京都あやかし絵師の癒し帖

如月椿を見送るために雲母は屋敷を出た。と同時に薊は寝ると言ったので寝室まで運んでやる。

「無茶するからだ」
そう言うと薊は疲れた顔で笑って言った。

「あの絵がうつくしかったのだ」
「……確かに、下手ではなかったけれど」

ベッドに横になった薊は、今にも眠りそうな顔で、笑い続ける。

「もちろん、紫苑のほうが絵は巧いぞ。ただな、椿が絵にかけた想いが伝わってきた。ああいう絵を、余は手伝いたいと思ったのだ」
「僕の絵はそうじゃないと?」
「そうは言っておらん。ただ紫苑、お主に欠けておるものを、椿は持っておる。椿が持たぬものを、お主は持っておる。それだけのこと」
「なにそれ」
「ふふ。今はわからずとも良い。ただ……これも縁だと余は思う……」

言うだけ言って、薊は眠りについてしまった。きっと三日ほど目を覚まさないだろう。
薊がしたことを咎めるつもりはない、というかそもそも権利もないけれど、それでもそこまでしなくても良かったのでは、とは思う。

散らかっていた本をいくつか拾って本棚に収め、部屋を出る。古い廊下が音を立てた。

自分の部屋へ戻ろうとして、ふと祖父の仕事部屋に寄ってみることにした。僕は普段入らないけれど、定期的に雲母が掃除してくれているから、部屋はきれいだ。まだ祖父が生きているみたいに。

大きな本棚に古ぼけた画集、使い込んだ道具の数々、描きかけのキャンバス。アンティークのキャビネットの上にはいくつかの写真立て。そこには僕の写真もある。祖父が絵を描く前の、唯一の僕の写真。
両親の写真の隣に置かれたそれは、僕のほんとうの姿だ。

これがあるから、この部屋にはあまり入らないのかもしれない。

窓を開けると、さすがに外の空気はもう冷たかった。ここから見える庭はうつくしい。だからきっと、この部屋を仕事部屋にしたのだろう。今でも、この部屋にいろんな客が来ていたのを覚えている。

そう思えば、この家に人間が来たのはとても久しぶりなのかもしれない。祖父が生きてた頃は、出版社の人間らしい人が幾度か訪ねてきていた。もしかしたら、死んでしまってからは初めてだろうか。

如月椿。

正直、階段でぶつかられるまで、まったく覚えてない顔だった。そいつが同じ専攻の同期生だと雲母に聞いても、そうなんだとしか言いようがなかった。名前だけ言われたときは、女かと思ったぐらいだ。

変な、奴だった。

普通、妖が云々言われた時点で引くだろう。というか否定するか馬鹿にして笑うか、なんにしろ、受け入れやしない。それがあっさりなるほどそうですかと納得し、しまいには縁がどうだとか言って、遠慮なく踏み込んできた。

縁。祖父が、よく口にしていたことばだ。

祖父だって、相当変わった人間だったのだろう。妖が見えるからといって彼らと暮らし、彼らの世界と関わり続けた。これもなにかの縁なんだよ、といつも言っていた。そんな変わり者に、僕は育てられたのだ。

この部屋に、祖父の写真はない。けれど、まるでまだその椅子に座っているかのように、思い出せる。

『人間も妖も、なにも変わらない。生きてる世界が別なだけ。だからどちらにも同じように接さないとね』

その宣言通り、誰にだって分け隔てなく接していた祖父。困っている人がいれば、人間だろうが妖だろうが助けていた祖父。血の繋がっていない、半端な僕ですら、孫として愛してくれた祖父。

そんな彼を、憧れない日はなかった。

でも、僕には無理だった。
「ここにいたのですか、紫苑」
急に名を呼ばれてびっくりして振り返る。雲母がドアの前に立っていた。

「送り届けてきましたよ」
「あ、ああ。ありがとう」
「不思議な青年でした。すこし、朱門を思い出すような」

昨日からの言動で気づいていたけれど、雲母はあいつを気に入ったらしい。

「ジジィと似てるって?」
「まさか、似てはおりません。ですが、相手が誰であろうが、目の前にいる悩んでいる者を助けようとする姿勢は、朱門に通じるところがあるなと」
「僕にはその姿勢がないって?」
「そうではありませんよ。ただ、順序が逆なのです」

雲母は部屋に入ってきて、写真立ての前で立ち止まった。

「紫苑、あなたは絵を描くために仕事をする。椿は、仕事のために絵を描く。それだけのことです」
「ジジィは後者だと」
「いえ、朱門にとっては並列です。あのひとは、絵がなければ生きていけなかったでしょうし、妖を助けようという気持ちも同じぐらい強かった」

つまり僕はどうやっても祖父にはなれないということなのだろう。ため息をついて窓を閉じる。

「紫苑」
雲母の指が写真立ての埃を払っていた。
「ないものは、補えば良いのですよ」

薊と似たようなことを言っているのは理解できた。もう一度ため息をつく。

「どうやって」
「さて、それは教えるものでもないでしょう」

それだけ言って謎の微笑みを残して、雲母は部屋を出て行ってしまった。夕飯の支度があるとか言って。薊のことを伝え忘れたけれど、きっと彼のことだからわかっているだろう。

雲母も薊も、お節介だ。昔から。

もう一度部屋を見渡すと、普段しまっているはずの抽斗がすこし開いていた。古い家具だからゆるみでもしたのだろうかと近づくと、その中に懐中時計が収められているのが見えた。

何げなしに手に取る。随分古いものだ。もう動いてもいない。
ひっくり返すと『Mayumi.F』と刻印が入っていた。誰かからの贈り物だろうか。女性の名前に思える。

そういえば写真立てのひとつに、知らない女性の写真があったことを思い出す。祖父はずっと独身だったから、勝手に恋人かと思っていたけれど、その人からなのかもしれない。

戻しておこうとしたとき、指先に静電気のようなものが走った。驚いて落としてしまいそうになったものの、チェーンがうまく指に絡みついて落下は免れた。良かったともう一度、懐中時計を握る。

なぜか、僕の手にそれがとても馴染んだ気がした。というか触ると不思議と落ち着く。祖父のものだからだろうか。今まで積極的に祖父の物には触れないできたけれど、ほんとうはそういう気持ちがあったのだろうか。

しばし悩んで立ち尽くす。窓は閉めたはずなのにふわっとあたたかい風を頬に受けた。

祖父は、誰に対しても、やさしいひとだった。

抽斗をゆっくりとしまった。懐中時計は僕のポケットに、そっと、しまう。
三日月紫苑の屋敷に行ってから数日が経った。

いくつか講義も始まり、座学と実習と、毎週忙しくなりそうだった。

あれから幾度か三日月紫苑とは教室で顔をあわせたものの、会話をしたことは一度もない。ただ一度だけ、偶然席が隣になったことはあった。そのとき何げなしに見た彼のノートの字がとてもきれいで、すげえな、と思ったことはある。

あれから、百乃さんのことはどうなったのだろうとは、ずっと気にはなっていた。自分の記憶のことも。

今日は講義が午前だけの月曜日。そろそろ本気でアルバイトを探そうと、高野にある本屋にでも行こうと大階段を降りていた。カフェが併設された本屋だし、軽く飯でも食おうと思っていた。

「如月椿」
ちょうど踊り場にさしかかったとき、不意に三日月紫苑の声が聞こえた。振り返ると確かに黒ずくめの少年が立っていた。が、なぜか周りをきょろきょろ気にしている。

「……誰かに追われてるのか」
「そんなわけない。ただ、誰かに見られてはいないかと」
「なにか困るのか」
「面倒なことは嫌いだ」

どうしてそれが面倒になるのかがわからないけれど、大階段の端、たくさんのひとが通るとはいえ、だからこそ誰も気に留めないだろう。そもそも専攻が一緒なのだから、ここで接点があったところで問題ない。

「まあいい。今暇か」
「ああ、まあ予定はないな」
「百乃の件だ。伝えておく」

気になっていた名前が出てきて、頷く。

「見合いは無事にいったそうだ。来年には輿入れだと」
「おおー、そうか、それは良かった。安心した」
「家族総出で礼を伝えにきた。お前にも直接会いたかったそうだが」
「その話が聞けただけで充分だよ。それにしても良かった。だめだったらどうしようかと思ってた」

ほんとうの意味で肩の荷が下りて、天を仰いだ。今日もいい天気で、青空と白い雲のコントラストが深い。

「そんな自信なく仕事をしたのか」
三日月紫苑の声が怪訝な色に染まった。視線を落とし顔を見れば、呆れてため息をついている。

「いやだって、いくら俺たちと変わんないって聞いてても、個性だってあるだろ。それに、文化とか生活習慣のレベルはさすがにわかんないし」

痣ごと受け入れてこそ、なんて言ったけれど、妖狐の間では美こそ全て、だったかもしれない。それに人間のなかにだって、頭ではわかっていても心がそれを拒否する奴はいる。

「でもやっぱり、同じなんだな」

価値観なんて、ひとそれぞれだ。生きている世界が違うなら、それだって違うのだろう。

でも、百乃さんの見合い相手は彼女を受け入れた。俺は別に見合い相手でもなんでもなかったけれど、彼女の痣も彼女だと受け入れることができた。自分と同じ考えのやつが妖にもいるとわかったことが、収穫だ。

「……なんか、俺変なこと言ったか?」

気づくと三日月紫苑が笑っていた。笑うというよりも、口元が緩むのを必死に我慢して堪えているように見える。
「別に」
なるべく無愛想に言ってみました、みたいな一言が出てきて余計に不思議になる。
「ところで、俺の記憶って消されるわけ?」
残りひとつの気になっていたことを訪ねる。言っていたのは雲母だけれど、こいつに聞いても答えは同じだろう。

消される理由は、やっぱり知ってはいけないことを知ったから、とかなんだろうか。誰にも喋る気はないけれど。言ったところで昔の俺と一緒で信じるやつはいないだろう。

三日月紫苑は表情をなんとか戻し、息を吐いた。それから暫し黙って、階段の下を見る。

「……別に、いい」
出てきた答えは、ぶっきらぼうだった。

「どうせ、誰にも言わない、お前は」
「おお、なんかそんな風に君に言われるのは新鮮だ」
「うるさい。それよりも百乃の家族から大量のお礼の品とやらが届いて雲母が悲鳴を上げていた。お前も手伝え」

三日月紫苑は怒ったように頬を染め、それだけ言って大階段を下り始めた。それがついてこいと言っていることに気づくのに数秒かかってしまった。

思わず笑う。

「まさかこんな日が来るとは思わなかったな」
その背中に追いつき、素直な気持ちを言う。こんな日もなにも、入学してからまだ半月も経ってないのだけれど。

大学に入って一番最初にできた友人は、一番友人になれなさそうだと思ってた奴だった。

「気持ち悪い。あと、君とか言うな、紫苑でいい」

もっとも、そんなものいらないと言っていたほうは、どう思っているか知らないけれど。

「はいはい、紫苑」
「気持ち悪い」

これも縁ならば、またどこかの妖と関わることもできるかもしれない。そんな気がする。

そのときは、紫苑と共に仕事ができるだろうか。

ふと梅の香りがした。立ち止まってあたりを見回すが、なにもない。

その代わり、桜の花びらが、風に乗ってひらひらとやってきた。

「置いていくぞ、椿」
 先に大階段を下りきった紫苑が言う。

「はいはい、今行くよ」

麗らかな春の日差しが、彼を包んでいた。


【咲う狐に春の戸開く 了】

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