、これ。これはなに」
何も分からず、ただただ頭を抱えて蹲ってしまった。
夕餉を終えたユンジェは、割り当てられた部屋の寝台で、まだ頭を抱えていた。
周りの従僕や侍女が声を掛け、口直しのお茶や点心を用意してくれても、首を横に振るだけ。その代わり、水が欲しいと頼み込み、それを何度も胃袋に流し込んだ。
ユンジェの様子を見たチャオヤンは、従僕らに今日はもう下がって良いと伝え、頭を抱える自分にもう休むよう伝える。
「召し物は自分で替えられるか? 無理なら従僕に声を掛けても良い」
「変なんだ。音が頭の中でずっと。ずっと。がんがんと、ずっと、ずっ……と……」
うわ言を呟くユンジェに、チャオヤンは哀れみの目を向け、「そうか」と返事すると、軽く頭を撫でて立ち去る。
遠ざかる足音。見張り兵に指示する声。そして、消えゆく音――ユンジェはパッと顔を上げ、忍び足で扉に耳を当てた。
よしよし。従僕も侍女も、近くにいないようだ。
(やっと、ひとりになれた。死ぬかと思った)
ユンジェは大きく伸びをすると、凝った肩を揉みほぐす。じつは、随分前から正気に戻っている。頭の中で音が鳴っていたのも、ほんの少しの間であった。
(まっ。あれだけ、おかしな態度を取れば、ひとりにするよな。誰も関わりたくないだろうし。いやぁ、良かった。セイウの部屋に連れて行かれなくて。さすがにあいつの前だと、成す術がないからな)
とはいえ、まだ気分が悪い。ユンジェは舌を出し、血の混ざった酒の味を思い出しては顰め面を作る。
(くそっ、気色の悪い酒を飲ませやがって。吐けるもんなら吐きたい)
水を何度も飲んだのは、少しでも酒を薄めようとしたからだ。さすがに、これ以上飲むと水腹になるので、水は控えておくが。
「さあて、と」
ユンジェは上唇を舐めて、割り当てられた部屋を見渡す。
頭陀袋も着ていた衣も取り上げられてしまったので、今の手持ちは縄で何重にも縛られたティエンの懐剣と、同じくティエンから預かっている麒麟の首飾りのみ。お馴染の布縄も紐も目つぶしも手元にない。
しかし、贅沢な部屋には物が溢れている。
ユンジェは口角を持ち上げ、さっそく側らにあった衣装箪笥を開ける。
思わず口笛を吹いてしまった。大人二人分は入れそうな大きな衣装箪笥には、綺麗な衣が隙間なく詰められている。これだけあれば、布縄や布紐もこしらえることができそうだ。
お次に飾りの花瓶を手に取る。陶器で出来ているそれを見つめ、軽く指で叩いた。床に落とせば、簡単に割れてくれそうだ。
「あ。これは確か燐寸って奴だ。ライソウが使っているの見たことあるぞ」
据え置き提灯の隣に放置されている、燐寸の箱を手に取る。有り難く頂戴しよう。
鏡台からは櫛と紅、手鏡。寝台の隣にある台からは筆に、お茶っ葉。ハチミツの入った小壷。かりんとう。あまり役立ちそうにないものも、寝台の上に置いて準備をしていく。
(高い。飛び降りることは無理だな。兵もいるし)
擦り硝子の窓を開き、ユンジェは眉を顰めた。また硝子を触り、初めて触れる素材だと、それをよく観察する。陶器よりも脆そうだ。
衣装らを歯で裂き、捩じって結んでいく。
ひも状に繋げると、結び目に水差しを傾けて強度を強める。絹は水を掛けると縮むので、なるべく絹が結び目にならないようにしておく。
ちなみにこれは衣を着せてもらった時に侍女が教えてくれた。絹は水に弱いから、お茶を零さないように、と注意を受けていたのである。
水が無くなると、ユンジェはそれを衣装箪笥へ隠した。寝台の上に広げていた物も四面に破いた衣装の上に置き、小分けにすると丁寧に畳んで、同じ場所に隠す。
(あとは)
花瓶を裂いた衣装で包み、寝台の下へ置く。
少しだけ衣を乱すと、空っぽの水差しを持って、のろのろと部屋を出た。それを持ってうろついていると、間もなく見張り兵に見つかった。
ユンジェは自分から兵に声を掛け、水が欲しい旨を伝える。とても喉が渇いているのだと、同情を煽るように言えば、従僕に頼んで来ると言って、水差しを受け取った。
「リーミン。お前は部屋に戻りなさい。水はすぐに持ってくるから」
こくこくと頷き、ユンジェは部屋へ戻る。その際、兵がついて来たが、おとなしく部屋に戻った姿を見送ると、静かに扉を閉めてしまう。
足音が遠ざかったと同時に、先ほどの花瓶を引っ張り出した。
そして衣装に包んだまま、力の限り床に叩きつける。衣装の中で形が崩れると、布に包まれた懐剣で、何度もそれを殴った。時折、扉の方を見つめ、音を聞かれていないか確かめておく。
「お水を持ってきましたよ。リーミン」
割れ崩れた物を衣装箪笥に隠したユンジェは、部屋を訪れる従僕に駆け寄り、水差しを受け取った。
後ろには先ほどの見張り兵が立っている。己の様子でも見に来たのだろうか。
しかし。それにしては、向こうの回廊が騒がしい。
見張り兵達が下の階へおりている。何か遭ったのか、ユンジェが聞くと、「なんでもありません」と、従僕が簡単に答える。
「貴方はお休みなさい。明日は出発が早い。このままだと支障が出てしまいます」
すると。見張り兵が男に頼みごとをする。
「リーミンが寝付くまで、傍にいてやってくれ。念のため、もう数人、声を掛けてくる。この騒動だ。人の目は多い方が良い」
人の目が多い方が良い。
やはり何か遭ったのだろう。ユンジェは気になって仕方がない。もし、その騒動にまぎれることができるのならば、利用しない手はないだろう。
とはいえ、これは芳しくない展開だ。
従僕が部屋にいては身動きが取れなくなってしまうではないか。せっかくひとりになれたのに。追い出す手を考えないと。
「さあ、リーミン。お部屋に戻りましょう。まずはお召し物を替えましょうね」
ユンジェは冷汗を流す。寝衣はすでに見るも無残な姿になっている、なんて口が裂けても言えない。
その時であった。
従僕らを呼ぶため、踵返した見張り兵がうめき声を上げて倒れてしまう。
何事か。ユンジェと従僕が振り返った瞬間、扉の手前にいた従僕が息を詰め、その場に崩れる。血の水たまりが目についた。彼らが襲われたのは明白であった。
恐ろしさに足を竦めていると、向こうにいた人間に首を掴まれる。強引に部屋に連れ込まれるや、背後から刃物を当てられた。確認も暴れる間もなかった。
(な、なんだよ。いきなり)
身を震わせるユンジェに、「おとなしくしろ」と、低い声で脅される。
「ここに、てめーくらいのガキがいるはずだ。どこにいる。懐剣って呼ばれているガキだ。下手なことすると、命はないと思え」
聞き覚えのある不機嫌な声に、ユンジェは目を見開く。もしかして。
「ハオ? その声はハオなの?」
希望を胸に抱えて、その人間に尋ねると、「は?」と、間の抜けた声が聞こえた。
やっぱりそうだ。絶対にそうだ。ユンジェは緩んだ腕を押し上げ、振り返って満面の笑みを浮かべる。
そこには、呆けた顔で己を見つめてくる、謀反兵のハオが立っていた。
「ハオじゃんか! 来てくれたんだな!」
大喜びするユンジェを、ただただ見つめ、彼が指さした。
「お前……まさか、クソガキ?」
「どうしたんだよ。寝ぼけてるのか? ハオを鍬で殴り飛ばした、農民のクソガキだよ」
やっと信じたのだろう。ハオは素っ頓狂な声を上げ、ユンジェに「お前。誰だよ!」と言って、まじまじと凝視してくる。
「まるで別人じゃねーか。てめ、少し見ない間に何があった。は? 化けてるわけじゃねーんだよな? なんだ、その小綺麗な姿。貴族か!」
「贅沢の力ってすごいよな。俺も鏡を見ると、他人に思えて気持ちが悪くなるよ。でも、中身はちゃんとしたクソガキだから。リーミンだから」
「リーミン?」
「なんだよ。クソガキの名前も忘れちまったのか」
呆れるユンジェに、「いやお前」と、ハオが戸惑った様子を見せる。どうしたのだろうか。ユンジェは首を傾げた。
「取りあえずハオ。懐剣の紐を切ってくれ。セイウがティエンの懐剣を使えなくしているんだ」
「あ、ああ。待ってろ」
双剣のひとつで懐剣の紐を切ってくれたおかげで、ユンジェはティエンの懐剣をふたたび鞘から抜くことが叶った。
やはり懐剣といえば、セイウの懐剣より、ティエンの懐剣だと心の底から思う。
「下が騒がしいようだけど、この騒動はハオ達が? ティエンもいるの?」
帯に懐剣をたばさみ直すと、扉の向こうを警戒しているハオに視線を投げた。
「いや、今回はおとなしくしてもらっている。あー……おとなしくしてもらってるかな」
「目が泳いでいるけど」
ハオが目を逸らし、咳払いをした。
「とにかく、これはカグム率いる謀反兵の暴動だ」
「どういうこと?」
「説明している暇はねえ。カグム達がオトリになっている今のうちに、客亭を離れるぞ。ちっ、それにしてもなんて兵の数だ」
回廊から無数の足音。
途絶えることのない足音に、ハオが舌打ちをしている。
音で判断する限り、兵は未だ上の階にもいる様子。彼は見つからないよう、回廊を駆け抜けたいようだ。
そこでユンジェは自分に考えがあると言って、衣装箪笥へと走った。
衣装に包んだ道具を、腹に巻きつけると、お手製の縄を取り出す。それを柱に括りつけ、しかと固結びをすると、半開きの窓に放ってハオに声を掛けた。
「ハオ。合図で衣装箪笥に飛び込めよ。隠れるぞ」
「おいおい。それを使って下におりるんじゃねーのかよ」
「下で兵が動き回っているのに、悠長に縄でおりれるか。下手すりゃ見つかるぜ。よし、いくぞ」
部屋を飾る壷を掴むと、ユンジェはそれを半開きの窓目掛けて投げつけた。脆い擦り硝子が張られた窓は、甲高い音を立てて割れる。
それを合図にユンジェは、ハオと大きな衣装箪笥へ飛び込み、じっと息を潜めた。
音を聞きつけたのだろう。
耳をすませると、扉の開閉音や兵の騒ぐ声、侵入者だの、リーミンがいないだの、窓から連れて行かれただの、たくさんの会話が聞こえてくる。
それらが消えると、ユンジェとハオは衣装箪笥を開け、慎重に部屋から出た。閑散とした回廊を見る限り、兵達の殆どは下の階におりたようだ。侍女や従僕すら見当たらない。
見掛けても、一人ふたりならば、ハオが伸してくれるので問題は無かった。
(股の裂けていない衣は走りにくいな)
ユンジェは回廊の窓を一々覗き込み、行き交う兵の数を確認する。内、ひとつに椿の木を見つけたので、二人は窓枠を飛び越え、太い枝に乗った。
地上を見下ろせば、松明を持った兵が三人、うろついている。
「三人か。やれねーことはねえが、賭けになりそうだな。不意を突ければ良いんだが」
「隙を作ればいいの? 俺、すごく得意だよ」
いたずら気に笑うと、衣装で包んでいる物を取り出す。それは先ほど砕いた花瓶であった。
「それ……まさか」
顔を引き攣らせるハオを余所に、ユンジェは兵達が固まった頃合いを見計らい、軽く指笛を吹いて、兵達の注意を木の上に向けさせた。
一斉に視線が持ちあがった瞬間、ユンジェは結び目を解いて、砕いた花瓶を兵達目掛けて振り撒いた。驚きの声は、木から飛び下りたハオの手によって揉み消される。
双剣で切られた兵達が動かなくなったのを確認し、ユンジェも枝から枝へと伝い、木から飛び下りて、彼と茂みの中に隠れた。
「相変わらず、卑怯な手を使うよなお前。敵なら真っ先に斬りつけたくなるぜ。って、何してやがる」
ユンジェは失った花瓶の破片の代わりに、砂をかき集め、衣装の切れ端で包んだ。
「新しい目つぶしを作ってんの。花瓶で代用してみたけど、あれは使い勝手が悪いな。やっぱり細かい奴じゃなきゃ。んー、けど砂だけってのも心もとないな。効けばいいけど」
「次から次に……怖ぇガキだな、おい」
遠い目を作るハオを余所に、ユンジェは腹に巻きつけている衣装から手鏡を取る。それを茂みの外に出して、前後左右を確認した。
右の暗い闇夜に、松明がひとつ、ふたつ。こちらに兵が近寄ってきそうなので、手鏡を銜え、今しがた詰め込んだ砂の包みの口をしかと捩じり、強度を高めて、向かい側の部屋の窓へ投げた。
硝子の割れる音により、兵達が移動する。
よしよし、上手くいった。砂もまとめてしまえば、立派な鈍器になる。硝子を割ることなど容易い。
「今のうちに移動しよう。ハオ、どこに行けば……どうしたんだよ」
額に手を当てているハオに、頭でも痛いのか、と尋ねると、彼は小さく嘆いた。
「ほんとに怖ぇんだけど。よくもまあ、そんなに悪知恵が出るもんだ。ティエンさまの性格が強くなるのも分かる気がする……できることなら二度と敵にしたくねえ、このクソガキ」
「俺はリーミンだってば。いい加減、名前で呼んでくれよ」
味方で良かったと唸るハオに、今はそんなことを言っている場合ではないと呆れ、ユンジェは彼に早く移動しようと促した。
「懐剣がいないことを知ったらセイウが動く。俺、あいつには逆らえないんだ」
客亭から騒々しい声が聞こえる。
どれもこれも、リーミンを探すもの。あれほどの騒ぎなのだからセイウも、騒動を耳に挟んでいるはずだ。
ああ、探す誰も彼もがリーミンと呼ぶ。呼び続ける。うるさいったらありゃしない。
「馬鹿だろう。てめぇ」
前触れもなく、ハオに罵られた。
どうして馬鹿呼ばわりされなければいけないのだ。ユンジェが頬を脹らませると、彼は軽く舌を鳴らし、外衣を靡かせて茂みを飛び出した。
「来い、ユンジェ」
初めて名前を呼ばれた。
ユンジェは驚き、目を見開いてしまうが、すぐ頬を緩めた。なぜだろう。認められた気分だ。とても嬉しい。
前を走るハオの背を見つめ、人知れず笑みを零していると、横目で見る彼がまた一つ舌を鳴らして、盛大に悪態をつく。
「くそっ。やっぱ、てめえなんざ、ただのクソガキだ。こんなことで喜んでるんじゃねーぞ。こんなクダラナイことで。気付いてねーのかよ。ばかがっ」
前方に兵が現れると、双剣を抜いたハオが邪魔だと言って斬り捨てる。
真っ向突破を得意としているようで数人に囲まれても、間合いを取り、ユンジェを背に隠して右の剣を逆手に、左の剣を順手に持って、流れるように兵の剣を弾いて斬り崩す。
すごい。ユンジェは目を瞠った。
彼はこんなにも強かったのか。いつも、不意打ちでしか勝負をしたことがなく、何かと打ち負かしていたせいか、勝手に彼を弱いと決め込んでいた。
けれど、本当のハオは真っ向勝負に強い人間なのだ。不意打ちや卑怯が不手なだけで、そんじょそこらの人間よりも腕が立つ男なのだろう。
ユンジェの背後に兵が回り、刃を振り下ろす。誰かが怒鳴る。やめろ、それはリーミンだと。
(避けないと)
しかし、不慣れな絹衣は大変動きにくい。避けられない。
「はっ、勘弁しろよ。そのガキが怪我したらな」
ハオに突き飛ばされた。顔を上げれば、己を庇い、双剣で受け止める彼の姿。
「また俺が面倒看ねーといけねぇだろうがっ!」
兵の剣を押し上げ、二本の剣で人ごと闇を裂く。返り血を浴び、なおも彼はひた走る。後ろに結っている短い三つ編みを靡かせて。
「ユンジェっ、こっちだ!」
ハオはユンジェを裏の外壁まで誘導した。
垂れさがっている藁縄は、あらかじめ用意されていたものだろう。木に巻きついている藁縄を伝いのぼり、それを切り落として、二人は客亭から離れる。月明かりを頼りに、きらびやかな都を駆け抜けていく。
逃げる足はやがて曲線を描いた、橋脚連なる木造りの橋の下で止まった。
そこは都の内に流れる川に架かった橋で人の目が多い。川も賑やかだ。荷を運ぶ小船が提灯をぶら下げながら、川面を切るように進んでいる。
しかし、ハオは敢えて橋の下に身を隠した。
盲点を突こうという魂胆だろう。
確かに夜の橋の下は暗く、夜目も利きにくい。目の前に川が流れているので、見張る方向も左右と少なく、息を整えるには持って来いの場所だ。
一方で挟み撃ちにされる危険性もあるが、その時はその時だ。ユンジェは橋の陰に隠れ、ハオとひと息つく。
「ここでカグム達と落ち合う約束になってる。あいつら、無事に撒けるといいんだが」
できる限り、身を屈めて陰と一体になるハオを真似て、ユンジェもその場に座った。
「さっきの話だけど。謀反兵の暴動って?」
「てめえを取り戻すために、カグムが考えた策だ」
表向き、いまの王政に不満を持った兵が王族を襲い、それが暴動を起こしている内に、ユンジェを奪い返す作戦だそうだ。
ホウレイの放った間諜は国のあちらこちらに存在している。カグムはこの都に潜んでいる間諜の手を借りて、この暴動を決行したという。
(カグムも言っていたっけ。陶ノ都にも間諜がいるって)
ユンジェはひとつ相づちを打った。
「ティエンは無事? あいつ、セイウに命を狙われているけど」
「無事どころか、大暴れだ。てめえがセイウさまに連れて行かれた後の、ティエンさまは本当に大変だったんだぞ。カグムの野郎と、一悶着起こす騒動にまで発展したんだからな」
疲れ切った声を出すハオは、遠い目を作って、「なんで捕まるんだよ」と責めてきた。
それに関しては、ユンジェのせいではない。
寧ろ、自分は都に行きたくないと主張した人間なので、責められるのは筋違いというものだ。
げんなりと肩を落とすハオは、当時のことをぽつぽつと語る。
「都の間諜は俺達に、快く手を貸してくれた。間諜の最大の目的は第三王子ピンインさまを、ホウレイさまの下へ連れて行くことだから、遂行の手伝いも辞さない」
そこまでは良い。
問題はカグムの案に、ティエンが自分も行くと名乗り出たことだ。
これは大問題であった。
カグムはあくまで、起こす暴動を【謀反兵の不満】によるものと仕立てあげたかった。都に潜伏している第三王子ピンインとはべつに、騒動を起こしたかったのである。
もし、第三王子ピンインが動いてしまえば、明確に【懐剣の奪還】だとばれてしまう。
そうすれば、セイウの兵達は懐剣のユンジェの警備をがちがちに固めてしまう。ゆえにティエンには大人しくしてもらいたかった。
なにより、ティエンの身に災いが降りかかるのだけは避けたい。これがカグム達の意見であった。
けれども、ティエンも負けじと主張するのだ。
たかが謀反兵数人の暴動で、兵達の注目を一斉に此方へ向けることなどできない。少々の兵を寄越して、後は守備に回るはず。それでは暴動の意味が無い。
だったら第三王子ピンインをオトリにし、より多くの兵を動かした方が良い。上手くいけば、兄も引きずり出せるやもしれない。あれは己の命が欲しい者なのだから。
「カグムとティエンさまの口論が勃発したのは、時間の問題だった。凄まじかった。誰も止められなかった。恐ろしくて口も挟めねーんだよ」
ユンジェは冷汗を流した。よりにもよって、カグムとティエンがぶつかったのか。
結局、ティエンが折れなかったので、カグムは仲間内に取り押さえさせ、半ば強制的に決行したのだという。
今頃、彼は間諜の隠れ家に軟禁状態だろうとのこと。
ユンジェとハオは顔を見合わせ、地面に目線を落とす。しばし沈黙が流れた。
「助けてくれて、ありがとうな」
ユンジェは話を替える。
ティエンのことは再会した時に、うんと悩もう。心配を掛けたことも謝らなければ。連行されたことは不可抗力であるものの、彼に多大な心労を掛けたこともまた事実。詫びは必要だろう。
同じようにハオ達には感謝を述べなければ。
「てめえが懐剣じゃなきゃ、普通に見捨ててたよ。俺はガキなんざ大嫌いなんだ」
ぶっきら棒に言い放つハオが、しっしっと疎ましそうに手で払ってくる。礼は不要らしい。
けれど、ユンジェは彼等に助けられている。それは今回だけに限った話じゃない。先ほど庇われたこともあるので、やっぱり、ありがとうは言っておくべきだろう。
「ハオって意外と強いんだな。見直したよ。俺、お前のこと弱いと思ってたから」
小生意気に笑ってやると、「ブッ飛ばすぞ」と、耳を引っ張られた。痛い。
「弱く見えるのは、てめえが卑怯な手ばっか使うせいだろうが」
しょうがないではないか。
卑怯な手を使わないと、ユンジェに勝ち目などないのだから。
解放された耳をさすっていたユンジェだが、差し込んだ月明かりで、ハオが傷を負っていることに気付く。双剣を持っていた両手の甲が切れていたのである。
視線を感じ取ったハオが、さっさと外衣の中に両手を隠してしまう。
「それ、俺を庇った時に?」
「あんだけ兵を相手にしてたんだ。いつ負ったかなんて忘れた」
うそだ。ユンジェは彼の強さを目にしている。きっと、己を庇った時に切ったのだろう。
「ごめん」
重くなる空気に耐えられなくなったのか、かすり傷だとハオが怒鳴ってくる。そんなことで一々落ち込むなと叱咤するが、罪悪感はこみ上げるばかりだ。
ふとユンジェは思い出したように、腹に巻いていた衣装を解くと、道具の中からハチミツの入った小壷を手に取った。
「ハオ。ハチミツがあるぜ。確かこれって、塗り薬の代わりになるんだよな?」
「てめ……なんで、そんな高価なもん持ってやがるんだ」
「部屋にあったんだ。お茶っ葉や筆、櫛、紅なんかもあるよ。燐寸も持ってきた。使えそうなもんは、片っ端から持っていこうと思って。ほら、手を出してよ」
あからさまに嫌な顔をして、ユンジェの厚意を拒絶するハオだが、こちらも譲る気はない。無理やり手を引っ張り出すと、傷に薄くハチミツを垂らした。
本当は水で傷を洗った方が良いのだろうが、川の水が澄んでいるかどうか、些か不安であるため、洗うことは断念した。