「えーと、おじゃまします」
靴を脱ぎ、端に揃えておく。
雲母がにっこりと微笑んだ。昔から母に口酸っぱく言われていた習慣が活きた、のかもしれない。

雲母につれられ廊下を進む。華美さはないとはいえ、屋敷は広い。迷いそうである。

「紫苑」
辿りついたドアを開け、雲母が口を開いた。両開きのドアの向こうは洋間だ。床はフローリング。

名を呼ばれた本人は、気だるげに振り返った。今日も黒ずくめだ。外出時がそうなわけではなく、常に黒いらしい。
ドアの真向かい側が一面掃き出し窓になっていて、そこに置かれた椅子に三日月紫苑は座っていた。

そしてその目が、俺を捉えた途端。
「帰れ」
である。まあ、前にも関わるなとか言われていたし、なんとなく予想できた展開ではある。

「つめたいですよ、紫苑。せっかくあなたのご友人がこうして見舞いに」
見舞いだったのか、とつっこむべきか迷う。さらに言えば、友人かどうかもあやしい。

「友人なんかいない」
三日月紫苑はそう言ってぷいっと顔を背けてしまった。
その仕草が、やたら幼い。飛び級はないと思うから、最低でも高校は卒業していると思うのだが、まるで小学生みたいだった。

「そうやってあなたが拒否するからです。まあ、それはいいとして」
「いいのか、そこ」
「いいのです、本題は別ですから」

この美丈夫のキャラクターが本当にわからない。もしかしたら人をおちょくるのが好きなのだろうか。

三日月紫苑を見ると、そっぽを向いたままだった。顔は見えない。
窓の向こうにある庭はとてもきれいで眩しいのに、まるでただの影みたいだ。

お座りください、と雲母がソファを示した。革張りのソファセットにローテーブル。昔ながらの洋間セット、といった感じだった。ただそのソファの座り心地は恐ろしいほど良い。

「さて、主人である紫苑の態度は詫びるべきでしょうか」
はす向かいに雲母が腰を下ろす。
「いや、わかりきっていたので」

一応家主が三日月紫苑ということなのだろう。どう見ても目の前に座る人は使用人には見えないけれど、余計なことは言うまい。

「よろしい。ではさっそくですが、如月椿、あなたには絵を描いていただきたい」
「絵、ですか」
「左様、絵です。本来ならば紫苑が請け負うべきなのですが、生憎利き手を負傷しまして」
たっぷりと微笑む雲母に、寒気が走る。

しかし同時に理解する。この間ぶつかったときの怪我なのだろう。左手首を抑えていた覚えがあるから、つまり彼は左利きなのだ。

「……それは大変申し訳ありません」
「ええ。しかしそれに関してはとやかく言いますまい。紫苑自身の不注意もあったでしょう」
ここであれは俺にとっても不可抗力だったと言っても無駄なのだろう。

「しかし、困っているのは事実。ですので、代わりにあなたに絵を描いていただこうと」

理屈はわかる。本来絵を描くべき人間が怪我をしてしまった、ならば怪我をさせた奴に責任をとってもらおう。それは、俺でもそういう考えに至るだろう。

ただ問題はそこではない。

「その、言ってることはわかるんですが」
「飲み込みが早くて助かります」
「いや、了承したわけじゃなくって」
「おや、断ると?」
「いやいや、そうじゃなくって」
「ではどのようなお話でしょう」

今更過ぎるけれど、この人苦手だ。