この名をユンジェにつけてもらってから、生きる心を持ち、生きる自分を持ち、己を認めてくれる人間に出逢えた。
ユンジェを筆頭に、トーリャやリオ、ジセンが自分の生を願い、親しくしてくれた。身分問わず友になってくれた。また一緒にご飯を食べようと言ってくれた。
それがどれだけ、ティエンを救ってくれたことか。
「あの子が死にそうになっているのにっ、なぜ私はじっとしておかなければならない。私はいつも、あの子に救われたというのに。あの子は私と一緒に生きたいと言ってくれたのに、なぜっ……」
カグムはティエンにユンジェを見殺しにしろ、と言いたいのか。
すると彼は、そうではない、とやや声音を強くした。
「ユンジェを見殺しにするわけではありません。しかしながら、夜の山は危険だと、先ほどハオも申し上げたでしょう。貴方様に何か遭っては遅いのですよ」
「計画が狂うからだろうっ! 貴様らは私を、私自身を必要とはしていないっ」
そう、目の前のカグムだって、ティエンを必要とはしていなかった。はじめて出来た友だと心から信じていたのに。
十二から十八の誕生日まで、カグムはずっと傍にいてくれた。
お忍びで町に連れて行ってくれたり、弓を教えてくれたり、庶民のお菓子を買って来てくれたり。近衛兵として傍にいながら、友として接してくれたカグムのおかげで、暗い毎日に火がともった。
なのに。ティエンはカグムに死を望まれてしまった。父や母、兄弟達と同じように。それがどれほどの絶望を与えたか、この男は知る由もないだろう。
もしかするとティエンの知らないところで、カグムはずっと憎んでいたのやもしれない。呪われた王子である自分のことを。
だったら、なぜ六年もの間、友のように接してきたのだろうか。ティエンの気持ちを弄んでいたのだろうか。見えないところで、慕う己を嗤っていたのだろうか。
心から慕っていたからこそ、裏切られた憎しみも悲しみも計り知れないのだ。どうしたって許せそうにない。
「貴様は知らないだろう。谷よりも深い悲しみを、谷底より暗い絶望を」
もう止められない。一度堰切った感情は濁流のように、己の中で暴れ狂う。この男だけは憎んでも憎み切れない。
「まことの孤独は死よりも恐ろしい。それを、味わったこともないくせにっ」
短剣を抜く手も、頬に伝う滴も熱い。もうぐちゃぐちゃだ。
「ピンインさまっ」
「何が一年も探していた、だ」
「落ち着いて下さい。ここでは」
「あの夜、声を奪い、逆心を向け、強く私の死を望んだくせに」
「ピンインっ!」
「お前を友だと信じていたっ、私の心を返してくれ――っ!」
突きつけた短剣が、半分ほど抜かれた太極刀によって弾かれる。と、同時に体を強く押された。
押したカグムは、ほぼ条件反射だったのだろう。しまった、と呟く声が聞こえる。
それを耳にしながら、ティエンの体は急傾斜へ傾き、そして滑り落ちていく。
地面に体がぶつかる寸前、押した本人が庇うように、頭を抱きしめてきたので混乱してしまう。
どうして自分はこの男に守られているのだろう。べつに少しくらい怪我を負ったところで、天士ホウレイの下は連れて行けるだろうに、なんで共に落ちる選択肢を選んだ?
(カグム、お前にとって私は――なんなんだ)
景色が勢いよく流れ、流れて、ティエンの目の前は暗転した。
◆◆
それは突然であった。
患者の薬草を切り刻むため、ハオが道具を煮沸消毒していると、寝台の方から大きな物音が聞こえた。
驚いて振り返れば、昏睡状態に入っていたはずの子どもが這いつくばっている。目が覚めたようだ。その手には懐剣が握られていた。
出入り口へ向かって這っているので、急いでユンジェの下へ向かう。
「馬鹿野郎、どこに行くつもりだ。寝てろっ!」
身を起こしてやると、子どもがハオに縋った。
「ティエンはどこ。おれ、いかなきゃ」
「はあ? 行くってお前」
そこでハオは気付く。この子ども、目の焦点が合っていない。
「行かないとっ……ティエンっ、守らないと。俺はまだ折れてないよ」
ハオは恐ろしくなる。
麒麟から使命を授かると、身も心も所有者を優先するようになるのか。
子どもの体は怪我と熱で弱り切っているというのに、昏睡状態に入っていたというのに、瑞獣はそれすら許さず、使命を優先させようとするのか。
これが麟ノ懐剣となった者の、所有者から災いを守る者の姿。
(自分より所有者を優先させなきゃなんねーなんて)
思わず哀れみを抱いてしまう。
己を大切にする心を、麒麟は取り上げてしまったのだろうか。
「ピンインさまなら大丈夫だ。あの方は今、カグムと一緒にいる。何か遭っても、あいつが……あー……あの二人だしな……」
もしかして。ハオは嫌な予想を立ててしまう。
(カグムの野郎、ピンインさまに何かしているわけじゃねーよな)
王子を煽って武器を交えたり、王子の方が私情に駆られて剣を抜いたり、そのようなことになっているのでは。
大いにあり得る。あの二人ならあり得る。自分が行くべきだったのだろうか。悩ましい問題にハオは肩を落としてしまう。
(頼むから面倒事だけは起こしてくれるなよ。ただでさえ、ガキのことで手いっぱいなのに。俺の立ち位置って、考えなくとも苦労ばっかじゃねーか?)
腕の中にいるユンジェは、懐剣を両手で握り締め、うわ言を繰り返す。ティエン、ティエン、ティエン、と。
「おれは、まだ折れていないよ……まだ……」
己の死を折れていない、と口にするあたり、子どもは懐剣の自覚を持っているのだろう。いつか、この子どもは自分が人間であることすら忘れてしまうのでは?
そこでハオはユンジェに告げる。
「いいか、クソガキ。てめえは今、死に掛けているんだよ。それを王子がどうにかしようと、奔走している。そんなピンインさまを守りたきゃ、あの方に助けられろ」
「たすけられ……」
「そんな体で何ができる。お前は刃物じゃねえ。刃をその身で受け止めれば、当然血が出る。血が無くなれば体は動かなくなる。てめえの身は脆い、なぜならてめえは人間だから」
人間である自覚を持て。王子を守りたければ助けられろ。王子が一喜一憂する存在はお前だと、ハオはユンジェを見据え、容赦なく胸倉を掴んだ。
「王子を守りたいんだろう? なのに、あの方の心を傷付けるような真似をしてどうするんだよ。お前ら、家族なんだろうが。兄弟なんだろうが」
ユンジェの手から懐剣が滑り落ちる。
思い出したように、「肩が痛い」と、「体が熱い」と、「とてもつらい」と呟き、ハオの手に己の手を重ねた。
「ハオ。おれの体、動かないよ」
「そりゃそうだろ。お前は怪我人、懐剣じゃねーんだから」
子どもは少しだけ嬉しそうに、そうだね、そうだよね、と頷いて、ハオに凭れ掛かった。
体を受け止めたハオは神妙な面持ちでユンジェを見下ろす。子どもはぐったりと目を閉じ、胸に頭を預けていた。
「ほんと。面倒くせぇ奴等ばっかだな」
どいつもこいつも、ただただ面倒だ。
悪態をつくハオは懐剣を拾うと、子どもを横抱きにして寝台へ戻す。不思議なことに、懐剣は重みを感じなかった。以前はとても重たいものだったのに。なぜだろう。
「王子と家族なんて……身の程知らずだな、てめえ」
農民のくせに。ハオは力なく笑う。
「あの方が王族でなけりゃ、王子でなけりゃ……お前ら、本当の家族になれたかもしねーな。ずっと、平和に暮らせたかもしれねーのに……天は無情だよ」
拾った懐剣を子どもの手に持たせる。らしくもない同情を抱いてしまった。
◆◆
――へえ。お前がピンイン王子。呪われた王子って言われているわりに、ちゃんとした人間なんだな。えーっと、王子でいいんだよな? 王女じゃないんだよな? ……そっ、そんなに暗い顔するなって。ただ確認しただけだろう? 俺はカグム。今日からお前の近衛兵になる男だ。ああ悪い、馴れ馴れしくて。なんっつーか、敬語ってのが苦手なんだ。二人きりの時は見逃してくれねーか? 公の場では、ちゃんと敬語で話すから。堅苦しい空気は好きじゃなくてさ。ついでに、ピンインって呼んで良いか? 俺のこともカグムで良いからさ。
はじめて、気さくに呼ばれた時、ピンインの名が好きになった。周りが己を蔑んでも、たった一人の人間に呼んでもらえるだけで、とても励まされた。
今となってはピンインの名前など、ただの過去の名にしか過ぎない。今の自分は。
――あんた、天人じゃないの? 嘘だ。こんなにも綺麗な奴が、人間なわけがないじゃないか。俺を見ろよ。どっからどう見ても、泥くさい人間だろう? 土ばっかり弄ってるせいなんだ。しかし、声が出ないのは不便だな。俺、文字の読み書きできねーし。これじゃあんたの名前を呼んでやれねーよ。そうだ、声が出るまで俺が呼び名をつけていいか? 大丈夫だって。変な名前はつけない。そうだな。天人じゃないって言われたけど、あんた、それっぽいから天。俺、これからティエンって呼ぶ。どう?
そう、ティエンなのだ。
子どもから名づけられた名前は、とても心地が良い。
この名前を付けられてから、自分は少ないながらも、かけがえのないものを手にした。家族ができた。弟ができた。友ができた。生きたいと自分から強く願うようになった。なよなよしていた己を捨て、強くなろうと思った。
だから、これからもずっと――ティエンのままで。
夜風が頬を撫でる。
その冷たさに身震いをしたティエンは、ゆるりと瞼を持ち上げた。満目一杯に広がるのは、生い茂った藪と暗闇。何も見えない。自分はどうしたのだっけ。
うつらうつらと顔を動かす。
藪の隙間から、青白い月明かりが零れているのが見えた。
振り返って目を引くと、微かに分かるカグムの顔。目と鼻の距離にあると気付き、肝が冷えていく。
覚醒する。そうだ、自分達は急傾斜から滑り落ちたのだ。
気を失っていたカグムが、小さな唸り声を上げて目を覚ます。
急いで距離を置くティエンに対し、彼は身を起こして頭部をさすっていた。己を庇って落ちたにも関わらず、軽傷程度で留まっているらしく、「頭にコブができてらぁ」と、独り言をぼやいていた。
起きて早々ティエンは混乱する。
なぜ、彼は自分と共に落ちる選択をしてきた。
あの夜は剣で斬りつけ、無情に谷へ落としたくせに、なぜ。分からない。自分の命を狙った男のことが、自分を守ろうと共に落ちたカグムのことが。
足元に己の持っていた短剣が落ちていたので、それを右の手で取って身構える。
ようやく己の存在に気付いたのだろう。夜目が強いのか、ティエンの持っている短剣を捉え、肩を竦めてくる。
「話をしたいので、まずそれは仕舞って下さい。落ち着きません」
まだ、心が荒れ狂っていたティエンは近寄る彼に、怒声を浴びせた。
「カグム。貴様は一体、何なんだ。私に近付き、一体何がしたいっ」
「私の目的は、すでにご存知でしょう? 天士ホウレイさまの下へ、貴方様を連れて行くことです」
そこではない。聞きたいところは、そこではない。
ティエンはもっと、彼の内面的なところを聞きたいのだ。その心はいま、ティエンをどう見ている。
一瞬の隙がカグムとの距離を許した。
我に返って短剣を振り下ろすも、右手首を掴まれ、力強く握りつぶされる。短剣を落として痛みに身悶えるティエンを、彼は小さく笑った。
「非力な貴方様では、私を殺すどころか、傷をつけることすらできませんよ。離宮の箱庭育ちの王子の力なんて高が知れています」
「おのれっ、カグム。よくも……よくも……」
「貴方がどのように私を憎んでいようが関係ない、抵抗するなら腕を捻るだけです」
それだけで勝てる、カグムは柔和に頬を緩めた。
それが嘲笑だと気付いたティエンは、強く下唇を噛み締める。
怒りのあまり腹が熱くなった。できることなら、今一度短剣を突きつけ、めちゃくちゃに切り裂いてやりたい。襲ってやりたい。癇癪を起こして、すべてを無にしてやりたい。
しかし。自分は無力だ。王族の近衛兵だったカグムに勝てるわけがない。
彼は近衛兵の中でも、腕があると名が挙がっていた男。彼の言う通り、箱庭育ちの自分が勝てるわけがないのだ。
その現実がティエンを打ちのめす。
(くそっ……くそっ!)
どうして、自分はこんなにも弱いのだ。憎き手を振り払うことすらできないなんて。
ふと、脳裏にユンジェの姿が浮かんだ。
そういえば、子どもは口癖のように言っていたっけ。自分達は弱い。大人に力で勝てるわけがない。
だったら、頭を使うしかない。頭を使うしか――ティエンは左の手で短剣を拾うと、己の右腕目掛けて突き立てた。
刃は衣を破り、腕の肉を切り裂く。あまりの激痛に悲鳴を上げそうになったが、必死にこらえ、深く突き刺していく。
「ばっ、馬鹿野郎が! 何してやがる!」
表情を変えたのはカグムだった。
まさか、己の腕を突き刺すと思わなかったのだろう。急いで短剣を突き刺す左の手を掴む。
その隙を突き、ティエンは彼の体を押して、駆け出した。
右腕は燃え上がるように痛いが、手を振り払うことに成功したので、とても嬉しく思う。ユンジェに言えば、大層呆れられそうだが、それでも意表は突けた。
さらに痛みのおかげで頭が冷えた。
カグムと戯れている場合ではない。カヅミ草を探さなければ。ユンジェの熱を下げなければ。急がなければ。
(まずは広い場所に出て星の方角を確認しよう。落ちたことで、私が今、山のどこにいるか分からなくなってしまった。これではカヅミ草を見つけても、小屋に戻れないのでは意味がない)
ああしまった。松明を作ってから逃げ出せば良かった。前がよく見えない。
藪を掻き分けていく。そこを抜けたところで、追って来たカグムに捕まった。己の足の遅さに舌打ちをしたくなる。
「ピンインっ、腕をみせろ。今すぐに!」
「私は急いでいるんだ。邪魔をしてくれるな、カグム」
すると、足を払われ、尻餅をつかされた。何が何でも腕の傷をみるつもりらしい。
もう短剣の手は使えない。他に手を振り払う方法は無いか。目で周りを確認していると、「俺の負けでいい」と、カグムが声音を張って片膝をつく。
「今の駆け引きは、お前の勝ちだ。だから、腕の傷をみせろ。お前まで傷が炎症して、熱で倒れられたら敵わねーよ」
本当によく分からない男だ。
先ほどまで煽ってきたくせに、今度は心配を寄せる。それが不気味であったり、戸惑いを抱いたり……訳が分からないのひと言に尽きる。
彼は半ば強制的に、ティエンの衣を破ると、月明かりを頼りに右腕の傷の具合を確かめた。
簡単になら応急手当ができるようで、己の飲み水で傷口を洗うと、外衣を裂いて細くした。
「これをハオが見たら、どやされそうだな。馬鹿なことをしやがって」
正気の沙汰ではない。止血する彼が苦言した。それがとても愉快だったので、ティエンは鼻で笑い、口角をつり上げる。
「貴様が言ったんだろう。抵抗するなら腕を捻ると。だったら使えないようにしようと思ってな」
それが使えなくなれば、捻られてもなんの問題もないだろう? ティエンが疑問を投げると、カグムの眉間に皺が寄った。
「お前はっ、何をどうしたら、そんな考えに至るんだ。馬鹿にも程があるだろ!」
「その馬鹿に意表を突かれた、貴様にだけは馬鹿と言われたくない。大体、なんで私と共に落ちたんだ。気色の悪い。さっさと突き落として、見捨てれば良かっただろう」
「おいおい。俺がいつ突き落とした。あれはお前が襲ってきたからだろうが。俺はあの時、暴れるなっつったよな?」
「私の邪魔をしたのは、貴様ではないか。せっかく見つけたカヅミ草も見失ってしまった。しかも遭難だ。どう責任を取ってくれるんだ」
「俺の忠告を先に無視したのは、お前だろうが。ピンイン」
怒りを見せるティエンに、カグムも苛立ちを見せた。
あまりにも言うことを聞いてくれないので、敬語で話すことすら忘れている。昔からそうだ。この男は敬語での会話を苦手としていた。堅苦しい会話や空気を嫌っていた。
いつから、カグムはそれを好むようになったのだろう。
裏切られたあの夜も、再会した今も、彼は努めて敬語で話す。言葉を重ねるごとに、崩れることも多くなったが基本的に敬語だ。余所余所しい態度は表裏を感じる。
と、彼が深いため息をついた。
「ったく……ピンイン。お前がおとなしくしていれば、こんな事態にはならなかったんだよ。箱庭で育った王族のお前は弱いし、足手まといなんだ」
下々に任せろと言った言葉には、そういう意味も込められていたのだとカグム。
もし、王子がおとなしく小屋で待っていれば、このような面倒な事態に発展しなかった。慣れている者が動くべきであったのだ。
止血を終えた彼はティエンの肩を掴み、現実を突きつける。
「今のお前は、少々自分を過信している。道を引き返した時もそうだ。なんで、自らの手で兵を討った。俺達に任せれば良かっただろうが」
誰の手も借りず汚れ役を買うことで、成長と強さを誇示したかったのか。意地を張ろうとしているのか。
だったら、なんの自慢にもならない。ティエンのしたことは、ただの人殺し、強さの象徴ではない。王族にすることではないのだ。カグムは語気を強めた。
「今まで箱庭にいたお前は、少しできるようになったからって勘違いしているんだよ。ピンイン、お前は弱い人間なんだ」
静聴していたティエンは小さく噴き出す。この男は何を言っているのだろう。
「カグム。貴様こそ何を勘違いしている。自慢? 意地? 私はただあの子と生きようとしているだけだ」
兵をなぜ討ったか? 決まっている。討たなければ、自分とユンジェの身が危なくなるからだ。
なぜ、動き回るか? 勿論、あの子を救いたいためだ。
弱い? 百も承知だ。ティエンは弱い人間だ。足手まといだということだって知っている、
カグムに言われずとも、すべて分かっている。
ティエンはとても弱く、力のない人間だ。それでも足掻かなければ、何も得られないと知っている。
「私は己の力量を知っている。だから事あるごとに工夫しているんだ。それを過信とは……私をなんだと思っているんだ」
何もできない人間とでも? ああ、そうだ。この男はそう思っていることだろう。
「確かに、私は今まで知らなかったよカグム。食事は待っても、誰も与えてくれない。喉が渇いても、水は降ってこない。起きたところで美しい衣を着せてくれる人間などいない」
そういう生活にいたティエンは、本当に何も知らなった。自分がずっと生かされている、ということに。
「そうだ、私は生かされていることすら知らなかったんだ。これが貴様の知る第三王子ピンインだ。哀れだろ、無様だろ、扱いやすかろうっ……まんま生きた人形だっ!」
ティエンは握り拳を作る。
振り返っても、あの頃の己は手間も世話も焼かせることなく、誰彼にうんっと頷くばかりの人間。さぞ扱いやすい人間だったことだろう。ああ、なんて、つまらない人間なんだ!
「そんなピンインにお前がトドメを刺し、ユンジェがティエンを生んだ。あの子はいつも言ってくれたよ。何もできない私に、『ティエンならできる』と」
ティエンは本当に何もできない人間であった。
火の熾し方も、刃物の使い方も、針に糸を通すことすらも。何もかも王族だとか、身分だとか、危ないだとか、なにかと理由をつけては遠ざけられていた。
そんなティエンはユンジェと暮らすことで、自分自身のことを知る。不器用であることも知ったし、無知であることも知った。何もできない人間だと痛感した。
しかし、ユンジェは『やったことないだけだろう』と笑い、事あるごとに生きる術を教えてくれた。
上達すると褒めてくれたし、できなかったらできるまで丁寧に教えてくれた。やればできる人間だと自信もつけさせてくれた。
だからティエンは、何もできない人間から、やればできる人間になった。誰かに生かされる人間から、自分で生きようとする人間となった。
力が無い、だから嘆くではなく、無いからよく考えて動くようになった。
それが今のティエンだ。顔色ばかり窺うピンインなんぞ、もうどこにもいない。
「あの子と生きたいから、私は汚れたことでもなんでもする」
それに成長だの、強さだの、できるようになっただのと綺麗ごとを述べるつもりもない。少しでも生きたいから、生きるようと足掻く。それだけだ。
「カグム、貴様とてそうだろう? 国を守りたかったから、自分が生きたかったから、私にトドメを刺したのだろう?」
同じではないか、カグムとティエンのしていることは。それを過信だのなんだのと責められる覚えなどは無い。
強く主張すると、圧倒されていたカグムが苦笑する。やがて、彼は脱力したように肩を落とすと、「扱いづれぇの」と悪態をついた。
「あの頃のピンインと、えらい違いだ。顔は変わらず綺麗なのに、口は強くて生意気。おまけに態度は悪いときた。いつも俺の後ろをついて回った姿がまるでねえ。可愛げがねえ」
「何が言いたいっ」
「べつに。ティエンのお前とは、ちっとも気が合わないと言いたいだけだ」
カグムは己の着ていた外衣を取ると、ティエンの肩に掛けて紐で結んだ。
それを取っ払う間もなく、彼は着ておけと命じてくる。
夜の山は冷え込む。傷を負った者にとって、その冷えは体調を崩す原因になると説明し、彼はすくりと立ち上がった。
「時間がねえ。小屋へ戻る道を探す。その合間にカヅミ草も探すぞ」
急に指揮を取られたので、思わず訝しげな顔を作る。
そんなティエンに、「ユンジェが死ぬぞ」と、カグムは言って太い枝を拾った。それに裂いた外衣の余りを巻きつけると、貴重品の燐寸を頭陀袋から取り出し、火をともした。
「あのガキに死なれちゃあ、俺達も困るんだよ。あれは麒麟から使命を授かった者。それがホウレイさまの手元にあれば、謀反も円滑に進む」
二人の間に冷たい山の夜風が吹き抜ける。感情を押し殺し、ホウレイさまの手元の意味を尋ねると、彼は含み笑いを浮かべた。
「あれは玄州に着き次第、ホウレイさまに献上する。そうしたら、お前はおとなしく謀反に乗ってくれるだろう?」
「ユンジェを物のように扱うつもりかっ、貴様」
「お前の懐剣になった時点で物になったも同じだろう。あいつは自分が人間であることを、時々忘れるみたいだからな。人間だと思うんなら、せいぜい所有者のお前が思い出させてやれよ」
暗い山道を歩き出すカグムの嫌味ったらしい指摘に、反論の言葉が見つからない。間髪容れず、彼は言葉を重ねた。
「ピンイン。お前は王族だ。名を変えようが、農民を名乗ろうが、その運命からは逃げられねえ。早いとこ観念するんだな。俺はお前を何度も逃がすほど、甘くはねーぞ」
通告か。忠告か。それとも警告か。
いや、違う。これは宣戦布告だ。だったら、受けて立とう。誰彼に言われて流される人生など、もうまっぴらごめんなのだから。
「だったら、力づくで諦めさせてみろ。ティエンはピンインと違い、簡単には屈せぬぞ」
ティエンとして宣戦布告を返すと、振り返ったカグムが目を細めて笑った。
「やっぱ可愛げがなくなったよ、お前。ティエンとは気が合いそうにねえや。けど、個人的には威勢があって良いと思うぜ。しごく人間らしいよ」
彼が語気を弱めたせいか、ティエンの耳には途切れ途切れにしか届かない。
「まっ。ガキを献上されたくなかったら、俺の首でも討ち取るんだな。『ティエン』さま」
これは語気を強められたので、しかと聞こえた。
首を洗っておけ、と軽く返しておく。討ち取ることで未来が切り開けるのであれば、なんだってやってやるさ。なんだって。
「一つ聞く。カグム、貴様はなぜ国に逆らう側に回っている。私を討ったことで、クンル王から地位や名誉を授かっただろうに」
返事が来るまで、しばし時間を要した。
「ピンインと過ごした六年間は、あまりにも長かった。良くも悪くも」
前を向いて歩くカグムの表情は見て取れない。それでいい。見る勇気など持てなかった。
「俺はお前を斬ったことに後悔はしていない。天士ホウレイさまの下についたことも、一年間諜をしていたことも。そして、いまお前と再会していることも」
まったく答えになっていない。
自分に理解できぬよう、カグムが言葉を濁していることは手に取るように分かった。ああ、未練ったらしく、どこかで真実を知りたいと思う己がいる。いつか、彼の真実を知る日は来るのだろうか。
ティエンは視線を横に流す。
そこには、一輪のしるべの草が、風に身を揺らしていた。探し求めていたカヅミ草だ。急いでそれに近寄れば、点々した光が下の傾斜へ向かって続いている。
下を覗き込めば、数え切れないほどのカヅミ草が集まっていた。花畑だ。
ティエンは目を輝かせ、頭陀袋から布縄を取り出すと、近くの木に結び付けた。様子に気付いたカグムが、その縄を貸すように言ってくるが、「私の方が身軽だ」と返事して、腰に縄を巻きつける。
「おいおい。お前は怪我を負っているんだぞ。その腕で下に行くのかよ」
「引き上げる時は声を掛ける」
「そうじゃなくて……あーあ、行っちまいやがった。ほんと、ユンジェのことになると突っ走りやがって――お前、もしもユンジェを失ったら、どうなるんだろうな」
布縄を伝って花畑に下り立ったティエンは、両の膝を折った。
そこはとても幻想的で、月よりも明るく、松明よりも明度の低い光を放っていた。白い花弁達が、それぞれ発光しているカヅミ草は、まさしく『しるべ』に相応しいもの。
(これがユンジェの命を救ってくれる。私はあの子を助けられる)
ティエンはカヅミ草を愛おしげに摘むと、衣の袖で軽く目元をこすった。
二人が小屋に戻ったのは、明け方のことである。
あまりにも帰りが遅いと思ったハオが、シュントウとライソウに馬で探してくるよう指示したのである。
彼らはあっさりと、遭難したティエンとカグムを見つけ出した。
曰く、しるべの草が誘うように咲いていたのだとか。それを辿った先に、二人がいたそうなので、これは偶然なのか、それとも天の導きなのか。
どちらにせよ、ティエンは無事小屋に戻ることができた。
首を長くして待っていたハオは、二人の汚れ切った姿に大層驚き、尚且つティエンの怪我に対して、何をやらかしたのだとカグムに詰問していた。
腕の傷は少々深かったようで、縫わなければいけないではないか、と怒声を上げていた。
しかし。そんなことは二の次、三の次。優先すべきはユンジェだ。
子どもは留守の間に、また熱が上がったようで、真っ赤な顔でうわ言を呟いていた。本当に危ないところまできているそうだ。
「ユンジェ。よく辛抱したな。もう大丈夫、熱を下げてやるからな」
ティエンは煮詰めたカヅミ草の汁を、少しずつ子どもに飲ませた。
それはとても苦いようで、一口飲むだけで咳き込み、ユンジェは吐きそうになっていたが、汁が無くなるまで口元に運び続けた。
翌日の夕方になると、ハオの表情がとても明るくなる。子どもの額に手を当て、脈をはかり、呼吸を確かめて、ティエンに告げた。
「まだ熱は高いですが、安定しています。もう大丈夫ですよ。ガキは助かります」
その瞬間、ティエンの全身から力が抜けていった。
新たに煮詰めたカヅミ草の汁をハオに押しつけると、少し外の空気を吸ってくる、と言って小屋を出る。
残されたハオは困惑した。
「外の空気って……ライソウ。ついてやってくれ。もう夕暮れだ。近くに獣でもいたら」
「待てハオ。すこし、あいつを一人にしてやってくれ。おおかた張りつめていた糸が切れたんだろ」
止めたのはカグムだった。
彼は苦々しく笑い、「あれは癖なんだ」と、肩を竦めて眠っているユンジェに目を向ける。
「あいつは何かあると、陰に隠れて泣くんだ。ピンインからティエンになっても、その癖は直ってねーな。よくもまあ、そんなんで簡単に屈しない、なんざ吠えられたもんだぜ」
「そういうお前は何かあると陰に隠れて、いつまでもぼんやりしているだろうが。辛気臭い面してよ」
聞き手に回っていたハオは嫌味を投げ、押し付けられたカヅミ草の汁を木の匙で掬う。
「カグム。俺は他人に口を出さない主義だが、同志として助言しておくぞ――ちとお前は背負い込みすぎだ。黙っておくことが優しさだけじゃないと俺は思うぜ。寧ろ、そうされた方は『ずるい』って思うだろうよ」
掬った汁を口に含んだハオは、苦味に顔を顰める。それを横目で見たカグムは、何も言わず、子どもの寝顔を見つめ続けた。
外に出たティエンは、枯れ井戸の前で崩れていた。
助かる、その一言に、内なるところで抱えていた不安や恐怖が消える。ああ、救われた気分だ。
(ユンジェが生きた。助かってくれたっ!)
ティエンはユンジェと約束をしていた。強くなると、何か遭っても子どもを生かすと、守れる男になると。
だから約束を果たすため、懸命に足掻き、己のやれることはすべてやり尽くそうと思った。
将軍カンエイが追って来るならば、それを撒こうと躍起になった。熱が下がらないなら、下げるためのカヅミ草を見つけようと夜の山に入った。
大丈夫。助けられる。
己に言い聞かせていた一方で、もしもの未来を想像して、恐怖していた。どこかでティエンは自分自身を信じることができずにいた。
「やればっ、できるじゃないか。呪われた王子だって……やれば……」
弱くて情けなくて、何もできなかった自分が、約束を果たせたのだ。少しは自身を褒めてやってもいいのではないだろうか。
なにより、助かってくれたユンジェに感謝したい。よくぞここまで頑張ってくれた。よくぞここまで。
ティエンは枯れ井戸に縋り、気が落ち着くまで声を押し殺した。時期に目を覚ますであろうユンジェには、笑顔で「おはよう」と、言いたいから。
ユンジェはここ数日の記憶がうろ覚えであった。
高い熱を出した日のことは憶えており、迫る追っ手に怯えていたような記憶がうっすらと残っている。
日の出と共に馬に乗せられ、ひたすら揺られていた記憶も、まあ、なんとなく。
しかし。その後の記憶が殆どない。
目が覚めたら、小屋の寝台に寝かされていたので、とても驚いてしまった。
経緯はハオから簡単に聞いたので、自分が死に掛けたことに、少々気まずさを感じてしまう。ティエンに大きな心労を掛けたのは明白であった。
けれども、ティエンはおくびも出さず、ユンジェの目覚めを喜んだ。
会話ができるまでに回復したことが、本当に嬉しかったようで、よく話し掛けてくる。気分や調子も聞いてくる。ついでに、期待も寄せてくる。
「ユンジェ。それはな、私が夜の山で摘んできたんだ」
寝台の上で木の器に入ったカヅミ草の汁と睨めっこしていたユンジェは、ティエンの笑顔を横目で見やる。
幾度目かの台詞を口にする、彼の目は期待に満ちていた。それがとても重たい。もう飲みたくない、なんて口が裂けても言えないではないか。
「俺のために、わざわざ夜の山に入ってくれたんだな。危険じゃなかったか? ティエン」
取りあえず、話題を広げてみる。ティエンは得意げに答えた。
「色々あったが無事に摘めたよ。それは夜になると光る花で、花畑はとても綺麗だった。元気になったら、ユンジェにも見せてやるからな。さあ、もっと褒めておくれ。私は頑張ったぞ」
こういうところは、なんというか、子どもというか。偉そうというか。身分の高い人間だな、と思う。
素直に「ありがとう」や「すごいな」、「頑張ったな」というと、彼はたいへん上機嫌となった。当然のことをしたまでだと言いつつ、笑顔が絶えない。
そして、なぜであろう。
傍で聞き耳を立てているハオが、遠い目であさっての方を見ている。どうも『色々あった』というところに、思うことがあるらしい。後で聞いてみようか。
「だったら、俺も褒められるべきだな。なにせ、そのカヅミ草、俺と“ティエン”さまが遭難しながら摘んだものだから」
カグムの能天気な一言が、小屋の空気を凍らせる。いや、凍らせたのはティエンだが。たいへん不機嫌となった彼は、ぎろっとカグムを睨み、無言となってしまう。
それを飄々と笑って流すカグムは、「本当のことでしょう?」と言ってからかった。小屋の中は真冬となる。ああ、外の方が暖かそうに見えて仕方がない。
ユンジェは意を決して、苦い苦いカヅミ草の汁を飲み干すと、ちょいと咳き込んだ後、ティエンに微笑んだ。
「ごちそうさまティエン。また、熱が出たら摘んで来てくれよな」
機嫌を直した彼は、「勿論だ」と言って、ユンジェに笑顔を向けた。
「そうだ、カヅミ草の現物を見せてあげよう。天日干しのものがあるから、少し待ってなさい」
小屋を出て行くティエンの後を、カグムが颯爽と追う。見張りとしてついて行くようだが、双方の様子が妙であった。
一切言葉を交わしていないのに、視線が合うだけで、殺伐としたものになる。以前よりも険悪な仲になっているのは、一目瞭然であった。
二人がいなくなった瞬間、兵達が重いため息を零す。三人が三人とも嘆かわしい顔をしていた。あの空気の被害者なのだろう。
「クソガキっ!」
ユンジェはハオに懇願される。
「頼むから、お前はもう死に掛けるんじゃねーぞ。王子の機嫌を直せるのは、お前だけなんだからな。俺は気付いた。ガキの存在が、どれだけ俺達に平穏を齎していたのかを。いいか、絶対に死ぬな。死んでも生き返れ!」
無茶を言う。
「え、あ、うん……ごめんな? 俺が寝込んでいる間、なんか遭った?」
「カグムだ。カグムが全部悪いんだ。くそっ、あの野郎。面倒を起こしやがってっ! 遭難した夜から、何かとピンイ……じゃね、ティエンさまと火花を散らしやがる。空気が悪いったらありゃしねえ!」
王族の不機嫌に当てられるのはごめんなのに、ハオが歯ぎしりをした。ユンジェはきょとんとした顔で尋ねる。
「ピンインをティエンと呼ぶようになったのは、なんで?」
「カグムの提案だ。素性を隠すために、旅の間はティエンさまで統一するんだと」
「まあ、その方が良いだろうね。ピンイン王子って、聞く人から聞けば、すぐに誰のことか分かるだろうから」
それにしても、この時機に呼び名を変えるとは。遭難の夜、なにか遭ったのだろう。ユンジェの知らないところで、ティエンが傷付いていないと良いが。
空っぽになった木の器を見つめていると、ハオが寝台に腰掛けてくる。
彼は器を取り上げるやユンジェと向かい合い、上半身だけ衣を脱がせて、肩の包帯を解き始めた。
まだ汚れていないのに、もう替えるのか。
彼に尋ねると、「当たり前だ」と、ぶっきら棒に返された。
「人間は寝ていても汗を掻く。汗は菌を繁殖させる。それが傷口に入ってみろ、またカヅミ草を摘まなきゃなんねえ。お前のせいで俺の仕事が増えているんだ。さっさと完治しやがれ」
悪態をつくハオは、なんだかんだ言いながら、ユンジェが完治するまで面倒を看てくれるようだ。
初対面の印象はお互いに最悪であったが、今なら彼の良い点も挙げられそうである。
それに、なんだろう。
ハオには大きな借りがあるような気がする。憶えていないのに、とても大切なことを教えてもらったような気がする。
「クソガキ」
そろそろ、名前で呼んでくれてもいいのでは。内心、不満を抱きつつ、返事をすると、彼は真顔で見つめてきた。
「お前の身は懐剣じゃねえ。それを絶対に忘れるなよ。王子の心を守りたいならな」
どうしてそんなことを。戸惑うユンジェに、ハオはもう何も言わなかった。
ユンジェの体温が微熱になると、カグムは出発の指揮を取った。
とても過ごしやすい小屋だったので、もっとそこにいたかったのだが、先を急ぐ謀反兵らはそれを許してはくれなかった。
残念に思う。あわよくば、あの小屋をもらって暮らしてみることも考えていたのだが。
もしかするとカグムは、それを見抜いていたのかもしれない。出発直前、何も言っていないのに、根付かれたら困るからと笑っていた。
将軍カンエイの一件を聞いていたユンジェは、今後の目的地は東の青州と南の紅州を繋ぐ関所であることを知っている。
とはいえ、知識が乏しいので関所がなんであるか分からない。
ユンジェは同乗しているカグムに関所とは何かと尋ねた。彼は決して、ティエンとユンジェを同じ馬に乗せようとはしない。警戒しているのだろう。
「簡単に言うと、検問するための門だな。そこで怪しい奴や荷物がないかを調べるんだ。許可が下りれば通してもらえるよ」
「なんで、そんなことをするんだ? 青州と紅州は同じ国なんだろ? 許可がいるっておかしくないか?」
まるで国の知識がないユンジェは、しかめっ面で首を傾げる。
ずいぶんと体調が良くなったおかげか、馬から見える景色はとても新鮮で、通り抜ける風は気持ち良く思えた。
「麟ノ国は広い。全部を見張ろうとするのは大変だ。だから五の州に分けて、それぞれ見張るんだよ。たとえば紅州で、危ない火薬を作ったとするぞ。それを青州に持ち込んだら、どうなると思う?」
ユンジェは想像する。紅州で作った火薬が青州に持ち込まれてしまえば、それは勿論。
「青州にも火薬が行き渡るな」
「そうだ。紅州で食い止めておけば、被害はそこで終わるのに、青州にまで被ってしまう。最悪、五州全域に被害が及ぶかもしれない。だから各々関所を作って検問するんだ」
なるほど。ユンジェは相づちを打った。
「ティエンやカグム達は通れるの? 俺は顔を知られていないから大丈夫だけど」
「そこなんだよ。青州の関所はやたら検問に厳しいからな。穴を見つけられるかどうか」
「穴?」
「検問を受けずに通れる道を探すってことだ。門番が傭兵なら金で解決できるんだがな。都にも間諜がいるから、手を借りるのも有りなんだが……それで通れるかどうか」
なにやら難しい問題に直面しているようだ。ユンジェはたいへんだな、と他人事のように思う。
「関所か。国ってのは、俺が思っていたよりもずっと広いんだな。俺、自分の町と森しか知らなかったから、一々驚いちまうよ。俺、王族ってのも知らなかったんだぜ」
振り返ってカグムを見上げると、彼は仕方がないさ、と微苦笑した。
「お前は明日食べることで精一杯だったんだろう? 学ぶ機会が与えられなかったんだから、知らなくて当然だ。恥じることじゃあない」
しかし。おかげでユンジェは町の商人達から、散々な扱いを受けていた。
特に『カエルの塩屋』は思い出しただけでも腹が立つ。ユンジェはカグムに物々交換や、砂糖を取られた話をして愚痴を吐いた。
あの時は本当に悔しかった。
まさか、トーリャから貰った贅沢品の砂糖を偽物呼ばわりされた挙句、巻き上げられてしまうとは。
その後、ティエンが落ち込んだ己を慰めるために髪を切って、桃饅頭を買ってくれたのだけれど。
「カグム。文字の読み書きも、数の足し引きもできない俺って馬鹿なのかな」
正直に答えて欲しい。真剣に聞くと、カグムはおかしそうに噴き出した。
「だったらお前に惑わされていた俺達は、大馬鹿じゃないか。悲しい気持ちにさせるなよ」
「でも、カグムは指を使わずに足し引きができるんだろう? 本とか地図も読めるんだろう? 俺はできないよ。ティエンから教えてもらっているのに」
どうも要領よく覚えられない。特に計算は苦手だ。唸り声を漏らすと、カグムが頭を乱雑に撫でてきた。
「だったら、できるようになるまで、足し引きをやってみたらいい。お前が覚えられないのは、やり方を掴んでいないだけだよ。毎日やってみろ。絶対にできるようになる」
そうなのだろうか。ユンジェは学問の分野に、あまり自信を持てない。
「ティエンさまは言っていたぞ。ユンジェのおかげで、やればできる人間になったって。なら、生きる術を教えたお前もできるさ。なにより、お前は俺達を二度も出し抜いた悪ガキなんだから、馬鹿でいてもらっちゃ困るぜ。俺達の立場がねーだろ」
褒められているのか、貶されているのか、ちっとも分からないのだが。カグムに噛みつくと、彼は大笑いした。その顔は年相応の青年であった。