「こちらです」
しかし思わず立ち止まった俺を、雲母は遠慮なくつついた。早くしろ、と言わなくても全身で語っている。

もちろん、抵抗する気はない。ヘタレでいい。

それに雲母が指し示した方向は、銀閣寺へと続く道だった。桜が咲く道をしばらく進むことになる。

「いい場所住んでるなあ」
なにげなしに呟くと、雲母が「どうでしょうね」と答えた。銀閣寺や哲学の道付近なんて良いとこのイメージがあったけれど違うのだろうか。

あちらこちらに咲く笑顔を追い越し、方角的に北東のほうへと向かう。

満開の桜と雲母はよく似合っていた。この人は黒髪のせいか、その切れ長の瞳のせいか、和のものがよく映えそうだ。絵になる、といったことばがぴったりかもしれない。

しばらく歩くと、銀閣寺が見える。
そういえば京都に住んでいるのに行ったことはないかもしれない。金閣寺には小学生の頃に行ったけれど。

雲母はその銀閣寺の奧にある山のほうへと向かっていた。確かこの山は送り火の大の字の山だった気がする。

「あの、すみません、どこに行くんでしょうか」
てっきり麓の住宅街かと思ったのに、まさかいきなり登山せねばならないのだろうか、と思った矢先、小さな石碑が見えた。石碑といっても、俺の腰にも満たない小さな石柱である。

「もうすぐですよ」
俺の質問はスルーして、雲母が振り返った。もうすぐもなにも、家っぽいものはなにも見えないのだが、まさか山中でなにかさせられるのだろうか。

想像したら寒気が走った。もしやばいことだったら、走って逃げるしかない。

そんな俺の不安はよそに、雲母は山道を進んでゆく。もう舗装もされていない獣道。

この先になにが……と思ったときだった、やたら立派な門構えが目の前に唐突に現れた。
「……は?」
思わず声が出る。だって真っ直ぐ歩いてきたはずである。建物がいきなり現れるとか、普通、ない。

門にはえらい達筆な字で「三日月」と表札がかけられていた。

「さあ、どうぞ」
その大きな門の横にある扉を開けて、雲母はさっさと中に入ってしまった。
非常識な展開に質問する余地も与えてくれない。ええいままよ、ととりあえず後に続く。とりあえず三日月家なのだろうと。

中に入ると、どこかの寺社かと言いたくなるような庭が広がっていた。絵ばっかりかまけてて語彙力がないのがつらい。とりあえず、とんでもない金持ちだということはわかった。そりゃ治療費なんて些細な問題なのかもしれない。

敷地には、見えるだけでも母屋と蔵がある。
土蔵なんて久しぶりに見た。順日本家屋の平屋、といった感じだが、瓦屋根の向こう側に円錐状の屋根が見える。もしかしたら洋館がくっついているのかもしれない。

今まで実際に目にしたことがないレベルの豪邸に惚けている俺を、雲母が再びつついた。いつの間にか玄関と思われる引き戸を開けて、中に入っている。

これは入ったらいきなり巨大な壷とか掛け軸とか出てくるパターンか……と意を決して足を踏み入れると、中は意外なほどシンプル、というか普通だった。玄関も広いと言えば広いが、生け花が飾ってあるぐらいで、触れなさそうな工芸品や美術品の類はない。

ただ、掃除は行き届いていた。板間の廊下は古くても艶々に磨かれていたし、ここから見える障子戸やガラスもきれいだった。